交野星田に陣をとった家康は、最後の決戦に向け新宮山八幡宮の松に
7本の旗をかけ出陣しました。その様子を鑑定団で有名な澤田氏の協力にて
本物の甲冑隊により再現されました。
「大坂の陣」は、1614年(慶長19年)の「冬の陣」と、翌1615年(慶長20年)の夏の陣の2度にわたり、徳川方と豊臣方の間で戦われた戦国時代最後の合戦である。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となり幕府を開いたものの、いまだに格別の権威をもって大坂城に君臨し続ける豊臣家を滅ぼそうと戦を仕掛ける。 1615年5月7日に大坂城は落城、翌5月8日には秀頼・淀殿が自害し豊臣家が滅亡、名実ともに徳川の天下となっていく。 大坂の陣から400年。大坂城を中心に大坂の陣400年記念イベントやウォークなどが開催されています。 ご当地交野市星田の新宮山公園にて、家康出陣!が盛大に開催され、沢山の市民の方々が400年前の再現の様子に魅了されました。 |
大坂夏の陣に向かう徳川家康が軍議を開き、出陣したと伝わる交野市星田の星田公園で30日、地元の住民が、その時を再現したパフォーマンスを繰り広げる。豊臣方にゆかりの深い府内では珍しい、徳川方をテーマにした催し。甲冑かっちゅう姿で臨むメンバーは「夏の陣から400年の節目の年に、歴史豊かなこの地を大いに盛り上げたい」と張り切っている。 住民が当日ふんするのは、家康や2代将軍・秀忠のほか、藤堂高虎ら3人の武将。家康が旗を掲げたという松が立っていた近くの広場に集まり、「天下太平のための戦いである。しかと頼んだぞ」という家康役の激励に応えて刀を抜き、「エイエイ、オー」と気勢を上げて練り歩く。 甲冑は重さ約15キロ。当時の武具に詳しい「堺鉄砲研究会」の沢田平さん(80)から借り受けた。当日は研究会のメンバーもホラ貝を吹き、太鼓をたたいて出陣を演出する。沢田さんは「夏の陣のあと、300年近く天下太平の世が続いた時代の始まりを、敵味方を超えて感じ取ってほしい」と話す。 豊臣方からも、真田幸村らにふんした5人グループ「大坂RONIN5」が駆けつける予定。会場ではこのほか、小学生対象のチャンバラ大会も初めて開き、徳川方、豊臣方に分かれた子供たちがウレタン製の剣を手に、互いの体に付けた紙風船を割って数を競う。 イベントは30日午前10時開始で、入場無料。家康役の佐藤義也さん(78)は「戦いのない時代をつくろうとした家康の気概を見せたい」と意気込み、企画した交野市星のまち観光協会の佐々木克己さん(72)は「この機会に、華やかな歴史に彩られた星田の地へぜひ、足を運んでほしい」と呼びかけている。 問い合わせは同協会(072・891・9955)へ。 <読売新聞 オンライン 2015.5.28を参照> |
交野市星のまち観光協会 佐藤義也会長 |
家康に扮した佐藤会長 |
動画でお楽しみください! |
ブログ http://ameblo.jp/ronin5/ Facebook twitter https://twitter.com/osakaronin5 |
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エイ エイ オー 勝鬨ジャー |
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「伝家康ひそみの藪」物語 (ふるさと交野を歩く ひろい話(3)より) |
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天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。 当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。 幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。 家康はいずれの道を通って河内から山城を経て三河に帰ったか。 |
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参照下さい! → 高尾秀司氏の家康逃亡記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里平平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。 江戸時代後期の星田村大絵図には、平井家の西側あたりに、教学院と岩清水八幡宮の制札場が描かれており、はじめてその位置が確認されました。 |
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元和元年(1615)春大坂夏の陣が始まろうとして東西の空気が緊張していた。 大坂方では冬の陣の後城の外濠を埋められているので、秀吉が築いたさすがの堅城も関東の大軍に攻め寄せられては防禦の用をなさない。やむなく城外に出て決戦ということになり、そのためあらかじめ万全の策を講じている。その一つには東軍の通路に当たる村々で、彼等に宿舎の便を与えないようにしようと、街道近辺の寺院はもとより、農家までも焼き払うことだった。 4月4日家康は駿府城を立って、その18日には京都に着き、ここで味方の諸大名を集めて、様々と戦略上の会議を開いた。 そこでその宿営地を星田と定めて、ここを固めることとした。ところがはたして大坂方は交野地方の寺や民家を焼き払ったが、星田には強い防備があったのでここだけが残った。こうして5月5日家康は京都を出発し、星田の平井清貞宅に着いて一泊した。ここで市橋長勝は、その予言が的中したことで大いに称賛の的となった。その後市橋家が近江西大路陣屋で2万石の所領を与えられたが、遠く離れた河内の星田に1300石余の所領があったのは、このときの功績を記念するためのものである。 |
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元和元年(1615)、徳川家康が大阪城攻めの時、星田の平井家に宿陣した。東軍16万人のうち、家康手兵15000人は星田から打上に野営して家康宿舎の周辺を護った。家康の旗印の白旗が、新宮山山頂の八幡宮社前の松の大木に高く掲げられた。平井家の文書に寄れば、この松は太さ五尺余(1.5m)と記録されている。残念なことに明治の初年にかれてしまい、その跡に記念の石碑「旗掛け松跡地」が立っている。 |