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交野古文化同好会40周年記念
交野歴史健康ウォーク  122回
ふるさと交野を歩く パートV
交野ドーム〜第二京阪国道沿い〜住吉神社〜北田家住宅
〜お旅所〜想善寺〜無量光寺〜
光通寺〜私部城跡



案内人:高尾 秀司氏(交野古文化同好会 副部長)

交野歴史健康ウォーク始まって以来、前回に引き続き42名の多くの方々に参加頂きました!
古文化同好会結成40周年の始まりであり、これからが古文化同好会の正念場です。
 日時 : 2012年7月14日(土) 午前10時 交野ドーム集合  参加者 42名

 行程 : 交野ドーム〜第二京阪国道〜住吉神社〜北田家住宅〜お旅所〜想善寺〜
       無量光寺〜光通寺〜私部城跡
     12時15分解散
 2012年7/14(土)、天候 曇り。交野ドーム(いきいきランド)に集合、午前10時出発。
 村田広報部長の司会で始まり、「古文化同好会40周年記念行事に引き続き、天候が悪いにもかかわらず沢山の方々に参加頂き有難いことです、本日も最後までよろしくお願いします。先日の7月5日、郷土史かるたの絵札を描いていただいた森本順子先生が交野へ来られて、交野の小中学校14校に対して600冊の絵本(MY HIROSHIMA)を寄贈されました。28日の「わら草履・布草履作りの本番」に向けて、7月21日(午後1時)に「わら草履作りの練習」がありますので、私市の松宝寺公園にお集まりいただきたい」とお願いしました。

 本日の案内人高尾副部長からは、先ず「私部の昔の村」は江戸時代には上河原(神宮寺の倉治・寺惣墓付近)にあったが大洪水により埋まってしまい、現在位置に移転したことなどをお話し頂き元気な声を合図に、いきいきランドを出発して、交野ドーム〜第二京阪国道〜住吉神社〜北田家〜お旅所〜想善寺〜無量光寺〜光通寺〜私部城跡まで、周辺の史跡・遺跡の解説を聞きながらゆっくりと歩いてきました。
 当日の参加者は「広報かたの」や「40周年事業計画などの案内」を事前に見られた方を含めて、総勢42名(会員26名)の元気な皆さんでした。

 前日は一日中雨が降り続き、当日の空模様が気がかりでしたが、朝から天候が回復してまずまずのウォーク日和となりました。 沢山の参加者の皆さんから一様に参加して良かったと感動の声を頂きました。交野の町の歴史、私部のことなどが少しでもお分かり頂けたことと思います。

 高尾さんは今回、フリーハンドのマイクを使って案内頂きましたので、参加者全員に良く声が通り、寺社や史跡についてゆっくりとお話し頂き、色々な歴史があることがお分かり頂けたことと思います。
 「今日は私部の町を歩き、本当に楽しい一日でした」、と言われたことが印象に残りました。


※高尾さんより当日に頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。記して感謝申し上げます。


当日のウォークマップ


住吉神社で元気に集合写真

いきいきランド噴水広場
第二京阪国道の遺跡
第2京阪国道の大規模な調査により、現在の交野の景観が形作られる過程を
知る手がかりが多く得られました。 特に、私部南遺跡では紀元前6世紀ごろ、
朝鮮半島に起源を持つ「松菊里型住居」が造られ、水田稲作を行う弥生文化が伝わっています。
私部南遺跡
弥生時代
 いきいきランド交野の北側と、京阪電車側の2か所を中心として紀元前6世紀ごろ、弥生時代前期と呼ばれる時期の土器や住居跡が見つかりました。
 特にドーム側で調査された住居跡は、北河内地域では非常に少ない例というばかりではなく、炉跡の両端に小さな杭を打ち込む点や、炉跡の形状が楕円形であるなど一般的な竪穴住居と異なる構造をもっていました。これに似たようなものは朝鮮半島南部を中心に、北部九州地域から西日本に分布することから、大韓民国の遺跡名にちなんで、
 「松菊里型住居(しょうきくりがたじゅうきょ)」と呼ばれています。
 見つかった石器の中には稲の穂首だけを引き抜くために使われた石包丁も含まれているため、このころから交野市域で確実に農業が行われていたことを物語っています。
 つづく紀元前3世紀ごろの中期では、京阪電車側で住居跡が数棟見つかったほか、このころの土器や石器が出てきました。深く掘られた穴の中には、鋤や鍬、斧の柄などの農工具が納められている例がありました。
 さらに、2世紀ごろになると、いきいきランド交野北西側の向井田地区付近に、シガラミが数か所築かれていました
 シガラミとは、たくさんの木の杭を打って水をせき止めて水量を調節し、田に水を導くために設けられた堰のことで、このころ、周辺に本格的なかんがい用水路と水田が広がっていたと推測されます。
 なお、水路際から、いのししを模したと思われる小さな土人形も見つかりました。何に使われたのかは不明ですが、生産の基本となる水路近くから出てきたことから、いのししが子だくさんなことにあやかって、秋の豊かな実りや、人の暮らしが栄えることを託して置かれたものかもしれません。

「松菊里型住居」

縄文土器 深鉢  突帯文土器
住吉神社

 祭神は住吉四神で元禄5年(1692)の私部村寺社改帳によると、いつ勧請したか分からないとあります。社殿は住吉神社であるから住吉作りと思われるが、春日造りとなっている。これは奈良春日大社の社殿が20年毎に建て替えとなるので、江戸時代にその宮殿を譲り受けたからである。 

 また昔、境内に現光寺という宮寺があって、空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいたという。会館の裏に空禅藪と呼ばれる所があり歴代の住職の墓がある。

 また神社の入り口にある大鳥居は万延元年(1860)に私部口山の鳥居谷から原材を運んできて造ったものであります。

住吉神社の大鳥居
(住吉神社社誌より)
 神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと思われる。
 ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
 宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。
 また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。


 1年も持たなかった「万延」事件続きで改元7連発!
 明治天皇の父・孝明天皇の治世は、1846年(弘化3年)から1866年(慶応2年)の、21年に及ぶ。さまざまな事件が発生したせいか、この治世は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と年号が次々変わった。
特に安政期には、桜田門外の変や悪疫の流行など暗い事件が多かったので、安政7年(1860年)3月18日、「万年も繁栄が続きますように」との祈りを込めて万延元年と改元した。
ところが、実際は凶作、物価騰貴などで人心が動揺。翌年2月20日に早くも文久元年と変えられている。
万年どころか、1年も続かなかった「万延」であった。
(参考)「桜田門外の変」は1860年(安政7年)3月3日に起こった。
    その後、すぐ元号が「万延」になることに。

       つ 
     食 く 
     ら ね 
     っ 飯 
   大 て    
   鳥 運    
   居 ぶ 

私部住吉神社の石の大鳥居は大風で倒れ、万延元年(1860年)に再建された交野一の大鳥居です
私部口山から切り出し、つくね飯(にぎりめし)を腹一杯食べ、音頭をとりながら二、三百人で運んだと記録されています。
   (交野かるた より)

私部住吉神社の大鳥居
万延元年(1860)に
再建された

私部口山の鳥居谷から原材を 私部口山の鳥居谷から原材を修羅に載せ、
北川の川床を村中の人が引っ張ってお宮まで運んだ
(鳥居谷から住吉神社までの地図)


空禅藪(きゅうせんやぶ)
きゅうせん薮
 私部の産土の宮、住吉神社の境内の東にきゅうせん藪はある。
 元禄時代、境内に真言律宗、つまり宮寺の現光寺があった。庵梁行三間、桁行五間、わらぶき、前一間しころ付き瓦葺、ここに空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいた。空禅は中興の祖である。 右奥の墓石がきゅうせん和尚の墓石で、正面に当寺中興空蝉寂超大和尚、背面に正徳二年(1712年)と記されている。歴代の社寺僧の墓で、大変厳かな場所である。沢山の石塔と石仏が安置されている。


北田家住宅
代官屋敷(北田家住宅)


 江戸時代、私部の領主畠山氏の代官をしていたことから地元では「代官屋敷」として親しまれてきました。屋敷の広さは約4千平方メートル(約1200坪)あり、門長屋は55,8mもあり日本最長です。

 又高さも2,6mもあり馬に乗ったまま出入りが出来るといわれたほどです。乾蔵から享保7年(1722)の棟札が見つかり、母屋の建築はそれより少し前頃と思われます。

 昭和54年、国の重要文化財に指定され、毎年春と秋に公開されています。この北田家は南北時代の後醍醐天皇の重臣、北畠親房の子顕家の子孫と言われ、南朝没落後、その姓をはばかり、北畠の白を除き北田と称したという。
一般公開日が春と秋の2季制に変わりました!
 「広報かたの」などでお知らせします。 見学は事前に予約が必要です。先着30名
 右記の文化財事業団に申し込み下さい。   交野市文化財事業団    TEL 072−893−8111    

北田家門長屋 大きな構えは 代官屋敷 (交野カルタ)

 私部(きさべ)1丁目に(交野市役所より南に5分) 江戸時代の代官屋敷といわれる北田家がある。
約4000平方メートルの広い敷地に、長さ56メートルの白壁作りで大きな構えの門長屋が続くおもむきは豪壮である。

 母屋の玄関が上手に突き出た形式は全国にも数少なく、約300年前の貴重な建物として国指定重要文化財になっている。
 北田家所蔵の系譜をたどると、南北朝時代の南朝方に仕えていた武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)につながり、 南朝没落後、足利家の世となったのを機に民間に下り、その姓をはばかって「北畠」の白を除き、「北田」と称したといわれる。

 その後、顕家より9代目の好忠の時に私部城主安見氏の重臣となるが、元亀元年(1570)の織田信長による本願寺攻めに参戦した安見氏が大敗し、城は大和の筒井勢により攻められ遂に開城となった。この時なお残って最後まで奮戦し、下仕9人と共に壮烈な戦死を遂げたのが北田好忠であった。

 その後、20年程経って、京都の叔父の家に送られていた嫡子の好孝が私部に戻り現在の所に家邸を構え、田畑を耕し農業を生業として生活を始めたのが現在の北田家の最初で、そのため好孝が中祖の第1世とされている。

 関ケ原の戦いの後、徳川家康が天下を統一し、幕藩体制をしいたのに伴い、元和5年(1619)、畠山の子孫・旗本畠山修理太夫が、私部の3分の2を所領するに及んで、北田家は、この地の庄屋を勤めることになる。そして18世紀前半、第6世佳隆の代には代官職を担うようになった。

 代官職就任の時期と主屋建築年代が相前後することとなり、なんらかの関連を想像させる。以後第10世好剛の代まで続くが、元治元年(1864)この職を同村原田伝兵衛に譲る。
                       (重要文化財・北田家住宅説明文書を参照)

住吉神社のお旅所
住吉神社お旅所

神社史によると長年の風雨による損傷がひどく専門の業者の診断で緊急に茅による葺き替え工事を平成4年に行ったとある。

 秋の大祭には渡御行列が統一した服装で行われている。行列は神社を出て突き当りを左折、北田邸を右に曲がり、堀に沿って中町を進み突き当りを右に折れて御旅所に入った。
 2〜3時間の神事の後神社にもどったようです。ごく最近改修工事がおこなわれました。
市役所別館前に設置された 星取表

頑張れ!勢関
想善寺
想善寺 宗派は西山浄土宗
 本尊 阿弥陀如来坐像

 天正年間(1573〜1591)惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始りといわれ、後に想善寺と称した。その後寛政2年(1790)遍空上人時代当地の領主畠山義紀公が大檀越となり寛政5年(1793)秋に現在の伽藍ができました。

 本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置しその左右には佛高12cmの千体地蔵尊を祀っている。新しく生まれた子供の幸せと恵まれなかった水子の霊の安らぎを祈って建てられたのであろう。
 当地方では子授け、安産の帯受け、及び子供護りの地蔵として、参詣する人がおおい。
無量光寺
無量光寺 
 浄土真宗西本願寺派・本尊は阿弥陀如来立像で室町時代の木造で像高90cm余り。
 かつては、住吉神社の西の方に天台宗の尼寺として建立されました。しかし嘉吉の乱(嘉吉元年「1441年」播磨の領主赤松満祐が六代足利将軍義教を殺すという事件)の時播磨に逃げ帰る赤松軍が逃げ込んだので足利軍に焼かれたともいわれる。この頃本願寺中興の祖といわれる蓮如がこの地に布教に来られ、当時の僧了道は教えを受けて浄土真宗に転じた。戦国時代、信長の石山本願寺攻めの時(1570〜1580)、住職の三世覚心は本願寺に味方し、信長方にいた私部城の安見氏と戦ったため、寺は焼かれたとつたえられています。そのため安見氏より捕縛命が出され、20年程寺に帰れなかったともいわれます。享保15年(1730)ようやく再建できたという。また幕末の戊辰戦争の時、敗れた幕府軍がここで救護をしてもらったとも云われております。
光通寺
光通寺 宗派は臨済宗 本尊 聖観音菩薩立像 ヒノキ材 鎌倉時代に作られたものです。

 このお寺は室町時代のはじめに創建され、京都東福寺の末寺となっている。開祖は「交野郷土史かるた」にあるように別峰和尚で後村上天皇に寵愛された方です。室町時代の終わりから戦国時代には朝廷にお茶を献ずるなど極めて力をもった寺でありました。またこの寺の石垣の中には「石垣地蔵」と呼ばれる2体の石仏がみられます。石仏はかなり風化していて、わかりづらいのですが、光線の具合で浮き上がることがあります。また寛文4年(1664)の年号が入った棟札が残っており、それによりますと信長の時代に家臣の安見右近太夫は仁義や道理もわきまえず、仏法を無視し、ついにこの光通寺を倒しました。仏閣はとうとう無くなり、桃や李の美しい人里は一変して荒原となってしまいました。然し後この安見の首領は敵陣で首を切りおとされ、のちの人達はお互いに戒めあったといいます。

石垣地蔵


石垣を上がったところの本堂の東側に、「こばか地蔵」が沢山おられる。
昭和4年、信貴生駒電鉄(今の京阪電鉄交野線)の工事中、
交野駅の南踏切付近、「こばか」から出土したものが主に集められている。

光通寺開祖「別峯和尚」のお墓にお参り
伝説
 おとなしのどんどん」
 集慶殿(古い光通寺)の開祖別峰和尚が伊勢皇太神宮の神官と談義中、そばの小川の流れ落ちる水音がやかましいので、和尚が「やかましい」と言われた。
すると、うるさく音をたてていた堰(どんどん)が静かになったという。
私部城跡
私部城跡
 府下では珍しい平野部に築かれた城です。
私部城は室町時代に豪族畠山氏の家臣・安見氏が築いたといわれています。城は本郭・二郭・三郭からなる主郭と周囲の副郭で構成されています。写真にある切通しといわれる部分はかなりはっきりと残っております。城の南側には土塁や堀跡が認められます。戦国時代やまとの筒井氏に開城せられ信長によって廃城されたといわれます。又、三郭といわれる東側で2200年も前に稲作が行われていたとみられる、石包丁が出土しております。

 最近の調査で本郭から弥生時代中期前葉の円形住宅跡が見つかりました。かなり以前から住みやすい所として人々が住んでいたことが分かります。 最近この城の重要性がみとめられ、国の指定史跡に向けた調査が始まっております。
稲作のはじまり
 いきいきランド交野から京阪交野線付近までに広がる私部南遺跡から、弥生時代の水田が発見されました。
 この水田は、水路も引かれるなど水田としてきちんと整備されていて、縄文時代の稲作のものとは違うものです。
 私部南遺跡からは、第二京阪道路建設時の調査で、弥生時代前期の住居も発見されました。交野に稲作など、弥生時代の文化の波が、早い時期から伝わっていたことが分かります。
 また、市役所別館の北に、私部城跡という中世の城跡があります。この城跡の下から、弥生時代中期の土器や、稲の収穫に使う石包丁などの石器が見つかっています。このあたりにも弥生時代の水田や集落があったのでしょう。

石包丁(私部城跡)
 最近の調査で本郭から弥生時代中期前葉の円形住宅跡が見つかりました。かなり以前から住みやすい所として人々が住んでいたことが分かります。 最近この城の重要性がみとめられ、国の指定史跡に向けた調査が始まっております。


交野かるたにも描かれている石仏



 故奥野平次氏が著された、「ふるさと交野を歩く(里の巻)(ひろい話)」の私部編などをじっくりと味わうことが出来た楽しい歴史ウォークでした。 

 次回の歴史健康ウォークは、9月8日(土)ふるさとウォークのパートW「第二京阪国道側道を歩く」、私部南遺跡〜上の山遺跡まで歩きます。集合はいきいきランド噴水広場、午前10時です。皆さん、奮って参加下さい。
 
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
最後までご覧いただき有難うございました

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