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第145回 交野歴史健康ウォーク

2015.4.25(土) 40名(会員29名)参加
大坂夏の陣400年記念ウォーク
徳川家康は星田に二度やってきたといわれている
「家康ひそみの藪」と家康宿陣の碑「神祖営趾之碑」を探訪

行程:星田駅(午前9時)→ 一里塚 → 東高野街道→ 傍示川 → 山根の道→
布懸遺跡 → 大分け(星田大池) → 鍛冶ヶ坂 → 妙見道 → 家康ひそみの藪
→光明寺の檀徒墓 →妙見口→ 家康宿陣の碑「神祖営趾之碑」→ 新宮山(旗掛松)
(愛染律院・石清水八幡宮)→半尺口の薬師堂→六路の辻→星田駅(12時頃解散)
                                  徒歩 約5.5km

五月秋晴れの中、平田政信さんの案内で、徳川家康にゆかりの地を歩いてきました。
午前9時JR星田駅前に39名が集合、途中1名加わり総勢40名の参加でした。

  「大坂の陣」は、1614年(慶長19年)の「冬の陣」と、翌1615年(慶長20年)の夏の陣の2度にわたり、徳川方と豊臣方の間で戦われた戦国時代最後の合戦である。
 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となり幕府を開いたものの、いまだに格別の権威をもって大坂城に君臨し続ける豊臣家を滅ぼそうと戦を仕掛ける。
 1615年5月7日に大坂城は落城、翌5月8日には秀頼・淀殿が自害し豊臣家が滅亡、名実ともに徳川の天下となっていく。

 大坂の陣から400年ーー。大坂城を中心に大坂の陣400年記念イベントやウォークなどが開催されています。交野古文化同好会として、昨年は「関ヶ原バスツアー」を開催、今年は徳川家康と真田幸村のゆかりの地を歩きます。
4月25日 大坂夏の陣400年記念ウォーク 散策MAP
 
新宮山公園で記念写真
平田政信さんの案内で、家康のゆかりの地を楽しく歩きました。

歴史健康ウォーク レジメ

家康宿陣の碑「神祖営趾之碑」




出発は星田駅 午前9時

JR星田駅に掲げられている案内板

軽妙な語り口で
挨拶される平田さん
何時もながら参加の皆さん
自然と笑顔に
星田駅
平成14年3/23、JR西日本のダイヤ改正で
学研都市線・星田駅に快速が終日停車
するようになり、乗降客も大幅に増加!
 

東高野街道の一里塚
 京都の教王護国寺(東寺)と高野山金剛峰寺を結ぶ参詣の道を高野街道といいます。
 その中で、河内国の東部を通る街道を東高野街道といいます。
 平安貴族が高野山へ詣でるときは、南都(奈良)の諸大寺を巡ってから行くか、難波(大阪)の四天王寺や住吉大社に詣でてから高野山へ赴くことが多く、東高野街道を通ることはあまりなかったようですが、この街道は高野詣の始まる前から河内国では唯一の南北道で、通行や物資の輸送のために重要な道でした。
 河内の荘園と京都を結ぶ道として、南北朝時代には南朝・北朝両勢力の軍事道路として使用されました。
 江戸時代にできた地誌『河内志』では、東海道から続いて大阪まで下る京街道を「京道」として、東高野街道を「古道」といっており、古くからの道であったことを示しています。
 
 一里塚とは、大きな道路のそばに、通行者の目印となるように、一里ごとに設置した土盛りの塚のことです。
 元禄10年(1697年)の星田村絵図(市指定文化財)には高野街道沿いに「一里塚」があり、下の絵図のように、道の両側の盛り土の上に大きな松が1本ずつ描かれています。
 現在は、星田駅から枚方市の高田に向かう道の途中に、一里塚跡の石碑が残されています。
 
 
   
交野郷土史かるたに「路傍には 東高野の一里塚」と詠まれています。
 一里塚は街道の一里(4`)ごとに土を盛り、上に木を植えて里程のしるしとした塚。道を挟んで向かい合わせに二つ、木はエノキや松が多い。一里塚の起こりは織田、豊臣の時代からつくられはじめたが、全国的には、徳川家康が秀忠(2代・1605−1623)に命じ、お江戸日本橋を起点とした主要街道に築かせてから広がった。JR星田駅から高架沿いを東に向い四辻を北に少し行くと小字名を街道の東を四馬塚(しばつか)、西を金門(かなかど)という所がある。その田の中にあった。

 江戸中期ならびに元禄10年(1697)の星田絵図にはそれぞれ「一里塚」と書き、道の両側の盛土のうえに大きな松が一本ずつ画かれている。当時を偲べば、街道には里程の目標と旅人に木陰を与え、休憩するために一里ごとに土を盛って松などを植え、一里塚とか一里松といった。  今は舗装道路となり、毎朝の車通勤ラッシュの迂回道路として賑わっている。現在は古川柳にある「くたびれたやつが見つける 一里塚」となりつつある。

 平安時代、信仰のため旅をする人の通った東高野街道は京都鳥羽から河内に入り郡津、星田を経て高野山まで続いていた。そして一里ごとに目印として、木を植えて、お大師さんを祀ったのが一里塚です。一里塚にあった太子堂、今は星田村中の半尺口に移転されています。 
一里塚周辺の地名   寝屋の長者屋敷跡
 
 
 金門(かなかど)
 国鉄星田駅の東側、ガードをくぐると東北に伸びる昔の道がある。東高野街道である。この道と戦時中に香里の火薬庫があったときに星田駅から引込線が敷かれていたレール跡が道路になっている道との交差点まで、南側が金門、北側が車司である。
 堀之内辺りに寝屋の長者屋敷があって、東高野街道に面して出入口の門が建っていた。その門は木の門ではなく金(かね)の門であった。だぶん金箔(きんぱく)を張った(江戸時代の城門のような)りっぱな門であったろう。朝日、夕日が当たると照り輝いており、それはみごとな門であったろう。街道を往来する旅人を驚かしたに違いない。

 車司(くるもうじ)
 「くるもうじ」と読み、漢字の方は「車牛」と書くこともある。金門の北側でやはり東高野街道に面している。
 寝屋の長者が外に出るときは必ず車に乗って出かけられた。車といっても当時は牛車である。馬の場合もあったかもしれない。そうすると牛馬を飼育しておかなければならないし、牛舎も必要である。また、牛馬を飼育したり、引いて行く人も必要である。こういった牛馬やこれを管理したり飼育したりする人々が生活していた場所が、大門のすぐそばであった。金門に続いて車司が付けられるのもそういった意味があったのである。

 四馬塚(しばづか)
 金門の東側で、東高野街道に面している。「芝塚」のことだろう。一里塚のことである。街道を往来する旅人の道しるべと距離を示すために、街道の両側に5間四方の広さを盛土して、その上に松や雑木を植え、遠くからでも一里塚であることが分かるようにしていた。交野地方では星田の東高野街道沿いの「四馬塚」に松を植えた一里塚があったことを言い伝えている。
 
「四馬塚」付近の田園風景

東を見れば、交野連山が望める 
 東高野街道の道標  大谷付近
 
 
 
大井川万吉・道標
「すぐ京、八はた道」と台石に「門弟中」と刻む 安政3年(1856)の道標
 貝原益軒は、元禄二年(1689年)、京より高野山へ行こうとして洞ヶ峠から河内に入った。この旅行記「南遊紀行」には、この街道を「大道}とか「山の根道」「山根の大道」「山の根すじの大道」などと呼び、「京より紀州へ行く大道なり」と書いている。
 傍示川
 「ほうじがわ」と読む。星田南星台の南側の谷を東南方向から西北方向に流れ、大谷橋を過ぎ学研都市線をくぐり寝屋谷へと通じ、そこから寝屋川となる。
 傍示川という名の由来は、国境を示した川でなく、平安時代に作られた荘園(転暦3年、石清水八幡宮の荘園が交野の山々一帯に設けられた)と国衙領の境を示すもので、この荘園の西南の端が星田の傍示川であった。
 傍示川は、地形的に、星田の山からの広範な山水を集中して集めていて、度々氾濫するなど治水が難しく、平安時代、星田の中川以西の地域は、牧場に使われていた(星田牧)。そのとき三島郡上牧の為彌牧(いねのまき)傘下の福牧に属していたが税の取立てが厳しいため、奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園となって庇護を受けることになった。

 傍示川の地名の由来は、その荘園の境界を示すのに普通立札などの目印が使われるが、ここでは川筋が使われ、それで傍示川と呼ばれるようになった。なお中川以東の地域は、中川やその上流の紐谷川は、湧水中心の川であり、一方で水量豊富で緩やかな流れの天野川の後背湿地に属し、古くから物部氏が稲作の指導を進めてきたと言われる地域であったが、奈良時代、大化の改新際に条里制の区画が行われた稲作適地であり、その後、公地公民制度が崩れてゆき、荘園制度が普及して私領化が進んでいくが、この付近は、石清水八幡宮の荘園になった。

 なお鎌倉時代中期には、荘園の鎮守のため、石清水八幡宮から分霊して新宮山八幡宮が造られた。
 
傍示川の満開の桜   (4月2日撮影)
山根の道  布懸遺跡
 昭和54年に旭小学校西隣の電電公社社宅建設予定地より
旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された。
旧石器128点と石鏃1点が出土した。直径数メートルの範囲に、約10cmほどの
深さの中に、ナイフ形石器を作りだすまでの剥片、砕片などが集中していたことから
この場所が、ナイフ形石器の制作場所であった可能性が高い。
旧石器のほとんどはサヌカイトで、二上山からの搬入と考えられている。
 
 
 
藤棚が丁度満開でお見事!
 
 星田の池はすべて山手にある。山地の谷筋を堰き止めた星田新池や大谷新池、丘陵と丘陵の間の地を堤防で止めた星田大池などで交野市の中では規模の大きい池がならんでいる。

星田大池は、面積が3.9 fと交野市で一番大きい池である。
しかもこれでも池の1/3が交野第三中学校の敷地として埋め立てられてなくなっている。元の面積は6fほどあった。星田大池は高岡と楯石・梶ケ坂の丘陵にはさまれた広い谷地を高い堤防を築いて堰き止められてつくられた人工の池である。
 いつごろ築造されたかふめいであるが、元禄11年(1698)に堤防の改修をしているので、それ以前相当古くからできていたことになる。
 池の水は下手の御農(みの)、高岡、布懸(のうかけ)、玉江(たまこ)、側田(かわた)等の土地に給水されている。 
 
 
池の水は下手の御農(みの)、高岡、布懸(のうかけ)、玉江(たまこ)、
側田(かわた)等の土地に給水されている。 
 
 
山根の道の急坂・鍛治ケ坂(65m) を上り、天理教前を通り、妙見道へと進む 
 妙見道の道標



上垣内の四辻 道標
大坂 星田妙見道 南燈明講 弘化2年乙巳8月(1845)

「妙見道」と公称される道はないが、星田妙見宮の参詣する人たちの便宜をはかり、道に迷わないよう、比較的多く道標が建てられ利用されていた。
「星田妙見」の道標が建つ道を、「星田妙見道」と名付けた。


道標の確認されている数は、15基で、うち7基は星田村内で、それ以外は打上(寝屋川市)、岡山(四条畷市)、深野・諸福(大東市)、大阪市鶴見区、寝屋・秦(寝屋川市)、守口にあり、すべて星田より西にあり、東には存在しない。 

 じょうもん坂上垣内の四辻の東のつきあたりの妙見堤への右側への登り坂をいう。天保11年〜安政5年の星田村大地図には、この坂の左側に「釈迦堂」が右側には「大師堂」の絵が描かれ、さらにこの坂の上から妙見橋の間の両堤には「桜並木」が描かれている。また、星田名所記の絵図にも、だいじょう坂と釈迦堂・大師堂・桜並木も一枚に描かれている。
 妙見の桜並木
 妙見川は十方橋を起点に、星田妙見宮の西南部より北流し、妙見口バス停を経て、さらに天野川橋の南詰の東側で天野川に合流している。この川は、星田村の東側を流れていたため江戸時代は東川と呼んでいたが、明治元年に神仏分離の法律ができ、この頃より有名な「星田妙見宮」に因んで「妙見川」と呼ぶようになった。

妙見河原の桜
 @ 天保11年(1840)〜安政5年(1858)の星田村大絵図に、鳥居からじょうもん坂の妙見堤に
    桜並木の図が初見  天保11年に妙見宮拝殿が再建され、それを機に桜の植樹
 A 明治7年〜11年 堺県星田村絵図には、じょうもん坂の少し下流まで桜並木
 B 明治42年 西井村長時に400本の吉野桜を植える
 C 戦後(昭和20年)にすべての桜を伐採
 D 昭和44年 桜を主体とした公園計画の下じょうもん坂より下流の両岸にも桜・もみじが植えられた。

 これらにより、大阪みどりの百選「妙見の桜並木」、交野八景で「妙見の観桜」に入選し、
 大阪府下の桜の名所となっている。
徳川家康と交野の関わり
 
 9月1日(水)、教育委員会は、星田にある石碑「神祖営趾之碑(徳川家康宿営之碑)」を、新たに市指定文化財に指定します。
 この碑は、交野が徳川家康、特に大坂夏の陣と深く関わっていることを証拠づける貴重な文化財です。
 
 現在、平井家の北西裏には、家康が宿陣したことを記念する石碑が建っています。
 これは、大坂夏の陣から190年が経った文化3年(1806年)に、星田の領主市橋長昭と平井家当主の平井三郎右衛門貞豊が、計画して建立したものです。

 碑文を解読すると、家康が平井家に宿陣した様子が記されています。

 当時の領主市橋長勝は、家康から後方の防備をするようにと命じられますが、防備は家臣に任せ、自分は家康とともに戦場に出たいと申し出て許されます。天王寺・岡山合戦で、徳川方が真田信繁(幸村)に攻められ、大混乱に陥る中でも、長勝の部隊は静粛にして乱れることがなかったので、家康からたいそう賞されたと記され、家康亡き後、二代将軍の秀忠からも優遇され、石高の加増があったとも記されています。
 また、長昭の代になって石碑を建てることになった経緯や旗掛松のことも記され、後世の子孫に先祖の輝かしい業績を伝えたいとする思いが現れています。
 

 慶長20年(1615年)、家康は大坂夏の陣に赴く際、領主の市橋長勝が守りを固めていた星田村の庄屋、平井清貞の家に宿泊し、そこから出陣しました。このことは、徳川幕府の正史である「徳川実紀」にも記されています。
 家康が天下を治めた証といえば、慶長5年の関ヶ原の戦いに勝利したことや、慶長8年に、将軍となり幕府を開いたことが考えられますが、家康はこのときは改元(元号を変えること)をしていません。
 家康は、豊臣家が存在する限り、徳川家の天下が安泰とはいえないと考えたのでしょう。豊臣家を滅ぼした大坂夏の陣のあとすぐに、徳川の天下を宣言する意味で、元号を「慶長」から「元和」に改元しました。大坂夏の陣が、家康にとって特別な戦いだったことがうかがえます。
 また、「元和」とは「元和偃武(武をやめて和を始める)」を意味します。つまり、応仁の乱から150年近く続いた戦国時代が終わったことを国中に宣言したのです。

 大坂夏の陣から184年後の寛政11年(1799年)、市橋長勝の子孫、市橋長昭は星田村を訪れ、神祖(家康)が、宿営したことの詳しい話を聞き、長勝の功績を広く世間に知らせるため、石碑を建てることを思いつきました。
 このことを平井清貞の子孫、平井貞豊に命じ、建てられたのが神祖営趾之碑です。
 碑には、長勝が、家康を迎え入れるために、星田村の守りを固めたことで、村が大坂方(豊臣方)の焼き討ちを免れたことや、真田幸村の軍勢に、徳川軍の多くが動揺するなか、長勝の隊は乱れずに戦ったこと、長昭が碑を作るに至った経緯などが刻まれています。

 神祖営趾之碑以外にも、交野には家康ゆかりの地があります。
伝家康ひそみの藪   旗掛け松

 天正10年(1582年)、明智光秀が織田信長に対して謀反を起こした「本能寺の変」のとき、家康は堺に滞在していました。 信長死亡の知らせを聞いた家康は、身の危険を感じ、光秀軍に見つからないよう、帰国する際、星田を通って、山城、伊賀と越えて、無事、帰還しました。 そのときに家康がひそんでいた藪が「家康ひそみの藪」といわれています。

 

 家康が星田村に宿泊したとき、家康軍が陣をはり、旗を掛けたのが新宮山(星田公園)の松で、「旗掛け松」と呼ばれています。
当時の松はすでに枯れてしまっていて、現在の松は2代目です。

     

家康ゆかりの地MAP

 伝 家康ひそみの藪
 
 
 

「伝家康ひそみの藪」物語

   (ふるさと交野を歩く ひろい話(3)より) 

天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。

当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。

 幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。

家康はいずれの道を通って河内から山城を経て三河に帰ったか。 
 中央公論社の日本の歴史第十二巻の
282頁には、「家康は津田主水頭(もんどのかみ)に道案内を求め、急に道を転じて宇治田原に向かうことになった。」と書き、枚方市史第三巻18頁には「家康一行は、津田村には信長恩顧の者がいるから道案内をざせようという進言をいれ、その道案内によって津田村から尊延寺村を経て山城綴喜郡に出た。」と書いている。

吉川英治の太閣記には、「枚方から津田方面に向かった」と記し、山岡荘八の徳川家康には、「守口から北河内の津田方面に向かった」と書いてあり、いずれも星田に来たとは書いていないが、津田方面には家康が来たという伝承を聞かず。星田の伝承では、星田炒見宮の参道の入口の北に「家康ひそみの薮」のことを俗に「けんしきの藪」といって、家康が堺から逃げ帰る途次、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。

 
 

ここで考えられることは、津田城主は本願寺派招堤(しよだい)の敬応寺と縁組をしていたことから、天正3年(1575)明智光秀は、城を焼かれて信長に恨みを抱いている津田氏に誘いをかけたところ、津田氏は光秀に味方し、信長のやり方を不満に思っている招提村を誘って山崎合戦に参加していることから、津田村の人達は信長を恨みこそすれ、信長恩顧の者がいるとは考えにくいのである。

従って、信長と同盟を結んでいる家康が、津田に入ることが果たして危急の時身の安全と考えたかどうか、大いに疑問に思うのである。

家康の一行は、6月2日の深夜に星田に来て、人里はなれた人目につかないこの大きな竹薮に潜んでいた。これには、四条畷の住吉平田神社の神主である三牧家から星田妙見宮神主の和久田家にここまでの道案内と紹介がなされたといわれている。そして村長の平井氏に連絡して山城方面に出る間道に精通する農民を道案内人として斡旋するよう依頼したのである。

この連絡を受けた平井家では、直ちに大釜で米を炊いて握り飯を沢山こしらえ、緑起をかついで鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける農民二人を選出して、無事道案内の大役を果たさせたといわれている。

家康がこのような危急存亡の時に、平井家にこのような大事を依頼したということは、徳川家と平井家との間には古くから何らかの知己、交際があったものと思われる。

平井氏の出自については、その遠祖が三河の国設楽郡(しだらごうり)平井庄の地頭職であったところから平井姓を称し、南北朝時代には既に星田に居住していたという伝承がある。

天正十年から三十三年後の元和元年(1615)55日大坂夏の陣に東軍16万人のうち、手兵一万五千人を引き連れた七十四歳の家康は、平井家に一泊しているのである。

家康一行の道案内をした二人の百姓は、一人は「しやみ安」という人で、もう一人の百姓はその名が分かつていないが、後年になって見識の高い俗称から「けんしき」と呼ばれるようになった。

家康が征夷大将軍となった時、平井氏と二人の農民を懇切に江戸に招いたが、二人の農民は固辞したので、平井氏だけが江戸に出向いたと言うことであるが、これらの人たちは江戸時代特別の扱いを受けていた。

家康の潜んでいた藪は、俗に「けんしきの藪」といわれているが、その所有者について調べたところ、以前は平井家の古い分家のものであったが、妙見坂小学校の校地として買収し、フェンスを張って竹薮の一部を保存し、「伝家康ひそみの藪」の石碑と説明板が立てられている。

平井氏が家康のために動いたことが光秀に知れると、どのような仕打ちを受けるやも知れないと大変恐れて、自分の家を閉じて、一家全部が星田山中の小松寺の空家になっている建物にしばらく隠れていた、といわれている。(西井長和先生談)

参照下さい! →   高尾秀司氏の家康逃亡記
 
 光明寺の阿弥陀如来像
 
 
 妙見口の仏さんから100メートルほど上流に行き、住宅の間を左に入ると星田光明寺の墓地があります。この墓地は寺の宗派から真言墓と呼ばれています。中に入ると正面に阿弥陀如来立像があります。像の背面には二重円光背、首には三つの膨らみを設け、三道(優しさ・素直さ・暖かさ)を表しています。
 石仏さんの前にすわり、こちらから語りかけてみれば、何か語りかけてくるようです。 
 妙見口
昔、このあたりは星田の禿げ山から流れ出た沢山の土砂で一面妙見川原となり、流れる妙見川も大雨のたびに土砂で川底が埋まり、雨が止むと村人は総出で川底をさらえて、その土砂で両側の堤を一層高く、厚く盛り上げた。それを繰り返していると妙見川は高い堤の天井川となり、その下を通行に便利なようにトンネルが掘られた。トンネルの上にあった、地蔵さんは今は、妙見口の交差点の東南角に祀られている。

 昭和38年から41年にかけて妙見川改修大工事でトンネルはなくなり、旧川の跡は道路と住宅になり、妙見川原からこのトンネル跡までの350mは桜並木が延長され、下流の藤が尾地区には、府営と供給公社の団地が建ち、現在は一大住宅街となっています。

 
 
星田名所記の図
 
妙見口の石仏群、いつも綺麗なお花がお供えされています
 400年前の大坂夏の陣・家康本陣
 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里平平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
 江戸時代後期の星田村大絵図には、平井家の西側あたりに、教学院と岩清水八幡宮の制札場が描かれており、はじめてその位置が確認されました。
  元和元年(1615)春大坂夏の陣が始まろうとして東西の空気が緊張していた。
大坂方では冬の陣の後城の外濠を埋められているので、秀吉が築いたさすがの堅城も関東の大軍に攻め寄せられては防禦の用をなさない。やむなく城外に出て決戦ということになり、そのためあらかじめ万全の策を講じている。その一つには東軍の通路に当たる村々で、彼等に宿舎の便を与えないようにしようと、街道近辺の寺院はもとより、農家までも焼き払うことだった。

 4月4日家康は駿府城を立って、その18日には京都に着き、ここで味方の諸大名を集めて、様々と戦略上の会議を開いた。
その時、因幡(鳥取県)の矢橋の城主市橋長勝は、「いずれ大坂方は、我軍の進路に当たる道筋の村々を焼くだろうから、せめて家康公が京都に出てからの宿所に当たる村だけでも焼かせないように防備しては」と献策した。

そこでその宿営地を星田と定めて、ここを固めることとした。ところがはたして大坂方は交野地方の寺や民家を焼き払ったが、星田には強い防備があったのでここだけが残った。こうして5月5日家康は京都を出発し、星田の平井清貞宅に着いて一泊した。ここで市橋長勝は、その予言が的中したことで大いに称賛の的となった。その後市橋家が近江西大路陣屋で2万石の所領を与えられたが、遠く離れた河内の星田に1300石余の所領があったのは、このときの功績を記念するためのものである。

 そして、家康宿営中は、新宮山八幡宮前に東面する崖の上にあった大きい松にその軍旗を立て掛けた。これが、後まで伝わる旗掛松である。

 
徳川家康の星田陣営のお話

元和元年(1615)5月3日、将軍秀忠は大阪城攻めのために伏見を立ち、洞が峠を越えて河内に入り、砂(四条畷)に陣した。父の家康は、同5日辰の下刻(午前9時)京都二条城を出て、未の下刻(午後3時)星田の陣に着いた。

家康の陣所は、その頃星田の里正(りせい)・(村の長)平井三郎右衛門清貞宅を使った。清貞方ではあらかじめ知らせを受け、宅から10間ばかり北の方で、5間四方ばかりを高く上げた一室を修繕して、待っていたのである。

家康は京都出発の時、家来の松平常慶にいいつけ、台所賄いの長持ちに、自分が戦国時代から野陣用の食糧としていつも使ったとおりの、米5升、干鯛一枚、糒(ほしい)・煮た米を干したもの、塩、味噌、鰹節、香の物を入れて来させて、それを用いたが、平井家では、家康の宿舎の付近にあった濠の鯉を料理して差し出した。

家康に従って来た者は、おおかた野陣してその周辺を護ったが、折り悪くその夜は大雨だったので、もしや大坂かたの夜襲でもあろうかと、かがり火を方々に焚いて警戒した。
また、家康の旗印は、平井家が代々その別当職をつとめる、新宮山八幡宮の庭の松に高くかかげられた。(後、これを旗掛け松という)。

そして、一隊は新宮山に陣した。ここは60メートルばかりの小丘で、星田の南に突き出て、はるか京都方面から交野地方の一帯を、手に取るように見渡すことが出来た所から、監視をした。

家康は、雨がはげしいものだから、その翌日もここにとどまろうと言ったが四つ時(午後10時)雨が止んで星が見えた。それでもまだ、ここを動こうとはしなかったが、砂に陣とって居る先発隊の秀忠から、馬をとばせて急使がきた。その言葉では「大坂勢が遠く城を出て、八尾、久宝寺へ向ったから、こちらは藤堂和泉守や井伊掃部守が、合戦を始めようとしている」と。

それを聞いた家康は「城兵が城を出て戦おうとするか、それではこちらの勝ち戦に決まった」と言った。
こうして家康は、星田でゆっくり一夜を過ごし、翌6日河内中部へ馬を進めたのである。

 
 
 新宮山の旗掛松
 
 元和元年(1615)、徳川家康が大阪城攻めの時、星田の平井家に宿陣した。東軍16万人のうち、家康手兵15000人は星田から打上に野営して家康宿舎の周辺を護った。家康の旗印の白旗が、新宮山山頂の八幡宮社前の松の大木に高く掲げられた。平井家の文書に寄れば、この松は太さ五尺余(1.5m)と記録されている。残念なことに明治の初年にかれてしまい、その跡に記念の石碑「旗掛け松跡地」が立っている。
 
 
 
 
 

新宮山頂上にある八幡宮跡、星田の土地が石清水八幡宮の荘園となって、
八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)してお祀りした。宮跡に残る延慶2年銘(1309)の
五輪塔の残欠と天文17年(1548)の宝篋印塔により、この宮の古さを偲ぶことができます。
 現在、新宮山一帯は、星田公園として新しく生まれ変わった。平成9年5月20日オープンした。面積1.6ha(約4800坪)。5つの広場(水の広場、芝生広場、野外学習広場、多目的広場、林間広場)に分けられ、市民の広場として利用されている。

 新宮山
は標高65メートルで、麓には弥生時代の星田最古の米作りの跡が見つかっている。
古墳の石棺があったらしいが、現在は不明である。今から約700年前に八幡宮の分霊を勧請し、八幡宮跡がありここを新宮山といった。
 
 
 
 愛染律院跡 愛染律院跡、墓地
 新宮山の北の低いところにある。宗旨は真言律宗で八幡宮の社坊であった。宝暦4年(1754)の愛染律院梵鐘銘文から次のことが判明した。文安2年(1445)記録するところでは、新宮山に6支院(小松、塔頭)あり、それは阿弥陀院、弥勒院、宝珠院、宝蔵院、宝積院、愛染院で、現在(宝暦4年)あるのは唯愛染院1院であると書かれていた。

 この寺の地蔵菩薩立像が明治5年、岡山県井原市高山寺に移籍され、その像は国の重要文化財に指定されている。 ↓
 
 300年前、大阪にも地震と津波 (井上 富貴子様)
 明治5年に星田から移座された地蔵菩薩像は、桜材一木造、造高1.54m。昭和29年に仏像の解体修理がなされた時、胎内から古文書が発見された。それは、大地震と津波により大阪・四国・中国で亡くなられた方々の慰霊文でした。
 その大地震とは、宝永4年(1707年)10月4日の大地震の災害記録と慰霊文及び同年11月23日の富士山大噴火による宝永山の出現を記録していることが分かった。
 
愛染律院跡の土塀 
 半尺口(はんじゃく口)お大師堂
 
 東高野街道の一里塚より明治41年に移転された。
 半尺口のお大師さん
が一里塚にあった時、寝屋の人が盲目となり、夜静かになって夜参りに杖を頼りに3年間祈願し続けたご利益があり、ある夜お大師さんの「私の片目をお前にあげる」とのお告げがあって、その日から片目が見え出し、代わりにお大師さんの右の片目に傷が出来て、その傷は今ものこっているのだそうだ。

 半尺口(文禄3年-1594年の検地帳に半尺口の地名あり)と言われる四辻が西の村本通りにある。
 

六路(ろくろ)の辻
 六路の辻の交通信号は交野市内で最初に(昭和39年)設置されたそうだ。当時は交野市内でも有数の交通量があったところでもあり、また6つの辻が出会う難所でもあったようだ。

 「六路」は、文字どおりの辻の集合体であろう。星田の駅前辺りが星田への出入口となっている。東高野街道によって交野方面や打上、四条畷方面、また、北へは大谷から寝屋へ、高田へ、そして、山根街道に沿って星田から私市、森へと四方に道路が通じている。

 この道路網と別に星田への出入口であったから、六道(ろくどう)の辻で、お地蔵さんを祭って悪霊の立ち入りを防いだり、旅の安全を祈願したといったことも行われた。六道とは仏教の世界説で、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの苦難に満ちた世界をいう。人間は仏菩薩を念ずることで、これらの世界に落ちるのを救われるという。平安時代中期以降、浄土教の発展とともに民衆の間にこの思想が広まったものである。 
 
最後に、高尾部長より今後の取り組みについて紹介がありました。
 

平田さん、大変暑い中3時間たっぷりの案内役本当にお疲れ様でした!
有難うございました!

 一里塚から東高野街道、山根の道、妙見道へ、家康ひそみの藪、家康本陣などを訪ねて交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。

 次回の歴史健康ウォークは、5月9日(土)、大坂夏の陣400年記念ウォークで、真田幸村のゆかりの地「天王寺界隈」を散策します
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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