交野歴史健康ウォーク 第138回

明治初期の星田の山の実測絵地図で
=星田の山歩き=

2014.5.10(土) JR星田駅 午前9時集合

行程 : JR星田駅⇒傍示川⇒星の森⇒旭縄文遺跡・星田新池⇒なすび石の滝(聖の滝)⇒
五段の滝⇒茨尾最高峰⇒廃小松寺跡⇒大谷山⇒府民の森・やまびこ広場
 昼食後、星田駅組と私市駅組に分かれて解散しました。 徒歩約10km

     案内:大屋 喜代治氏(交野古文化同好会)

     大屋さんのホームページ「星田里山古道探索」を参照

参加者 32名(会員21名)

星田新池で記念撮影
 交野歴史健康ウオーク5月例会は、5月10日(土)午前9時JR星田駅前に集合。前回予定していた2月8日は生憎の悪天候(降雪)で止む無く中止した経緯がありますが、当日は幸いにも五月晴れに恵まれ、32名(会員21名、一般参加11名)の皆さんが参加され和気藹々星田の茨尾最高峰を踏破して来ました。

 先ず、立花昇新会長より挨拶があり、続いて講師の大屋喜代治さんよりウォークの行程など案内の後、星田の山に向かって元気にスタートしました。傍示川沿いを上流に歩き、途中八丁三所の一つ「星の森」へ立ち寄り、再び桜並木を右に見乍ら暫く歩き、「星田旭縄文時代住居遺跡」の石碑を見て、傍示川を渡り星田新池の堤の上に9時40分到着。

 ここで、大屋さんより「星田旭遺跡」の事について詳しく説明を受けた後、午前10時、いよいよ本日のウォークのメイン「茨尾最高峰」「廃小松寺跡」に向けてゆっくりと地獄谷山の尾根を登り、途中、なすび石の滝を見学。
 五段の滝、ひさごの淵跡を過ぎ、きつい山道を登ってやっと11時過ぎ、星田の山の茨尾最高峰=269.5mに登頂。山頂からの見事な眺めに一息ついた後、少し下ったところの茨尾坂(266m)の頂上には廃小松寺の西の大門・西門坂・北の小門跡があり、平安ロマンの夢に暫し浸る。

 弁財天山(258.8m)から暫く下りが続いた後、大谷山への一気の上りに、つかれた足を引き上げるようにゆっくりと登る。大谷山(おおたんやま=266m)の標識を過ぎ、急な下りに膝をかばいながら府民の森・まつかぜの路へと下る。後は平坦なハイキングコースを歩き、やまびこ広場へ12時頃到着。

 昼食後、星田駅組と私市駅組と分かれて午後1時頃解散。私市駅組は、星田ブランコを渡り管理道をゆっくりと歩き、天野川沿いのハイキングコースを通って私市駅で解散しました。
 今回のウォークは、昨年の10月26日の勉強会で、大屋さんより「明治初期の地図で歩く星田の山」の詳しいお話をお聞きして現地へ足を伸ばそうと今年の2月8日に企画されましたが、当日は生憎の南岸低気圧の影響による降雪の為中止されたものです。
 今回、5月晴れに恵まれ多くに皆さんと共に星田の山を歩くことが出来て本当に感謝感激です。
参加された皆さんより、「今日のウォークはきつかったけれど参加して良かった。初めて歩く道で綺麗な滝にも出会えて廃小松寺の位置も確認できて良かった」と感謝の言葉に感激しました。
 本稿を記載するにあたり、案内の大屋喜代治氏よりレジメを頂戴し、併せて「広報かたの」他、諸資料集を参照させて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 
   大屋さんのホームページ「星田里山古道探索」を参照

  「星田の山歩き」のレジメ
大屋喜代治氏のホームページ
「星田里山古道探索」を参照ください!
 
傍示川
 傍示川は、地形的に、星田の山からの広範な山水を集中して集めていて、度々氾濫するなど治水が難しく、平安時代、星田の中川以西の地域は、牧場に使われていた(星田牧)。そのとき三島郡上牧の為彌牧(いねのまき)傘下の福牧に属していたが税の取立てが厳しいため、奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園となって庇護を受けることになった。
 傍示川の地名の由来は、その荘園の境界を示すのに普通立札などの目印が使われるが、ここでは川筋が使われ、それで傍示川と呼ばれるようになった。なお中川以東の地域は、中川やその上流の紐谷川は、湧水中心の川であり、一方で水量豊富で緩やかな流れの天野川の後背湿地に属し、古くから物部氏が稲作の指導を進めてきたと言われる地域であったが、奈良時代、大化の改新際に条里制の区画が行われた稲作適地であり、その後、公地公民制度が崩れてゆき、荘園制度が普及して私領化が進んでいくが、この付近は、石清水八幡宮の荘園になった。
 なお鎌倉時代中期には、荘園の鎮守のため、石清水八幡宮から分霊して新宮山八幡宮が造られた。



星の森
 弘法大師が法を修められ、獅子窟寺の岩屋で秘宝を唱えられると、七曜の星が降り,星田妙見、光林寺と星の森の3箇所に分かれて落ちたというもので、この3箇所が丁度正三角形の位置にあり、それぞれの距離が八丁(900m)あることから八丁三所伝説という。

旭縄文遺跡
 星田新池は、明治42年から2年の歳月をかけて造られた。明治初期の地図記載の2つの旭の山を崩し、その土を上流に運び、土手を作ったが、その旭の山取り崩し中に10数個の縄文住宅遺跡が見つかった。大きなもので八畳ぐらいで、人の体の3分の1位の穴を堀り、6m位の丈の竹や材木を刺して先を蔦で結び、葦や萱の茎を並べて造っていた。壁にあたる部分は粘土ではりつけてあった。
部屋の中央に火を使った炉の跡があり、灰に混じって小鳥や小動物の骨などが出てきた。
そのとき中国の2000年前の通貨である「貨泉」が貝殻に入って見つかった。
星田新池周辺ではほかに次の埋蔵金の発掘がある。
 星田新池の南側の早刈の半島から土器に入った数十枚の和同開珎が発見
 土手と隣接する山との取り付け部分の大正期の工事中に4枚の和同開珎と平安以前の中国の貨幣64枚発見


星田新池とほうじ荒れ
 明治初期の地図には当然星田新池はなくて、ぼって谷となすび石が直接合流し、ぼって川となり、地獄谷川(ぼって川と傍示川の合流地点より傍示川の上流の川の正式名称。)と合流して傍示川となっている。
 また星田村元禄絵図にはをう(傍)じ荒れとして地図には東西96間(176m)南北77間(135m)の水害による水たまりが描かれていて星田新池築造前には傍示川の氾濫が起こりやすかったことが想定される。

 


聖の滝(なすび石の滝)
生駒山系の三滝の一つにあげられ、夫婦滝で二筋にながれている。昔明治初期の地図(下図。)に描かれているようになすびの形をした巨石があったので、なすび石の滝と呼ばれ、滝を少し下ったところに修験道場があった。

      

      2003年7月26日、第51回交野歴史健康ウォークにて
         「なすび石の滝を訪れた時の記念写真」
 懐かしい方々の顔が見えますね!

     

広望丘
聖滝と滝の上流の落とし口との間にある小高い丘を広望丘といい、下界の展望が見渡せる。

   2003年7月26日、第51回の交野歴史健康ウォークにて「広望丘からの写真」 

            星田の中心部と枚方市
    手前の大きな池が星田大池面積が3.9ヘクタールと交野市で一番大きい池
      池の1/3が埋め立てられ交野3中のグランドになっている
         (滝の直ぐ上に案内して頂き、展望の良い所から撮影した)

 

五段の滝
五段に落ちている小滝である。

ひさごの淵跡
 関西電力の橋の南側の堰堤の向こうはむかしひさご(瓢箪)の淵といって、昔はこの池は、瓢箪の形をしていて、深淵で、枯れることは一度もなく、波を立てず、静まりかえっていた姿は凄絶であったと例えられていた名勝であったが、現在はゴルフ場の池として形も変わってとりこまれている。池の西側には星田山があり、その頂上は馬が峯というが、馬が峯の東側となすび石の谷の間の地名(小字名)を池の内といったがその語源の池である。
またその池の上流は廃小松寺の小松山の西に通じていた。

茨尾最高峰
 明治初期の地図では東岐とかかれている山である。高さほぼ270mで星田山(頂上馬が嶺。)と並んで人気のある山である。

茨尾の坂道の頂上(廃小松寺)
 廃小松寺(845~1703年)は、星田からはここから西の大門をくぐって小松山に入った。

小松寺縁起(続群書類従)記載の小松寺の概要
根本草堂(本尊観世音菩薩。) 金堂(本尊弥勒菩薩。) 講堂 宝塔 鐘楼 経蔵 西の大門  北の小門 東谷宝蔵 小松寺縁起(続群書類従)南谷御倉 西谷食堂 北谷閼伽井 戌亥角矢土 丑寅角大池 未申角小池 辰巳角湯屋 金堂前蓮池 講堂前矢土 食堂前井 閼伽井上毘沙門堂 坊舎67宇 僧衆120人 児童(小僧)38人 大谷 7、小谷 19、大道 3、小路 5
 

  

哮が峯
 星のブランコの北側の支柱が建っていて、ピトンの小屋の前のクライミングウオールの背後の山であるが、先代旧事本記(せんだいぐじほんき)によって天孫降臨伝説が残っている山である。
 岩(巌)内道は明治の地図に描かれているように哮が峯の山肌に吸い付くように聳えていた巨大な岩山で底部が洞窟になっていて、東西に抜けていた。大正末期に村が石材会社に売却し、その後石切り場となっていたが、平成9年のなみはや国体では、ロッククライミング競技がおこなわれた。


先代旧事本記
 序文に聖徳太子と蘇我馬子の勅撰と書かれていて古事記(712年)日本書紀(720年)と並ぶ歴史書として尊重されていたが、内容的に後世のことを含んでいて江戸期に偽物とされたことがあるが序文の成立経過は問題があるが資料性は全く否定するものではない。
 内容的に成立は平安初期とされ、その時期に各年代の資料を集めてつくられたもので、また記紀や当時の文献にはない独自の伝承や神名など新しい資料性のあるものがでてきたり、物部氏の祖先である饒速日尊に関する記述が多く見られるが、これらは現存しない物部氏の伝承や文献から引用されたものではないかと思われる。
 記紀は天皇家の氏族伝承が中心であり、成立時の実力者である藤原氏が他の氏族を圧迫して仕上げられた経緯もあり。先代旧事本記は、物部氏が一族の存在、天皇との関係、功績などで立場を顕揚しようとして策定されたものではないかともされている。この場合の作者は当時物部氏系で最も活躍していた興原敏久(明法博士)が挙げられている。 (安本美典氏)
 北星田の地史

大屋喜代治氏ホームページ
星田里山古道探索の「変わりゆく北星田」を参照下さい!


 JR学研都市線の北側の北星田地区は、近年の自動車交通発達以前の徒歩交通時代には、当時の地域幹線交通路であった東高野街道、現在の寝屋川市寝屋に通ずる山根街道など、長らく農道や里道を中心とした農業地帯であったが、明治32年の関西鉄道(現在のJR学研都市線)の開通、昭和7年の府道泉佐野泉大津枚方線の開通、昭和35年頃の臨港製鉄(現在の新関西製鉄)の創業にはじまり,企業団地を中心に府道周辺や東側の地域の一部で開発が進んだが星田北5丁目の一部や6~9丁目では農業地帯が残っている。

 しかし、最近の星田北線(神出来の交差点から茄子作に通じる道)、第2京阪道路、星田北4号線(水道道路)などの整備が進み、これらの地域が急激に変わりつつあるので、変貌前の記録を兼ねて本資料を整備をした。

 北星田地域は、東西を分ける形で中川が流れている、中川の東の地域は、奈良時代の大化の改新の頃、条里制区画が行われるなど天野川流域の米作優良地帯でありり、さらに時代を逆上れば防龍、森ノ木、中水道などで弥生遺跡が発掘されている。
 中川以西の地域は,地形の上から広範な星田の山の水を大量に受けている傍示川が流れていて、度々氾濫を起こし、星田の語源は干し田ともいって河川管理が難しく平安時代後期からの時期には牧場に使われた経緯がある。

 星田から枚方市禁野あたりまでを交野が原といってその北端に位置するが恒武天皇は既存の豪族や寺院の勢力の影響を避けて平城京から長岡京に遷都したがその時北天(北極星)を祀って、交野が原で度々遊猟されたが続日本紀、日本後紀の記録では12回に及びまたその後も平安貴族達の遊猟の場としてかがやかしい時代を経てきたところでもある。


JR星田駅 集合・出発

立花昇会長の挨拶 

講師の大屋喜代治氏さん
星田駅の今昔
 星田駅は明治31年4月に、片町線(学研都市線)の終点が四条畷駅から長尾駅まで延長されたことに伴い、同年7月に開業されました。 右の写真は昭和10年に建てられた木造平屋建の3代目駅舎です。当時はこの駅舎の前で盆踊りなど地域の行事も行われていました。 昭和55年には線路の高架化に伴い、鉄筋コンクリート製の4代目駅舎に建て替えられて今に至ります。
現在の星田駅
昭和40年代の星田駅
八丁三所・星の森
星田の村に星が降ったというお話
 弘法大師が法を修められ、獅子窟寺の岩屋で秘宝を唱えられると、七曜の星が降り,星田妙見、光林寺と星の森の3箇所に分かれて落ちたというもので、この3箇所が丁度正三角形の位置にあり、それぞれの距離が八丁(900m)あることから八丁三所伝説という。
星田新池
星田新池は交野市内で4番目の大きな池である。
面積は2ヘクタールで、つくられたのは明治末から大正にかけて下の方の田んぼの用水として大切な役目を果たしている。

 堤防の老朽化とともに大阪府が中心となって改修工事がなされ、昭和60年3月に完成した。
今、新池公園となりその広場に改修記念碑がたてられている。
 この堰止めに使われた土砂が傍示川との間にあった「旭の山」である。この山をそっくりとって、巨大な高い堤防になっており山の跡地には老人ホームが建てられている。取り去られた「旭の山」は縄文遺跡でもあった。また地獄谷とぼって谷との合う所では土器に入った和同開珎が発掘されている。
 このようにこの旭の山地区は古代縄文時代から弥生、古墳、奈良時代を星田に住んだ先住民の生活の場であった

傍示川の源流
 星田新池の上流の谷は(地獄谷・なすび谷)(ぼって谷)という。
その谷川が一つに集まるところに星田新池があり、そこに交野最古の人が住んでいた。(旭縄文遺跡) 新池から流れた川は、特養老人ホームのところで傍示川に合流する。

傍示川の源流は星田南星台の住宅地を抜け、地獄谷へと遡る。

 

星田新池

左の谷が地獄谷・なすび谷
右の谷がぼって谷
 

大屋さんより詳しく説明を受ける
この池を背景に女優の若尾文子さんのロケ?があったことなども。
 旭縄文遺跡
 星田新池は、明治42年から2年の歳月をかけて造られた。明治初期の地図記載の2つの旭の山を崩し、その土を上流に運び、土手を作ったが、その旭の山取り崩し中に10数個の縄文住宅遺跡が見つかった。大きなもので八畳ぐらいで、人の体の3分の1位の穴を堀り、6m位の丈の竹や材木を刺して先を蔦で結び、葦や萱の茎を並べて造っていた。壁にあたる部分は粘土ではりつけてあった。
部屋の中央に火を使った炉の跡があり、灰に混じって小鳥や小動物の骨などが出てきた。
そのとき中国の2000年前の通貨である「貨泉」が貝殻に入って見つかった。
星田新池周辺ではほかに次の埋蔵金の発掘がある。
 星田新池の南側の早刈の半島から土器に入った数十枚の和同開珎が発見
 土手と隣接する山との取り付け部分の大正期の工事中に4枚の和同開珎と平安以前の中国の貨幣64枚発見

下に見えるのは、特別養護老人ホーム「きんもくせい」
 2003年のウォークの時に聞いた一言、 星田新池の堤防の上で、「こんな所に人が住んでいましたんか?」と言われた一言が妙に今でも耳に残っている。今回も同じようなことを言われる方があり、現代人は同じことを感じるのだなぁと思いました。
地獄谷山へ登る

少し登ると南星台の住宅地が目の下に
 なすび石の滝(聖の滝)
 生駒山系の三滝の一つにあげられ、夫婦滝で二筋にながれている。昔明治初期の地図に描かれているようになすびの形をした巨石があったので、なすび石の滝と呼ばれ、滝を少し下ったところに修験道場があった。
 明治の地図に書かれているなすび石で数10個に庭石となって処分されたという。
 五段の滝
 5m位の落差を五段になって流れている滝である。水量が少ない時は見落とし勝ちである。

関西電力の橋の向こうに「瓢の淵跡」
   

茨尾最高峰の頂上の標識
 茨尾最高峰からの眺望
 この山頂は、高さ270mで小松寺の西の大門に向かう茨尾の坂道の頂上と並んで最高峰であり、展望もよく、星田山の馬ガ峯と並んで、山頂扱いされている人気のある山であるが、明治の地図では東岐という地名でかかれている山である。しかし、この山にはルートが書かれていない。
 小松山がゴルフ場になる前は、最高地点で堂跡峯で284mで、小字の小松地区は半分以上が270mを超え、屋根地帯を形成していたこともあって目立たない存在であったこともあるが、ここには、関電の送電線が建っており、その建設によって周辺道の新設を含めて近年に整備されたからであろう。
 平安ロマン 廃小松寺
大屋さんのホームページ
「平安ロマン・廃小松寺」を参照ください。
 
 廃小松寺は、平安期の845年から江戸元禄期の1703年まで星田山中の小松山にあった七堂伽藍の真言宗東寺派のお寺である。昭和40年頃からゴルフ場(現在は、ゴルフクラブ四條畷)の一部になっている。

 小松寺があった頃の小松山は、図で描いてるように、山の東側と南側は、小松谷川が流れていて、西側は、なすび石の谷(現在の星田新池の西側に流入している谷。)の上流が流れていた。北側は、星田の村側で、小松山に平行して尾根筋が走っていて、この尾根筋は、現在の茨尾最高峰から,北の小門遺跡から馬木の峯や府民の森星田園地のまつかぜの道に通じている道で、昔は、この東西の尾根筋と小松山との間が図の西門坂という南北の尾根筋でつながっていて、そこに西の大門が建っていた。
 ゴルフ場造成のとき、この星田側と結びつけていた西門坂の尾根筋が削られて4番コースになったため、現在は小松山は星田側と分断されているほか、コースで削られ現在見かけ上のこっている小松山は、せいぜい2~3割程度である。
 小松山の形は、東西に長い、やや四角っぽい形をしていて、三層の階段状であったとされ、オープンスペースの活用が容易な比較的まとまった形状であったと思える。小松寺の入口は、星田側からは西の大門が、また小松谷川や逢坂、田原等の南側からは南の大門があった。廃小松寺は、小松寺縁起によれば、大谷7、小谷19、大道3、小路5があり、根本草堂(本尊観世音菩薩。)、金堂(本尊弥勒菩薩.)、講堂,宝塔、鐘楼,経蔵,宝蔵,御倉、食堂、毘沙門堂、西の大門、北の小門や坊宇67宇,僧衆120人,児童(小僧)38人がいた大寺とされている。この小松寺縁起や史跡調査結果から小松山の全体を想定したものである


 小松山縁起とは、続群書類従に記載されているもので、続群書類従とは、平安末期に東寺で記載されたものから応永年間(1394~)に塙保己一の検校により筆写されたものである。
 明治初期の実測絵地図の描いている
小松寺遺跡とその周辺
 
 
 
 廃小松寺・北の小門

北の小門の礎石と見られる大石

弁財天山(258.8m)
 
大谷山への急坂を一気に上る
                大谷の背(おおたんのせ)
 廃小松寺から再び北に戻って磐船への道を東にとると、谷側に取り残されたとんがり帽子のような山がある。
私はこの山が好きである。皆さんにもこの山に上るようにすすめる。このあたりが大谷の背と呼ぶところで一番高い。よくもこんな緑と、こんな山を残していただいたと思うと、ほっとする素晴らしさを感じる。
       ふるさと交野を歩く、山の巻 P18(奥野平次氏著) より参照。
 
 
関西電力の鉄塔の横を歩き
 急なくだりに膝をかばいながら、府民の森・まつかぜの路へと下る
 
 府民の森・やまびこ広場

平田副会長の閉会の挨拶に爆笑!

来月6月14日の歴史ウォークは余り歩かないそうですよ!
皆さん、沢山参加して下さいね!
 展望台から見える星のブランコ
 星のブランコ
参加の皆さん、大変お疲れ様でした!
今回も交野の古代ロマンの色々な歴史・史跡に出会うことが出来ました。
 案内役の大屋喜代治さん有難う御座いました。


次回の歴史健康ウォークは、2014年6月14日(土)、ふるさと交野を歩くⅡ
 「私部城跡に行って・見て・語ろう」です。
  集合は午前10時~12時 京阪交野駅です。
 案内:平田 政信氏
最後までご覧いただき有難うございました!

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