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大坂の陣 400年天下一祭
徳川家康出陣 平成27年5月30日(土)

星田・新宮山から歴史は動いた!
交野星田に陣をとった家康は、最後の決戦に向け新宮山八幡宮の松に
7本の旗をかけ出陣しました。その様子を鑑定団で有名な澤田氏の協力にて
本物の甲冑隊により再現されました。


  「大坂の陣」は、1614年(慶長19年)の「冬の陣」と、翌1615年(慶長20年)の夏の陣の2度にわたり、徳川方と豊臣方の間で戦われた戦国時代最後の合戦である。
 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となり幕府を開いたものの、いまだに格別の権威をもって大坂城に君臨し続ける豊臣家を滅ぼそうと戦を仕掛ける。
 1615年5月7日に大坂城は落城、翌5月8日には秀頼・淀殿が自害し豊臣家が滅亡、名実ともに徳川の天下となっていく。
 大坂の陣から400年。大坂城を中心に大坂の陣400年記念イベントやウォークなどが開催されています。
 ご当地交野市星田の新宮山公園にて、家康出陣!が盛大に開催され、沢山の市民の方々が400年前の再現の様子に魅了されました。
 星田公園で家康出陣
 大坂夏の陣に向かう徳川家康が軍議を開き、出陣したと伝わる交野市星田の星田公園で30日、地元の住民が、その時を再現したパフォーマンスを繰り広げる。豊臣方にゆかりの深い府内では珍しい、徳川方をテーマにした催し。甲冑かっちゅう姿で臨むメンバーは「夏の陣から400年の節目の年に、歴史豊かなこの地を大いに盛り上げたい」と張り切っている。

 住民が当日ふんするのは、家康や2代将軍・秀忠のほか、藤堂高虎ら3人の武将。家康が旗を掲げたという松が立っていた近くの広場に集まり、「天下太平のための戦いである。しかと頼んだぞ」という家康役の激励に応えて刀を抜き、「エイエイ、オー」と気勢を上げて練り歩く。

 甲冑は重さ約15キロ。当時の武具に詳しい「堺鉄砲研究会」の沢田平さん(80)から借り受けた。当日は研究会のメンバーもホラ貝を吹き、太鼓をたたいて出陣を演出する。沢田さんは「夏の陣のあと、300年近く天下太平の世が続いた時代の始まりを、敵味方を超えて感じ取ってほしい」と話す。

 豊臣方からも、真田幸村らにふんした5人グループ「大坂RONIN5」が駆けつける予定。会場ではこのほか、小学生対象のチャンバラ大会も初めて開き、徳川方、豊臣方に分かれた子供たちがウレタン製の剣を手に、互いの体に付けた紙風船を割って数を競う。

 イベントは30日午前10時開始で、入場無料。家康役の佐藤義也さん(78)は「戦いのない時代をつくろうとした家康の気概を見せたい」と意気込み、企画した交野市星のまち観光協会の佐々木克己さん(72)は「この機会に、華やかな歴史に彩られた星田の地へぜひ、足を運んでほしい」と呼びかけている。

 問い合わせは同協会(072・891・9955)へ。


       読売新聞 オンライン 2015.5.28を参照>
 

交野市星のまち観光協会 佐藤義也会長
 
 
 
  大坂RONIN5 ショー
 
 
 
 星田公園で軍議と出陣式
 
 

家康に扮した佐藤会長
 
 
 
 
 YOU TUBE  家康出陣!
動画でお楽しみください!
 

 大坂RONIN5 ショー 
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エイ エイ オー 勝鬨ジャー
 
徳川家康と交野の関わり
 9月1日(水)、教育委員会は、星田にある石碑「神祖営趾之碑(徳川家康宿営之碑)」を、新たに市指定文化財に指定します。
 この碑は、交野が徳川家康、特に大坂夏の陣と深く関わっていることを証拠づける貴重な文化財です。
 
 現在、平井家の北西裏には、家康が宿陣したことを記念する石碑が建っています。
 これは、大坂夏の陣から190年が経った文化3年(1806年)に、星田の領主市橋長昭と平井家当主の平井三郎右衛門貞豊が、計画して建立したものです。

 碑文を解読すると、家康が平井家に宿陣した様子が記されています。

 当時の領主市橋長勝は、家康から後方の防備をするようにと命じられますが、防備は家臣に任せ、自分は家康とともに戦場に出たいと申し出て許されます。天王寺・岡山合戦で、徳川方が真田信繁(幸村)に攻められ、大混乱に陥る中でも、長勝の部隊は静粛にして乱れることがなかったので、家康からたいそう賞されたと記され、家康亡き後、二代将軍の秀忠からも優遇され、石高の加増があったとも記されています。
 また、長昭の代になって石碑を建てることになった経緯や旗掛松のことも記され、後世の子孫に先祖の輝かしい業績を伝えたいとする思いが現れています。
 

 慶長20年(1615年)、家康は大坂夏の陣に赴く際、領主の市橋長勝が守りを固めていた星田村の庄屋、平井清貞の家に宿泊し、そこから出陣しました。このことは、徳川幕府の正史である「徳川実紀」にも記されています。
 家康が天下を治めた証といえば、慶長5年の関ヶ原の戦いに勝利したことや、慶長8年に、将軍となり幕府を開いたことが考えられますが、家康はこのときは改元(元号を変えること)をしていません。
 家康は、豊臣家が存在する限り、徳川家の天下が安泰とはいえないと考えたのでしょう。豊臣家を滅ぼした大坂夏の陣のあとすぐに、徳川の天下を宣言する意味で、元号を「慶長」から「元和」に改元しました。大坂夏の陣が、家康にとって特別な戦いだったことがうかがえます。
 また、「元和」とは「元和偃武(武をやめて和を始める)」を意味します。つまり、応仁の乱から150年近く続いた戦国時代が終わったことを国中に宣言したのです。

 大坂夏の陣から184年後の寛政11年(1799年)、市橋長勝の子孫、市橋長昭は星田村を訪れ、神祖(家康)が、宿営したことの詳しい話を聞き、長勝の功績を広く世間に知らせるため、石碑を建てることを思いつきました。
 このことを平井清貞の子孫、平井貞豊に命じ、建てられたのが神祖営趾之碑です。
 碑には、長勝が、家康を迎え入れるために、星田村の守りを固めたことで、村が大坂方(豊臣方)の焼き討ちを免れたことや、真田幸村の軍勢に、徳川軍の多くが動揺するなか、長勝の隊は乱れずに戦ったこと、長昭が碑を作るに至った経緯などが刻まれています。

 神祖営趾之碑以外にも、交野には家康ゆかりの地があります。
伝家康ひそみの藪   旗掛け松

 天正10年(1582年)、明智光秀が織田信長に対して謀反を起こした「本能寺の変」のとき、家康は堺に滞在していました。 信長死亡の知らせを聞いた家康は、身の危険を感じ、光秀軍に見つからないよう、帰国する際、星田を通って、山城、伊賀と越えて、無事、帰還しました。 そのときに家康がひそんでいた藪が「家康ひそみの藪」といわれています。

 

 家康が星田村に宿泊したとき、家康軍が陣をはり、旗を掛けたのが新宮山(星田公園)の松で、「旗掛け松」と呼ばれています。
当時の松はすでに枯れてしまっていて、現在の松は2代目です。

     

家康ゆかりの地MAP

 伝 家康ひそみの藪
 
 

「伝家康ひそみの藪」物語

   (ふるさと交野を歩く ひろい話(3)より) 

天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。

当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。

 幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。

家康はいずれの道を通って河内から山城を経て三河に帰ったか。 
 中央公論社の日本の歴史第十二巻の
282頁には、「家康は津田主水頭(もんどのかみ)に道案内を求め、急に道を転じて宇治田原に向かうことになった。」と書き、枚方市史第三巻18頁には「家康一行は、津田村には信長恩顧の者がいるから道案内をざせようという進言をいれ、その道案内によって津田村から尊延寺村を経て山城綴喜郡に出た。」と書いている。

吉川英治の太閣記には、「枚方から津田方面に向かった」と記し、山岡荘八の徳川家康には、「守口から北河内の津田方面に向かった」と書いてあり、いずれも星田に来たとは書いていないが、津田方面には家康が来たという伝承を聞かず。星田の伝承では、星田炒見宮の参道の入口の北に「家康ひそみの薮」のことを俗に「けんしきの藪」といって、家康が堺から逃げ帰る途次、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。

 
 

ここで考えられることは、津田城主は本願寺派招堤(しよだい)の敬応寺と縁組をしていたことから、天正3年(1575)明智光秀は、城を焼かれて信長に恨みを抱いている津田氏に誘いをかけたところ、津田氏は光秀に味方し、信長のやり方を不満に思っている招提村を誘って山崎合戦に参加していることから、津田村の人達は信長を恨みこそすれ、信長恩顧の者がいるとは考えにくいのである。

従って、信長と同盟を結んでいる家康が、津田に入ることが果たして危急の時身の安全と考えたかどうか、大いに疑問に思うのである。

家康の一行は、6月2日の深夜に星田に来て、人里はなれた人目につかないこの大きな竹薮に潜んでいた。これには、四条畷の住吉平田神社の神主である三牧家から星田妙見宮神主の和久田家にここまでの道案内と紹介がなされたといわれている。そして村長の平井氏に連絡して山城方面に出る間道に精通する農民を道案内人として斡旋するよう依頼したのである。

この連絡を受けた平井家では、直ちに大釜で米を炊いて握り飯を沢山こしらえ、緑起をかついで鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける農民二人を選出して、無事道案内の大役を果たさせたといわれている。

家康がこのような危急存亡の時に、平井家にこのような大事を依頼したということは、徳川家と平井家との間には古くから何らかの知己、交際があったものと思われる。

平井氏の出自については、その遠祖が三河の国設楽郡(しだらごうり)平井庄の地頭職であったところから平井姓を称し、南北朝時代には既に星田に居住していたという伝承がある。

天正十年から三十三年後の元和元年(1615)55日大坂夏の陣に東軍16万人のうち、手兵一万五千人を引き連れた七十四歳の家康は、平井家に一泊しているのである。

家康一行の道案内をした二人の百姓は、一人は「しやみ安」という人で、もう一人の百姓はその名が分かつていないが、後年になって見識の高い俗称から「けんしき」と呼ばれるようになった。

家康が征夷大将軍となった時、平井氏と二人の農民を懇切に江戸に招いたが、二人の農民は固辞したので、平井氏だけが江戸に出向いたと言うことであるが、これらの人たちは江戸時代特別の扱いを受けていた。

家康の潜んでいた藪は、俗に「けんしきの藪」といわれているが、その所有者について調べたところ、以前は平井家の古い分家のものであったが、妙見坂小学校の校地として買収し、フェンスを張って竹薮の一部を保存し、「伝家康ひそみの藪」の石碑と説明板が立てられている。

平井氏が家康のために動いたことが光秀に知れると、どのような仕打ちを受けるやも知れないと大変恐れて、自分の家を閉じて、一家全部が星田山中の小松寺の空家になっている建物にしばらく隠れていた、といわれている。(西井長和先生談)

参照下さい! →   高尾秀司氏の家康逃亡記
 400年前の大坂夏の陣・家康本陣
 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里平平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
 江戸時代後期の星田村大絵図には、平井家の西側あたりに、教学院と岩清水八幡宮の制札場が描かれており、はじめてその位置が確認されました。
  元和元年(1615)春大坂夏の陣が始まろうとして東西の空気が緊張していた。
大坂方では冬の陣の後城の外濠を埋められているので、秀吉が築いたさすがの堅城も関東の大軍に攻め寄せられては防禦の用をなさない。やむなく城外に出て決戦ということになり、そのためあらかじめ万全の策を講じている。その一つには東軍の通路に当たる村々で、彼等に宿舎の便を与えないようにしようと、街道近辺の寺院はもとより、農家までも焼き払うことだった。

 4月4日家康は駿府城を立って、その18日には京都に着き、ここで味方の諸大名を集めて、様々と戦略上の会議を開いた。
その時、因幡(鳥取県)の矢橋の城主市橋長勝は、「いずれ大坂方は、我軍の進路に当たる道筋の村々を焼くだろうから、せめて家康公が京都に出てからの宿所に当たる村だけでも焼かせないように防備しては」と献策した。

そこでその宿営地を星田と定めて、ここを固めることとした。ところがはたして大坂方は交野地方の寺や民家を焼き払ったが、星田には強い防備があったのでここだけが残った。こうして5月5日家康は京都を出発し、星田の平井清貞宅に着いて一泊した。ここで市橋長勝は、その予言が的中したことで大いに称賛の的となった。その後市橋家が近江西大路陣屋で2万石の所領を与えられたが、遠く離れた河内の星田に1300石余の所領があったのは、このときの功績を記念するためのものである。

 そして、家康宿営中は、新宮山八幡宮前に東面する崖の上にあった大きい松にその軍旗を立て掛けた。これが、後まで伝わる旗掛松である。

 
徳川家康の星田陣営のお話

元和元年(1615)5月3日、将軍秀忠は大阪城攻めのために伏見を立ち、洞が峠を越えて河内に入り、砂(四条畷)に陣した。父の家康は、同5日辰の下刻(午前9時)京都二条城を出て、未の下刻(午後3時)星田の陣に着いた。

家康の陣所は、その頃星田の里正(りせい)・(村の長)平井三郎右衛門清貞宅を使った。清貞方ではあらかじめ知らせを受け、宅から10間ばかり北の方で、5間四方ばかりを高く上げた一室を修繕して、待っていたのである。

家康は京都出発の時、家来の松平常慶にいいつけ、台所賄いの長持ちに、自分が戦国時代から野陣用の食糧としていつも使ったとおりの、米5升、干鯛一枚、糒(ほしい)・煮た米を干したもの、塩、味噌、鰹節、香の物を入れて来させて、それを用いたが、平井家では、家康の宿舎の付近にあった濠の鯉を料理して差し出した。

家康に従って来た者は、おおかた野陣してその周辺を護ったが、折り悪くその夜は大雨だったので、もしや大坂かたの夜襲でもあろうかと、かがり火を方々に焚いて警戒した。
また、家康の旗印は、平井家が代々その別当職をつとめる、新宮山八幡宮の庭の松に高くかかげられた。(後、これを旗掛け松という)。

そして、一隊は新宮山に陣した。ここは60メートルばかりの小丘で、星田の南に突き出て、はるか京都方面から交野地方の一帯を、手に取るように見渡すことが出来た所から、監視をした。

家康は、雨がはげしいものだから、その翌日もここにとどまろうと言ったが四つ時(午後10時)雨が止んで星が見えた。それでもまだ、ここを動こうとはしなかったが、砂に陣とって居る先発隊の秀忠から、馬をとばせて急使がきた。その言葉では「大坂勢が遠く城を出て、八尾、久宝寺へ向ったから、こちらは藤堂和泉守や井伊掃部守が、合戦を始めようとしている」と。

それを聞いた家康は「城兵が城を出て戦おうとするか、それではこちらの勝ち戦に決まった」と言った。
こうして家康は、星田でゆっくり一夜を過ごし、翌6日河内中部へ馬を進めたのである。

 新宮山の旗掛松
 
 元和元年(1615)、徳川家康が大阪城攻めの時、星田の平井家に宿陣した。東軍16万人のうち、家康手兵15000人は星田から打上に野営して家康宿舎の周辺を護った。家康の旗印の白旗が、新宮山山頂の八幡宮社前の松の大木に高く掲げられた。平井家の文書に寄れば、この松は太さ五尺余(1.5m)と記録されている。残念なことに明治の初年にかれてしまい、その跡に記念の石碑「旗掛け松跡地」が立っている。

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