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交野歴史健康ウォーク 178回
「私部城跡」を見守ろう
私部城〜光通寺〜無量光寺〜想善寺



案内人:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)

 日時 : 2018年10月13日(土) 午前9時 京阪・交野市駅西口ロータリー前集合
       参加者28名(会員22名)

 行程 : 私部城跡〜光通寺〜無量光寺〜想善寺
  11時10分頃解散
 2018年10/13(土)、天候 晴。京阪・交野市駅西口ロータリ前に午前9時集合。
 立花会長の挨拶で始まり、本日の案内人・高尾部長よりウォークの行程など説明があり、早速私部城跡へと出発。
 私部城跡〜光通寺〜無量光寺〜想善寺
まで城跡や関連寺社について、沢山の写真や資料を用意していただきゆっくりとお話し頂き、色々な歴史があることがお分かり頂けたことと思います。
 また、長年、私部城跡の遺跡保存にご協力いただいています地元の皆様のご協力とご厚意により、本郭まで案内して頂きました。心より感謝申し上げます。

 このたび、10月1日付、私部城跡が新しく交野市の市指定文化財とし指定されました。6日(土)には、私部城跡周辺を歩く現地説明会が行われました。
 来月11月17日(土)、私部城跡・市指定文化財記念講演会が、交野市役所別館3階中会議室で、13:30〜16:30まで開催されます。併せて、同日11:00〜13:00まで、「私部城跡現地説明会と別館前でテント市(交野ブランド)が開催予定です。

 関連行事として、「私部城跡とその周辺ー市指定文化財記念ー」展が
 2018年11月21日(水)〜2019年年2月3日(日)10:00〜17:00
 交野市立教育文化会館(歴史民俗資料展示室)にて開催されます。
 

 交野市教育委員会 主催「講演会」「現地説明会」「文化財記念展」にご期待ください。


  ※高尾さんより当日に頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。
  記して感謝申し上げます。

当日のウォークマップ


私部城跡二郭にて記念撮影

特報! 2018年10月1日、
私部城跡が新しく交野市の指定文化財になりました!
 このたび、新規市指定文化財に伴い、現地説明会及び記念講演会が開催されます!
 私部城跡 新規市指定文化財の概要説明資料(PDF)
 
 新規市指定文化財の概要説明資料

名 称  私部城跡(きさべじょうあと)

所在地 交野市私部6丁目1717 番,1720 番1,1721 番,1723 番,1724 番,1738 番
所有者 交野市私部1丁目1番1号   交野市土地開発公社
面 積 2,420 u
年 代 戦国時代

○市史跡「私部城跡」の概要

 私部城は別名「交野城」とも呼ばれる平城で、標高は22〜28mに位置している。遺跡の規模は東西約400m、南北約300mである。
 城は、本郭および二郭のほか、三郭、四郭、出郭、その他曲輪で構成される連郭式の平城である。城の北側には百々川が流れ、南側は本丸池などの池が残り、堀として利用していたと考えられる。江戸時代に入ると、城の南側には家が建ち並び一部は郭内にも建築され、現在では郭部分は主に畑地、堀部分は水田として利用される。

○歴史的価値を構成する要素

 【文献史料的視点】

 『寛政重修諸家譜』は、織田信長の家臣の佐久間信盛の娘が私部城主の安見右近に嫁いだと記す。この婚姻により右近は織田家と深く結びつき、石山合戦期に河内に進出してきた時の信長の拠点となる。『原本信長記』によれば元亀元年(1570)十月二十日のこととして、右近は東大阪市の若江城の三好義継、羽曳野市の高屋城の畠山秋高ら中・南河内にいた河内守護と並ぶ存在であったと伝える。
 しかし『二條宴乗記』は元亀二年(1571)五月十一日に松永久秀は右近を奈良市内で切腹させ、翌日私部城を攻めたと記す。
 『原本信長記』には翌年の元亀三年(1572)四月のこととして、再び久秀が私部城を攻め、信長は右近の義父の信盛をはじめ柴田勝家ら数万の兵で私部城救援に向かわせ、「しし垣」による包囲戦を用いるなどして松永軍を撃退したとする。
 右近の死後は信盛の娘が安見家中を統括したため、私部城を「後家が城」とも呼んでいたことが、「河内国正保郷帳」の写しである天保三年(1832)の「河内国一国村高扣帳」などの史料からわかる。
 寛文四年(1664)の光通寺の棟札や無量光寺の梵鐘には私部城主の安見右近が寺を破壊したと刻まれ、また国重要文化財の北田家住宅には同家が安見右近の家臣であったとする系図を所蔵するなど、戦国・江戸時代の私部城の様子を伝える史料に加えて、今も周辺には城に関する記録が残っている。

【考古学的視点】

 申請地の一つである本郭の上からみた形は、南北方向を軸とする一辺約60mの正方形である。築城は起伏のあった自然地形に盛土を行い造成している。
 発掘調査の結果、本郭からは多量の瓦が出土し、瓦葺き建物が存在したと考えられる。本郭南端には二郭・三郭と連結するため自然地形を平坦に削り出し、通路を造成している。このほか、弥生時代中期の石器を製作していた竪穴住居2棟が確認され、交野市の弥生時代史を考える上でも重要な遺構が地下に保存されている。
 もう一つの申請地である二郭の上からみた形は、南北約110m、東西約50mの長方形である。二郭は北側部と南側部は東西に走る道路によって分断されている。
 発掘調査の結果、高さ1m以上の盛土痕跡もあり、本郭同様に自然地形を利用しつつ土木工事を施して築城している。郭の上面からは井戸や土坑などの遺構のほか、周囲に瓦が散布している柱穴群も確認されている。二郭南端には本郭同様に平坦面が続き、本郭と繋がる。
 以上のように、戦国時代の瓦葺き建物のほか、交野市では検出例が稀な弥生時代中期の竪穴住居など、重要な遺構が地下に良好に保存されている。

○史跡の価値
 私部城は織田信長の河内進出の拠点となった城で、城主の安見右近は当時の河内守護と並ぶ実力者であったことや、右近死後の城を巡る戦いを史料が詳しく伝えて
いる。また安土城に先行して瓦を採用する数少ない城の一つであったことなど、同城がもつ歴史的価値は高いといえる。

 
 
 
 10月6日、新規指定史跡記念
私部城跡見学会が開催されました!
交野市観光協会会長のブログを参照ください!
10月6日の現地説明会の様子が詳しく紹介されています!
 
 
 
 
 
11月17日、 私部城跡 市指定文化財
記念講演会と現地説明会のご案内!
 
 

 10月13日 歴史健康ウォークのレジメ
「私部城跡を見守ろう」
私部城跡〜光通寺〜無量光寺〜想善寺 講師:高尾秀司氏
 私部城跡
 
私部城跡
 私部城跡の一部が
  交野市の指定文化財に


 平成30年10月1日付け、産経新聞掲載。交野市教育委員会では1日付で、戦国時代の平城、私部城跡(交野市私部六丁目)の一部を市文化財に指定。指定するのは、城跡の本郭の一部(本丸にあたる)と二郭(二の丸にあたる)2420平方メートルの遺構。土でつくられ、本郭と二郭が連なる連郭に築かれた平城の特徴が分かるという。
 私部城は戦国時代に築かれた東西400m南北300mの平城で別名「交野城」とよばれた。戦国武将の織田信長が石山合戦の際に拠点にしたとされる。
 発掘調査では、本郭部分から多くの瓦が出土しており、当時としては珍しい瓦葺きの建物が存在したとみられるという。
 市教委の担当者は「府内の平城では、開発により残つていないケースが多いが、土でつくられた遺構がはつきりと分かる重要な例」としている。
   私部城の歴史

私部城は何時頃出来たか?

1568年{永禄11}織田配下となつた安見右近により完成したとみられる

1571年{元亀2}安見右近が奈良多聞城で切腹においこまれる。直後に私部城を攻める。城主不在の危機を乗り越える

1572年{元亀3}4月松永久秀が再び私部城を攻める。この時は織田方の柴田勝家、佐久間信盛等の援軍により撃退

1578年 (天正6)安見新七郎所で信長が休息する

1581年 (天正9)信長の馬揃えに取次者である安見新七郎が召集される。以後消息。
光通寺
   光通寺棟札

 光通寺は室町時代から朝廷との深いつながりを持つていましたが、戦国時代になって私部城の敷地に取り込まれ、城の外側に突出して築かれる出郭として利用されたとかんがえられています。
 恐らく、この出郭が築かれる時の出来事を指すと考えられる記事が光通寺の寛文4年〔1664〕の棟札に登場します。

 「信長配下の安見右近」は義も道もなく法をそこない、光通寺の壁を破り仏閣を地におとした。
 破壊を受けた光通寺ですが右近の死から4年後、朝廷女官の記した日記に、例年どうりの茶の記事が見えます。
光通寺
 宗派 臨済宗 本尊 聖観音菩薩立像 ヒノキ材 像高71,5cm
 鎌倉時代の作 創建は室町時代の始め頃 京都東福寺末

 開祖は「交野郷土史かるた」にあるように別峰和尚で後村上天皇に寵愛された方です。後村上天皇の勅願寺という説もあります。実際には別峰和尚はこの寺に来て暫くして亡くなられたようで、開創者は赤松氏といわれている。室町時代から戦国時代にかけて朝廷にお茶を献ずるなど力を持った寺であったようです。又この寺の石垣のなかに「石垣地蔵」とよばれる2体の石仏がみられます。石仏はかなり風化していて分かりづらいのですが、光線の具合で浮き上がって見えることがあるそうです。
 この寺は戦国期に到って私部城の敷地に取り込まれ、城の外側に突き出して築かれる出郭として利用されたと考えられています。この頃の出来事を指すと考えられる記述が、光通寺の寛文四年(1664)の棟札に登場します。
 すなわち、「信長配下の安見右近は、義も道もなく法をそこない、光通寺の壁を破り仏閣を地に堕とした。」そして右近が自刃に追い込まれたことにつき、「罰が下った、後世の人の戒めとなる」などと強い調子で非難しています。破壊を受けた光通寺ですが、右近の死から4年後、朝廷女官の記した日記に。例年通り朝廷へのお茶の献上の記事が見られることから、勅願寺としての位置は保たれていたと考えられます。朝廷との深いつながりをもつ光通寺にとって、私部城の敷地への接収は、右近による寺の破壊の記億として近世にいたってもなお忘却されず、これを棟札に書き残す事で,後世への思いをつたえています。(棟札の項、交野市教育委員会の記述)(注 勅願寺とは天皇の命令で建てた寺)

 無量光寺
   無量光寺の梵鐘

 無量光寺には享保15年(1730)の梵鐘があり、ここに寺の初め頃から以後2百数十年もの歴史がきざまれています。
 そのなかに,天正年間の信長の本願寺攻めの記載があります。「無量光寺、覚心はこの戦いの防禦に貢献し、結果和解となったが、当時私部に城を築き信長に属して戦っていた右近はこの覚心の所為を怒つて殺そうとした。これを人づてに知つた覚心は20年余り逃亡した。

この梵鐘は戦中の供出を免れ現存している。
無量光寺
 宗派は浄土真宗西本願寺 本尊は阿弥陀如来立像 平安時代末頃の作、木造で像高90cm余。
かつては住吉神社の西方に天台宗の尼寺として建立される。しかし嘉吉の乱(嘉吉元年「1441」播磨の領主、赤松満祐(みつすけ)が六代将軍足利義教(よしのり)を殺すという事件をいう)この時この寺に立ち寄った赤松軍を追った足利軍に焼かれたと云われる。明応3年(1494)足利に仕えた星野親忠はその晩年を私部で過ごす為この無量光寺の旧跡を再興し仏門に入った。そして子能末は父の後を継いで僧となり了道と号した。この頃本願寺中興の祖といわれる蓮如がこの地に布教に来られ、当時の僧、了道は教えを受けて、浄土真宗に転じた。
 戦国時代、信長の石山本願寺攻め〔1570〜1580〕の時住職の三世覚心は本願寺に味方し、信長方にいた私部城の安見右近と戦った為、寺は焼かれ覚心は追われ20年余り帰れなかったといわれる、私部にやっと帰った覚心は現在の地に土地を求め寺の再建にのりだしたが完成したのはそれから170年余後であったといわれる。 {出展 交野市教育委員会、執筆片山長三氏} 

想善寺

想善寺
 宗派は西山浄土宗 本尊 阿弥陀如来坐像 ヒノキの寄木作り 江戸時代の作

 天正年間(1573〜1591)、惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始まりといわれ、後にそれを想善寺と称した。その後寛政2年(1790)遍空上人時代、当地の領主畠山義紀公が大壇越(スポンサー)となり寛政5年秋に現在の伽藍に再建された。本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置し、その左右に仏高12cmの千体仏を祀っている。当地方では、子授け、安産の帯受け及び子供守りの地蔵として参詣する人が多い。
 昭和44年の大雨で本堂の一部が崩れ落ちるという事件があった。多くの人の尽力で再建は出来たが、この時はからずも、天上裏から位牌と古文書が出てきた。この古文書はもと私部上河原にあった光蓮寺のものであったことが分かりました。
 同時にこの寺は元禄時代より古い貞享年間(1684〜1685)には上河原にあったことが明らかになりました。この文書はその後私部住吉神社の神宮寺、現光寺に移り、明治の神仏分離で想善寺に移ってきたと考えられます。 (交野市教育委員会編、交野の神社と寺院より) 
 
 駅前で集合後、私部城跡へ
 私部城跡を探訪
 
私部城跡

 私部城は別名「交野城」とも呼ばれる平城で、標高は22〜28mに位置している。遺跡の規模は東西約400m、南北約300mである。
 城は、本郭および二郭のほか、三郭、四郭、出郭、その他曲輪で構成される連郭式の平城である。城の北側には百々川が流れ、南側は本丸池などの池が残り、堀として利用していたと考えられる。江戸時代に入ると、城の南側には家が建ち並び一部は郭内にも建築され、現在では郭部分は主に畑地、堀部分は水田として利用される。


 本郭の上からみた形は、南北方向を軸とする一辺約60mの正方形である。築城は起伏のあった自然地形に盛土を行い造成している。
 発掘調査の結果、本郭からは多量の瓦が出土し、瓦葺き建物が存在したと考えられる。本郭南端には二郭・三郭と連結するため自然地形を平坦に削り出し、通路を造成している。このほか、弥生時代中期の石器を製作していた竪穴住居2棟が確認され、交野市の弥生時代史を考える上でも重要な遺構が地下に保存されている。

 二郭の上からみた形は、南北約110m、東西約50mの長方形である。二郭は北側部と南側部は東西に走る道路によって分断されている。
 発掘調査の結果、高さ1m以上の盛土痕跡もあり、本郭同様に自然地形を利用しつつ土木工事を施して築城している。郭の上面からは井戸や土坑などの遺構のほか、周囲に瓦が散布している柱穴群も確認されている。二郭南端には本郭同様に平坦面が続き、本郭と繋がる。
 以上のように、戦国時代の瓦葺き建物のほか、交野市では検出例が稀な弥生時代中期の竪穴住居など、重要な遺構が地下に良好に保存されている。

 
また、三郭といわれる東側で2200年も前に稲作が行われていたとみられる、石包丁が出土しております。 
 
右の台地が本郭  東方に交野山が望まれます
本郭の上からみた形は、南北方向を軸とする一辺約60mの正方形である。
築城は起伏のあった自然地形に盛土を行い造成している。
 
 
 
右の台地が二郭、左側の台地が本郭 中央に切通
 私部城・二郭
 二郭の上からみた形は、南北約110m、東西約50mの長方形である。二郭は北側部と南側部は東西に走る道路によって分断されている。
 発掘調査の結果、高さ1m以上の盛土痕跡もあり、本郭同様に自然地形を利用しつつ土木工事を施して築城している。郭の上面からは井戸や土坑などの遺構のほか、周囲に瓦が散布している柱穴群も確認されている。二郭南端には本郭同様に平坦面が続き、本郭と繋がる。
 
 
 
 
 
 私部城・堀跡
 
 
 
 
本丸池跡
 
 私部城・本郭
 本郭の上からみた形は、南北方向を軸とする一辺約60mの正方形である。築城は起伏のあった自然地形に盛土を行い造成している。
 発掘調査の結果、本郭からは多量の瓦が出土し、瓦葺き建物が存在したと考えられる。本郭南端には二郭・三郭と連結するため自然地形を平坦に削り出し、通路を造成している。
 このほか、弥生時代中期の石器を製作していた竪穴住居2棟が確認され、交野市の弥生時代史を考える上でも重要な遺構が地下に保存されている。
 
 
 
 

本郭内で弥生時代中期の石器を製作していた竪穴住居2棟が確認され、
交野市の弥生時代史を考える上でも重要な遺構が地下に保存されている。
 
 
 
 
 

交野かるたにも描かれている石仏
 

三郭といわれる東側で2200年も前に稲作が行われていた
とみられる石包丁が出土しております。

稲作のはじまり
 いきいきランド交野から京阪交野線付近までに広がる私部南遺跡から、弥生時代の水田が発見されました。
 この水田は、水路も引かれるなど水田としてきちんと整備されていて、縄文時代の稲作のものとは違うものです。
 私部南遺跡からは、第二京阪道路建設時の調査で、弥生時代前期の住居も発見されました。交野に稲作など、弥生時代の文化の波が、早い時期から伝わっていたことが分かります。
 また、市役所別館の北に、私部城跡という中世の城跡があります。この城跡の下から、弥生時代中期の土器や、稲の収穫に使う石包丁などの石器が見つかっています。このあたりにも弥生時代の水田や集落があったのでしょう。

石包丁(私部城跡)
 
私部城跡の想像図(交野古文化同好会員)
 
 
 
 
 
 
 
 江戸時代前期に書かれた「室町殿日記」によると、私部城の様子が次のように記されている。

 さて、要害(私部城)の様子を尋ねられて、「平城だが、小山のように突き上げてその上に立っていて、北は高津野(郡津)という露深い沼で、馬の足が立ち難く、南は大手口で平地に続いているといっても、大手の矢倉に鉄砲を2〜30挺(備え)たならば、なかなか攻めることが出来ない。外堀は4〜50間もあり、深さは水の量がなみなみとあって埋めることが出来ない。内堀も同様に多くの水量があるように見えます」と申し上げました。
 
 私部城を巡る実力者 〜安見一族〜
 
 
 私部城から関連するお寺巡りへ
足痛地蔵
 光通寺の西隣の梶さん宅の入り口に西を向いた丸彫りの足痛地蔵さん。
このお地蔵さんは足痛を治してくださるという。

光通寺
光通寺 宗派は臨済宗 本尊 聖観音菩薩立像 ヒノキ材 鎌倉時代に作られたものです。

 このお寺は室町時代のはじめに創建され、京都東福寺の末寺となっている。開祖は「交野郷土史かるた」にあるように別峰和尚で後村上天皇に寵愛された方です。
 室町時代の終わりから戦国時代には朝廷にお茶を献ずるなど極めて力をもった寺でありました。

 またこの寺の石垣の中には「石垣地蔵」と呼ばれる2体の石仏がみられます。石仏はかなり風化していて、わかりづらいのですが、光線の具合で浮き上がることがあります。

 また寛文4年(1664)の年号が入った棟札が残っており、それによりますと信長の時代に家臣の安見右近太夫は仁義や道理もわきまえず、仏法を無視し、ついにこの光通寺を倒しました。仏閣はとうとう無くなり、桃や李の美しい人里は一変して荒原となってしまいました。然し後この安見の首領は敵陣で首を切りおとされ、のちの人達はお互いに戒めあったといいます。
 
 光通寺棟札

 光通寺は、室町時代から勅願寺として朝廷との深いつながりを持っていましたが、戦国期に至って私部城の敷地に取り込まれ、城の外側に突き出して築かれた出郭として利用されたと考えられています。おそらく、この出郭が築かれるときの出来事を指すと考えられる記述が、光通寺の寛文4年(1664)の棟札に登場します。
 すなわち、「信長配下の安見右近は、義も道もなく法をそこない、光通寺の壁を破り仏閣を地に堕とした。」
 そして、右近が自刃に追い込まれたことにつき、
 「罰が下った、後世の人の戒めとなる」などと強い調子で非難しています。

 破壊を受けた光通寺ですが、右近の死から4年後、朝廷女官の記した日記に、例年通り朝廷へのお茶の献上の記事が見られることから、勅願寺としての位置は保たれていたと考えられます。朝廷との深いつながりをもつ光通寺にとって、私部城の敷地への接収は、右近による寺の破壊の記憶として近世に至ってもなお忘却されず、これを棟札に書き残すことで、後世への思いを伝えています。
 
 
 
朝廷とのつながりを示す菊の御紋の瓦
 光通寺本堂の屋根瓦の西南の鬼瓦に、私部瓦師の銘が彫られていることを、
住職様よりご教示いただきました。
 光通寺の瓦 私部の瓦について
 河内国交野郡私部村(現交野市私部)は瓦作りの里でした。交野には地元に伝わる、わらべ歌に「げんべの窯たき いつでける あいさ(明日)の朝まで まってんかまってんか」の一節があります。交野の土は質が良いと古くからいわれていましたが、日本の瓦史にその名前は伝えられていませんでした。
 私部瓦が語られるようになったのは、昭和50年代に入ってからだそうです。小田原城の落下した瓦に「文政四辛巳歳、河州交野郡私部村瓦師甚左エ門八兵衛 源兵衛」の刻印がありました。それは江戸時代の1821年に、城を修復したときの瓦でした。昔は瓦の運搬が大変だったため、近くから調達するのが習わしでした。鉄輪をはめた大八車では運搬の途中で大半が破損するため、人が一列に並んで瓦を手渡す「天狗おくり」という方法で運搬していたそうです。河内国交野郡から小田原まで運ばれていた事実は、瓦運搬の習わしを覆すニュースとなりました。
 また京都の西本願寺の瓦ふき替えの際にも「享和二年戌冬 紀州鷺森御坊講中 河州無量光寺門徒中 私部村 瓦師 井戸忠右衛門」と記銘された瓦が見つかりました。交野にある無量光寺の門徒衆が寄進した瓦といいます。
 同じ「瓦師 丼戸忠右衛門」の刻印入りの鬼瓦は、交野市の光通寺の本堂にあります。地元では光通寺のほか、明遍寺・代官屋敷の北田邸などにも私部瓦が使われています。光通寺山門の瓦は、天皇家の紋章、菊花の紋入りです。また同寺には後村上天皇と後土御門天皇の尊霊が祭られるほか、後陽成天皇の女官からの「女房奉書」1通などが保管され、朝廷との結び付きがあるお寺ということが分かります。
 明遍寺山門の留ぶた瓦には「享和元酉私部…」と署名があり、ほかの瓦に「私瓦八」の刻印があるので「私部村八兵衛」作ではないかといわれています。
 交野市社会教育課文化財係の吉田知史さんは「江戸・明治時代に、私部で瓦業が盛んになり、大正から昭和初期ころまで瓦生産を行つていたとされる。現在は交野市内において窯や瓦屋は無くなったが、市内の古い民家には現在も『私部瓦』が残っている」と話しています。 
        <JA北河内V.189号  きたかわちの「ツボ」を参照させて頂きました。>
     
        
「こばか地蔵」 


石垣を上がったところの本堂の東側に、「こばか地蔵」が沢山祀られています。
昭和4年、信貴生駒電鉄(今の京阪電鉄交野線)の工事中、
交野駅の南踏切付近、「こばか」から出土したものが主に集められている。

 
 光通寺開祖「別峯和尚」のお墓にお参り

伝説
 「おとなしのどんどん」
  集慶殿(古い光通寺)の開祖別峰和尚が伊勢皇太神宮の神官と談義中、そばの小川の流れ落ちる水音がやかましいので、和尚が「やかましい」と言われた。すると、うるさく音をたてていた堰(どんどん)が静かになったという。
 「ならずの柿」
  別峰和尚がお話中、境内の熟れた柿の実が「ぽつん、ぽつん」と音を立てて落ちるので、「やかましい」と大声で叫ばれた。それ以来、この柿の木には実がならなかったという。
 
 石垣地蔵
 
  光通寺の石垣は最近整備されたが、山門への上がり口と庫裏への上がり口との間の石垣の中央に、2つの石仏がおられる。これが「石垣地蔵」である。東側の石仏は、お薬師様、西側で一段低いところの石仏は、阿弥陀様。いずれも見つかりにくいが、朝方の太陽を受ける頃西側から眺めると、投影が素晴らしいと言う。
 
 
無量光寺
 無量光寺 
 浄土真宗西本願寺派・本尊は阿弥陀如来立像で室町時代の木造で像高90cm余り。
 かつては、住吉神社の西の方に天台宗の尼寺として建立されました。しかし嘉吉の乱(嘉吉元年「1441年」播磨の領主赤松満祐が六代足利将軍義教を殺すという事件)の時播磨に逃げ帰る赤松軍が逃げ込んだので足利軍に焼かれたともいわれる。この頃本願寺中興の祖といわれる蓮如がこの地に布教に来られ、当時の僧了道は教えを受けて浄土真宗に転じた。
 戦国時代、信長の石山本願寺攻めの時(1570〜1580)、住職の三世覚心は本願寺に味方し、信長方にいた私部城の安見氏と戦ったため、寺は焼かれたとつたえられています。そのため安見氏より捕縛命が出され、20年程寺に帰れなかったともいわれます。享保15年(1730)ようやく再建できたという。また幕末の戊辰戦争の時、敗れた幕府軍がここで救護をしてもらったとも云われております。
 無量光寺梵鐘
 無量光寺(浄土真宗)には、享保15年(1730)鋳造の梵鐘があります。ここに寺の初め頃から以後200数十年もの歴史が刻まれています。
 その中に、天正年間の信長の本願寺攻めの記載があります。
 「無量光寺住職 覚心はこの戦いの防御に貢献し、結果講和となったが、当時私部に城を築き信長に属して戦っていた安見右近は、この覚心の所為を怒って殺そうとした。これを人づてに知った覚心は20余年逃亡した」
 とのことで、その後寺に帰した覚心は、苦心して現在の地に寺を再建したと伝えています。
 ちなみにこの梵鐘は、その文化的価値が認められたようで、アジア・太平洋戦争期の金属供出を免れた、交野では稀有な例として知られています。
 
 
 無量光寺 本堂大棟獅子口
 
 この獅子口は、瓦の生産地であった当地私部で寛延4年(1751)に製作され、現在の無量寺本堂の建立以来250年以上も屋根を護っていました。屋根の棟仕舞は、6世紀後半に日本に瓦が伝来した当初、鴟尾(しび)にはじまり、桧皮葺などの建物に使うために獅子口が考案されました。その獅子口は、京都御所にある桧皮葺の重要な建物に使用され、獅子口のことを御所棟鬼板と別に称し、「紫宸口」と記すこともありました。
 無量光寺の屋根を護る獅子口は、経之巻、綾筋、巴紋をあしらった伝統的な意匠を順守しています。平成26年(2014)、無量光寺門徒の一大決心と多大なる尽力によって実現した本堂の修復工事(株式会社金剛組)において、従来の意匠を踏襲した新しい獅子口が本堂の屋根に飾られ、新たな歴史を刻んでいます。
                 平成27年3月    無量光寺
 獅子口・・・鬼瓦に相当するところに駒形をした箱型を据える。頂上に「経の巻」(円筒形の巴瓦)を3〜5本のせる。その下に山形の綾筋模様をつける。現在では瓦葺きの棟の仕舞として使われてるが、本来は桧皮葺きや柿葺き(こけらぶき)などの屋根の棟重(おも)しとして造られ、装飾を兼ねた瓦として使われていた。その後、桧皮葺きに限らず、鬼瓦と同じように瓦葺き屋根にも獅子口が使われるようになっていった。
 屋根の流れが重なり合う頂部において、雨水などの浸入を防ぎ、棟の端を隠すために造られる瓦には、鬼瓦などがありますが、浄土真宗の寺院の山内には、鬼はいませんので獅子口瓦になります。
 ※?葺き(こけらぶき)とは、木材の薄板を用いて施工する工法で板葺きのこと。
 獅子口瓦
 
無量光寺の獅子口瓦
 

西本願寺の獅子口瓦
 
指定樹木のイチョウの木
 
 
指定樹木のカイヅカの木
 
 
想善寺
想善寺 宗派は西山浄土宗
 本尊 阿弥陀如来坐像


 天正年間(1573〜1591)惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始りといわれ、後に想善寺と称した。その後寛政2年(1790)遍空上人時代当地の領主畠山義紀公が大檀越となり寛政5年(1793)秋に現在の伽藍ができました。

 本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置しその左右には佛高12cmの千体地蔵尊を祀っている。新しく生まれた子供の幸せと恵まれなかった水子の霊の安らぎを祈って建てられたのであろう。
 当地方では子授け、安産の帯受け、及び子供護りの地蔵として、参詣する人がおおい。
 昭和44年10月の大雨の時、想善寺の本堂大屋根の中央部が大音響とともに16平方メートルあまり崩れ落ちた。この時天井裏が崩壊、本尊後方天井裏には、現代人にも知られていない一室が設けられていたことがわかり、そこから多数の古位牌と一部の古文書が発見された。この位牌と古文書は、もと私部上河原にあった光蓮寺関係のものであった。
 この古文書によると、光蓮寺は元禄時代(1688〜1704)よりも古い貞享年間(1684〜1688)には、上河原(私部口山の谷の入り口、倉治共同墓地付近)にあり、吉田市兵衛が本尊を寄進したことが書かれている。その後山の出水により光蓮寺は、山砂の下に埋もれた。その後光蓮寺は、西河原へ移転したが住職がなかったようで、宮寺現光寺住職空禅が掛け持ちしていたが、寺を廃して宮寺現光寺に合併した。
 現光寺は、住吉神社の宮寺であったが、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、現在の住吉神社の社務所として現存している。
 想善寺の経の巻鬼瓦
  古くから交野は良質の粘土を産し、多くの瓦窯がありました。この瓦には「私瓦八」の銘があり、河州交野私部村 瓦師 大矢八兵衛(文政年間)の窯で焼かれたものです。鬼瓦を支える足の「雲水紋」のデザインは見事です。同銘の瓦は遠く小田原城でも発見されており、私部瓦として良質の粘土と共に、私部瓦師達の優れた造形力も高く評価されていました。
 
 
 
 私部村 瓦師  八兵衛の記銘
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