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第77回 交野歴史健康ウォーク

《ふるさと交野を歩く「神の巻」》
秋の文化祭のビデオ撮りも兼ねて探訪してきました
  

2006年6月10日(土) 午前9時   いきいきランド噴水広場前 集合・出発

   いきいきランド噴水広場前→辻合い→交野車塚古墳群→大畑古墳→
大畑の灯篭→巽山→大門酒造→森の北城戸→森の灯篭の辻・蛙石の伝説→
森古墳群→山根道→新池取口→地蔵筋→船戸→いきいきランド

第77回 交野歴史健康ウォークMAP

 6月10日(土)午前9時、第77回の参加者は15名、元気に集合。天候曇り時々晴れ。平田さんが怪我も快癒され実に久しぶりに(6ヶ月ぶり)歴史ウォークに参加された。
 軽妙な語り口は健在で、元気にウォークを案内された。 
 午前9時過ぎ、交野車塚古墳群を目指してスタート。久御山線を渡り南川へと続く田んぼ道を進むと、綺麗に田植えが終わった水田が一面に広がり、畦道を流れる風が心地よく気分が和む。「辻あい」から眺める交野連山も見事である。
 今池(近年埋め立てられてゴミの廃棄場となった)付近から西に流れる今井川が、南川から下りて来た農道と合うところを「辻あい」と言い、寺から流れる南川と北川に挟まれたこの水田地帯を「今井」と呼ばれている。

 「今井」は、新しい水路、あるいは堰(せき)のことで、開墾地に水を導く場合の用水路のことをいい、そこから発展して新しく生まれた村落を指す。江戸時代に灌漑用の今池が造られ、水田に水を引いた。
今井から巽(東南)の方向に、巽山と呼ばれた丘陵地があった。竜王山が正面に見え、朝日を仰ぐ格好の地であった。今は開発され住宅地と変わってしまった。
 寺の古い集落「てるは村」は、この「今井」にあったと推察されている。竜王山付近は、花崗岩の風化が激しく大雨などの土石流により今井は大きな被害を受け、比較的被害の少ない尾根筋の小高い場所に移り住み、今は今井の集落は消えたが、地名だけが残った。
 また、今井の隣の小字名が「古宮ノ上」といい、「てるは村」の神社があった。
「昔、寺村は「いまい」にあってな、水が出て困り抜いたすえ、こんなところには、いまい、いまいといって、今の竜王山の麓の寺村に移ったんや」と、村の古老の話を紹介された。

今池(近年埋め立てられてゴミの廃棄場となった)付近から西に流れる今井川が、
南川から下りて来た農道と合うところで、この場所を「辻あい」と言い、
寺から流れる南川と北川に挟まれたこの水田地帯を「今井」と呼ばれている。
出発地点の「いきいきランドのドームが後方に見える)

「辻あい」から眺める交野連山も見事である
画面の左手を流れているのは今井川

今井の水田地帯、岡田、冷田の地名で呼ばれている
交野車塚古墳群

車塚古墳群の詳細は、こちらをご覧下さい
「今井」から南川の堤を西に進み久御山線の手前を左折した南川の堤の南の台地に、交野高校が建っている。校地全体が車塚古墳群跡である。

 奥野平次さんが著された「ふるさと交野を歩く・神の巻」には、概略次のように説明されている。

 《寺の南で乳母谷(おちごだに)から南川と名が変るのはどの辺だろうか。「おばたけ」の南を「巽山」寄りに流れて、片町線を越えたあたりから天井川になり、私部の南を通って天野川に注ぐ。
 南川が片町線を越すとすぐ、堤の南に柿、栗、桃の木の植わった四角い台地がある。続いて西に2枚の水田があって、その西に小形の丘(桃)がこれに続く。どちらも車塚と呼んでいる。東の車塚(大阪府買収)を東車塚、西の車塚(私有地)を西車塚と命名した。交野高校はここから南の大知池(おちのいけ)、それに続く草川(くそがわ)との間の12,042坪が用地と決まった。その後、東車塚に校舎の一部が食い込むという計画があきらかになった。
 現在の東車塚には柿や栗や桃が大きく育っていて、畑には野菜がつくられている。それでも土の中には古墳の主がおられるかも知れない。もしおられて、そこに校舎の一部を食いこましたら悔いは永遠に残るとひそかに心配した。

 昭和47年12月16日、府の教育委員会で東車塚を試掘することに決まった。西から東へ、南から北へ、各辺の真中に幅約1メートル、深さ約1メートルの試掘溝を掘った。溝の交わった中央の深さ50センチメートル付近から筒型銅器が出た。そっと磁石を当てると尖頭部が北を向いていた。周囲の土の色は薄桃色、近くに土師器の片と拳大の石が三個あった。続いて中央から少し南よりに短甲の側面(東側に弓状)が見えた。その下に錆色をした物があったので取り上げて見たら巴型銅器であった。予期しないものが出た。続いて古墳の発掘は進めら
れないので静かに埋めることにした。神さまがおいでになった。・・・・・・》
 以下、淡々と車塚古墳の当時の発掘状況が細かく記されている。詳細については、奥野平次さんが著された「ふるさと交野を歩く・神の巻」をお読みいただきたい。

 そして、最後に次のように記され結ばれている。
 《交野高校はロマンの上に校舎ができた。東車塚南古墳の発掘中、西車塚の南側に西半分を残した古墳が見つかった。直径16メートル、その周囲に2メートルの濠を残していた。遺物らしいものは見つからなかった。古い南川の流れは敷地の北寄りから流れ込んで第5古墳の東をかすめ、西車塚の北半分にせまったのではなかろうか。
 最後になって、東車塚南古墳から西中塚南古墳を結ぶ線上に溝を掘るようにと指示を受けた。ところが後になって馬の埴輪が出土していたことが分かった。古墳は全部で六基あった。
 ある日、水野正好氏は私にこんなことを話された。「奥野さん、片町線の踏切に立って西を眺めて、沈んで行く真赤な夕日の下に六基の健康な古墳を描いて見なさい。狭い敷地に六つの古墳のある学校がどこにありましょう」と。
 誰の墳墓でしょう。ここに墓を造った豪族が、荒野であったころの交野を開拓するのにどんな役割を果たした神なのか、皆で考えて見たいです。車塚は生きている。大切に残したい。そんな所に交野高校は出来ている》

フェンス越しに東車塚古墳を見学
東車塚・西車塚古墳の南側には、現在交野高校の校舎が建っている

交野車塚古墳群 東車塚古墳群は交野市南野10番地にある。現在の府立交野高校の校地内と北側の古墳群を言う。昭和47年、交野高校が建設されることになり、事前に試掘され発見された。5世紀初頭から6世紀頃の5基の古墳群からなる。交野東車塚南古墳は、他では類例のない四隅が四角の周溝を有する円墳で、その形から「日の丸古墳」と言われる。北辺27.5m、南辺26.5m、東辺27.4m、西辺28.8m、その中央に直径22.4mの円墳がある。また、東車塚古墳は、5世紀初頭の時期のものと考えられており、周辺域でも確認例のない前方後方墳(墳長65m、後方部の高さ約6m、後方部幅33.55m)で、筒型銅器・巴形銅器・石製腕飾類など多数の遺物が出土している。中でも、甲冑は三角板革綴衝角短甲と呼ばれるタイプの一種で、全国でも20例ほどしか出土していない。





 大阪府教育委員会による発掘調査で、円墳4基が校舎建設予定地から出現した。中近世には水田として利用されており、その為 か、墳丘上部は削り取られてしまっていたが、この円墳4基、前方後方墳1基、方墳1基(民有地)の合計6基から成り立つ古 墳群は車塚古墳群と名付けられ、広く知られる事になった。その後、円墳4基のうち、墳丘部が円形で周溝部が正方形の方形と いう珍しい古墳を持つ東車塚南古墳は、「日の丸古墳」と呼ばれて盛り土をして築造時の姿に戻した上、更に上に土を盛ってテ ニスコートの下に保存される事になった。それ以外の3基の古墳は校舎建設に伴い消滅してしまった。

大 畑 古 墳
大畑古墳の詳細は、こちらをご覧下さい!

 JR学研都市線のガードをくぐり、寺村方向へと進むと南川橋の交差点に出る。この交差点の北一帯は一段高い岡状となっており、水田にはなりえず、畑作と利用するのが精々であったため、大畑と地名が付いた。
 大畑古墳は、交野で一番新しい前方後円墳で6世紀頃の築造とみられているが、今は住宅の下である。しかしながら、後円部を取り囲むようにし て道が巡っており、前方部突端の「落ち」もハッキリ残っている。寺村古墳群に属し、弥生時代の遺跡検出に伴って発見された。

 平田さんに附いて古墳の後円部を周り、昔、今池があった場所にある「八幡灯篭(はちまんとう)」に案内された。
昔、今池があった場所にある「八幡灯篭(はちまんとう)」に案内された。
 大畑古墳の前方部へとぐるりと回ってふたたび南川橋に出て、森村方面へと歩く。古代の人々が村落一帯の田園を見下ろす丘陵の地に、「陽石」を祀って悪霊を払い五穀豊穣と子孫繁栄を祈ったという、須弥寺の前を通り、森の東の北城戸に着く。山麓沿いを走る山根街道の出入り口に木戸を設けて、村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取り締まったところだ。
 大門酒造の長い塀をぐるりと右へ廻ると、大門酒造正門の「無垢根亭」である。そのまま路地を歩くと、「森の西の城戸」へと出る。手前の灯篭の辻で、懐かしい大きな灯篭と蛙石に出会える。蛙石には由松とお種の伝説が残る。
 平田さんのいつもの名調子で語られる「蛙石の伝説」を聞き、皆さん云々と納得。
 
灯篭の辻で、懐かしい大きな灯篭と蛙石に出会える。蛙石(右)には由松とお種の伝説が残る。
森 古 墳 群

森古墳群の詳細は、こちらをご覧下さい!
  
 奥野平次さんが著された「ふるさと交野を歩く・神の巻」には、次のように書き出されている。

 JR河内磐船駅(片町線)の出口に立って、左前方に見える、山裾の集落が森である。森の集落に東から尾根が二つ迫っている。昔から山肌が弱かったためか南側には薮が多く、北側の山肌にも多い。古墳のある山は南側の頂から下にかけてである。
 河内森(京阪交野線)を下車してまっすぐ森にはいると大きな灯ろ(春日さん、ハ幡さん)の辻がある。ここ(森南2丁目23)から上って石垣に突き当って左に曲り、辻から山に登れば良い。皆さんはこの道を「卵塔(らんとう)」とか「傍示の古道」とか呼んでいる。
 しばらく登ると右側に大い欅(けやき)がある。小池を右に見て登ると新川を護っている薮の繁みはいつ見てもいいなと思う、心の休まる緑の山である、しばらく行くと「卵塔」のどんつきである。
 そこから右にとって尾根の背をしばらく登ると雷塚の前方部を横切って山根道に出る。この雷塚(撥形古墳)から下ると、南側の尾根の背を通って前方後円墳が四基と円墳二基が続く。神の座である。古墳の列は登ってきた卵塔道から南の背にある。
 

 森の民家を抜けていよいよ森古墳群の山へと踏み入った。少し上がると右手に農業用水の池が二つあった。木々が茂りまわりは薄暗い。右手に大きな欅の古木があり、自然と、皆が古木に手をやり話し掛ける。この辺りを卵塔(らんとう)といい、この道を卵塔の道と言う。
 落ち葉を踏みしめゆっくりと登る、足にふんわりとした感触が気持ちいい。竹薮の中で「新川」と出会う。途中、静かな山に座り耳を澄ますと、鳥の鳴き声があちこちから聞こえてきた。尾根を上がるに従って、明るくなってきた。さらに尾根を登ると、古墳も近い。
  まず、左手に一つ古墳が見え、その上に大きな前方後円墳、これが「雷塚古墳」と言う。平田さんより、古墳の外形について、全長106m、後円部の径が56m、くびれ部の幅が22m、頂上の標高が155mと説明を受ける。前方部が低く、バチ形をしている。南側の尾根を下ったところに、さらに数個の古墳が確認されていると聞く。
竹薮の中で「新川」と出会う。途中、耳を澄ますと、鳥の鳴き声があちこちから聞こえてきた
尾根を上がるに従って、明るくなってきて、さらに尾根を登ると、雷塚古墳に着いた。

雷塚古墳詳細図

雷塚古墳の後円部

 昭和55年1月22日、岩船小学校4年生の3人が森の村の背後の丘を歩き円筒埴輪の破片や土師器の壷の破片を発見した。
 土器、埴輪片をきっかけに調査確認された。
 森古墳群は、四基の前方後円墳と一基の円墳加えて二重口縁の壺形土器を埋めた遣構から成りたっている。

 @第一号古墳は全長106m、堂々たる後円部、壇を設けたバチ形の前方部、その立地とともに本古墳群最古の古墳である。(雷塚古墳)
 A第二号古墳は全長58m、後円部はやや劣り、前方部は壇を失っている。
 B第三号古墳は全長46m、後円部の姿は顕著さを失い前方部は壇を欠く。占地も尾根筋の稜線上へと移る。
 C第四号古墳は全長50m、全体造営の際「前方後円墳」としての整備が粗雑化となって森古墳群最後の前方後円墳といえる。
 D第五号古墳は円墳である。墳丘径は15m。墳丘上には葺石、埴輸の類は見られず埋葬施設、遺物の発見もない。
 E第六号地点で学童三人が二重口縁の壷形土器を発見。この地の地形の改変は激しく古墳が存在したか否かは明確でない。

 最も大きな前方後円墳(雷塚)はパチ形をして前方部が低い古式古墳である。
 古式古墳とは古墳は4世紀の初めごろから6世紀末ごろまで築かれたとされ、それを前、中、後期に区分する。古式古墳は前期古墳のうちでも最も古い時代、具体的には4世紀中ごろに築造されたものをさす
 大和の桜井にある箸墓(女王卑弥呼の墓といわれる)と同じ形である。こんな古墳は岡山の車塚、京都・椿井大塚山(和邇氏の墓ではないか)など考古学上極めて重視されている古墳がこうしたバチ形の前方部をもっている。
 森古墳群の最初の王者は、こうした人々と密接につながった人物であったのだろうか?


 帰りは、舗装された傍示街道を森の村へと下った。地蔵筋を北へ久御山線との交差点・船戸にでて、いきいきランドに帰った。丁度時間は12時だった。
 寺の南山や大畑の古墳、森の山中の素晴らしい古墳をしっかりと足で確認、久しぶりの平田節、軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
  次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 
 次回の歴史健康ウォークは、7月8日(土)午前9時 いきいきランド噴水広場前集合・出発で、《ふるさと交野を歩く「神の巻」》を文化祭のビデオ撮りも兼ねて、寺古墳群、神宮寺遺跡、倉治古墳群などを歩きます。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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