2004.3.20(土)天候曇り時々雨。参加者14名。9時に集合して、井戸会長より私部の歴史、傍示と私部の領地の関係など詳しく説明を受けたあと、交野ドームを出発した。久御山線を北に歩き、京阪第二国道の予定地近くの南後地区を歩きながら、昔の私部の野辺送りのお話を伺う。この道は、私部の村からさくさ口と言われた所を通り、今は交野小学校のグランドとなっているところを真っ直ぐに東へ出て私部の共同墓地に続いていたそうだ。
墓地の手前にある細長い池を長池と言い、今はJR学研都市線沿いの墓地になっている所に郡南街道筋から流れてくる水を貯めた池があり、昔そこから粗朶(そだ)という木の枝を切った物を川底に埋め砂を留めて下の長池に水を注いでいたそうだ。今は寺村へ抜ける道路となっている。昔の人の素晴らしい知恵をお聞きした。
大和へ抜ける郡南街道へと東へ行くと、左に倉治墓地、右に寺共同墓地がある。この辺りを尾上という。墓地に入る手前の金網に隠れて見つけ難いが、道の南側に「上河原旧私部村落遺跡」と彫られた石碑が立っている。→
倉治墓地から私部大池、私部墓地辺りは、元禄4年(1691年)傍示谷にほらが吹いて、旧私部の部落が流された所で、上河原という地名がついている。
また、この辺りの扇状地域には、沢山の松の木が茂っていたが、明治34、35年の頃、関西鉄道(現JR学研都市線)の開通の時切られて四條畷中学(現府立四條畷高校)の校舎の材木に使われた。松を切ったあとに桃が植えられ、春には辺り一面ピンク色に染まり見事なものだったそうだ。関西鉄道の唱歌に「星田を跡に津田に来て 見渡す限り桃林 さぞや花時一帯の 紅雲天に焦がすらん」と歌われている。 その後、昭和35年から36年にかけてブドウ畑に変わった。
郡南街道は暫く道路改良工事の為不通であったが、久しぶりに街道を歩いた。道路は綺麗に整備され立派な道路になった。以前の不法投棄のゴミも綺麗に!なった。と、喜んでばかりは居られなかった。
途中、山へ入る近辺道路わきや茂みに沢山のゴミの不法投棄に怒りを覚えました。単車、タイヤあり冷蔵庫、テレビ、掃除機など電気製品に、リホームで剥いだ壁紙、床材など明らかに業者が棄てた物と一目で分かるもの等、誠に雑多なゴミの数にビックリしました。
市の立てた不法投棄の注意書きの傍にもゴミが棄てられており、何たる良識の無さかとうんざりでした。交野の良さを再発見どころか、市民?の良識の無さ・悪さを発見してきました。
郡南街道の一番の難所、180度の大曲を上がった所に鳥居谷がある。私部・住吉神社の大鳥居の石材が切り出された場所である。大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。
折悪しく降り出した雨の中、郡南街道から交野カントリーへの道を通り交野山に登る。例年行われている交野山・観音岩付近の清掃に、皆さん夫々ゴミ拾いに汗を流された。中でも平田さんは、ビニール袋2袋に一杯のゴミを集められた。ビールの空き缶あり、タバコの吸殻、弁当の残骸など、何と水筒まで拾われた。交野のシンボルでもある観音岩をゴミで汚さないで欲しいものです。山へ持って来たものはすべて持ち帰ろう!それがハイキングのマナーじゃないですか!
小雨の降る中、皆さんお疲れ様でした。交野山が綺麗になり気持ちがすーっと洗われたウォークでした。交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
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さくさ口 |
交野小学校の西側の辻に二月堂と刻まれた細長い伏拝神(ふしょうがみ)の石が立っている。その辻の南側に私部保育園がある。ここは元は池であった。「さくさぐち池」と言っていた。
ここには昔、私部城を守る屯所が置かれていたという。「さいが辻」であるから私部から外部への出入口になる。南に北川があり、さいが辻の入り口に池を造って防御とした。この屯所の主人が阪長〈さかおさ)という人であったという。「さかおさ」が守る屯所であるので「さかおさ口」となり、それが「さくさロ」になったと言われている。 |
南後
(なんご) |
寺から流れ出る北川から交野小学校のグランド辺りを中心にした東西に細長い地域である。「南後」と書いているが「南郷(なんごう)」ではないか。私部からの出郷があったものと考えられる。北川沿いの自然堤防上に数戸の家が出てきて、その付近を開墾していったものであろう。
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上河原
(かみがわら) |
奈良県の高山、傍示を通ってきた道(郡南街道〉が交野山の南の背を降りてくる。この道の降りた所からJR片町線を越えて、私部の墓地、大池辺りまでが「上河原」と呼ばれている。この谷から前面、ちょうど上河原の辺りが扇状地性の地形になっている。JR片町線まではほとんどがぶどう畑で占めらている。土地は山から運ばれてたい積した花こう岩の土砂である。水はけは非常に良い。
この上河原に江戸時代の前期まで私部の集落があった。津田、倉治、寺、森と同じように山のふもとに沿った所であった。しかし、この谷は大雨があると谷川が崩壊した土砂を多量に下流に流し出してしまう。特に元禄4年(1694)の大雨による土砂流出によって上河原にあった集落を押しつぶしてしまったので、それ以後、現在の地に移転したと言われている。地形の形状からは、まるで河原そっくりだということで、私部の上にあるので「上河原」と付けられた。 |

3/20 歴史ウォーク 郡南街道を登り 史跡・鳥居谷で記念撮影



(住吉神社社誌より)
神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと思われる。
ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。
また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。
1年も持たなかった「万延」事件続きで改元7連発!
明治天皇の父・孝明天皇の治世は、1846年(弘化3年)から1866年(慶応2年)の、21年に及ぶ。さまざまな事件が発生したせいか、この治世は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と年号が次々変わった。
特に安政期には、桜田門外の変や悪疫の流行など暗い事件が多かったので、安政7年(1860年)3月18日、「万年も繁栄が続きますように」との祈りを込めて万延元年と改元した。
ところが、実際は凶作、物価騰貴などで人心が動揺。翌年2月20日に早くも文久元年と変えられている。
万年どころか、1年も続かなかった「万延」であった。
(参考)「桜田門外の変」は1860年(安政7年)3月3日に起こった。
その後、すぐ元号が「万延」になることに。
つ
食 く
ら ね
っ 飯
大 て
鳥 運
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私部住吉神社の石の大鳥居は大風で倒れ、万延元年(1860年)に再建された交野一の大鳥居です。 私部口山から切り出し、つくね飯(にぎりめし)を腹一杯食べ、音頭をとりながら二、三百人で運んだと記録されています。
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私部住吉神社の大鳥居
万延元年(1860)に
再建された |
私部口山の鳥居谷から原材を 私部口山の鳥居谷から原材を修羅に載せ、
北川の川床を村中の人が引っ張ってお宮まで運んだ
(鳥居谷から住吉神社までの地図)

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