交野歴史健康ウォーク 2010.5.8 第103回
行程; 郡津駅前(9:00)→極楽寺→丸山古墳→東高野街道→藪の下→交野女子学院→ 渋り→葬れん道→東之口地蔵堂→長池→郡津神社・長宝寺跡→ 倉山(交野郡衙跡)→明遍寺→条里制五条通→郡津駅前(11:30頃 解散) 徒歩約4km |
長 瓦 宝 そ は 寺 の 語 偉 る 容 |
交野郡衙(かたのぐんが)の郡倉がたちならんでいた郡津くらやまの東につづく丘陵に、長宝寺跡があります。この付近からは今から千三百年程前の古い瓦が出土しており、この地方の郡司により白凰時代の寺院が建立されたと思われます。 |
念 仏 教 を 明 え 遍 伝 寺 え て |
治承年間(1177〜1181)明遍(みょうへん)は高野山で修業をしていましたが、法然上人(ほうねんしょうにん)の他力念仏の教えに感銘を受け帰依し、高野山と京都の間を行き帰りするうちに、郡津に休息所として小庵をつくり、付近の百姓を集めて念仏の教化をしたのが明遍寺のはじまりと伝えられています。 |
2010.5.8(土)、午前9時京阪電車郡津駅前に集合。いつものメンバーと数名の新しい顔ぶれの皆さんと併せて総勢18名の参加で、交野郷土史かるたで歌われている郡津地域の史蹟を尋ねて歩いてきました。 集合地点の郡津駅前にて、本日の行程など、案内役の中光司会長より詳しくお話を伺うことが出来た。 郡津駅前付近は、昭和42年ごろ、松塚団地が出来てすっかり様相が変わっているが、北川が天野川に流れ込む手前、山崎の西方は、低湿地帯で長淵(ながぶち)と言われていて、ちょっとした大雨が降ると一面湖水に変わり、京阪電車の線路だけが水面に顔を出している光景がよく見られたそうである。長渕、申田(さるだ)の地名があった。 郡津にあったと思われる交野郡衙に交野郡の郡司で宮道弥益(みやじびえき)という豪族の娘が交野少将?に失恋して長渕に飛び込んでしまったという言い伝えがあります。 |
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中会長より郡津の歴史について説明を受ける | ||||||||
駅の北側の踏切を東へ越えて小川を渡り、少し行ったT字路を左折し北進すると、弘法大師の常夜灯(大峰山講、文政10年、1827年の銘がある)に出会います。今も、地区の皆様が月2回常夜灯のお世話をされて大切に守られている。郡津の在所、閑静な町並みを歩き極楽寺へ。 |
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弘法大師の常夜灯(大峰山講、文政10年、1827年の銘がある) |
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極楽寺(融通念仏宗、平野大念仏寺の末寺) 1345年(貞和元年)頃に創建され、大阪冬の陣(1614)で全焼、1688(元禄元)年に 仮本堂が出来、1700年代は隆盛したが、その後老朽化が進み、 明治35年に再建された。 |
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↑ 境内の江戸時代の地蔵尊に「郡門」の文字が彫られている 古代律令体制時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねんぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(7世紀後半、約1300年前)。郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。 |
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郡津山崎の地に築かれ、現在では円墳のような形から丸山古墳と呼ばれている。が、実際は南北方向の前方後円墳ではなかつたかと推測されている。 墳丘の最頂部は31.3m、周囲より8mほど高い。仮に前方後円墳とすると、100mにも及ぶ規模になる。古墳の前方部と思われる部分と丸山との接合部分に道路がつけられた際、その断面より土師器片が出土したと伝えている。 丸山古墳の東と南に小さな池がかつてあった。これが古墳の周濠であつたと推定されている。築造年代・墳形・埋葬施設などは不明である。 |
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丸山古墳の上り口に咲いていた可憐な花 |
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墳頂部手前に祀られている二尊物 |
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丸山古墳の頂上付近 |
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丸山古墳の全景(南から撮影) |
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郡津駅前から、極楽寺、丸山古墳などを見学後、東に出て、東高野街道に入る、交野女子学園の裏手付近には、「ものきき」「藪の下」などの地名が残っている。 |
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藪の下・ものきき | ||
=伝説:郡津= ものきき 北川の出鼻橋から南に高野道を進むと左に「しぶり山」(交野女子学院)があり、しばらく行くと右に「ささの山」左前に北尾の集落の建つ梅塚の台地に達する。 この梅塚の台地に上がるために道は切り通し状になっていて、道の両側が崖になっている。 昔はこの崖や崖上に大きな松が茂っていて薄暗くなっていた。 郡津の人々が何か心配ごとや悩みごとが起こったら、朝早くこの松の木に潜み高野街道を、朝一番に通る旅人の会話の中から解決する言葉を聞き取ったという。そのようなことから、このがけ道を「ものきき」と呼んでいる。 茶屋の清水 昔、ある日のこと、茶屋に見すぼらしい旅の僧が来て水を一杯ほしいと所望したが、誰も水をすすめる者がなかった。ところが上茶屋で水を汲んで差し出す人がいた。 その僧は弘法大師で、そのお礼に清水の湧き出る場所を教えたという。 蚊封じの池 上茶屋から南に下ると、明遍寺の北から郡津駅に通じる道と交差する。 この交差点を北から南に越した東側が「蚊封じの池」だという。 昔、弘法大師がここでお休みなった時「蚊が地面から三尺のところまで来るな」とお祈りをされた。以来ここには蚊が来なくなったという。 丸山古墳 平尾兵吾著「北河内史蹟史話」に、「大字郡津字福田に梅塚、本塚二つの塚がある、(中略)又字大塚にも同名の古墳が廣さ三十坪ばかりある、里人、弘文天皇の御陵などとして今は極楽寺の所有に属している」とある。 東村野から西方を見ると、北川の南の藪の下の水田、さらに南に藪をひかえて郡津の台地がある。西の山崎、その東に大塚、高野道を越して梅塚があったというが、墳丘が健康であったころの眺めは雄大であったであろう。 交野市史「民俗編」より |
出鼻橋へと続く東高野街道の交野女子学院の裏口付近で記念撮影 | ||||||||
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交野女子学院の裏口付近より、郡津の村へと抜ける「葬れん道」を南へと歩く |
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かっての渋り谷付近 |
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この辺りには、渋り、梅塚、東の口、水塔寺という地名が残っている | ||||||||
庭先に綺麗に育った「トクサ」 トクサは砥ぐ草であり、茎に珪酸を多量に含むことから木材や金属の研磨に使用した。 オオトクサも同様であり、歯を磨いて歯ブラシの代わりに利用できる。 |
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東之口の地蔵堂 |
郡津の古い集落の町名には、南尾(みなお)、倉山(くらやま)、中島(なかじま)、中小路(なかしょうじ)、茶屋(ちゃや)、北尾(きたお)、西の町(にしっちょ)があった。 今でも郡津区の下の町組機の町名として使われているし、村の人々は依然としてこの町名で村の場所を示しており、新しい何丁目何番と言われてもさっぱり分からないそうだ。 |
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江戸時代の庄屋だった谷本さん宅の榎と椋の古木が見える |
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郡津の集落は環濠集落だと考えられ、 長池は倉山の集落の南側の守りの役目をしていた。 |
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長池 |
郡津神社で記念撮影 |
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白鳳時代 長宝寺跡 |
交野郷土史かるだには次のように書かれている。 「ち」 長宝寺 瓦は語る その偉容 現在その跡は全く無くなっている。 「河内名所図会」享和元年(1801)刊行に、長宝寺、郡門村にあり。本尊十一面観音、長二尺許。 「北河内史蹟史話」平尾兵庫著に、長宝寺、大字郡津にある。名所記及び図会には、大堂山長宝寺、十一面観音、長二尺とあるが、由緒は不明である。 ・村人は明治初年まで郡津神社境内裏手に長宝寺という宮寺があって、そこで寺小屋が開かれていたという。 ・明遍寺境内の観音堂と九重石塔は宮寺が廃寺となった時に現在の所に移されたという。 ・昭和35年9月境内から白鳳時代の単弁軒丸瓦や粗目網形文の滑り止めのある瓦片が見つかっている。だんじり倉付近から鎌倉初期の瓦片が見つかる。 ・その後の調査で自鳳時代(650〜 710)の寺跡であることがわかる。 ・「北河内史蹟史話」に「旧茨田郡友呂岐の郡が郡衙所在地」という。郡津も旧交野郡の郡衙のあった所ではないかといっている。明遍寺の東南隅の道端に「此付近交野跡郡衙跡」の石柱が立っている。 ・白鳳時代の頃、交野郡司であった一豪族の居住地と推定される。この寺はその権力者が建立したものであろう。 |
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八紘一宇の石碑 |
浄土宗の宗祖法然の弟子明遍がもとを開いた |
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明遍寺(摂取山蓮華三昧院) 交野郷土史かるたには次のように記されている。 「ね」念仏を 教え伝えて 明遍寺 明遍寺は平安時代の僧、明遍の名をとったものといわれている。平治の乱(1159)で、源義朝に捕らえられ殺された藤原信西の子である。高野山蓮華三味院に入つて真言宗を究める。その後、京都黒谷に住 む法然に帰依する。高野山と京を往復するうち、河内交野郡の郡門村にその休憩所として小庵を造り、付近の百姓を集めて念仏を教化したのが当寺の始まりという。 ・浪華大福寺了吟輯「新撲往生伝」巻五の中に「明遍僧都従高野山出京之時憩息此所、後為一寺」とある。しかし、現在では明遍が法然に帰依して専修念仏に入つたということは史実性に乏しいとされている。 現在境内には本堂・庫裏・門・鐘楼・地蔵堂・観音堂・庭前に九重石層塔が立つ。 ・観音堂、九重石層塔は明治初年に廃寺となつた長宝寺から移されたものである。 ・本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。 脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。 ・観音堂・本尊:十一面観音坐像、塑像、75.0cm。江戸時代。 ・西国三十三所観音像:33体、木造、漆箔。像高は立像で24.8cm。観音堂安置 この三十三体の観音像は村人が寄進したものである。明遍寺のみならず、他の北河内の寺院でもお祭りする所があり、そうした寺院が巡礼の組合をつくつていた。明治初年頃に須弥寺の第26世住職豊原大賢が発起人となり「河州交野茨田讃良三郡之霊場須礼道中案内表」という北河内の寺院と宿泊を記した木版の絵図を発刊した。この中に、第八番札所として、明遍寺も記されている。現存する観音堂にも『河内西国三十三観音第八番納経札所」と書かれた看板が掲げられている。 |
古式豊かな鎌倉地蔵 花崗岩の自然石に船形状に彫りくぼめをし その中に、肉彫りで阿弥陀如来坐像が彫られている |
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九重の層塔(四方仏) 元は長宝寺にあったもの 南北朝時代から室町時代前期ころのもの |
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石仏群 板碑や唐臼地蔵、双体仏、一石五輪など、 | ||
石仏群 |
明遍僧都腰掛の数珠掛松 |
現存する観音堂にも『河内西国三十三観音第八番納経札所」と 書かれた看板が掲げられている。 |
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明遍寺の東南隅の道端に「此付近交野跡郡衙跡」の石柱が立っている。 |
古代天野川地方条里制五条通遺跡 | ||
天野川流域の条里制の中心、五条通付近 |
【郡津の名のおこり】 |
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【郡津の「くらやま」】は、 単弁八葉蓮華文(たんべんはちようれんげもん)、明遍寺の南へ二本目の道から西で見つかった。 |
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免除川の源は、白旗池→源氏滝→源氏池の南を西流→私部領→郡津の南を流れ→京阪交野線をくぐる→私部の山下川・にしゃベ川を合流した後、申田川と名を変え→枚方市浜橋付近で「北川」に合流→天野川に注ぐ。 かつては源氏の滝から機物神社・倉治へ流れていた。倉治村へ流れないように川筋を変えた。変えられる倉治・私部・郡津の田は他の犠牲は免れない。そこでその川筋の土地については当時の年貢が免除されたという。その後も洪水を繰り返し、江戸時代には堤の形や川筋が出来たようである。 ・交野線より西側:小字「河原」・・・低湿地地帯で氾濫が数多くあった。中でも明治元年(1868)の天野川の氾濫は被害甚大であった。「わんど」と称する西に迂回した部分に山下・にしゃべ川が合流する。この部分、東側の堤防が西側より高くなっており、川より東側が被害が少なくなるように工夫されていたようである。 ・昭和40年下流申田川を中心に大阪府住宅供給公社が宅地造成を計画。 ・昭和44年度に23000uに及ぶ大団地(松塚団地)が完成した。 ・申田川は改修されて「わんど」付近より天野川に合流するようになった。 |
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今回は、郡津駅から東高野街道を通り、郡津神社から明遍寺を歩いた。今回も新しい歴史に出会うことが出来ました。講師の中会長、有難う御座いました。 |
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最後までご覧いただき有難うございました! |