交野歴史健康ウォーク  2009.9.12 第98回
=交野古道を歩く=


かいがけの道を往く

  行程;JR東寝屋川駅→四つ辻の道標@→打上弘法井戸→石宝殿のコース案内板→
       明光寺→打上高良神社→石宝殿古墳→大谷南大師祠→深谷川の石橋→
       交野山西南山麓道標A→傍示川→布懸遺跡(NTT星田住宅)→変形5差路
       (大分)→梶ゲ坂→寺前橋道標B→垣内川道標C→上垣内4辻道標D→
       じょうもん坂(妙見河原の桜)→星田妙見宮道標E 
           12時頃解散    徒歩 約 4Km

JR東寝屋川駅から星田妙見道を歩くMAP(T)

 朝から天候は曇り空で、8時過ぎ出かけようとしたところ雨が降ってきた。久しぶりの歴史健康ウォーク、取り敢えず駅まで急ぎ、河内磐船駅で中さん、平田さん、中角さんと合流。午前9時、JR東寝屋川駅には、生憎の雨模様の中、いつもの元気なメンバー9名が揃った。
 中会長の挨拶の後、本日の案内人・堀江哲夫さんの先導で、妙見道へと元気にスタートした。

 大阪(大坂)方面から星田妙見宮へ向かうのに利用された星田妙見道は、その名称について現時点では、文献・絵図に見当たっていない(2005年6月20日の大阪府教育委員会編集の「歴史の道調査報告書集成 近畿地方の歴史の道-大阪」にも星田妙見道の報告はない)が、「星田妙見道の道標」は数多く現存している。

 この道標をJR東寝屋川駅より繋いで大谷南大師祠から交野山山麓→寺前橋→星田9-2の道標までは「山の根の道と同じで、ここで東へわかれ上垣内の四辻の道標→じょうもん坂→妙見河原→妙見橋(かって西詰めに「妙見山」の大きな道標があった)→星田妙見宮に至っている。















集合場所:JR東寝屋川駅前

JR東寝屋川駅前の「ねや川文化と歴史のみち鉢かずき姫の案内板


中会長の挨拶

本日の案内人・堀江哲夫さん(中央)の元気な顔)
打上四つ辻の道標@
打上の道標
JR東寝屋川駅を上った東北方の四つ角に、この道標が立っている。
安政4年(1857)の造立で各面に文字が刻まれている。
  • 安政四 為父母 施主
  • 南 かうや のさき 大坂みち
  • 東 なら いせ ミチ
  • 北 京 八はた 柳谷 星田妙見

この碑の南北に続く道が東高野街道で昔の姿が偲ばれます
弘法井戸
打上地区の東高野街道沿いに「弘法観念水」がある。
ずっと昔からいかなる日照が続いてもこの井戸の水はかれたことがない
と言われてきたもので、弘法信仰に燃えての旅人、
それに商人・武士・村人など多くの人々がこの水に助けられました。


弘法井戸

「弘法観念水」の文字が刻まれている
明光寺の十三仏雷神石 首なし地蔵

明光寺本堂
 打上の村の登坂を行くと天照山明光寺があります。境内には十三仏、珍しい板碑(雷神石)=古墳時代の石棺材を利用したもの、たらちねの乳房のように気根がぶら下った珍しいイチョウの古木などがあります。
 入り口の石段の上左側、小屋の中に収まった石碑が入っているのが目につきます。この石碑を「雷神石」と呼んでいます。上部には「天照山」その下縦書きに三行。中央が「天下和順日月清明」、右に「壇主安全子孫繁栄」、左に「伽藍常栄興仏法」そして右側面に「弘治三丁已八月吉日、可信」とあります。

 「河内名所図会」には「−ケの奇石あり」と載せているが、いつの頃からか「雷神石」の名をもつようになったその名の起こりは何によってかわからない。これは石棺であって、石棺の身の方の横壁を欠いて文字を刻し碑としたものである。打上地区には八十塚と称されて多数の古墳があったので、いずれかの古墳から掘り出されたものと思われる。碑の高さ133cm、横74cm、厚さ41cm、石質は凝灰岩である。

 十三仏石像碑は石段をあがった右側奥にあります。造立は弘治3年(1557)5月、碑の高さ127cm、舟の形をしている。上部の一番広いところで幅74cmもあるかなり大きなもので、碑の下部台座の24cm幅のところに9行にわたり37文字が刻まれています。初行に逆修弘治3年、それから十二の建立者の法名、ニ段に6行にわたっているが中央に三界万の文字一字欠字最後に五月。
  「逆修」は二通りの意味がある。一つは自らの子なり孫なりを先になくしたため、その子なり孫なりの冥福を修することである。その二は自分が死なない先から、前もって自分のために七七日やその後の仏事を修して冥福を折ることであります。
 十三仏はどうした仏かと言いますと、最下段の右から不動明王(初七日)釈迦如来(二七日)文殊菩薩(三七日)、三段日右より普賢菩薩(四七日)地蔵菩薩(五七日)弥勒菩薩(六七日)、二段日も同じく薬師如来(七七日)観世音菩薩(百日)勢至菩薩(一周忌)、一段日も右から阿弥陀如来(三周忌)阿閃如来(七周忌)大日如来(十三周忌)で、最上段の一仏は虚空蔵菩薩(三三周忌)で仏事供養にそれぞれ配当した仏たちであります。

 首なし地蔵は「雷神石」の奥にあります。鉢かずき姫の身代わりになって首を切られた地藏様だといいます。もと打上四つ辻にあったものだと言われています。

明光寺を見学した後、うっそうと茂る木立の中を上ると、高良神社=こうらじんじゃ(竹内宿禰を祀る打上の氏神)に到着。 


十三仏板碑
 最下段の右から不動明王(初七日)釈迦如来(二七日)文殊菩薩(三七日)、三段目右より普賢菩薩(四七日)地蔵菩薩(五七日)弥勒菩薩(六七日)、二段目も同じく薬師如来(七七日)観世音菩薩(百日)勢至菩薩(一周忌)、一段日も右から阿弥陀如来(三周忌)阿閃如来(七周忌)大日如来(十三周忌)で、最上段の一仏は虚空蔵菩薩(三三周忌)で仏事供養にそれぞれ配当した仏たちであります。
雷神石
明光寺の板碑
 
碑の高さ133cm、横74cm、
 厚さ41cm

●古墳時代の石棺材を利用し、それを少し加工し、文字を刻んで碑に仕立てた。材料は凝灰岩。

●偈頌(げしょう) 「天下和順 日月清明」
「伝説 無量寿経巻下」にみえる仏徳をたたえる詩。
上部には「天照山」、右に「壇主安全子孫繁栄」、左に「伽藍常栄興仏法」そして右側面に「弘治三丁已八月吉日、可信」とあります
石の宝殿(国指定史跡)
高良神社から100mばかり山へ上ると「石の宝殿」(古墳(国指定史跡)、
飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同じ構造の非常に
珍しい墓室をもつ7世紀の古墳があります。

「天岩戸大日如来」と刻んだ元禄九(1696)年の石碑
 石宝殿(いしのほうでん)古墳(国指定史跡)は、飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同じ構造の非常に珍しい墓室をもつ7世紀の古墳です
 寝屋川市東端の打上(うちあげ)の集落の中を通って裏山へ続く道の終点は高良神社ですが、この神社の東側の細い山道を100mほど進んだ所にある巨石が、石宝殿古墳です。石宝殿古墳は生駒山地からのびる丘陵に築かれた古墳です。
 巨大な花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)という硬い石をくり抜いて「石槨(せっかく)」と呼ばれる死者を葬る部分が造られています。石槨は、上面を平坦に加工した底石(下石)の上に直径3m、高さ1.5mの内部をくり抜いた蓋石を重ねたものです。
 内部は幅1m、高さ0.6m、奥行き2.3mで南側に入口があります。入口部分には左側の上下に丸い凹みがあり、本来は扉のようなものがあったと考えられます。この石槨の前には1.5mの間隔で板石が立てられており羨道(せんどう)と呼ばれる通路部分を造っています。
 同様な形をした横口式石槨は、奈良県斑鳩町の御坊山3号墳、明日香村の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)(厠(かわや))が知られているだけで、きわめて珍しい構造をもっています。  石宝殿古墳の築かれた7世紀には、奈良県の飛鳥地域および「近つ飛鳥」と呼ばれる大阪府羽曳野市・太子町・河南町に集中して天皇・皇族やその側近が葬られていると考えられる古墳が築かれており、近畿地方の他の地域では古墳の築造はほとんど行われなくなります。この時期に北河内地域で唯一築かれた石宝殿古墳は、古墳の形や埋葬施設からも、かなりの有力者が葬られていたと考えられます。
 これが作られたのは仏教文化に関連して進んだ花崗岩の加工技術が到来した7世紀頃と考えられる。石棺ではなく石郭とみなすのも、火葬後、骨を容器に入れてここに納めたと推定しているからである。「I河内名所図会」によれば、このそばから金銅製の骨壷が見出されたと言う。
 なお、前面左に「天岩戸大日如来」と刻んだ元禄九(1696)年の石碑がある。天照大神の岩戸隠れにちなみ、神仏習合の信仰を表すものといわれている。
打上神社(高良神社)
 もと高良大明神、高良神社と称されていたが、明治のはじめ今の社名に改めた。高良を名乗る宮は、筑前国(福岡県)三井郡に、京都府ハ幡ハ幡宮の境内に高良社がある。祭神は高良明神とあるが、武内宿祢であるとの古老の言葉は八幡の高良社と同一祭神である。八幡の高良社は社記に「貞観二年(860)六月十五日、行教造神殿云々」とあるから、八幡宮造営と同時の創建である。この神を当地に勧請されたとみるのが、地理上からしても無理のない解釈であろう。
 摂社に八幡大神・八大竜王を祭っているが、高良明神と八幡神とは離せない関係からしても裏づけるもので、八大竜王はやはり高地のことでもあるから、水不足に困らないよう祭られたものである。
山の根の道(妙見道)と東高野街道との合流地点
大谷南大師堂
長谷川と打上川(不朱川)との合流地点

昭和50年ごろの写真には、中会長が立たれている場所に
松の大木があった! 下記の写真と見比べて下さい!

元は、皆さんが立っている道より下が妙見道(山の根の道)だった

深谷川に架かる石橋 
右に上がる道(山の根の道)が中断されたままになっている

収穫近し 案山子が頑張っている
星田妙見道の道標
深谷川を渡る石橋で道が中断されており、ぐるりと迂回して進むと道標に出会える!
星田妙見道の道標
「大坂道」、弘化2年乙巳6月 南燈明講 願主 何某
星田妙見道と刻まれている (交野山(ほろ山)西南麓

大坂道
JR東寝屋川駅から星田妙見道を歩くMAP(U)
傍示川を渡る
 傍示川の川名は、後白河天皇の久寿2年(1155)に免税の荘園(勅免荘)ができ、その境界に「膀示木」を打って、その境界となる川を「傍示川」と呼んだ。従って、昔の国と国との界という意味ではない。
高岡山
 大池の西側の山で、旧頂上は82.2mあったが、山頂を含め南側と東側が大きく削られ、現在の標高は76.6mで山容は昔の1/3位である。
 村の伝承では、大池の築造時に高岡山の南側の峰と北側の峰の東側を大きく削り取って、大池の土材としたので元の半分位になったと言われている。それに加え平和台霊園の築造によりさらに小さくなった。
 高岡山は南北朝時代(1334)から戦国時代(1590豊臣秀吉全国統一)にかけて、小松城(廃小松寺)の一時的な砦としてしばしば使用された。
布懸遺跡(のうかけいせき)
 昭和54年に旭小学校西隣のNTT星田住宅(電電公社社宅建設予定地)より
旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された
旧石器128点と石鏃1点が出土した。直径数メートルの範囲に、約10cmほどの
深さの中に、ナイフ形石器を作りだすまでの剥片、砕片などが集中していたことから
この場所が、ナイフ形石器の制作場所であった可能性が高い。
旧石器のほとんどはサヌカイトで、二上山からの搬入と考えられている。

変形五差路(大分)

梶ゲ坂を登る

中川通り(フェンスの左は中川が流れている)
中川
 この川は、星田の中心を南北に流れその水量は多くあった。宝暦13年(1735)の星田村絵図に中川に水車が2ヶ所あったことが分かる。昭和28年には下流の乙野辺付近で、昭和42年に片町線上流付近で決壊しており、昭和45年に改修工事を行い、さらに、昭和58年には、この寺前橋の所から少し北側の善林寺の南、中小路橋までの間を道路の拡幅の目的で、川の一部を地上に残し、道路の下を暗渠にして、全体として川の流れを大きくしている。
中川通りの四つ角の道標
 星田2-7-26
すぐ星田妙見道  南燈明講 弘化2年乙巳8月(1845)

寺前橋の前、この橋は廃円通院(現在の橋の東南の角にあった)の前にあったので
寺前橋と呼ばれた。この橋の下流が中川で、上流が紐谷川である。

中川通り(中川)
この付近に水車が2台回っていた

中川通りの二尊仏(元は今池の堤に祀られていた)
今池は埋め立てられて現在は住宅地となっている。
道標「左 妙見道 すぐ大坂道」(星田9丁目2)付近
南燈明講 弘化2年乙巳8月(1845)
上垣内の四辻 道標
大坂 星田妙見道 南燈明講 弘化2年乙巳8月(1845)
じょうもん坂
上垣内の四辻の東のつきあたりの妙見堤への右側への登り坂をいう。天保11年〜安政5年の星田村大地図には、この坂の左側に「釈迦堂」が右側には「大師堂」の絵が描かれ、さらにこの坂の上から妙見橋の間の両堤には「桜並木」が描かれている。また、星田名所記の絵図にも、だいじょう坂と釈迦堂・大師堂・桜並木も一枚に描かれている。
妙見川妙見河原の桜
 妙見川は十方橋を起点に、星田妙見宮の西南部より北流し、妙見口バス停を経て、さらに天野川橋の南詰の東側で天野川に合流している。この川は、星田村の東側を流れていたため江戸時代は東川と呼んでいたが、明治元年に神仏分離の法律ができ、この頃より有名な「星田妙見宮」に因んで「妙見川」と呼ぶようになった。

妙見河原の桜
 @ 天保11年(1840)〜安政5年(1858)の星田村大絵図に、鳥居からじょうもん坂の妙見堤に
    桜並木の図が初見  天保11年に妙見宮拝殿が再建され、それを機に桜の植樹
 A 明治7年〜11年 堺県星田村絵図には、じょうもん坂の少し下流まで桜並木
 B 明治42年 西井村長時に400本の吉野桜を植える
 C 戦後(昭和20年)にすべての桜を伐採
 D 昭和44年 桜を主体とした公園計画の下じょうもん坂より下流の両岸にも桜・もみじが植えられた。

 これらにより、大阪みどりの百選「妙見の桜並木」、交野八景で「妙見の観桜」に入選し、
 大阪府下の桜の名所となっている。
 

妙見橋の西詰めに建っていた「妙見山」の道標と思われる石碑

堀江さんより、文化財事業団に調査を依頼中!

参加の皆さんが立っているところ、妙見橋の西詰めに
「妙見山」の道標が建っていた(昭和38年4月10日の写真)
今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の堀江さん有難う御座いました。
皆さん雨の中、お疲れ様でした。
でも、出発の9時頃には幸い雨も上がり、まずまずのウォーク日和となりました。

次回は、11月21日(土)、吉岡一秋さんの案内で「伏見」を歩きます。
今回初めて豪華昼食付(予約)です。
 集合は、午前9時20分、京阪枚方市駅ホーム最後部付近です。
最後までご覧いただき有難うございました!

「妙見山」道標の救助作業
2009.10.1 交野古文化同好会の有志により
妙見橋の西詰めに建っていた「妙見山」の道標の救助作業が行われました!

皆さんのお力により、
交野市立歴史民俗資料室の中庭に無事保管されました!

今回の作業により、「左 妙見山」の道標であることが確認され
無事保管されましたが、上部の「左 妙見」の部分がどこへ行ったか?
是非とも、探し出して再度最初に立っていた位置に戻したいものです。

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