2002.2/23(土)天候快晴、交野市のボランティアグループ・朗読「あい」の歴史散歩の取材活動に同行した。
交野古文化同好会のメンバーも加わり参加者12人。郡津駅を10時過ぎ出発。
朗読「あい」の方々は、視聴覚障害者の方に、市の広報や個人からの依頼図書をテープに音訳されたり、対面朗読など精力的にボランティア活動を続けておられるグループである。
つい先日、12月に編集された2002年朗読「あい」正月号を拝聴したが、各国の正月風景などを伸びやかな明るい声で分かりやすく解説され、日本の昔ながらの各地の正月料理などをこと細かく紹介されていた。また前回のカルタ歴史散歩の様子を平田さんの解説を上手く取り入れられ聞いていて分かりやすく編集されており、視聴覚障害者のお宅を訪問された内容など、全くプロ顔負けのテープの内容に感激した。
今回も、交野古文化同好会の平田さんの案内で交野の歴史カルタを巡り、尋ねた史跡の説明などその時の様子をテープに録音、編集されるための歴史散歩である。 訪ねる先は、長宝寺跡地の郡津神社、明遍寺などである。
先ず駅前で、「京へ五里大阪へも五里」で、先年、古文化の活動で大阪城と奈良の平城京跡まで歩いたことなど披露され、また昭和60年に郡津駅前の松塚ユニライフマンションの建設現場の地下33mから海の貝が出土して、交野は昔は海だったことがわかったことなどを説明された。
また、今は松塚団地が出来てすっかり様相が変わっているが、北川が天野川に流れ込む手前、山崎の西方は、低湿地帯で長淵(ながぶち)と言われていて、ちょっとした大雨が降ると一面湖水に変わり、京阪電車の線路だけが水面に顔を出している光景がよく見られたそうである。
駅の北側の踏切を東へ越えて小川を渡り、少し行ったT字路を左折し北進すると、弘法大師の常夜灯に出会う。今も、地区の皆様が月2回常夜灯のお世話をされて大切に守られている。この辻を東に行き、2度ほど角を右折しながら北に進むと、こんもりとした緑の森が見える、これが丸山古墳である。
古墳と言われているが、ハッキリしたことは分からないようであるが、頂には神様「椿さま」が祭られ、近隣の人々が大事に清掃され保存されている。
東に出て、枚方交野寝屋川線を渡り、東高野街道に出会うと、東角には「だら池」がある。ここから街道を南に行くと、明遍寺へと続く道との三叉路の地蔵の辻にでる。塞ノ神の地藏さんは花が生けられ大事に守られている。
明遍寺の境内には、僧明遍の数珠掛松や腰掛石がある。古式豊かな鎌倉地蔵や層塔の四方仏、板碑や唐臼地蔵、双体仏、一石五輪など沢山の石仏がある。
郡衙跡の米倉が建ち並んでいたという倉山を通り、長池をぐるりと廻る。静かな長池には、沢山の亀が木の枝などに仲良く並んで甲羅干しを楽しんでいた。郡津の集落は環濠集落だと考えられ、長池は倉山の集落の南側の守りの役目をしていた。
郡津神社に着き、白鳳時代長宝寺跡、手水のくぼみ石を確認。昔の子供達が草餅つき遊びをした跡がくっきりと残ったいる。大きなくぼみで、何代にも亘って、沢山の子供達が競争して遊んだのだろう。1300年の時の流れをじっくりと味わう。
郡津神社で取材は終り、朗読「あい」の皆さんとお別れした。
快晴の冬の半日、心行くまで郡津の歴史と石仏を楽しんだ。
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念
仏
教 を
明 え
遍 伝
寺 え
て
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治承年間(1177〜1181)明遍(みょうへん)は高野山で法然上人(ほうねんしょうにん)に帰依し、高野山と京都の間を行き帰りするうちに、郡津に休息所として小庵をつくり、付近の百姓を集めて念仏の教化をしたのが明遍寺のはじまりです
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阪 五
へ 里
も
五
里
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交野は京都と大阪の中間にあるため、江戸時代にはこの両都を通じて江戸文化がぞくぞくと伝わってきました。
現在でも経済、文化等いろんな面にわたって京都と大阪の影響を強く受けています。
五里とは約20キロメートルの距離になります。
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《ミニガイド》
【郡津の名のおこり】
古代、律令体制時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山の地で、私市から枚方まででとれた年貢米を、当時の長であった郡司さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳時代(七世紀後半、約1300年前)。郡津は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津」と改められた。
郡津の村は、環濠集落(かんごうしゅうらく)=【外敵から財産や身を守る村】、と言われている。村から出る所に、東ノ口、西口、西代(にしんだい)などの地名が残っている。防御策として溜池、長池などが利用された。また、台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。 長宝寺小学校の北側は、春日宮、お出待ち、大門、やぐら池、鳥待ち田など、楽しい歴史的地名が残った土地である。
【交野も昔は海だった】海成粘土層(約110万〜200万年前)が妙見坂、平和台霊園などで見られる。郡津の松塚ユニライフマンションの建築現場(地下33m)から海の貝(ナミマガシワ)が出た(5万年〜7万年前の昔、松塚の地下33mは、海であった)
郡津には、長池(郡津神社の西側)、だら池(東高野街道沿いにある、郡津3丁目)、その他沢山のかんがい用の溜池が多い:水田用の池として利用された。
交野女子学院のある台地は、郡津渋り遺跡といわれ、弥生時代後期の土器が見つかっている。戦前(60年前以前)は、この辺り茶畑であった。昭和26年に交野女子学院が出来た。
また、北川と交野女子学院との間の谷の畑は、菜種(なたね)が多く栽培されていた。春には、一面菜の花畑で黄色い花ですばらしかった。なたね油として利用された。
【郡津の「くらやま」】は、
明遍時から郡津神社にかけて一段高くなった台地を形成しており、この台地に郡司が住み、蔵が建ち、郡司の一族の力で郡衙の東隣の今の郡津神社の場所に長宝寺が建てられていたことが確認されている。 長宝寺址の遺跡の中央には郡津神社の社殿が建てられているが、その周辺から、多くの白鳳時代の瓦片が出土している。
忍冬唐草文(にんどうからくさもん) 外側にある鋸歯文(のこぎりの歯状の文)が白鳳時代(645〜710年)の特色、昭和51年、郡津神社の発掘で神殿の東から出土した軒丸瓦
単弁八葉蓮華文(たんべんはちようれんげもん)、上より古い
昭和51年、明遍寺の南へ二本目の道から西で見つかった。
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