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饒速日命の史跡を訪ねる
2008.7.11
長髄彦本拠の地、鳥見白庭山→鵄山→饒速日命の墳墓(檜の窪山)

 2008.7.11(金)午前9時30分、古文化同好会の有志6人は、私市共同墓地駐車場に集合。
2005年11月、故井戸桂二氏が交野古文化同好会の勉強会で、「先代旧事紀」などを基に、一考察「先代旧事紀 饒速日命 大和入りの足跡を追う」を発表された。
井戸さんに続き、交野に伝わる肩野物部氏の祖先を究明すべく饒速日命の史跡を訪ねた。

※生駒市史、井戸桂二さんの原稿を参照させていただきました。

 

「先代旧事紀 饒速日命 大和入りの足跡を追う」

井戸桂二氏の概説

 日本の古代史書として「古事記(こじき)」「日本書紀」がありますが、その後に古代の有力氏族の物部氏(もののべし)が祖先より伝承されてきたという古代伝承を書いた「先代旧事紀」が出された。それには日本の古代の夜明けと思われる異文化を伝える使者が来たことが記されている。

「天祖、天璽(てんじ)、瑞宝十種を以って、饒速日尊に授く、則ち、この尊 天祖御祖(てんそみおや)の詔(みことのり)をうけ、天の磐船(いわふね)に乗り天降り、河内国河上の哮峰(いかるがだけ)に座(いま)す。則ち遷(うつ)りて大倭国鳥見(やまとのくにとみ)の白庭山に座す」

 このことについて、多くの歴史学者が注目して研究をされたが足を運び目で確かめると言うことをされず、文献や知識により推理考察するにとどまり、大切などこに、何のために来て、何をされたか ということが示されず漠然とした神話としてしか認識できないで終わっていて、重要な国の始まりの歴史が不明のままで葬り去れようとしているように思われる。
 幸い河内国交野育ちでこのあたりの地理を知る者として素人の考察ながら、この旧事紀の場所の記述は正しく示されていることを申し述べ参考に供したい。

 この始まりの地は、河内国河上の哮峰(いかるがだけ)で、そこより大倭国鳥見(やまとのくにとみ)の白庭山(しらにわさん)に移ったとあります。
ここに来るのに天空から舞い降りたと思わせるような記述であるが、実際は丈夫な樟の木で造った船で文化の発達した国から海を渡り河をのぼって来られた。
 当時は地図を添えての記述はなく、川の名前もなかったが船を進める程の河で大倭に通じる川と言うことをうまく大きな河とあらわしその上流の哮峰のところに着いた。今の天野川を言い当てている。
 当時は気温が上昇して海水面が上がっていた時代で、現在の天野川筋に当る平野部で標高25m以下は海面下で、船が通れる入江になっていて私市の小山との谷合に河口を発見、船を進めることが出来た。谷合いを1.5km程上ると右側に兜状をした岩山が聳えている。この山は標高100m程と低いが全部が岩山で凛とした風貌で当時より哮峰(いかるがだけ)と呼ばれていたようです。(現在は哮が峰(たけるがみね)と呼んでいる)
 天野川の流れはここから上流は岩石が重なる急流になっていて船は進めない。哮峰の岩の根が流れを整え船留りが出来るようになっていて、この川岸に舟を寄せ一行が無事哮峰の麓に上陸することが出来た。
 哮峰から大倭国へは僅か数百m程だが標高差が80m位と急峻になっている。川沿いを上り切り少し行くと視界が開け、平らな丘陵が伸び、右に生駒山の東側が見え大倭に来たとわかる。それより約2km程天野川沿いに南へ進むと川が右に曲がっているところがある。そこより左を見ると小高い丘があり現在の地図に「白谷」とある。しかし、白庭も白庭山も見当たらない。
 そこで生駒市史を見ると「白谷なる地名は白庭の遺称にして当初饒速日命が哮峰よりここに遷(うつ)りて長髓彦(ながすねひこ)に擁立されし土地」とあり。

参考図「鵄山(とびやま)より白庭、日窪山を望む図」
参考図「鵄山より白庭、饒速日命墳墓地案内図」

により白庭の場所を知ることが出来た。
 @鳥見白庭山の碑は饒速日命の住居跡にある生駒郡北倭村大字白谷2838番地に
  あって、地元では「ひろしばこ」と称する数畝の畑地とある。
 A長髓彦本拠地の碑は「おばたけ」と称する2000歩ばかりの田で台地になって
  いる。北倭村白谷2700番地にある。
 B饒速日命の墳墓と伝えられているところは、日(ひ)の窪山(くぼやま)(桧の窪山)と
  いわれ、北倭村大字平井1882番地にある。
 C御炊屋姫(みかぐやひめ)の墳墓は夫婦塚と呼ばれている。

 饒速日命の住居地を地元に人はなぜ「ひろしばこ」と呼び、跡地が白庭山として伝えられてきたのかについて愚見を申し添える。
 長髓彦が饒速日命の一行を一目見て服装、持物すべてが異文化の進んだところの貴い王者と思い、ぜひ吾が側にと迎え入れ、住居(すまい)を長髓彦の本拠の身近な少し高い処に造り、吾が妹御炊屋姫(みかぐやひめ)を接待に当らせ永住いただくよう配慮。後に二人の間に宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が誕生された。
 そして貴重な稲作農法をはじめ、新しい生活文化の知識や技術の数々を授けてもらい、そのことを周りの人たちに教えた結果僅かな年数ですっかり豊かな生活をするようになった。そのために饒速日命の住居も大きくし、庭も広く造り芝生でおおった。それで住居を広い芝生のある処として広芝処(ひろしばこ)と呼ぶようになったのではと推察する。
 また饒速日命の人柄、能力が非常に優れた人だと尊称して、「ひろしばこさん」と呼んでいたものが「しらにわさん」「白庭さん」となったと考えられる。当地方では尊称して呼ぶものはすべて「さん」と呼び字で書くとき「さん」が「山」と書かれたと考える。
空想(故井戸桂二さんの空想)
空想 1 アマテラスさんとのインタビュー
○ なぜ饒速日命さんを先に派遣されたのか
  倭国は島国で文明が取り残されている。早く文化の恩恵をと思う。
  大陸文化の良いものを伝えたいが、それにはまず、渡来してくる人達の食料を確保して
  稲作を普及する指導者を先行させねばと考えた。
○ どうして倭にしたのか
  この地方は火山活動もなく自然災害の少ない安心して住むことが出来る。島の中央部に
  位置していて、周囲を山に囲まれ標高も高く安全、気候が温暖で自然の恵みも豊かで
  山野には多くの鳥獣も多くいる。この地に永年住む住民たちは知識的な素地もあり
  今後が期待できる。難波の海も近く交通上便利である。
○ 後で神武天皇を派遣したわけは
  倭の国も縄文時代より生きてきた住民も殖え社会秩序をより繁栄させるには王政治で
  みんなに文明の恩恵を入れる国づくりをしようと考えたので。
○ なぜ一旦日向に行かせられたか
  九州は渡来してきた人たちによって文化、技術を心得た人が多くいたので、その人たちを
  結集させるため

空想 2 饒速日命、長髓彦はどんな人だったか

〇 饒速日命は親から言い聞かされていたことは、他人の物を奪い合う戦という愚かなことで人々を悲しめ苦しめる世の中にしてはいけない。奪えば必ず奪われる、黙々と土を耕し種を蒔くことをしておれば収穫の度毎に嬉しい喜びに必ず出合うことが出来る。この喜びを知る生き方を続けよと教えられてきた。そのため命をつなぐ稲作づりに励んでまわりの人々に信頼される人になって、王の耳にも誠実な人格者であることが伝わっていた程の人だったと考える。
〇 長髓彦は生駒山の東の倭の高原の地で野や山にある食べ物を採り集める生活をする人たちに、人々が互いに援け合う生き方を自ら示し、人々から信頼されるようになり、広く矢田山陵地域のことはすべて知っている指導者だったのではと考える。

空想 3 饒速日命、長髓彦 二人の出合い
 未知の倭の国に入るについて協議
〇 倭とは  どこか。どれ程の距離のところか どう行けばよいか
   原住民はどんな人たちか 言葉が通じるか 先見隊が調査する
〇 初対面の心得  第一印象が一番大切、穏やかさと謙虚さ
          服装、持ち物で相手を威圧しない配慮をしよう
〇 先見隊報告   倭は直ぐ近く 川添は岩が多く険しい最短コース 
   南の山添は緩やかな山少し長い 川を上って数百メートルほどで河内と倭の境
   見張り所がある 原住民は争いをする相手でない
〇 倭入りの配慮   全員で行く  服装、持ち物は簡素にして  
   了解なく国境を越えない、見張り所から離れたところで待つ
   見張り所に取次ぎを頼む
〇 出合い 
   見張り所の取次ぎで、住民が団になって現れる
   近づいてきた時、リーダーが手に持つ棒を捨てさせる
   更に近づいた時 リーダーが両手を挙げて歓迎の身振り   
   饒速日命も前に出て両手を挙げ駆け寄る 
   二人が抱き合う 素晴らしい出合となる

 長髓彦は異国からの使者と見てとり恭順の意志を現す
   住民に指示して自分の本拠地に案内させる
   大至急で饒速日命さんの住居をつくらせる
   接待役に妹の御炊屋姫(みかきやひめ)をあたらせる等
〇 倭に来た理由の説明
  大陸では人々の知恵により技術も発達豊かな生活をしている
  倭の人々にも早く喜んでもらいたい
  その始めとして主食とする米作りを拡めるため
  大陸の人が食べている米を試食させる 
  それを作るには野山を耕し、水田作りをする
  そのための用具を見せて説明、始めて鉄で造った物を見て文明の違いを知る


空想 4 白谷に案内された時の饒速日命の土地観察

 饒速日命は長髓彦に案内されて白谷に来る道すがら、周りの地形、風景を見て、この地は稲作に適したところと思われると。それは小高い丘陵をおおうように周りを高い山に囲まれていて、その谷筋の水を集めた流れが天野川になっている。
 丘陵には繁った落葉樹の森や栗、ドングリの林が見える。この落葉が得難い肥料になる。また雨筋によって出来たと思われる小川がゆるやかな勾配で流れている。
大 陸では広い平坦な地に牛を引かせて鋤で耕すことをしていたが、ここには牛もいないようで人力で水田にしなくてはならず、このゆるやかな勾配の地なれば少しずつ平らにして水を張り、段々に水田にすることが出来る。水を引くのに高い田から低い田へ落す水引き方法ですれば、水量さえあれば広い範囲に水田が出来る。
 また、この地は全面にわたり勾配があるため浸水や冠水の心配がないこと等々、絶好の地だと見とどける。
参考図「鵄山(とびやま)より白庭、日窪山を望む図」
参考図「鵄山より白庭、饒速日命墳墓地案内図」
饒速日命の史跡探訪

私市共同墓地→国道168号線→出店南交差点→白庭台入口(稲葉)→
稲葉谷行者石仏→鳥見浦池→長髄彦本拠の地→鳥見白庭山(白谷垣内集会所)→
→鵄山バス停(高山郵便局)→鵄山→白庭台駅→饒速日命の墳墓(檜の窪山)

当日の史跡探訪の為に参考にしたホームページを記して感謝申し上げます。
 
1. 饒速日命の墳墓を訪ねて
 
2. 饒速日命の墳墓と長髄彦の本拠を訪ねる
 
稲葉谷行者石仏(いなばだにぎょうじゃせきぶつ9
 上中学校の西、約1km。白庭団地入口に、周りをコンクリートで固めた祠がある。上町白谷と南田原稲葉谷との境の崖の露出岩を船型に彫り凹めて、役の行者像が掘り出されている。安永7年(1778)の紀年が入っている江戸中の作で、丹念に彫り込んだ写実的な石仏である。
 まわりはすっかり開発されて立派な住宅街になっているが、この石仏から北へ向かって山続きで、往時は木々が茂り、田原との境は大きな谷になっていたそうである。

役の行者石像

石造物の上から鳥見浦池周辺を見渡す

長髄彦本拠の地と鳥見白庭山の石碑

地元の方から、長髄彦本拠の石碑は、現在白谷団地となっている
東へ行った田んぼの付近に立っていたのだと、説明を受ける

長髄彦本拠の石碑
長髓彦本拠地の碑は「おばたけ」と称する2000歩ばかりの田で台地に
なっている。北倭村白谷2700番地にある。(生駒市史)

長髄彦本拠の石碑の立っている池の北側に集会所があり、
鳥見白庭山の石碑は、集会所の裏庭に立っている
鳥見白庭山の碑は饒速日命の住居跡にある生駒郡北倭村大字白谷2838番地に
  あって、地元では「ひろしばこ」と称する数畝の畑地とある。(生駒市史)
鵄山

富雄川沿いの高山郵便局前が「鵄山」のバス停


月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画

バス停の道を隔てて、東側に「鵄山 是より東2丁」の石碑あり

上の写真の大きな木の丁度真ん中ぐらいの所に
金鵄発祥の処の石碑が建てられている。
農作業用の小屋から上へ上がり、左からぐるりと上へ登ったところ。

「金鵄発祥の処」の石碑
大正3年、大阪探勝わらじ会が建てたもの

金鵄発祥の処の石碑の近くに傍示杭(ぼうじくい)を発見!
今も、正月明けに双方の者が出て境界改めに竹製の杭を打つ慣わしだそうだ。
あとで、地図で確認すると、生駒市の上町と高山町の境界地らしい?

饒速日命の墳墓(檜の窪山)
 上中学の西側のケヤキ通りをまっすぐ南へ、近鉄けいはんな線の「白庭台駅」前で右折、新しく造成された道を西南へ、あすか野北3丁目の「北の広場」の北側の狭い山道を登ること、約20分で饒速日命の墳墓(檜の窪山)に到着。
 獣道のような細い道を登って行く。一応踏み跡がついており、途中火の用心の赤い標識と、関電の高圧線の鉄柱(白い鉄柱が二つ)が目印で、三つ目の紅白の高圧鉄柱の右下に墳墓はあった。

墓柱の背後には、大小の小石が小高く積まれている。
ついに、饒速日命の墳墓(檜の窪山)に出会えました!
饒速日命の墳墓と伝えられているところは、日(ひ)の窪山(くぼやま)
(桧の窪山)といわれ、北倭村大字平井1882番地にある。(生駒市史)

上記の井上氏のホームページよれば、「生駒市史」に次のように記載されて
いる。

 ・大正3年、生駒郡北倭村(現在、生駒市)に「金鵄会」が発足し、日本神話に登場する土地を 聖蹟として顕彰する立場から、地元の聖蹟を特定して盛んに顕彰に努めた。
 ・金鵄会により、「金鵄発祥史蹟考」という冊子が発行された。この中に「饒速日墳墓の所在」と題して墳墓「制定」の記述 がある。
 ・昭和15年、当時の文部省が行った聖蹟地調査にもとづき、鳥見白庭山、長髄彦本拠地、鵄山(金鵄発祥の地)などが特定されて、石碑が建てられた。その際、国定教科書の扉に写真が載せられる。
 ・敗戦に際し、米国(米軍)より、石碑の破壊を言い渡されるが、会の解散と引き替えに石碑の破壊を免れた。

饒速日命の墳墓(檜の窪山)を
DVDでお楽しみください!
(1分間)

最後までご覧頂き有難う御座いました!

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