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![]() 私市プラザ・歌碑前で記念撮影 |
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![]() 3/14、歴史健康ウォークのご案内行程地図 |
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![]() 私市ウォークレジメ(PDF) |
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![]() 巽 憲次郎会長の挨拶 |
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![]() 当日の案内人 村田義朗氏 |
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![]() 司会は、森岡部長 |
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京阪電車・交野線、実は当時の信貴生駒電鉄によって枚方市駅から近鉄生駒駅まで建設される予定でした。目的は、信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)への参拝客輸送を目論んでのことでした。 企画当初は京阪枚方市駅から私市駅を通過し、奈良県の近鉄生駒駅を結ぶ計画でしたが、「枚方市駅〜私市駅」間を完成させた昭和4年の直後、「私市駅」から「生駒駅」まではわずか10kmですが、私市より南は急な山間部で難工事が予想され、さらに日本経済を襲った昭和大恐慌(昭和5〜6年)による経営難で、信貴生駒電鉄は「私市駅〜生駒駅」間の計画を断念されました。 経営母体は複雑な変遷【信貴生駒電鉄枚方線は1939年(昭和14年)、交野電気鉄道に譲渡、その後、京阪神急行電鉄を経て京阪交野線となる。】をたどり、現在の京阪電鉄・交野線となったのです。 私市駅の前には現在も南向きに長い直線の公園がありますが、延長計画の名残なのです。 |
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私市駅から土生川を渡り、だらだら道を下ると、右手に今も綺麗な水が湧き出している、ちんちん水の辻に出る。交野では、よく澄みきった水質の良い水のことをちんちん水と呼んで、昔から飲料水として使われてきた。交野の自慢は水だと言われている。 交野の水源は、他市のようなダムや河川の水を、人工的に急速に浄化したものではなく、汚れのない緑濃い木々と花崗岩質の砂れきの山で、自然の巧妙な営みにより、たっぷりと貯水され、じっくりと濾過されたもので、神からの贈り物と思われる清浄なちんちん水だからです。ちんちん水は、「沈沈」に通じ、神秘的な清らかな水を沈沈水(ちんちん水)と言われるようになった。 |
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開館間もない昭和50年代初め、和歌山県出身で、終戦(1945年8月15日)を知らずにフィリピン・ルバング島で約29年間戦い続け、1974年に帰国した軍人・小野田 寛郎(おのだ ひろお)さんが講演された。 |
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| 天田宮があったので、後から出来た宮、若い宮と名付けた。 |
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| ご祭神は、住吉大神四柱(但 饒速日尊を起源とする) 当地区には天田神社が古来より祭祀してありますが、もともとこの社は産土(うぶすな)の神を祀ったものと考えられます。上古天孫饒速日尊が天の磐船に乗って、この地方に降りられて大和に入られ、その子孫が天の川を中心として大和、河内地方に勢力を伸ばし、交野物部氏の強大な部族を形成したのでありますが、この部族の総社として磐船宮も「船に乗って天降った、天の川文化圏」との考え方と、住吉信仰が混同し、いつの間にか住吉四神を祭神と誤って伝承してきたのでありましょう。 その後、宮座の事が解決せず、約二九〇年前各村々(大和、河内)は磐船明神の分霊を神輿にのせて持ち帰り祭祀しましたが、私市には古くから天田神社がありましたので、若宮神社と称号したのでありましょう。 |
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![]() 獅子窟寺より移設された秋葉神社 秋葉神社信仰は、火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、 火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛・工業発展の霊験あらたかなるものとして、 全国津々浦々から信仰されている。 |
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| 岩舩街道の四辻、いびつの交差点。外的侵害に備えた。 |
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| この延宝9年(1861)の「河州交野郡私市村絵図」は、交野市に現存する最も古い絵図で、交野市指定文化財とされた元禄10年(1697)の「星田村絵図」より16年も古い絵図で、希少価値のある文化財です。 この絵図の裏書によれば、私市村庄屋仁左衛門・年寄清兵衛・同次左衛門ら村役人が、領主の仰せ付けにより提出した絵図の控えであろう。 ※ここに掲載しているのは、本物の絵図ではわかりにくいので、手書で図示したものです。 図示の左下に、描かれた当時の名称を現在に読み直していますので、参考にしてください。 |
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| 貝原益軒(1630−1714) 江戸時代の儒学者であり、博物学者、教育家でもある。福岡藩士の子として生まれ、名を篤信という。生涯を通じ、長崎、江戸、京都などに遊学をし、さまざまな学問を学んだ。 「南遊紀行」から、元緑二年(1689)二月十日朝、京都東洞院の宿を出た益軒は、淀から八幡へ、洞が峠へと東高野街道を田口から郡津へと向かっている。獅子窟と岩船をみるために私市への道をたどり、この日は私市農長・仁左衛門の家に泊まっている。 |
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![]() 加賀田用水の私市橋付近の堰 (天野川の右岸) |
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| 地元の人でも、あまり知られていない三角お山。廣岡昌子様 著「交野草子」4巻18pを紹介。 私市富士への登り口は、「星の里いわふね」のプラネタリウムへの道の上り口にあります。 |
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| 交野さんぽさんが、youtube で歩いている様子を公開されている。 https://youtu.be/3Fcm8-S2e4Y?si=I6QhoTGlNjpIK5ay |
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| 平成8年計画策定 19年完成 一級河川天野川の当区間(日の出橋から八幡橋)約430mには、豊かな自然環境が残され、多種の動植物が生息しています。 また、大阪市立大学理学部植物園や交野市立スポーツレクリェーションセンター、府民の森・ほしだ園地のほか歴史的価値の高い砂防えん堤など、訪れた人々にやすらぎを与えてくれる施設や歴史的価値のある施設が川に沿って数多くあります。 天野川水辺プラザ整備事業はこうした自然環境を保全するとともに、川沿いにある交流拠点と連携し、地域交流の拠点にふさわしい水辺空間を創造する。 |
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![]() ・和歌 狩り暮らし棚機女(たなばたつめ)に宿借らむ 天の川原に我は来にけり ・歌人 古今和歌集 伊勢物語 在原業平 ・歌意 一日狩りをして日も暮れたので、織姫さまに宿を借りよう。折角、七夕で有名な天の川原に来たのだから。 ・揮豪 谷井昭雄氏(元松下電器産業株式会社 (現パナソニック株式会社)社長) ・建立 2007年5月26日 天野川をきれいにする会 「解説」 この和歌は、惟喬親王と渚の院で花見をした後、天の川に来て詠った和歌で、1200年前、平安時代の京都の貴族の間で、交野が原が、七夕伝説の里であると知られるようになるきっかけとなりました |
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![]() 足元に加賀田用水の水路が見えます。 |
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| 国登録有形文化財 (明治時代)@天野川堰堤 1基(石造堰堤、 堤長20m、高さ6m) A尺治川堰堤 1基(石造堰堤、 堤長9.3m、高さ2.2m) B尺治川床固工 1基(石造堰堤、 堤長9m、高さ1.8m) ※オランダ人技師デ・レーケの指導により砂防堰堤が築造された。 |
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![]() 私市富士への登り口は、「星の里いわふね」のプラネタリウムへの道の上り口にあります。 |
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![]() 私市イチゴの復活 <私市の香> 大矢農園(アローズファーム)が10年かけて復活 |
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| 「私市共同墓地」に弘安地蔵さんが安置されています。 このお地蔵さんは、府内で最古の銘「弘安4年(1281年)」を持つお地蔵さんで、昭和三十六年十月、大阪府指定文化財・重要美術品に指定されています。 弘安地蔵さんは、右手に錫杖を持たない古い形式のもので、頭上とその左右には「右ハ為二浄林浄雲一石作三郎」「弘安四年四月十五日立之」、地蔵菩薩を示す梵字「カ」が彫られています。像の右側には「石作三郎」と石工の銘が確認できます。 別名「杖あずけの地蔵」さんとも呼ばれていた。生前身につけていたものをこの地蔵にあずけて身軽になってお墓に入る。 人が亡くなると、生前、身につけていたものを地蔵堂に預けることで、早く極楽に導いてもらいたいという願いからかもしれません。 庶民の願いを聞いてくださるありがたい仏さまとして、今も大切にまつられています。 拓本により年代・弘安四年(1281)の年号が読み取れた。それ以後、年号の弘安から「弘安地蔵さん」と呼ばれるようになった。 |
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![]() 弘安地蔵 (昭和55年) 杖あずけ地蔵さん |
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![]() 12時ごろ、私市墓地で解散、皆さんお疲れでした! |
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![]() 京阪・河内森駅 |
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![]() 京阪電車の架線を潜って天田神社から若宮神社まで |
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![]() 獅子舞 |
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![]() 私市駅 昭和30年代 |
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![]() 墾田地蔵 (昭和54年) |
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| 最後までご覧いただき有難うございました |