2002.12.14(土)、参加者は14名。 午前9時過ぎ、師走の免除川を目指して、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。前回より新しいメンバーの方が増え、また今回もウォーク関西版で歴史ウォークのことを知り興味を持たれた、お隣の枚方市から新しい方がお見えになった。私のHPを通じて、交野の歴史を勉強したいと参加された。誠にありがたいことである。
いきいきランドを出て、府道久御山線を北上して免除川を左折して、郡津に向かう。
春は、桜並木が素晴らしい免除川、元々この川は、白旗池を源流にして源氏の滝を流れ下り機物神社の北側を流れていた。しばしば洪水を起すので、被害をなくする為、川の付け替えを計画。倉治、私部、郡津領の田畑に新しく川を通した。その代わり年貢を免除したのでこの名がついた。室町時代のことだという。
|
可憐な白い花の大島桜 |
春は、免除川の堤防沿いの桜は見事で、薄緑色の葉と純白の花が可愛らしい。この桜は「大島桜」といい、若葉と同時に花が咲くのだそうだ。
「ふるさと創生資金」で免除川の堤防に沢山の桜が植えられたそうで、府道久御山線を越して源氏池まで大島桜が綺麗に植樹されている。また秋の紅葉の頃の桜も見ものである。
※大島桜(オオシマザクラ)
伊豆の大島に多いので大島桜といわれる。フォッサマグナ地帯の富士山附近でヤマザクラより分化した新種で、3月下旬から4月上旬に淡緑色の若葉とともに、大きな白色一重の花が咲く。葉は大きく柔らかで、桜餅の葉に使われる。
桜の季節には満開の桜を求めて免除川を歩いたが、師走に歩くのは初めて。幾野1丁目辺りから新しく建てられたマンションの南側を蛇行するように流れる免除川。もうすっかり、葉は散り落ちて桜も寒そう。来年の春には見事な花を咲かせるため、今はじっくりと休養しているのだろうか。
郡津1丁目から北へ右折して、郡津神社を訪れる。
郡津神社に着き、白鳳時代長宝寺跡、手水のくぼみ石を確認。昔の子供達が草餅つき遊びをした跡がくっきりと残っている。大きなくぼみで、何代にも亘って、沢山の子供達が競争して遊んだのだろうか。1300年の時の流れをじっくりと味わうことが出来る貴重な場所だ。
郡津神社の東側に長池がある。郡津の集落は環濠集落だと考えられ、長池は倉山の集落の南側の守りの役目をしていたのだろうか。
郡衙跡の米倉が建ち並んでいたという倉山を通り、明遍寺にでる。明遍寺の境内には、僧明遍の数珠掛松や腰掛石があり、古式豊かな鎌倉地蔵や層塔の四方仏、板碑や唐臼地蔵、双体仏、一石五輪など沢山の石仏がある。
郡津小学校へと歩き、東高野街道へと続く三叉路の地蔵の辻にでる。塞ノ神の地藏さんは花が生けられ大事に守られている。ここの南北の道が東高野街道である。
ここから南に歩くと昔、高野山参りで賑わった茶屋を通り奈良時代の条里制五条通りへと続く。再び、免除川を迂回して東へと歩き、長宝寺小学校を過ぎ、私部の出屋敷へと通じる古道に出る。大きな大仏さんの絵が掲げられていたと言う民家は今は見当たらない。歴史の流れを感じながら、狭い路地の風情のある出屋敷町をくねくねと歩き、遠見遮断(とおみしゃだん)と言われる町角を曲がり、東へ進むと立派な門構えのお家や土壁、板塀が昔の面影を残している。素晴らしい風景が次から次へと現れ、一歩、私部の町の中に入り静かな佇まいを歩くと、自然と心が鎮まるようだ。
|
光通寺の「石垣地蔵」
薬師如来の坐像 |
無量光寺の白壁を右に、光通寺に出る。ここで、平田さんから「石垣地蔵」の由来をお聞きする。静かな朝日や夕日を浴びた石垣地蔵を見に、また訪れたい。
山野酒造の土蔵作り、土壁と板壁がいい。最近、国の登録文化財に登録された。
交野小学校の運動場、ここから見える交野山の姿は素晴らしい。ここで学ぶ子供たちはきっと良い子に育つだろう。
学校の西側には、二月堂の石碑と道祖神。 大きな木の下の道祖神(さいのかみ)は、今は小学校の中の学ぶ地蔵と一緒に祠の中に祀られている。昔、私部村から寺村方面に旅立つ村人たちが、旅の安全を願ったいう神様。今も地元の人々により大事に守られている。神様に守られながら清々しい気持ちでいきいきランドに帰りついた。
平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
|
|
免除川堤防を歩く、幾野1丁目付近
川沿いには桜が沢山植えられ
春には桜見物客で賑わう |
郡津1丁目付近
北へ行くと郡津神社へ
免除川を渡り南に行くと私部の
出屋敷に通じる古道 |
|
|
郡津神社本殿前で
長宝寺が建てられていた
白鳳時代の軒丸瓦が出土している |
郡津神社のくぼみ石
昔の子供たちが草もちをついて
遊んだのだろうか |
|
|
郡津1丁目付近
この付近に郡衙跡があり、
米倉が建ち並んでいた
という倉山を通る |
東高野街道の地蔵の辻
塞ノ神の地藏さんは
花が生けられ大事に
守られている。 |
|
|
免除川 郡津4丁目付近
交野連山が見渡せる |
こうづ文化ゾーン案内板
免除川の由来が紹介されている |
|
|
国の登録文化財に
登録された山野家住宅
屋敷地は、主屋他の工場施設を
含めて約4,800uの広さです |
山野酒造の建物
現在ではめずらしくなった
造り酒屋としての姿を
留める貴重な文化財 |
《ミニガイド》
光通寺の「石垣地蔵」
私部では、想善寺、光通寺、無量光寺がかたまっている。
光通寺の石垣は最近整備されたが、山門への上がり口と庫裏への上がり口との間の石垣の中央に、2つの石仏がおられる。これが「石垣地蔵」である。東側の石仏は、お薬師様、西側で一段低いところの石仏は、阿弥陀様。いずれも見つかりにくいが、朝方の太陽を受ける頃西側から眺めると、投影が素晴らしいと言う。
《国の「登録文化財」に山野家住宅が登録された》
去る10/18、国の文化審議会が開かれ交野市の山野家と天野川・尺治川の堰堤等が国の登録文化財に登録された。この登録文化財の制度とは、私たちの周りにある民家・社寺・橋・水門などの古きよき建物を守り、資産としても活用しながら残していくための支援制度です。
山野家住宅は、交野市私部7丁目に所在し、地元では「いずみや」と呼ばれる屋号で昔から交野を代表する造り酒屋の一つとして親しまれています。当家は、明治に入って泉南から交野へ移住されて後、大正時代に入ってから酒造業を始められました。屋敷地は、主屋他の工場施設を含めて約4,800uの広さです。敷地の南側西寄りに長屋門を構え、長屋門から西面の府道沿いに瓦葺の土塀を廻し、長屋門と庭を鋏んで西寄り中央に主屋、その北側で西隅に家財道具をしまう蔵、更にその北側は酒蔵を配しています。
主屋は東西に11間あり、入母屋造の本瓦葺のつしのある2階建てで、全体に庇を廻した重厚な造りです。大正末期の移築に際してかなり改造を受けたと見られますが、江戸末頃とみられる主体部分をよく伝えています。
長屋門は桁行18間あり、南面に細格子出窓を2箇所取り付けています。(西寄りの1つは後で補足)明治の建設当初は切妻造りで本瓦葺屋根であったと推察されますが、移築時に桟瓦葺きに変更したようです。
道具蔵は、主屋背後で座敷と縁側続きに3階建ての本瓦葺置屋根形式で、やはり主屋移築時の建設とされます。
この他の施設として、屋敷地北側には道具蔵と平行して麹を育てる酒蔵、更にその北側は切妻造本瓦葺2階建てで和小屋組とした酒蔵、その北側には切妻造木瓦葺平屋建てでトラス組の酒蔵があります。この内、和小屋構造の2階建酒蔵は少し古風で明治頃とされますが、あとはいずれも昭和の建設とのことです。
このように山野家の屋敷は、現在ではめずらしくなった造り酒屋としての姿を留める貴重な文化財です。
参照 大阪府文化財保護課主査 林 義久 所見
【郡津の名のおこり】
古代、律令体制時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山の地で、私市から枚方まででとれた年貢米を、当時の長であった郡司さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳時代(七世紀後半、約1300年前)。郡津は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津」と改められた。
郡津の村は、環濠集落(かんごうしゅうらく)=【外敵から財産や身を守る村】、と言われている。村から出る所に、東ノ口、西口、西代(にしんだい)などの地名が残っている。防御策として溜池、長池などが利用された。また、台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。 長宝寺小学校の北側は、春日宮、お出待ち、大門、やぐら池、鳥待ち田など、楽しい歴史的地名が残った土地である。
【交野も昔は海だった】海成粘土層(約110万〜200万年前)が妙見坂、平和台霊園などで見られる。郡津の松塚ユニライフマンションの建築現場(地下33m)から海の貝(ナミマガシワ)が出た(5万年〜7万年前の昔、松塚の地下33mは、海であった)
郡津には、長池(郡津神社の西側)、だら池(東高野街道沿いにある、郡津3丁目)、その他沢山のかんがい用の溜池が多い:水田用の池として利用された。
交野女子学院のある台地は、郡津渋り遺跡といわれ、弥生時代後期の土器が見つかっている。戦前(60年前以前)は、この辺り茶畑であった。昭和26年に交野女子学院が出来た。
また、北川と交野女子学院との間の谷の畑は、菜種(なたね)が多く栽培されていた。春には、一面菜の花畑で黄色い花ですばらしかった。なたね油として利用された。
【郡津の「くらやま」】は、
明遍時から郡津神社にかけて一段高くなった台地を形成しており、この台地に郡司が住み、蔵が建ち、郡司の一族の力で郡衙の東隣の今の郡津神社の場所に長宝寺が建てられていたことが確認されている。 長宝寺址の遺跡の中央には郡津神社の社殿が建てられているが、その周辺から、多くの白鳳時代の瓦片が出土している。
|
単弁八葉蓮華文(たんべんはちようれんげもん)、下の瓦より古い。
昭和51年、明遍寺の南へ二本目の道から西で見つかった。蓮弁と蓮弁の間に、くさび形(界弁)と珠文が交互に配せられており中央に線がある。この様式は高句麗から百済、飛鳥と伝わり、飛鳥から交野に跡を残したものである |
|
忍冬唐草文(にんどうからくさもん) 外側にある鋸歯文(のこぎりの歯状の文)が白鳳時代(645〜710年)の特色、昭和51年、郡津神社の発掘で神殿の東から出土した軒丸瓦 |
|