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交野歴史健康ウォーク  216回
「交野かるためぐりの
愉しみ方<私市編>」
河内森駅から若松神社まで

日時 : 2025年6月21日(土)午前9時 京阪・河内森駅前集合 
       参加者 20名(内会員18名)

 行程 : 京阪河内森駅〜 @石清水八幡宮三宅山荘園墾田遺跡碑〜
       廃千手寺〜C此付近亀山上皇駐蹕私市観音寺跡〜B石清水八幡宮
       三宅山荘園佃之跡碑〜西念寺〜A古代天野川地方条里区画遺跡碑〜
       どぼ池〜加賀田用水路〜大松の道標〜磐船街道〜大阪町並み百景〜
       年金街道〜私市仁左衛門宅跡〜若宮神社〜      
                  (10時30分頃解散) 約2km徒歩       

 案内人 : 村田 義朗氏 (交野古文化同好会)
 6/21(土)、天候晴れ。京阪・河内森駅前に集合、午前9時出発。

 巽 憲次郎新会長から「本日は異常気象による熱中症が心配されるので、皆さん、無理をされずに楽しく歩いてください。いつでも離脱OKです!」との挨拶があり、早速、村田さんの案内で「交野かるた巡り=私市編=のレジメと当日の行程に沿って、解説を聞きながら史跡をゆっくりと巡ってきました。
 当日は、元気な参加者は総勢20名(内会員18名)(内、遠く、京都からの来客1名)の皆さんでした。


 今回のウォークの行程は、当日、熱中症が心配されるので、急遽、予定していたコース、特に少し高地にある獅子窟寺入り口や松宝寺など、また、私市水辺プラザ、弘安地蔵は除外、解散時間もいつもより1時間30分も早く解散しました。

 参加された方々からは、「いつも歩いている足元に、注意を払えば知らないことが見えて来た、色々と勉強になり、大変有意義なウォークでした」、「私市の歴史がわかった。交野は江戸時代からの面影があちらこちらにあり、特に私市は興味深く楽しい。」と好評でした。

 また、記念誌特別号の「ふるさと交野を歩く」の冊子があれば欲しいと大変好評を頂きました。来年が古文化同好会の開設55周年記念に当たるので、印刷増販することとなりました。 

 ※当日の写真撮影は竹澤利直様にお願いしました。また、当日配布されましたレジメなど、平田政信様が作成された貴重な資料や交野市文化財事業団発行の資料などを快く提供を受けましたこと、誠に有難うございました。
  記して謝意を申し上げます。
 
若宮神社で記念撮影

6/21、歴史健康ウォークのご案内行程地図


@石清水八幡宮三宅山荘園墾田遺跡碑
A古代天野川地方条里区画一条通遺跡碑

B石清水八幡宮三宅山荘園佃之跡碑
C此付近亀山上皇駐蹕私市観音寺跡
 私市の道しるべ
A
  
@
 
C
 
B
  
6/21 私市ウォークのレジメ
 
 
 
 
 
 
 
参照:交野市文化財事業団発行の「私市村役人文書」
 
 

参照:交野市文化財事業団発行の「交野市歴史散策マップ(私市地区)」
当日の集合は、京阪河内森駅前
 
巽 憲次郎新会長の挨拶

延宝9年(1681)の私市村絵図について

 
京阪河内森駅より西側の道路沿いでの説明
 早速、最初の訪問地「廃千手寺」に向けて出発
 
廃千手寺
 河内森駅から西側へ自転車駐輪所を左手に見ながら坂をおりて、私市の集落に入っていくと、小さな三角公園があります。今は廃寺となってしまいましたが、ここに千手寺がありました。
 今はこの場所に、廃千手寺収蔵庫があり、市指定文化財の聖観音立像と如意輪観音坐像をはじめ、千手寺と私市の廃蓮華寺の仏像などが収蔵されています。
 土地に残る伝承では、鎌倉時代の後期に亀山上皇が病気になり、獅子窟寺の薬師如来坐像が霊験あらたかであることを熊野権現の霊告により聞きつけ、獅子窟寺に登るための仮の宿所としたのが千手寺の始まりと伝えられています。 
 
愛宕山献燈の石碑

如意輪観音坐像

聖観音立像
愛宕山の伏拝の石碑が立つ廃千手寺の境内に二尊仏がひっそりとまつられています。
 鎌倉時代、亀山上皇が獅子窟寺の薬師如来に病気の回復を祈願し、回復を喜んだ上皇が、滞在した場所に観音寺(現在の廃千手寺)や、この寺を管理するための田を寄進しました。現在、この地域にある「院田(いで)」という地名は、この名残と考えられています。
 廃蓮華寺や廃千手寺の仏像は、境内の収蔵庫に安置され、そのうち、聖観音立像と如意輪観音坐像は市指定文化財にも指定され、春に一般公開されています。
下記の写真は、2022年11月ウォークで撮影したもの
 佃通りの「石清水八幡宮三宅山荘園佃之跡」石標


 
 
4丁目の地蔵さん

西念寺から北へ100メートル、きれいなほこらの中に2対の阿弥陀さんがまつられています。
 向かって右側の石仏は、阿弥陀如来座像で、花崗岩の石を舟形に粗く加工されており、造立年代は室町時代後期頃と言われています。

 昔、道路沿いの小川の改修工事の時に出土した仏さんだそうで、いつも真新しい花が供えられている手入れが行き届いた石仏さんです。

 
 
西念寺の墾田地蔵
山号は磐川山、浄土真宗西本願寺末寺、本尊は阿弥陀仏。嘉永元年(1624)、無量光寺4世知了が私市村門徒のために開いた草庵。享保4年(1719)に西念寺と称した。
 
 
墾田地蔵
 交野の子どもの歌に、「さいたかさいたか西念寺 ういたかういたか雲林寺 松のたからは松宝寺」と歌われている西念寺は、天田神社鳥居前から続く天野川条里制の一条通より北の小川沿いに建っています。
 門を入った南側に墾田地蔵さんが、8体の阿弥陀さんと一緒に東を向いて立っています。住職の話では、もともとこの石仏は、寺の北側の小久保川を越した北の墾田筋に立っていましたが、「西念寺に行きたい行きたいと夢告げされたので、ここにおいでいただいた」ということです。造立年代は室町中期と言われています。
 ゆっくりとお地蔵さんの前で拝んでいると、いつの間にか悩みも消えて晴れ晴れとした気分になるようです。
つい最近、佃筋の地蔵さんがここに移られて8体となっています。(一番前面に祀られている色の黒い地蔵さん)

手前の色の黒い、佃筋の地蔵さん
 古代天野川地方条里区画遺跡碑
 
古代天野川地方条里区画一条通遺跡
 奈良時代、郡津に郡衙(役所)が置かれたころ、天野川周辺は稲作の一等地として条里制が敷かれ、私市を一条通りとして北へ枚方市まで十条通りと区画整地されました。神社の西にある鳥居をくぐって左に100メートルも行くと、東西に伸びる道が現れますが、それが一条通りです。
 市内には私市・天田神社から天野川に向かって一条通りが列し、京阪交野駅の北側に四条通りが、そして郡津に五条通りが列している。
 条里制の行われた土地は、ちょうど碁盤の目のように、あぜ道をもって田を美しく整頓区画されている。

条里区画 六町(一町の長さ約100b)の間隔で、縦横に直線の大道がつけられる。
こうして出来た六町四面の田を里という。この里を東西に並べた列を条といって、一条、二条と列名がつけられ、その大道を一条・二条通りといい、郡津は五条通りにあたる。

参照:交野地方の条里田(交野市史)

古代天野川地方条里区画一条通遺跡の碑
 一条通を西へ、井手之内会館前を通り、
どぼ池〜加賀田用水をめぐる
 

 
磐船街道から妙見口への道を進む

大阪まちまみ百景

磐船街道から藤が尾へと通じる古道
(私市村絵図に描かれている)

 私市郵便局付近から南へ年金街道を歩く
 
 
若宮神社で「交野かるた巡り」などお話して、  熱中症対策で早々に解散しました。
 当日は五月晴れに恵まれ、後半の若宮神社ではトイレ休憩後、会員の崎山竜男さんのご指導で疲れた体を軽めのストレッチで解して、最期のコース「私市水辺プラザ〜加賀田用水の取口〜弘安地蔵」まで皆さん元気に歩き通されました。
 
今回、熱中症対策のため、残念ながら
案内できなかった箇所を下記に掲載します。
 
 
 

 
 加賀田用水記念碑
 
 
 
 
 
 
 
弘安地蔵 (昭和55年) 杖あずけ地蔵さん
松宝寺・十三重塔
 私市の山手から松宝寺池へと少し下ると、高くて立派な石垣が積み上げられた松宝寺に着きます。
 春にはらんまんの桜が咲き乱れる松宝寺池の堤の上からは、きれいに整地された棚田の奥に、天田の宮と一条通りを見渡すことができ、緑色の京阪電車と桜のコントラストがすばらしい風景が広がります。ときには、この風景を撮影するアマチュアカメラマンの姿が、群れをなします。
 この付近は眺望もひらけ、昔から月見に最適といわれたため、月秀山の号をもち、もとは獅子窟寺の十二院の塔中の一つ、松宝院であったと思われます。
 境内には、千手寺にあった南北朝時代(14世紀代)の十三重の塔が建っています。
昔懐かしい写真集 

京阪・河内森駅

京阪電車の架線を潜って天田神社から若宮神社まで

獅子舞

私市駅  昭和30年代

墾田地蔵 (昭和54年)

最後までご覧いただき有難うございました

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