交野歴史健康ウォーク 第180回

森村~須弥寺~寺古墳群

2019.2.9(土) 京阪河内森駅 午前9時集合

行程 : 京阪河内森駅⇒森・磐船村役場跡⇒森の地名⇒城戸⇒
灯篭の辻・蛙石⇒須弥寺⇒三十三観音⇒堂池⇒寺(石灯籠)⇒
塚穴古墳⇒住吉神社⇒山添家⇒大畑古墳 12時前解散

案内:村田義朗氏(交野古文化同好会)
     
参加者 27名(会員22名)

須弥寺・警固観音堂前で記念撮影
 交野歴史健康ウオークは2月9日(土)午前9時、京阪河内森駅前に集合。前日より冬型の気候が強まり大変寒い日となりましたが、沢山のメンバー27名(会員22名)が参加され和気あいあい大変楽しいウォークとなりました。

 先ず、高尾部長より挨拶があり、続いて、案内の村田事務局長よりウォークの行程と「絵巻物が語る交野の神人」の概略説明の後、須弥寺から寺古墳群へと出発しました。 

 森村の磐船村役場跡・地名を皮切りに、蛙石の伝説、須弥寺では五穀豊穣と子孫繁栄を願う陽石のこと、三十三観音、森惣墓入口の一石三尊にまつわる石仏や堂池に注ぐ新川の歴史の話、続いて寺古墳群の一つ「塚穴古墳」に入って見学。住吉神社、山添家、大畑古墳などを巡ってきました。

 今回、森村に在住されている向井様が参加され、森村にまつわる詳しいお話をお伺いすることが出来て大変お世話になりましたこと、感謝申し上げます。

 初めて参加された方からは、「いろんな歴史も良く分かり、尚且つ健康を願ってのウォークにすっかり嵌ってしまいました。」との感想でした。
 本稿を記載するにあたり「交野市史」「広報かたの」他、諸資料集を参照させて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 
 写真撮影は、川田さん、毛利さんに大変お世話になりました。
 当日のウォーク行程地図
 

京阪河内森駅付近  出発

案内の村田義朗さん
 

皇太子殿下御降誕記念碑(今上天皇)1933.12.23生
 
奇しくも平成最後の年に相応しい記念碑と出会うことが出来ました!
磐船村役場跡
(JA北河内 磐船支所前)
 森にある交野市農協磐船支店の北に当たる。農協の倉庫になっている所で、交野市は旧交野村(こうのむら)、磐船村が合併されて成立している。旧磐船村の村役場がここにあった。森、寺、私市等が村域で、主として竜王山から磐船神社と山地と、そのふもとの村を中心にしていた。一番大きな村が私市であるから、人口はそんなに多くはなかった。

 江戸時代以来続いてきた交野の村々は、明治22年に、交野村=こうのむら=(それまでの郡津村・倉治村・私部村)、磐船村(それまでの寺村・森村・傍示村・私市村)、星田村の3つにまとめられます。

 昭和14 年には交野村と磐船村が合併し、交野町が誕生しました。昭和30年、交野町と星田村が合併し、現在の交野市の前身となる交野町が誕生し、昭和46年に交野市となりました。


磐船村役場跡
 

昭和10年(1935) 
国勢調査 人口 1,474人

磐船村役場
森村の地名  小字名
 
森の地名の由来

 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。

 それによると延久年間(1069~1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。

 なお、森には小字名が実に多い。しかも、山地の方も細かに分かれている。これは江戸時代、森を領有していたのは、初めは大阪町奉行であった旗本島田越前守直時、次いで淀城主永井尚政、旗本淀城尚春(尚政の子)、弟の永井尚庸などの領地となり、最後は小田原大久保家の領地となって幕末に至る。
 この永井家のとき過酷な年貢の取り立てを行ったので、村人が自衛策として、わざと字名を多くし、細かい田に分散させ、段別が少ないように見せかけたためであると言われている。
 歴史健康ウォーク「地名を歩く」より  今日の話はなんでっか?2002.9.16(No35)
 
 地名を歩いてみました。地名地図を見ながら現地を訪れは゛背景が良く分かる。地名は、人間とかかわりが出来たから出来た。この「出来たから出来た」ことを調べていったら、いろいろなことがわかる。
 まず、私達の住んでいる地域の地名から調べ歩いて行くことにしました。
森地区の大量権(だいりょうごん)は小字地図には「大量橋」となっているが、村人は「大量権」と言っている。
今回のウォークでどちらが本当なのかを確認することが出来ました。
現在「大量権」の一部が駐車場となっており、そこには「大量権駐車場」の看板が掲げられていました。 
やっぱり歩いてみなければわかりまへんなぁ! 
 「大量権」(だいりょうごん)が正しい地名でしょう。
「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。
南側(天田の宮北側)を流れる小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇夾部の砂質の所の開墾が行われたところと思われる。
また、この辺りを城戸(きど)という。
 森の西の出入り口の所を城戸、東の出入口を北城戸と言っている。「城戸」は「木戸」であろう。
 森を通過して山麓沿いに走る山根街道がある。この道路の東西の出入口に木戸を設け、村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取締ったりしたところであろう。夜間は木戸を閉めて村を防備したのか?。
 城戸のすぐ南に天田の宮が、北城戸を出た所に須弥寺があって、どちらも村人の信仰の場所である。
その場所に立って当時を偲べば、昔の人々の生活が手に取るように分かるのも「地名」を歩いてこそ
           「あなたの足下に地名がある」
     2002.09.14「第36回歴史健康ウォーク」より 
 油田(あぶらでん) :森は石清水八幡宮の神人(じにん)として昔から仕えてきているので、油田は八幡宮の燈明の油代として、この田の米を上げていたという説をとってある。
 しかし、村の長老たちの中には、それもあったであろうが、天田宮の油代としてこの田の米を換金していたという両方の説がある。今はどちらが正しいのか判断する根拠がないのであるが、どちらも間違いではないだろうし、時代の違いから後世になるにしたがい、八幡宮よりも地元の氏神を大切にするようになり、天田宮の賄い用の田となったと考えるのが妥当のように思える。


 大量権(だいりょうごん) :。「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇央部の砂質の所の開墾が行われたものと思われる。

城戸(きど)・北城戸(きたきど) :森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。
 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。
 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。
灯篭の辻 かえる石
 昨年の地震で倒れた石灯籠は森の皆さんのお力で再建されました

蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より(奥野平次著)

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
 時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。

 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。

 この伝説は、寝屋川市のおばあさん(2代も前)の話として原稿が残っていると、門真市文化財愛護推進委員の方から奥野平次さんが受け取られたという経緯があり、今から180年も前の蛙石の話がよそで生きていたということです。
 
 
石清水八幡宮と彫ってある石灯籠
 
春日大明神と天照皇大御神の石燈籠

大灯篭の足元にくぼみ石が!
「くぼみ石」の由来を聞く。
 昔の子供たちが、餅つき遊びをした石の跡だという。
 「この石にじーと耳をあててみ、ぺったんこ、ぺったんこ、ぺったんこ・・・・ぺったんこの音が聞こえてくるやろ」と、亡くなられた奥野平次さんは子供たちにいつも言っておられたという。
 
 牛引き石
 しばらく行くと民家の軒下に、農閑期に牛を訓練したと言う牛引き石がある。
三角形をした石の頂点の部分に綱を入れる穴が掘られている。
 
 大門酒造 無垢根亭
  交野に所在する「むくね村」で大門酒造が創業したのは文政九年(1826)のことでした。
創業者の名は、半左衛門喜之。裏山から湧き出る清冽な仕込水。交野が原の沃野で収穫された良質な米。それらを使って酒を仕込み、近在の衆に呑んでいただき一家を成したい。その屋号を酒半と称した若き起業家は、この青雲の志を持って酒造人渡世に踏み出しました。
 この創業者の熱き思いを受け継ぎ、爾来六代、百九十有余年の星霜を数える今日まで、いろいろな時代の波に揺られながらも酒造り一筋に励んで参りました。

 私どもはこの歴史と代々受け継いだ伝統を礎として、これからも交野の地酒、上方の酒として豊かな日本酒の文化の中で皆様に愛でていただける酒造りを目指して参ります。
 これからもどうぞお引き立ていただきますようお願いいたします。
 
 
 

水分地蔵
北城戸付近
大門酒造正門の「無垢根亭」より大門酒造の長い塀があったが、今は住宅地化している。
山麓沿いを走る山根街道の出入り口に木戸を設けて、
村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取り締まったところだ。
 
 
円通山 須弥寺
 須弥寺は平安時代の初期に当たる淳和天皇の天長3年(826)僧空海が森の地にこられて、一草堂を結んだのが当寺の始まりと言われている。また、観音堂は清和天皇の貞観3年(861)大和国の大安寺の僧行教が天皇に奉じて、国家鎮護のために宇佐八幡を勧請(かんじょう)し、八幡の男山に祭って、石清水八幡宮とした。
 この勧請のとき、行教は観音菩薩により宇佐八幡からの旅が警固されると信じたことから、この大任を果たすことができた。このことこから、この観音を「石清水八幡警固観世音菩薩」と呼んだのである。そして、この観音が須弥寺の南の上の観音堂に祭られている。その後この観音堂も荒れ果てることになったが、延久年間に森村に来た庄司の森宮内少輔が修復したため、それまでの「無垢根」村を「森」村と改めるようになったというのである
 
観音堂 「石清水八幡警固観世音菩薩」が祀られている
 
 
 
 
 
須弥寺の「参拝のしおり」
 
 
 須弥寺遺跡
 
 陽石
 
 
 

この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。
子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています
 
 唐臼(からうす)地蔵のお話
 地蔵の舟形石は、尖らないまでも山型が普通である。
石の先がまるくへこんで(凹)いるもの、そのくぼみが仏さんの頭に食い込んでいるものさえある。米つき(唐臼)の心棒受けを「じろう」と呼ぶ。これは地蔵の舌足らずだったのかも。足で踏む重い杵(キネ)の重心に、地蔵石仏をかませてきたという驚くぺき事実の名残りだと思われる。 唐臼の心棒や石垣、池に投げ捨てられたり、家柱の基台に使用される等は、明治初年に行われた神仏分離の被害者であったのだろうか。
 幾多の受難時代を過ごし再び村の辻に復活された仏さんたちに合掌。  
   (よもやま便りより参照)

二体ほど唐臼地蔵が見つかります。
須弥寺の河内三十三観音
 寺村と森村の境のあった巽山(現在は泉住宅となっている)に祀られていたそうですが、
住宅開発で巽山が削られた為、現在の須弥寺境内へ移されたとのことです。
森の惣墓入口の六地蔵と一石三尊像
 森の惣墓に入ると、左手に迎え六地蔵、さらに一石三地蔵尊が祀られている。
 
現在・過去・未来を表わす一石三尊像
平田政信さんの「今日の話はなんでっか」を参照
 亡くなった人を救う地蔵の能力を、より具体的に表現しているのが、墓地の入口などにまつられている六体地蔵です。輪廻(りねん)する六つの世界、地獄・修羅・人・餓鬼・天・畜生の六道のすべてに分身して、その世界の衆生を救うのが六地蔵です。
 亡くなった人が六道のどこにいようと、地蔵菩薩がそれぞれに合った姿で出現して救ってくれる、こんな願いが六地蔵にはこめられているのです。また、六体地蔵は墓を見守ってくれている。
 参る前には「いつもお世話になっています」帰る時は「またお願いします」とお礼を言うのが作法です。
 
「おどんがうつ死んだら        みちばたいける     通る人ごち花いける」
これは貧しい乙女の歌う五木の子守唄、人の心をしぼる悲しい物語が秘められているのでしょう。
野の仏の多様性はその時々の人の心の多様性をあらわしているのでしょう。

地蔵さんがずっと人間を救って下さっている。
 とするとお釈迦が亡くなったあと、ずっと現在までも地蔵さんが人々を救ういちばん近い存在なのですから地蔵像の多さの理由もわかります。その能力は虚空蔵の蔵と同じで無限です。
 地蔵の地は大地。大地はすべての生命を育む源ですから、地蔵菩薩の巧徳もあらゆるものをカバーしてくれているのです。
 リリーフ役を示すものとして、釈迦如来(過去)・地蔵菩薩(現在)・弥勒菩薩(未来)で三尊を構成する例もあります。
 また、パワーの具体的な例として「地蔵の十益」を説く経典があり、菩薩の身で修業に励む地蔵の立てた誓いのことです。この中には土地豊穣とか現存益寿(長生きを保証すると言うような意味)など主として現世の利益があげられています。
 「お地蔵さんにお願いしたら何でも聞き入れてもらえる」という面では、現世利益のスーパースターである観音菩薩とかなり類似しています。
 
森の堂池と新川
 森新池を通り過ぎ、傍示への道を登ってゆくと、山側にU字溝で作られた小川が流れている。この小川を「新川」といい、200Mばかり登ったところに、交野水道局の貯水槽が2基あり、その手前を流れている小久保川から水の取り入れ口が造られている。
 ここから延々1300mの水路が、森の山裾を縫うように堂池まで造られている。木立の中、薮が繁る中を先人達が苦労されて造られた貴重な水路である。

 さらさらと流れる水の音を聞きながら、どんどんと小川沿いの小道を歩く。時々、立ち止まって回りの山合いを見渡し、心地良く水が流れる様に感激を覚える。幾度か曲がりくねった道を抜けると、突然目の前が開け、手前の森の村里の向こうに、交野市の町が一望される見事な風景が目の前に現れた。探検隊の皆、歓声を上げる。 堂池まで1300mを歩き、汗水流して造られた村人たちの苦労がしみじみと偲ばれた。堂池は沢山の水量で一杯だった。
 堂池の北側の崖の海成粘土層を観察。森の惣墓に入ると、左手に迎え六地蔵、さらに一石三地蔵尊が祀られていた。その後、須弥寺で村里にあったといわれる沢山の石仏にお会いした。
 
 円通山須弥寺の建っている場所が「堂ノ前」で、須弥寺の観音堂の建っている岡が「堂山」である。観音堂の山という意味で堂山と呼ばれている。 

森の堂池
 
新川
 
 <史跡ミニガイド>

新川(用水路、森堂池まで1300m)
 
河内森駅(京阪電車)の北側の道を山に向かって、農協磐船支店の南を通り、山神(尾根)の裾にある傍示道を上がってゆくと、交野市水道局の2基の貯水槽がある。その手前の川が東から西に流れ、貯水槽の左前でどんどんになって谷に落ちる。このあたりから小久保川と呼ぶのだろう。新川は、ここから川下に向かって落ち口の右側にあるU字溝から始まり、堂の池に入る。
 
「新川は、山神、卵塔、檜木山、楢が谷、檜木谷を経て堂の池まで1300mはあるだろうか。」
この新川は、向井さんや村民の協力で出来たそうである。
 「川手をどうつけるかを苦労された。現在の消防署の東側から提灯の灯りで高低をはかったそうである。」「どんなに苦労されたか。千日も熟慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」
 須弥寺の当時の住職も、池底にごみが溜まらないようにと石の阿弥陀様を池の底に安置され、たらい船に乗ってはごみ集めをし、樋からごみを流すことに努力されたそうだ。

森堂池
 森南3丁目に円通山須弥寺がある。南側にある池が堂池である。
須弥寺に向かって突き出している丘陵とその西南に同じ方向に出っ張った尾根の間の谷を堰き止めたものである。この池の水は、森の水田に供給されている。面積は43.17アールである。

堂池の海成粘土層
 堂池の北側の道の北側の崖に、厚さ2mの海成粘土層が見えます。
 海の底にたまって出来た地層を海成層といい、海底に積もった粘土層を海成粘土層という。
昔は、「交野は海でしたという」、証拠である。

森新池 
 河内森の駅より森へ入る道の途中にあるのが、森新池という。面積は50アールあり、池への水は小久保川の上流の天田神社と第1幼稚園の東で川に堰があって、私市領へ引く水路と森新池へ引く水路に分かれている。池へはこの谷川の水が天田宮の北を通って入っている。
 
 
堂池で養殖されている大きな緋鯉
巽(たつみ)の泉ヶ丘地蔵尊
 巽山(たつみやま)は南川の左岸「南川橋」の西南の丘陵を指して言っている。現在はケ丘団地という住宅地になり、山が削り取られ、周囲より一段高い岡となっている。
 巽(たつみ)は方角を指している。現在の寺からは西南の方角になり合わない。昔あった今井の集落からすれば、ちょうど巽の方角(東南)になる。東に竜王山が正面に見え、朝日を仰ぐ格好の地であった。
 泉ケ丘団地の一番東の高台に座っておられるのが、泉ケ丘地蔵である。静かに西方向の東車塚古墳を見下ろしておられる。これからもどうぞお守りください!
 寺古墳群・塚穴古墳
 

塚穴古墳 寺古墳群に属し、交野で現存する古墳の一つ。横穴式古墳。
寺古墳群は寺(てら)の集落の東南、竜王山の山麓に群集する後期 古墳群
(六世紀から七世紀初頭、飛鳥時代)である。14基の古墳からなり、
いくつかの尾根に2~3基づつ点在し、広い範囲 をこえて寺古墳群と呼ばれている。 
  創価学園の小公園脇の道を登り、竹薮と雑木の平地をしばらく行くと古墳が口を開けている。塚穴古墳である。
 これは横穴式石 室を完全に残す、交野では稀な古墳である。東西12m、南北11mの方墳で、入り口は西を向いている。周りは竹薮と雑木で 鬱蒼としているがそんなに薄暗くはない。
大人一人がやっと這って入れる程の入り口から、懐中電灯を片手にしておそるおそる 入る。羨道は短く片袖式となっている。入るのは腰をかがめて難儀するが、中は天井が高く人一人十分立てる。
195cmある という。石組はしっかりしており大きい岩石と隙間に入れる小さい石が左右にバランス良く組まれている。天井の岩石はさほど 大きくはない。
 
 
 
 
 
 


 

 住吉神社
 寺地区の氏神さんで住吉四神を祀っている。古墳と思われる丘上に建っている。
神社の東の石垣に「くぼみ石」がある。昔の子供たちが餅つき遊びをした石の跡だという。
 
 
くぼみ石
 
寺村の風情ある段々畑
かいがけの道
「峡崖(かいがけ)道」
交野八景の一つ・かいがけの錦繍(きんしゅう)

 平安時代から鎌倉時代にかけて、京都の天皇や貴族たちの熊野(和歌山県)参りがさかんになり、京都から鳥羽に出て淀川を船で下り、交野にあがって「峡崖(かいがけ)道」をのぼりつめると大和へ出る。ここから王寺、五条を通って紀州へ行くのが一番近道だと、昔は随分通行人があったようです。

 竜王山麓一帯から南側にかけて、南山遺跡、山麓の横穴式古墳、府立交野高校の車塚古墳など多数遺跡が確認されていることから、古い時代からこの「かいがけ(峡崖)道」は、頻繁に利用されていた。

 奈良時代、東大寺大仏建立の際、銅の鋳型が上手く出来ないため、結局、九州の宇佐八幡にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、奈良へ行くことになった。その一行は途中二手に別れ、一隊は枚方市の百済寺に、もう一隊は交野郡の獅子窟寺に宿泊。
そして、この「かいがけ道」を通って奈良の都に入ったと言われている。


かいがけ道の入り口に建っている石碑

寺の村 風景
山 添 家
古い民家の
   山添家

寺村の山添家は庄屋の家で建物180平方メートル、釘を一本も使わず、造られています。木造入母屋造り、かやぶきで土間が広く、四間取りの配置に奥座敷、棟札に宝永2年(1705)の文字があって国の重要文化財の指定を受けています。

山添家は国の重要文化財に指定されている。


この住宅は江戸時代の庄屋の家で、11代前の九左衛門平精が宝永2年(1705)に建てたもの。

母屋は土間の面積が広く、雨の日などは農事を広い土間ですることが出来たそうです。現在では全国でも数少ない茅葺きの屋根がとても珍しいものになっています。

この地方の民家は家の中ほどで、棟木を支える大柱を中心に、その周りに部屋を作り、だいたい「田」の字の形を動かすことはできない。それにただいろいろの枝葉を付けるだけのことであるのが原則。それは棟木をもつ日本の家には、その後、どんなに変化をあたえても、屋根が落ちては住んでいられなくなるから、この法則から抜け出すわけにはいかない。

このような根本的なところは、出雲大社の建物でもそれがみられて、以後日本家屋の不動の伝統となっている。

正行寺の地蔵団地と鬼瓦
 
 
 
 
 
大畑古墳 車塚古墳群第6号墳
 須弥寺から寺村方向へと進むと南川橋の交差点に出る。この交差点の北一帯は一段高い岡状となっており、水田にはなりえず、畑作と利用するのが精々であったため、大畑と地名が付いた。

 大畑古墳は、交野で一番新しい前方後円墳で5世紀頃の築造とみられているが、今は住宅の下である。しかしながら、後円部を取り囲むようにして道が巡っており、前方部突端の「落ち」もハッキリ残っている。弥生時代の遺跡検出に伴って発見された。

 弥生時代後期の遺物が出土した住宅地の上が最近の調査で、前方後円墳で、墳長90~95m、後円径50m高さ3m、前方部約50m高さ4mが確認された。 現在では、交野車塚古墳群に属していると分類されている。
 
 
大畑古墳は後円部(向かって左側)と前方部(右側)が道路で分断されている
 東車塚古墳が発見された、交野高校が直ぐ近くに見えます。
 
 最後に、来月の3月9日(土)に予定している「大仏鉄道遺構の探訪」に
沢山の方の参加を呼び掛けて、予定通り終了しました。
 
 
参加の皆さん、大変お疲れ様でした!
 最後までご覧いただき有難うございました!

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