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交野歴史健康ウォーク 第186回

かいがけの道からキトラを巡る

2019.9.14(土) いきいきランド 午前9時集合

行程 : いきいきランド~寺住吉神社~伏拝の辻~かいがけ広場~
ごみのき地蔵~傍示~蓮華寺~キトラの辻~天正地蔵・スマイル地蔵
~傍示のお墓~天田神社付近で午後1時30分頃解散約 4.5km徒歩


案内:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)
     
参加者 22名(会員16名)

 前日と打って変わり絶好のウォーク日となった9月14日(土)、22名の元気な仲間がいきいきランドに集合。先ず、平田会長の挨拶の後、案内役の高尾秀司さんより行程の紹介を受けて、傍示の里へと元気にスタートしました。

 府道久御山線を渡り、交野高校北側の道を寺村に向かって歩く。静かな寺の町並みを過ぎ、住吉神社から傍示の里へと進む。住吉神社で参拝。今日の健康ウォークの無事を祈り、気持ちも新たにして「かいがけの道標」から掘り割り道(かいがけの道)を登っていく。

 例年だと落ち葉が絨毯のように敷き詰められた山道なのだが、昨年の大型台風の被害が大きく大雨で所々酷く抉られ足元に気を付けながら、くねくねとした山道を登ると路肩に、「柳谷伏拝」「愛宕山大権現」「石清水八幡宮」などの伏拝の辻に出る。
 「愛宕山大権現」の伏拝の前に、大きな石が山道に突き出している。この石の南面に可愛らしい地藏さんが彫られている。気づかずに通り過ぎてしまいがちである。この辻は、例年盆と暮れの2回、古文化同好会の有志により無縁墓の清掃が行われている。

 かいがけ広場を左に見ながら竜王社への上り口、ごみの木地蔵を過ぎると、もうそこは傍示の里だ。一息ついて八葉蓮華寺の阿弥陀立像の説明を受けながらじっくりと拝観。キトラの辻から大仏道へと歩き、スマイル地蔵・天正地蔵を巡り、帰りは予定を変更して山の根の道を下り、天田神社付近で解散。

 ※レジメの作成や八葉蓮華寺の拝観予約など高尾秀司氏に大変お世話になりました。
  HPやWEB記事などを参考に掲載いたしました。記して感謝申し上げます。

 傍示の里で記念撮影
 かいがけの道からキトラを巡るマップ
交野歴史健康ウォーク レジメ 
 
 
 いきいきランド広場 集合・スタート

平田会長の挨拶

高尾さんから行程の紹介

本日は快晴、交野連山は見事な眺めである。
正行寺の伏拝
 寺村の燈籠の辻では、「二月堂」「愛宕さん」「「柳谷」などの伏拝に
昔の人達の信仰心の篤さを偲び、
綺麗に石垣が積まれた清楚な佇まいの町並みを歩き住吉神社に着く。
寺・住吉神社
 寺地区の氏神・住吉四神をお祀りしてある。
古墳と思われる丘上に建つている。域内には昔子供達が餅つき遊びをして穴があいたとされるくぼみ石がある。また昔正月には神社の前の棚田で収穫を占う的あての行事「お弓」が行なわれた。 (境内で行われたという説もある)
 
 かいがけの道
住吉神社から奈良へ抜ける道を「かいがけの道」といい、谷を切り開いて造ったので「懸崖道」と書く。奈良時代大仏建立のとき頓挫したのを救うべく九州宇佐の工人達が交野を通ってこの道を急いだと言われる。又このかいがけの道は伊勢神宮、大峯の霊場、熊野街道へ行く道でもありました。交野八景の一つ「かいがけの錦繍」として親しまれている。
 伏拝の辻
かいがけの道には、ここを通る旅人が各お寺やお宮さんの方を向いて、伏して拝んだとされる、石碑群がある。上から金比羅大権現::能勢妙見宮:二月堂:野崎観音:石清水八幡宮:愛宕山大権現:柳谷観音などである。それぞれの効能として次のように云われている。
  金比羅大権現・・・海運、農業、産業の神である
  能勢妙見宮 ・・・先々を見通し人生の道を導き開いてくれる守護神とされる
  二月堂・・・せっぱつまったときお願いするところ
  野崎観音・ ・・婦人病にきくという
  石清水人幡宮・・・鎮護国家、武家の神様
  愛宕山大権現・・・火伏せ(火の用心)の神様
  柳谷観音 ・・・目の病気を治してくれる観音さん
 かいがけ広場
 伏し拝みからしばらくの登ると左側の台上に広場が見えてくる。そこには、かいがけ地蔵・不動明王の石仏・役の行者の祠・弘法大師祠の跡がある。また大きな山桃の木があり、なにか不気味な雰囲気が漂う。昔ここを通った人々が休憩したり、別れを惜しんだりした所ではないかと云われている。
 
かいがけ地蔵
 
不動明王
竜王山の登り口 
山上に八大竜王を祀る竜王社があり雨乞いの場であった。入り口の鳥居の右前の標石には「従是嬰児山竜王社三丁」(これよりみどりごやまりゅうおうしゃさんちょう)とあり、竜王山のことを嬰児山ということもある。嬰児を捨てた山、間引き子をすてた山ではないだろうか。付近には乳母谷(おちごだに)、溺(いばりだに)、地獄谷など暗い地名や嬰児にかかわる地名が多い。 
 
 ごみの木地蔵
 竜王山登り口から少し傍示よりに大きな石の深い舟形光背の中、蓮華座の上に阿弥陀如来が座っておられる。ここには、ぐみの木があったのだが、交野では「ごみ」と呼ぶので、ごみのき地蔵という。長い間、ここを通る旅人達につつがないようにお守りいただいた地蔵さまである。
傍示の辻 かいがけ道への入り口
 ごみの木地蔵を登り切つた所に里が開けてくる。傍示の里である。ここは大和と河内の境である。境であるという意味で傍示という。この里には民家が数軒しかなく、その殆どのおうちが伊丹姓である。戦国時代荒木村重の軍勢に追われ、兵庫県伊丹の郷から逃れれて、移ってきたといわれる。屋根の鬼瓦には下り藤の紋様が入れてあって、この紋様は加藤清正のものと言われ、その子孫であるという。最近では加賀の藤原氏の子孫ではないかと云われている。

 八葉蓮華寺
 八葉蓮華寺 (大字 傍示にある)
伝説によると平安時代の初め頃、弘法大師が竜王山で雨乞いをしたところ雨が降り、時の天皇がその効を誉め八大竜王にちなんで八葉蓮華寺を建立したといわれる。しかし実際には付近から藤原期の瓦片が出土することから、創立もその頃と推定されている。本尊は阿弥陀如来立像であるが、20年程前に発見され、作者が鎌倉時代の名匠である快慶であることが分かり、昭和60年に国の重要文化財に指定された。この阿弥陀如来立像は、高さ82、4cmの半等身像で来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して、衆生に向かって来迎するありさまをあらわしている。
  八葉蓮華寺  (重文阿弥陀如来拝観)
八葉蓮華寺 宗派・融通念仏宗 伏字傍示にある)

伝説によると平安時代の初め頃、弘法大師が竜王山で雨乞いをしたところ雨が降り、
時の天皇がその効を誉め人大竜王にちなんで人葉蓮華寺を建立したといわれる。
しかし実際には、付近から藤原期の瓦片が出土することから、創立もその頃と
推定されている。本尊は阿弥陀如来立像であるが、30年程前に発見され、
作者が鎌倉時代の名匠である快慶であることが分かり、
昭和60年に国の重要文化財に指定された。
この阿弥陀如来立像は、高さ82.4cmの半等身像で来迎印を結び、
わずかに左足を踏み出して、衆生に向かって来迎するありさまをあらわしている。

小さくてひっそりとしたお寺の中に、国の重要文化財に指定された阿弥陀如来立像がある。
名匠として知られる鎌倉時代の仏師・快慶の作で、檜(ひのき)を用いた82.4センチの半等身像。来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して、衆生に向かって来迎するありさまをあらわしています。
快慶の仏像は、奈良・京都を中心に30数例が知られている。快慶は、藤原彫刻の優美さを受継ぎながら、写実的な表現を踏まえて、日本人の心に強く訴える、独自の形式美を備えた仏像の美の形を創造し、後世に大きな影響を与えました。

なかでも、この像のような、彼の創り出した半等身の来迎印を結ぶ阿弥陀如来像は、その小作りで静かな優しさが人々に好まれたため、後世それにならって多くの模刻像がつくられることになった。その系統の像を安阿弥陀様と呼んでいる。
像は引き締まった頭部と、太作りの上体をそなえ、全体に自然な前傾の美しさを持っている。顔は、少し目じりの上がった青年のような若々しい相好に表わされ、その表情はおだやかで、静かな感情をたたえています。流れるような衣文は美しく整えられ、しかも自然な動きを失っていません。端正なその姿からは気品が漂うようです。

放射光形式の光背や、六重蓮華座も、造立当初のもので、仏像・台座・光背の三拍子がそろってセットで伝わっているのは貴重です。しかも全体に、後世補ったところや、欠けてなくなった部分はわずかで、驚くほど保存状態は良好です。用材はヒノキ材で、この時代に小ぶりの像によく用いられた割矧造りでつくられていると推定され、眼は玉眼としています。

像は、螺髪を群青彩とするほかは、肉身と衣を漆箔仕上げとし、光背と台座には、群青、録青および朱などで彩色を施し、一部に切金をおきます。快慶の署名は、左足の外側に墨で「巧匠 アン(梵字)阿弥陀仏」と謹直な書体ながら、必ずしも能書とはいえない筆致で書かれています。

流れるように美しい衣線や、青年のような若々しい表情など、快慶の意欲が伝わる造形美である。
建久3年(1192)から建仁3年(1203)ごろの作と推定されている。


天長三年(826)交野、大和の一帯が日照り続きになり植えた苗がほとんど枯れてしまった。
村人達は困り果て、国司に訴えたところ、国司はこの状況を天皇に報告した。

天皇は直ちに弘法大師を呼び、交野地方に雨が降るように祈願する事を命じられた。
弘法大師は、早速傍示が嶽(竜王山)に登って八大竜王を祭り、大雲論晴雨経を読まれた。
すると龍神がこれをお聞きになったのか、四方数十里にわたって黒い雨雲が現れ、
まさに竜が雨雲に乗って天に上るような暗さになり雨が降ってきた。
これを見ていた村人達は、よみがえったように喜んだ。

天皇はその効をおほめになり、八大竜王を祭る寺を八葉蓮華寺と号し、その下に八つの坊を建てられた。
その一部「山の坊、栴檀(せんだん)坊、向井坊、西の坊」の地名が残っている。
建暦年中(1211から1213)の僧戦の時、京都清水寺に協力した為延暦寺に敗れ、この時寺は廃絶した。

その後、元享元年(1321)法明上人が交野に御化道(ごけどう)の際、八葉蓮華寺の跡に一小堂を建てられ、旧名の通り八葉蓮華寺とおつけになり、融通念仏宗の道場とされた。
                  (氷室山蓮華寺略史より)

上左の写真は昭和58年4月、「阿弥陀如来立像」が発見されたことを伝える当時の新聞


当日は、八葉蓮華寺のお堂を開いていただき大変お世話になりました!
キトラのニ尊仏
キトラ(北の辺)の辻の突き当りに双体仏、そのうしろに宝筐印塔の塔身が支えていて、うしろの高い台地は古寺の跡である。この辻を左に上がると野外活動センター、右に下ると里の小路にでる。この道を登りつめたところに天正地蔵、スマイル地蔵がある。

仏高36cmのニ尊仏
向かって左は地藏さん、右は阿弥陀さま

宝筐印塔の塔身
天正地蔵とスマイル地蔵
 天正地蔵(手前)
天正4年(1576)の銘があるので天正地蔵と呼ばれている。阿弥陀様の像が彫ってある。地蔵様の後ろの「びしやこ」(非榊)はいつでもお花をお供えするのに便利だし、手前の柿の木は寒くなると葉を落とし,暑くなると葉で影を作る。その下で阿弥陀さんと一緒に休みができる。
  (奥野平次氏の「ふるさと交野を歩く・山の巻」より

スマイル地蔵(奥側)
永禄4年(1561)の銘が彫つてある。なにかしら笑っているように見えるところから「スマイル地蔵」と呼ばれている。
この仏の座から南と北で大和と河内にわかれる。
 
 
 
 古文化同好会のこれまでのウォークの写真集
 
 
 傍示・東傍示の墓
 
六地蔵
 
傍示の伊丹家のお墓    家紋の下り藤が彫られている

《ミニガイド》

傍示の里
 傍示とは、榜(ふだ)を立てて国境を示した。特に街道筋においては、この傾向が強い。傍示は河内国と大和国の境になっている。ここ傍示は交野から高山を経て富雄川を下り、三碓(みつがらす)で左折して奈良に通じる「かいがけ道」である。古代交野は天野川流域の条里制が施行されたごとく、豊かな地であり、かつ、渡来人の活躍の場でもあった。寺、森辺りに古墳や遺跡が散在する。当然この道は頻繁に利用されたことであろう。また、東大寺建立の際、大仏の銅の鋳型がうまく出来ないため、この仕事に熟達していた九州の字佐八幡宮にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、宇佐から大和に行くことになった。一行は途中2斑に分かれ、一隊は枚方市の百済寺に、他の一隊は交野の獅子窟寺に宿泊した。そして、この「かいがけ道」を通り奈良の都に到着し、無事、大仏建立を助けたと言われている。

 氷室山八葉蓮華寺から国宝級の快慶作の阿弥陀如来立像(高さ82.4cmの半等身像で、来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して衆生に向かって来迎する有様を表わしている)が発見された。鎌倉時代初期、建久年間から建仁年間(1192~1203ごろまで)に作られた作品で、快慶の造像活動の中でも自分の様式を確立するための模索していた時期と言われている。
 
 
現在の傍示に住んでおられる人の姓が、ほとんどが「伊丹氏」である。この伊丹氏が傍示に住みつくようになったのは天正元年(1573)のことである。
 この年、かって摂津国伊丹の城主であった伊丹兵庫守親興が室町幕府の最後の将軍足利義昭に加勢して織田信長と戦争を起こした。しかし、戦況は思わしくなく、宇治の槇島が落とされたため親興は退去し、高槻の芥川城に逃げた。しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも、城主伊丹親興は討死してしまった。残った伊丹一族は淀川を渡って交野へ逃げた。しかし、織田方の追手の厳しさから逃れるため、交野の山中に入り、寺の背後の竜王山の後ろに移り住むことになった。芥川城陥落の功により荒木村重は伊丹の城主になっている。また、大阪冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大阪方の武将として出陣している。
 天正年間に伊丹氏が生活を始め、その後もこの小さな谷を切り開いて、あまり人口を増やすことなく、現在まで永々と生活してきているのである。

北浦(きとら)】
 里の北側で、中心に交野市野外活動センターがある。里に集落があり、また、田畑が開かれた後、北浦の谷も開かれたものと思われる。「浦」はこの場合「裏」のことで村の裏側の土地といった意味である。
 傍示では「きたうら」をなまって「きとら」と呼んでいる。 

最後までご覧いただき有難うございました

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