9/9、第2回の参加者は、7名。前回より3名増。
午前9時15分、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。府道東側の田圃道を歩くコースは、前夜の雨で濡れている為、北川沿いを神宮寺に向けて東へ行く。
JR学研都市線のトンネル手前で平田会長から、南に広がる田園とその向こうに見える交野高校の方を望みながら、交野東車塚古墳の発掘当時の様子や昔の「いまい」のことなど、説明を受ける。この近くにJRの新駅が予定されているとか、しかしこの長閑な田園風景は残して欲しいという願いはどうなるのだろうか。
交野養護学校と交野松下障害者ワーキングエリアの間の小道を抜け、創価学園前に出る。交野山の濃い緑が目の前に迫る。道の両側に広がるぶどう畑。ぶどう畑の棚の高さが現代の若者の背丈に合わず、作業がやり難くなり後継者に困っていること、また昔は例年2月3日には、ブドウの豊作を祈る「なり木いじめ」などが行われていたことなどを聞く。ぶどう畑の道を気持ちいい秋風が吹き、一同歓声を上げる。
神宮寺1丁目の角地(地蔵の辻)に、さいのかみ(塞の神)が祀られている。村に悪魔を入れないように守っていただく神様だと言う。いつもお花が飾れ手入れされている。この辻を東に神宮寺2丁目の住宅街に入り山へと登れば、交野山への石仏の道に続く。
この山麓には、今から約9000年の昔、縄文早期時代に人々が居住していたという。ここに神宮寺縄文早期居住跡、天平時代の開元寺跡の石碑がある。
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牛回しの石:昔、1月3日に農耕用の牛を連れてきて今年もまた1年、牛が健康でよく働きますようにと祈ってこの石の周りを何度も回ったと言う。 |
この石碑を右手に細い道を少し進み、左折して左手に綺麗に咲いた「むくげの花」を見ながら山の方に行った、右手の田圃のあぜ道に「牛まわしの石」がある。昔、1月3日に農耕用の牛を連れてきて今年もまた1年、牛が健康でよく働きますようにと祈ってこの石の周りを何度も回ったと言う。
朝の1時間、この山麓に立ち、縄文時代の当時の人々の生活を少しでも偲ぶことが出来楽しい散策となりました。帰りには、青山の私部墓地に立寄り、故奥野平次氏の墓にお参りさせて頂いた。交野山の大岩が望める広い墓地に安らかに眠られていた。合掌。
平田会長のポイントを押さえた説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回(9/16、倉治方面へウォーク)が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
いまい
昔、寺地区は、JR学研都市線の西側、交野高校の北側の「いまい」という小字にあったという。
「昔、寺村は「いまい」にあってな、水が出て困り抜いたすえ、こんなところには、いまいいまいといって今の寺村に移ったんや」と村の古老の話をして頂いた。
また、竜王山の麓から流れ出た北川の湧水が流れ込む、一段と低い地を冷田(ひえだ)という。
なり木いじめ
ぶどう等の小枝に年越しの祝い豆を半紙に包んでぶら下げ、十能(炭火を運ぶ柄のついた道具)などでその根元を叩いて、良く実がなるようにと責め、木に豊作を約束させるというまじない行事をいう。
さいのかみ(塞の神)
神宮寺の村の四隅に石仏がある。これらを「塞の神」といい、村に悪魔を入れないよう守って頂く神様である。
昔、いざなぎの命(みこと)は、死んだ妻のいざなみの命を慕って黄泉の国(死の国)を訪ねていったが、妻があまりにも醜い姿に変わり果てていたのを見て逃げ出してしまった。妻の命は恐ろしい顔でその後を追いかけてきたので、これをとめるために、いざなぎの命は持っていた杖を投げた。その杖から塞の神が生まれて、追ってきた妻の命の悪霊をくいとめることができた。
これが村の入り口にある「塞の神」の始まりだと言う。
交野東車塚古墳群
東車塚古墳は交野市南野10番地にある。現在の府立交野高校の校地内と北側の古墳群を言う。
昭和47年、交野高校が建設されることになり、事前に試掘され発見された。5世紀初頭から6世紀頃の5基の古墳群からなる。
東車塚南古墳は、他では類例のない四隅が四角の周溝を有する円墳、「日の丸古墳」と言われる。
北辺27.5m、南辺26.5m、東辺27.4m、西辺28.8m、その中央に直径22.4mの円墳。
また、東車塚古墳は、5世紀初頭の時期のものと考えられており、周辺域でも確認例のない前方後方墳(墳長65m、後方部の高さ約6m、後方部幅33.5m)で、筒型銅器・巴形銅器・石製腕飾類など多数の遺物が出土している。
神宮寺縄文早期居住跡
今から約9000年の昔、縄文早期時代に人々が居住していたという。
神宮寺上旧石器文化遺跡より200m下ったところ、標高65m、一帯に扇状地の砂白く、付近には年中絶えることのない、清澄な谷川の水があり、至るところ黒い原始林に覆われていた。
葦や水草が茂り、そこには魚や貝類が無数に生息し、森には鳥獣が群れをなして棲み、狩猟や拾集生活には最も便利な場所だったという。
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