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第87回 交野歴史健康ウォーク
2008.3.22(土)

「石仏の道から交野山、白旗池へ、
国見山から大原池へ下る」

いきいきランド交野ドーム→青山(第二京阪国道工事中)→神宮寺→石仏の道→
交野山→白旗池(昼食)→国見山→大原池→源氏池→いきいきランド交野ドーム


交野山山頂からの雄大なスクロール画像をお楽しみください!
 交野山山頂からの雄大な眺望

「石仏の道から交野山・白旗池に登る」MAP
2008年3/22(土)、正月の初歩きから久しぶりのウォークだったが、参加者はいつもより少なく9名。午前10時、交野山を目指して、いきいきランド交野ドーム噴水前をスタート。
 府道久御山線を北へ歩き、青山から東へ住宅街を通り第二京阪国道の工事現場を足元を注意しながら神宮寺へと進む。

※第二京阪国道の航空写真は、国土交通省 近畿地方整備局
 浪速国道事務所ホームページの写真を参照させていただきました。
 記して深謝いたします。

  浪速国道事務所ホームページ http://www.kkr.mlit.go.jp/naniwa/index.html
青山・第二京阪国道工事中
工事が進む第二京阪国道
青山地区では工事中の大型トラックが走り、警備員に注意するよう促されながら、間近かに見える大きな橋脚工事現場の中を歩いた。

交野ドームが後ろに見える

大きな橋脚が間近かに、すごい迫力だ!

すっかり周りの風景が変わってしまった

左手奥に見える交野山を目指して歩く
石仏の道
神宮寺の村から交野山へと通じる道が石仏の道である。

 この石仏の道に存在する弥勒仏坐像石仏、二尊石仏、三尊磨崖石仏、阿弥陀如来立像石仏、阿弥陀三尊磨崖石仏、の5点が、平成14年9月1日付けで「廃岩倉開元寺関係石仏群」として交野市の指定文化財になった。

 石仏の道をあがると、右側に東面して花崗岩の自然石に刻まれた弥勒菩薩(第一石仏)がある。この弥勒菩薩は坐像で、右腕を前に出してまげ、掌を外側に開き、左手は組んだ膝の上で掌を下に向けておいて、くつろいだお姿でおられる。リアルで緻密な線刻描画は、大阪随一の秀作と評され、鎌倉初期の作と言われる。
 まわりは竹薮に囲まれ、しっとりとした趣はいつまで眺めていても飽きない。

 山裾の藪(神宮寺の宮跡)のある北から里のかけて、奈良時代に開元寺と言う大寺が建ち、その寺が鎌倉時代の頃に、交野山の山頂に寺を移し岩倉開元寺と名を変えたといわれており、この道は岩倉開元寺への参道であった。往時、沢山の僧やお参りする人々が通った道である。

 弥勒菩薩から登山道を登ると、右側に細長い池があり、この池の東端の小道に、二尊石仏が西面している。さらに第二の山池を左に見て進むとぐっと南に山道は曲がるが、ここからすぐ右側に大石の頂部が見える。この大石の上部中央に南面して、半円の光背に阿弥陀三尊(第二石仏)が刻まれている。
 本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音・勢至の両菩薩の立像で、文明11年(1475)と彫られている。室町中期である。現在、交野山への登山道(石仏の道)は、この磨崖仏の北側を通っているが、昔は南側の小川に沿って、眼の上に阿弥陀三尊を拝みながら「なんまいだ、なんまいだ」と唱えながら登ったと言う。 見落としがちなので、要注意。
 道の左手に、頭部が少し欠けた阿弥陀さんがおられる。阿弥陀如来立像石仏である。石仏の頭部右半分や光背の上部を欠損しているが、衣は通肩で来迎印を結んでおられ制作年代は室町時代とされている。石仏のある北側斜面は「鳩が谷」とも呼ばれ、以前ここから骨壺が出土したといい、開元寺の墓地であった可能性があり、この石仏も墓地に伴う供養のために造立したと考えられている。
 この山道を更に、登ると左に傾いた大石がある。その上部切り込みの光背の中に阿弥陀三尊(第三石仏)が刻まれている。高さ3mほどの花崗岩に、仏の高さ40cmの本尊阿弥陀如来が蓮華座に坐し、これよりやや下側の両脇には、第二石仏同様、観音菩薩と勢至菩薩の二仏が蓮華座の上に立っている。また、第二石仏同様に室町時代中期の作といわれている。右側の菩薩が赤茶けているのは、開元寺の火災の時のものともいわれている。

 雨上がりの朝、こもれびが射す頃の石仏の美しさを皆さんも是非ご鑑賞下さい。きっとご満足されるでしょう。近いうちに、是非とも石仏の道をお尋ねください。
二尊石仏 弥勒仏坐像石仏
弥勒菩薩は坐像で、右腕を前に出してまげ、掌を外側に開き、
左手は組んだ膝の上で掌を下に向けておいて、くつろいだお姿でおられる。
リアルで緻密な線刻描画は、大阪随一の秀作と評され、鎌倉初期の作と言われる。
阿弥陀三尊(第二石仏) 阿弥陀如来立像石仏


阿弥陀三尊(第三石仏)
  ⇒

上部切り込みの光背の中に阿弥陀三尊(第三石仏)が刻まれている。
高さ3mほどの花崗岩に、仏の高さ40cmの本尊阿弥陀如来が蓮華座に坐し、これよりやや下側の両脇には、第二石仏同様、観音菩薩と勢至菩薩の二仏が蓮華座の上に立っている。

また、第二石仏同様に室町時代中期の作といわれている。
交野山
石仏の道から登山道を交野山へと登り山頂の観音岩で一休み、周囲のゴミを拾いながら白旗池へと下り、昼食をとる。

 《梵字の仏たち 交野のシンボルは、と問われたら交野山の観音岩と答える。
 「河内鑑名所記」より抜枠、次のように書かれている。
【鴻尾山、山の頂きに八間四方の岩あり、観音岩と古しへより申伝る、正観音の梵字、石の中程に弐尺四方計に書、ほり付て有(中略)南の方に三間計の石いくつも重ねてあり、是は三宝荒神の梵字あり(中略)、北の方に六間四方程の石有、大日の梵字にて有けると申し伝る(下略)。】

 これによって、交野山頂に今でも見られる梵字が
聖観音(サ)、三宝荒神(ウーン)、大日如来(ア)という三つの仏たちであることがわかる。梵字の仏でもう一つ忘れてはならないものに、源氏の滝の落ち口の左の石崖に刻まれた不動明王の梵字、(カーンマーン)がある。
 三宝荒神・聖観音には「寛文六丙午年三月」(1666年)京都猪熊荒神三寶寺法印實傅とあり、眼下の我々を守って下さる仏たちに合掌。
交野山・山頂の観音岩
交野山山頂から久し振りに見た雄大な眺めは本当に素晴らしかった!
手前に見える池は松塚上池、第二京阪国道の橋脚工事が進み、
松塚下池、鐘撞堂池は埋められてしまった

交野山山頂からの雄大なスクロール画像をお楽しみください!
   交野山山頂からの雄大な眺望



白旗池で昼食をとり、国見山へと向かう。
白旗池には、オシドリやマガモなどが悠然と泳いでいた

国見山


国見山山頂からの素晴らしい眺望
ちょっと国見山城の歴史のこと
北河内の歴史の本によると、交野山の北に標高285mの国見山があり、この国見山の天険を利用して山頂部に津田氏が城を築いてその城は国見山城と呼ばれていたと記されている。津田の地蔵池付近には城の玄関口にあたると考えられる門口(もぐち)という小字名が残されており、門口から国見山城に向かう城坂の右手(南)には、国見山城以前の館があったとされる古城(ふるじょう)と呼ばれる地域がある。また、国見山城落城後に新たに城が築かれたとされる本丸山(ほんまるやま)と呼ばれる地域が点在している。
 昭和47年以降、大規模開発に先立ち発掘調査が行われ、国見山城、本丸山など詳しいことが分ってきた。本丸山は標高113mの最高所を中心として、南北に細長い平坦地が、3〜4段にわたって堀などによって造成されていたことが明らかにされている。 
 4代目主水頭正時(もんどのかみまさとき)の時、天正3年(1575)に織田信長軍により国見山城は焼き払われ、後、正時は本丸山に居城を移したが、天正10年(1582)の山崎合戦時に、招提勢とともの明智光秀方に加勢した為、羽柴秀吉軍により本丸城も焼き払われてしまった。その後、正時は秀吉に赦(ゆ)るされ、子の新八郎正胤とともに仕えたという。


《津田城(国見山城)について》
   1490年ころ津田周防守正信は周囲の地形を利用して国見城を築き、4代約100年間にわたり、戦国の世にこの地で勢力をふるった。二代目備後守正忠は天文年間(1532〜55)連如の子、連淳が招堤に敬応寺を創建したとき娘を側室におくり本願寺勢力と通じた。国見山からの絶景三代周防守正明に至り津田氏の勢力は最も強大となり、飯盛山城に拠って畿内に号令した三好長慶と結び交野・茨田・両郡で1万石を領した。

  天正3年(1575)4月、織田信長の河内平定のため、藤坂・津田・などは洞ヶ峠から攻められ国見山城も焼き払われた。このとき城主は4代津田主水頭正時であった。正時は天正10年山崎の合戦に明智光秀方に味方するため招堤寺内衆とともに出陣したが、秀吉方に敗れ津田・尊延寺などの領地は没収された。

  国見山城は、緊急時に使用する砦として役割をはたしていた。傾斜面を切り拓いて建物を建てた跡が数ヵ所あり、南方の狭い尾根からの攻撃に備えるため東面に土塁も築かれている。
   昭和31年に数回発掘調査が行われ、山頂東側において、地表下30センチから焼土層が確認され、天正3年の織田信長による焼打ちによる火災の跡、当時の陶磁器の破片も出土している。
                                                                 (枚方市教育委員会)


サンフランシスコ講和記念造林地の石碑(大阪府)国見山山頂

講和というのは昭和26年(1951)9月8日に調印され昭和27年4月28日発効した
サンフランシ スコ講和条約のことで、当時講和を機として講和記念造林運動が展開された

国見山からまっすぐ尾根伝いに西へ、津田南町の大原池へと下る


工事が進む津田山手 津田くにみ坂付近


津田南町 左手の池は大池


津田南町付近 大原池は埋め立てられてしまった
奥に見えるのは大阪府警察学校

津田南町付近


大原池へと下る坂道の4体の地蔵さん!


枚方・津田山手から津田東町付近
倉治松塚下池付近


倉治松塚下池は殆ど埋め立てられた
橋脚がずらりと建てられ、いよいよ工事も急ピッチで進んでいます


1/3程度埋め立てられた源氏池

免除川の大島桜


免除川沿いの大島桜
免除川の堤防沿いの桜は満開で、薄緑色の葉と純白の花が可愛らしい。
この桜は「大島桜(オオシマザクラ)」といい、若葉と同時に花が咲くのだそうだ

 「ふるさと創生資金」で免除川の堤防に沢山の桜が植えられたそうで、
府道久御山線を越して源氏池まで大島桜が綺麗に植樹されている。
また秋の紅葉の頃の桜も見ものである。

今回のウォークは、交野山周辺の掃除を兼ねて、散策を楽しんできました。
午後2時半ごろいきいきランド広場で解散。次回が楽しみである。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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