2001年1月2日、午前10時私部の住吉神社に集合。まず本殿で初詣を済ませた。境内には焚火がたかれ、時々竹が割れる大きな音が響く中、次々と参拝客が訪れていた。
本日の出発地点、【交野郷土史カルタの (つ)・・・つくね飯 食らって運ぶ 大鳥居】の住吉神社で、講師の井戸先生より、交野の起こり、住吉神社のことについて詳しくご説明を受ける。
住吉神社の大鳥居は、万延元年(1860)に大勢の村人達の力で再建された。大きな岩を運ぶための修羅が作られ、鳥居を建てる為に境内の現在、池になっている所を堀り、土を盛って造ったという。当時の人々のすごい力と知恵に驚く。
神社を出て、馬場浦を東へ私部保育園の西側の台地へ行くと、標高32.1mの交野市の測量三角点に案内された。今はただ草が生えハッキリしないが、地図にはきっちりと書かれていた。
才の辻からぐるりと回って、住吉神社の南へ出て北川を渡り向井田の住宅街へと進む。住宅地の一部が第二京阪国道の建設用地として取り壊され無残な空き地となっている。最近、市内でもあちこちで道路の建設用地として買収され、フェンスに囲まれた土地を目にするようになった。
南川を渡り、交野第1中学校前を南にしばらく行き、細い路地を東へ進むと見晴らしのいい素晴らしい「官田」へと出る。見渡す限り一面が田んぼである。交野山がマンションの間に見える。ここは、早朝無数の野鳥の楽園となるらしい。いつまでもこのままであって欲しいと願うが如何に。
私市から落合橋までのまっすぐに延びた私市道に出て北へしばらく進むと、「大門」である。私部の豪族・北田久左衛門慰好忠が大和郡山の城主・筒井順慶と戦った場所だといい、出城の館があった。
落合橋を過ぎ、バス道に出たこの付近を「蜻蛉」と言ったそうだが、今は殆ど面影がない。新設の駐車場の名前が蜻蛉モータープールとなっているのを発見。こんなところに昔の名前が生きていた。
青年の家の前で、昼食。武道館前で、交野市出身の古市貞秀さんが新十両に昇進し、四股名を「小緑」として初場所から頑張ると紹介をうける。ご当地では久々の関取の誕生である。こぞって応援したいものだ。
午後は、砂子坂の交差点を渡り、逢合橋に出る。ここは、七夕の夕べ機物神社の織姫・彦星のロマンの橋である。天野川に沿って北へ行き、ソウレン道を西にとると、突き当たりに私部西墓地がある。先祖代々の永代墓が並んでいる。
東高野街道(交野市と枚方市の境)を南へ上ノ山へと行く。ここで、東高野街道と山根街道の合流して、星田へ伸びている。この辻に、上山地蔵と大峰山への大きい石の道標がある。この道を、織田信長が、また秀吉も歩いたという。
山根街道をたどり、再び砂子坂交差点を渡り、スーパー「サティー」の北の道(丁通り)を東へと進み、出屋敷へ出る。細い路地をでると、交野郵便局の南に出た。東へ進むと私部城址。兵どもの夢の跡、今は天守、本丸の台地と切通を残すのみである。竹薮の奥に板碑地蔵が大切に祀られていた。
そのあと、光通寺、無量光寺、札辻を通り、北田家代官屋敷を回り、午後3:30解散。
歩いたことのない町の路地で、何気なく見つける歴史ロマンに限りなく拍手。
井戸先生有難うございました。皆さんお疲れ様でした。
交野、私部の地名の起こり
大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある。古墳時代の前期(290年〜450年)頃、肩野物部(かたのもののべ)氏(=交野の地名の起源か)の祖先伊香色雄命(いかしおのみこと)=(饒速日命の5代目)が、天野川流域に住みつき農耕文化を広め、村々の宮は饒速日命を祀っていた。
しかし、その後、肩野物部氏が没落し平安朝時代になり、 山城京都の宮廷人が遊猟のためこの地方に来ることが多くなった。当時の宮廷人が和歌の上達を祈った住吉四神が海神であったことから、航海の神、住吉明神を祭る神社となった。
物部守屋(もののべのもりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に対抗する為、自分の所領で重要な土地であった交野の沃野を敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきひめ)後の推古天皇に献上した。
この時以来、交野の地は皇后のための皇室領となり、交野の村々は皇后の部民=私部(きさいちべ)として組織された。
「日本書紀」に私部(きさいちべ)と記されている。これは后(きさき)のためにいろいろ関係した仕事をする役所・これを私府(きさいふ)といい、その任に当たる人を私官(きさいかん)といった。
后(きさき)のために農耕をしたり、あるいは身の回りの世話をする人々を総称して私部(きさいべ)といい、いわゆる部民(べのたみ)である。
地名
☆向井田(むかいだ)
私部の南側(北川と南川に挟まれた地域)の低くなっている水田地帯で、寺村との境界になっていた。
向井田は馬場浦の出城的な場所の後背地であったことから、非常に大事な場所であった。いつとはなしに私部の人々は、「むかいの田」というようになった。
☆官田(かんでん) 官田は律令体制下での天皇の供御(くご)田をいうのであって、宮内省管轄下の直営田で、大和・摂津・河内・山城に合計100町歩あった。
供御とは貴人の食事を言うが、特に天皇の食事を指して言う言葉である。
☆上ノ山(うえんやま)
東高野街道が郡津の茶屋を通って天野川を渡る。それから堤防沿いに来て私部で茄子作との境を通って、西ノ口から来た道(山根街道)と合流する所。
☆札辻(ふだのつじ)
城の南側に当たる。
想善寺、光通寺、無量光寺と私部のすべてのお寺が集まっている地域である。
東の市場からの道、西の出屋敷からの道が合流して代官屋敷のある北田家の方へ抜ける道もここに来る。
三つの寺に集まる人々や市場の方に買い物に集まる人々と村人が一点に集まるのであるから、高札場としてうってつけである。
☆市場(いちば)
無量光寺に集まる人々に対する門前町としての性格を持ち、また他村からの買い物客を吸収する商業的色彩も色濃く持っていたようである。札辻や市場においては防御的性格を持ったT字路や遠見遮断の道もあって城下町としての性格も持ち合わせている。
☆馬場浦(ばばうら)
住吉神社周辺を言う。昔、安見家が交野に館・城を構えていた頃、この地が馬の訓練場となり、厩舎があり兵隊の駐屯所などもあったと思われる。ちょうど札辻、市場の集落の外側にあたり、防御用の出城のような役割を果たしていた。
☆蜻蛉(とんぼ)
珍しい地名である。大昔、トンボは「秋の霊」として人々に崇められていた。そのため「アキツ(秋津)」と呼ばれていた。また、アキツをトンボの意味のほかに、大和を指す言葉とされている。
交野の中でもとりわけ私部の地は、敏達天皇の皇后、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の皇后領となり、ここで収穫された米が飛鳥に送られ皇后に差し出されたことから、大和とも密接な関係にあった。ここ蜻蛉の地は、米作地であり、飛鳥の地形に良く似ていたところから大和にちなんで付けられたのであろう。
☆長砂(なごさ)
「ながいすなち」が縮まって「なごさ」になった。
西崎、出屋敷の台地の崖下から京阪電車をはさんで天野川までの低地をいう。天野川、免除川の氾濫原で私部でも一番の低湿地帯である。
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