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交野歴史健康ウォーク 117回


JR河内磐船駅 → 森ノ宮駅 → 森之宮神社 → 大阪城公園 → ピースおおさか
→ 大阪城天守閣周辺の史跡戦跡ウォーク → 京橋口 → 京阪天満橋駅



大阪城をバックに記念撮影 交野古文化同好会の旗が映えますね。


 交野歴史健康ウォーク117回は、大阪城史跡と戦跡ウォークを開催しました。

 10月三連休の初日、2011年10月8日(土)午前8時50分、JR河内磐船駅集合。朝から秋晴れに恵まれ絶好の歴史健康ウォーク日和となりました。 参加者は古文化同好会の元気なメンバー会員18名、会員外6名の合計24名。

 今年の5月の連休明けの日曜日、ピースおおさか主催の戦争ウォーク「大阪城周辺に残る戦争の傷あと」に参加し、ピースおおさか(大阪国際平和センター)で無残な戦争の数々の遺品や写真を見学、改めて戦争とは何かを問い考え、平和への祈りを誓いました。その後、森之宮神社→砲兵工廠碑→荷揚げ門→化学分析場などを訪ねた。その日の参加メンバーは老若男女様々な方々でしたが、中でも今年80歳を迎えられたというお元気な方の話に感動しました。
 
 当時13歳だったその方は切々と訴えるように、大阪砲兵工廠で体験されたことを次のように話された。

 私は昭和20年8月当時、国民学校の高等科の1年生でした。男性は兵役または徴用工として働き、近鉄の電車でも女性の運転士や車掌が大勢いました。村にある軍需工場に勤務していた知人から仕事を手伝ってほしいと頼まれ、6月から週に3,4日を動員として働きました。8月上旬に上司から陸軍砲兵工廠へ研修に連れて行くとの話があり、軍国少年だった私はワクワクしながら14日に上司と共に国鉄の京橋で降りて工廠の北門へ行きました。守衛室で係官から数桁の番号を刻印した布のベルトを受け取って腰に巻き、入廠しました。
 午前10時頃にその日1回目の空襲がありましたが、大きな損害はなかったように思います。正午前に食堂へ行く途中で敵機来襲のサイレンが鳴り。赤レンガ造りの軍の詰め所前にいた2,3人の将校が私に向かって防空壕へ避難するように指示しました。指差す方向の壕に入ったとたんに、爆弾の落下音と着弾の轟音と震動で、先に入っていた挺身隊の女子が号泣し、私も恐怖心が一杯になりました。まもなく音が静まり、全員が地上に出ました。
 私は愕然としました。赤レンガの建物が粉々に破壊されており、私に避難を指示してくれた将校が全員、耳と鼻から血を流して死亡されていたのです。今でも、私にとって一番悲しい出来事です。このことはほとんど人には話さず、8月が来ると心の中で祈っていました。

 この出会いと感動を私だけに留めず一人でも多くに方に、残酷な戦争に対する憤りと平和への祈りを感じて頂ければと、今回の戦跡ウォークを企画いたしました。少しでも私の意図することが伝われば幸いです。案内をお願いしました、大阪観光ボランティアの松本さんに感謝です。今まで知らないことが沢山あり、案内いただきお陰さまでいろいろと勉強になりました。本当に有難うございました。
また、ピースおおさかの常本さん、お忙しい中有難うございました。

写真撮影は、平田政信さんと黒田幸男さんにお願いしました。心から感謝申し上げます。

※各種資料関係は、Web(「大阪市内で戦争と平和を考える」HP)、大阪観光HP、
ピースおおさか20周年記念「写真で見る 大阪空襲」写真集、ピース大阪主催の戦跡ウォークに
参加した時に頂戴した資料と写真などを参照させて頂きました。
記して、感謝申し上げます。


10月8日、当日の大阪城周辺戦跡散策マップ

桃色に塗られた部分は、元大阪砲兵工廠跡地です。







1945年7.24撮影 毎日新聞社

1945年7月に大空襲で駅舎は半壊、
今もアーチ型の鉄骨のホームは当時のものが使われている。(JR森ノ宮駅員に確認)

その後、奥の京橋寄りのアーチ型鉄骨ホームは増設されたものである
アーチ型の中央部分が角型になっていることが、お分かりいただけると思います
JR森ノ宮駅前の直ぐ道路を隔てて西側にある森之宮神社

1945年7.24撮影  毎日新聞社
 森之宮神社は、聖徳太子が創建された元四天王寺と言われる。
今から1400数年、崇峻天皇2年(589年)7月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝を祈願され、勝った暁には四天王寺を造ることを誓われ、その戦いに勝利、先ず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)を神として祀られた。その後、太子は四天王像を造り、この森に元四天王寺を創建された。
また、正式には鵲森宮(かささぎもりのみや)という
 社伝によると、推古天皇の時に、わが国の鉄工業の祖といわれる吉士磐金(きしのいわかね)という人が、朝鮮から持ち帰った鵲を、この森で飼うたので、この名がついたと言う。
 大きな寺院だったらしく、田植え神事もあった。東の田圃の中に温泉もあったとのこと。『枕草子』のなかの「湯はななくくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」の玉造の湯はここだとも言う。
 神社の建物は空襲で燃えてしまったが、現存する社は奇跡的に残ったものという。
 元はもう少し北のほうにあったが、道路の拡張で今の場所に移された。社中きれいに洗われた。柱などに傷がはいっているのは、焼夷弾などの破片と言われる。
 また、狛犬さん、最初は青銅製であったが、戦争で供出させられ、石に作り替えたところ、次は空襲にあい台座などに破片で削られた跡が残っている。二度も被害に会うているのに、この狛犬さん、愉快な顔で「人間って、戦争するって、アホやなあ」と言っているよう。私の好きな狛犬さんの一つです。皆さんはどうですか。

狛犬にははっきりと弾痕が残っている。鳥居は元禄時代のものというが爆撃で倒れたという。そこにも弾痕がある。
 狛犬台座の裏に次のように刻まれている。
      「大東亜戦争ノ為メ青銅製ノ狛犬ヲ献納シテ之ヲ再建ス
                       昭和十九年七月」

神社の玉垣の一部が古く、戦前のもののようだ
狛犬の台座に残る弾痕
1945年7月24日の大阪大空襲で森之宮周辺は壊滅し、森之宮神社の鳥居と石の狛犬が残った
空襲にあい台座などに破片で削られた跡が残っている。二度も被害に会うているのに、
この狛犬さん、愉快な顔で「人間って、戦争するって、アホやなあ」と言っているよう。

1945年の7月の大空襲の爆撃で倒れ、
再建された元禄時代の年号の書かれた鳥居を指差して確認


↑森ノ宮の交差点の西南角のビルの屋上に建てられた社
元、森之宮神社が建てられていた所を示しているように思われる
大阪城公園に入り、元大阪砲兵工廠などについて案内する

大阪砲兵工廠について図面と写真で説明する
 大阪砲兵工廠は1870(明治3)年、造兵司として大阪城三の丸米倉跡に設立された官営軍需(ぐんじゅ)工場である。大阪造兵司、大砲製造所、陸軍造兵廠大阪工廠などと、何度も名称を変えたが、一貫して陸軍直営の兵器工場として大砲など重量兵器の製造にあたり、その金属工業技術は高く評価されていた。その敷地は、当初は現在の大阪城公園の一部に限られていたが、戦争の拡大とともに大幅に拡張され、旧城東練兵場の全域、すなわち、現在の城東区にあるJR・地下鉄車庫、森の宮公団住宅、ビジネスパークのすべてを含む約40万坪(つぼ)をしめ、最高時の従業員数は68000人にも及んだ。  

 ついには外堀まで埋め立てて工場を建てた。(この外堀の部分はラグビー場として使われていたが、最近、掘り戻し外堀になった。) 技術もすばらしく、創立時代、技師や機械は長崎製鉄所から移し、富国強兵策にのっとって新技術を取り入れ、莫大(ばくだい)な投資で明治15年には早くも反射炉が備え付けられ、日清日露の戦いの頃には拡張に次ぐ拡張で自家発電も用い、ニッケル、クロームを使った特殊鋼製造工場としては日本唯一といわれた。大正の頃からは水道用鉄管、橋梁(きょうりょう)、信管(しんかん)、馬具なども作りロシア、ポルトガル等外国からの注文も増え、大阪の金属業界の旗手ともなった。

 しかし労働条件が厳しすぎたので、ついに不満が爆発し、明治39年12月、労働者たちは「賃金引き上げ」「時間外手当増額」「待遇の公平」を要求して、ストを計画、玉造稲荷(いなり)の境内(けいだい)に代表800名が集まった。驚いた政府は大弾圧に乗り出し、代表全員が逮捕され結局ストは不発に終わるが、参加労働者は1万人を超え、戦前の大阪のスト計画としては最大のものであった。政府も譲歩(じょうほ)せざるを得なくなり、「職工扶助(ふじょ)令」という一種の共済(きょうさい)組合を作ったが、これが現在の諸官庁共済組合の先駆けとなる。

 この砲兵工廠はどういうわけか、数回にわたる大阪大空襲のときにも被害を受けず、終戦前日の8月14日に徹底的に攻撃を受け破壊された、どのくらいの死傷者があったのかははっきりしないが、多数の女子学生が学徒動員ということで動員されており、そのうち、かなりの生徒が死傷したのではないかと、教育に携わる私たちとしては心が痛む。戦後、焼跡地は不発弾が多く危険だという理由で放置され、見るも無惨な有様であった。けれども生活に困った人々は残骸(ざんがい)の鉄屑(てつくず)を奪い合い、これを追う警官との間に小さな市街戦を繰り広げた。開高健が昭和34年発表した小説「日本三文オペラ」は、当時アッバチ族と呼ばれたこの人々を描いたもので、「アパッチ族」が有名になった。

 この「砲兵工廠」の表門付近の煉瓦造りの塀と正面の煉瓦造りの平屋は、昔のままのものである。色の不ぞろいのレンガが往時のレンガ造りの未熟さを物語っている。  なお、「砲兵工廠」の碑は、大阪城ホールの南西側の外と、森ノ宮団地の中にもある。
 終戦時の従業員数は、分工場なども合わせて68,000人。職員として1,000人を超える軍人と事務、研究、医務関係など計2,640人、正規工員約40,000人、学徒と女子挺身隊が15,000余人、一般徴用工員約6,600人、朝鮮人徴用工員1,300余人であった。



航空写真 1947年撮影


↑大阪砲兵工廠で造られた大砲(靖国神社)

名古屋にある日清戦争の第一軍戦死者記念碑。
碑のまわりは24基の大砲で囲まれている。
すべて大阪砲兵工廠で作られた大砲である。
毎日新聞フォト・バンクのWebサイトに
公開されている画像の一部、 「大阪」 「空襲」で検索
サンデー毎日連載「カメラ紀行・あれから8年」
 1945年の空襲を受け残骸が8年たった
今も残る元大阪陸軍造兵工廠  1953(昭和28)年8月
空襲で煙突だけが残る大阪造兵廠と大阪城 1947年撮影


終戦前日の8月14日の空襲で徹底的に破壊された。

大阪市・西側から見た造兵廠跡
1954年08月16日撮影



「空襲や台風でぼろぼろになった大阪城一番櫓。
江戸時代以来の古建造物だ=大阪市中央区、
1950(昭和25)年3月27日撮影」
 

詳しくは、ピースおおさかのホームページを参照ください!
大阪府と大阪市が共同出資して作られたセンター。
元は、砲兵工廠の診療所があったところです
この「ピース大阪」で、戦争の恐ろしさ、非人間性、そして平和の大切さを考えてください。
この戦争が終わって60年以上たちますが、世界各地で地域紛争が頻発し、
環境破壊、貧困、飢餓など、さまざまなかたちで平和が脅かされています。
また、核兵器の存在や新たな軍事兵器の開発は、人類を滅亡させる危険をはらんでいます。

空襲や戦争を体験した人々の高齢化が進む今日、戦争の悲惨さや平和の尊さを語り合い、
若い人たちに伝えていくことがますます大切になってきています。

ピースおおさかでは、戦争と平和に関する多くの資料を収集・保存・展示するとともに、
セミナー・講演会など学習と交流の場を提供することによって、世界平和の実現に貢献できることを願っています。

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ピースおおさか主催の戦跡ウォークの掲示を説明する

ピース大阪の専門職員から説明を受ける

ピース大阪 専門職員 常本さん

大阪空襲で落とされた1トン爆弾

爆撃で溶解した鐘楼

後方は、大阪陸軍造兵廠のレンガ壁の弾痕

1945年の母子像(粟津 潔作)


ピース大阪  母子像と記念撮影


大阪観光ボランティアのお二人に城内の案内をお願いする
織田信長に抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた豊臣秀吉は、
全国統一の本拠地をこの地大阪と定め、天正11年(1583)、雄大極まりない大阪城の建築に着手した。
完成に約15年を要したその規模は現在の4〜 5倍という広大なものであり、本丸中央には金色に輝く天守がそびえていた。
しかし、元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣家滅亡とともに大阪城はすべて焼失してしまつた。

江戸時代に入つて元和6年(1620)、徳川幕府は大阪城の再建にのり出した。
10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大阪城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み上げ、
堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなつた。

しかし、この天守閣も寛文5年(1665)の落雷で焼失したまま再建されず、その他の建物も、
大手門や多聞櫓などの一部を残して明治維新(1886)の動乱で焼失してしまった。

昭和6年(1931)、当時の市長関―(せきはじめ)の提案と市民の募金により天守閣の再建が行われた。
太平洋戦争の空襲によりいくつかの建物が焼失し、天守閣も各所で破損したが、戦後の全域の公園化と、
昭和33年から41年にかけて行われた櫓・蔵などの修復、そして昭和6年当時の天守閣の姿をよみがえらせるために
平成9年に行われた「平成の大改修」により今日みられるような姿となったのである。

一番櫓を背景に大阪城の説明を聞く

いよいよ本丸への玉造口を入る
元は桝形になっていたが、当時の陸軍が大改造したため、大きく開かれています。

梅林と付近の風景を見る

この付近は、城内随一の桜の名所

蓮如上人自筆の「南無阿弥陀仏」


「南無阿弥陀仏」碑は雁木坂の上に建てられており、
この坂は「大阪国際女子マラソン」のコースで有名です。

内濠(空)と内濠
左に見える内濠(空)は、地盤が固く掘れなかったから
秀吉時代より空であったそうです

この内濠の水は雨水と湧き水だそうですが・・地下水の水脈まで掘っている?

後方に、旧第4師団司令部のレンガ造りの建物が見える

豊国神社の東、一番櫓の南にある
鶴彬(つるあきら)は,石川県高松町に生まれた。1909年1月1日のことである。
この年,伊藤博文がハルピンで暗殺されている。ま,そういう時代である。
1924年(大正13),彬は15歳にして初めて『北国柳壇』に投句をする。
柳名は喜多一児。この年,宮沢賢治が「春と修羅」を発表している。ま,そういう時代である。
1937年(昭和12)12月3日,木材通信社の事務所へ出勤してきたところを
待ち伏せしていた特効警察に逮捕され,野方署に留置。
1938年(昭和13),赤痢にかかり奥多摩病院へ入院(監視付き)。
9月14日,死去,享年29歳の短い生涯であった。

「暁を抱いて闇にゐる蕾」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い
反戦川柳を詠んだ鶴彬(つるあきら)は、石川県高松に生まれ、本名は喜多一二(きたかつじ)といいます。
南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟のうち一番東に位置しているのでこの名がある。
玉造門を側面から防御する役目をもつ。もとは乾櫓と同様の総二階造りであつたらしいが、
寛文8年(1668)大改造され現在の姿となつた。昭和40年(1965)解体修理された。


元は、二の丸南面を守る為 7棟の櫓が隅々に建てられていたそうですが、
4・5・7番櫓は戊辰戦争時に焼失し、2・3番櫓は1945年の空襲で焼失し、
現在は一番櫓と六番櫓が残るのみである。


当神社は明治元年、明治天皇が大阪に行幸になった砌、国家の為に大勲労のあった豊太閤を、
この大阪の清浄な地に奉祀する様にと仰せ出されたので、種々熟議の結果、
明治六年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には別格官幣社豊國神社の別社として
中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に、明治12年11月に創立されたました。

 大正元年中央公会堂建設の為、府立図書館の西方の公園内に移転し、
大正10年に別社から独立して府社に列せられましたが、昭和20年終戦と共に社格が廃止されたので、
現在宗教法人となって神社本庁所属の神社となりました。
 
 その後昭和31年大阪市より神社移転の要望が再開されたので、祭神に縁のある大阪城内を移転地と決定し、
昭和36年1月中之島より奉遷したのが現在の神域です。

豊国神社の立派な本殿


結婚式場
緑ゆたかな大阪城でお二人の愛の誓い・出世開運をお二人の幸せの第一歩、
豊かな雅楽の調べに包まれ、豊太閤(豊臣秀吉公)を祀る御本殿において、
伝統に則り格調高く心を込めて執り行います。

当日も、何組もの結婚式が行われて、幸せなカップルに出会いました!



秀吉像の前で記念撮影
彫刻家 中村晋也氏(平成19年文化勲章受賞)作
高さ 5.2メートル(像 3.2m 台座 2m)

豊国神社

 本庭園は京都林泉協会の創立四十周年記念事業の一つとして、会長重森三玲氏の設計並びに作庭指導のもとに完成し、
昭和四十七年十二月三日豊國神社に奉納された庭園である。本庭園の名命は豊臣秀吉公の‘秀’と石山の地名の‘石’とを取ったもので、
同時に巨石秀吉の豪健な庭園の意味を含めたものである。本庭園は、大阪の発展は海に面したことが原動力であるを以て、
一木一草を用いない海洋表現をテーマとし、この大阪城の地は元「石山」と称していたので、石山をテーマとしている。
神社の庭園の発祥が磐座・磐境にあって石を神格化する本来の意味も含め、秀吉公のゆかりの千成瓢箪の形を地割模様とし、
巨石を組み合わせ以て日本庭園の伝統の中に著名な蓬莱山石組を以て石山が表現されている。
一段高い石舞台にも瓢箪地紋を用いて、鑑賞の場となっている。尚、本庭園に使用された巨石は、阿波産の緑泥片岩である。

本丸へ入る正面玄関で、天守閣の真南に位置し、秀吉時代に
門の近くに見事な桜並木があったためこの名がついた。
明治維新時に焼失したが、明治20年に江戸時代と同じ高麗門形式で再建され
国の重要文化財にしてされている。
桜門へと向かう土橋の左右は「空堀」となっています。
桜門周辺が上町台地の中で本来一番高く地盤が堅かったため、
地下水の水脈のある深さまで掘ることが難しく、空堀になったようです。
豊臣時代の大阪城もこの部分はやはり空堀でした。

桜門の両脇に「竜虎石」があります。
   右側 ーーー 「竜石(たついし)」
   左側 ーーー 「虎石(とらいし)」

雨が降ると石の表面に、右側には竜の姿が、左側には虎の姿が
浮き出ると言われています。赤枠で囲んだ部分がそうです。

竜虎石は、中国にある四神思想から、
北は亀の形をした玄武(げんぶ)、南は朱雀(すざく)という鳥、
東は青竜(せいりゅう)、西は白虎(びゃっこ)、
この4っつの動物が4っつの方角を守るという考えです。
それに基づいた命名らしいです。

石垣に刻印が見えるそうだが、デジカメでは無理でした!

桜門前からの内濠(空)
桜門周辺が上町台地の中で本来一番高く地盤が堅かったため、
地下水の水脈のある深さまで掘ることが難しく、空堀になったようです。

豪 壮 な 造 り の 桜 門

備前岡山藩 池田忠雄が築いたもの 重量108トン

昔のヨーロッパのお城の形をした旧市立博物館です。

 昭和の初めの大不況(今とよく似ています)を吹っ飛ばそうと、天守閣を再建することにしました。
そして当時としては大金の150万円を大阪市民から寄付で集めました。
 しかし、天守閣の場所が陸軍第4師団の土地でしたので、このヨーロッパのお城のような建物を、
ごついお金をかけてつくり、第4師団司令部として寄付しました。(昭和6年完成)。
工費80万円は天守閣より金がかかりました。
そして場内に分散していた師団各庁舎をここに一括しました。西洋風建築で、
ドイツの古城に似せて調和をはかった工夫の設計です。

 1940年からは中部軍管区司令部。第4師団司令部は現在の豊国神社付近に移ります。
戦後はアメリカ軍、大阪市警、大阪府警と使用主が変わります。
しばらく無人でしたが、1960年、大阪市立博物館として1階だけ開館。
資金不足と展示品が少なく苦労しました。1962年11月、ようやく全館完成。
 2001年11月新しい歴史博物館が旧体育館跡地に完成し、現在閉鎖中。

この博物館前に秘密の地下壕がある。本土空襲が本格化した44年末か45年初め頃、
100人近い市民が作業員として集められ、6時間交代で、昼夜の突貫工事が行なわれた。
南北にやや大きい幹線の壕を軸に東側と西側にヨ型に支抗があるらしい。
幹線、支抗あわせて約300mあるという。8月14目の大空襲で工事がストップ。
1950(昭和25)年、博物館前の道路が陥没し修復工事をした。
いまでも、この付近の石垣が波うっているし、石垣に修復のあとがある。
この博物館の地下窓のそばに、塗り込められているが、地下壕への入口がわかる。

大阪府と大阪市が戦後50周年を記念して建てた
大阪城公園内に残る戦争の傷あと」の銘板

旧第4師団司令部の建物の南西角付近にあります
大阪城公園内に残る戦争の傷あと 
 先の戦争において我が国は、アジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません。大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
 ここ、大阪城公園も幾多の空襲により、1トン爆弾による大阪城天守閣の石垣のずれ(天守閣東北隅)や機銃掃射による石垣の弾痕のあと(天守閣の北・山里曲輪付近の石垣)をはじめ、空襲によると思われる石垣のずれなど数多くの戦争の傷あとを残しています。
 当時、公園内には軍事施設が多数あり、その中でも、第四師団司令部として使われた庁舎(現大阪市立博物館)は、軍事施設として大阪市内で現存している最も規模の大きな建物です。
 また、公園東側一帯に広がっていた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、面積1.18平方キロのわが国最大規模の兵器工場であり、戦争末期には大阪本廠を含めた全工場で一般工員のほかに動員学徒・女子挺身隊・一般徴用工員など64,000人が働いていました。その中には、当時の植民地支配の下で強制連行などにより集められた1,300人以上と言われる朝鮮青年も含まれていました。
 大阪陸軍造兵廠は、1945年(昭和20年)8月14日の激烈な爆撃により壊滅し、今では科学分析場として利用された施設(元自衛隊大阪地方連絡部)など一部を残すのみとなっており、本館があった場所には多目的利用ができるホールとして「大阪城ホール」が建ち、診療所があった場所には、大阪府・大阪市が共同で世界の平和と繁栄に積極的に貢献する施設として設立した「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」があります。
 戦後50周年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。
                                1996年(平成8年)3月  大阪府/大阪市 
昭和6年(1931)、当時の市長関―(せきはじめ)の提案と市民の募金により天守閣の再建が行われた。
太平洋戦争の空襲によりいくつかの建物が焼失し、天守閣も各所で破損したが、戦後の全域の公園化と、
昭和33年から41年にかけて行われた櫓・蔵などの修復、そして昭和6年当時の天守閣の姿をよみがえらせるために
平成9年に行われた「平成の大改修」により今日みられるような姿となったのである。
元和6年(1620年)から始まる大阪城修復の時に、天領小豆島(香川県)で割られたまま、
用材石としての念願かなわず、今もなお多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。
大阪城天守閣の目の前にある金明水井戸は、江戸時代には「黄金水」と呼ばれ城内第一の名水とされてきました。
秀吉が水の毒気を除くために、多くの黄金を水底に沈めたという伝説があります。
江戸時代に幕府の金貨や銀貨を保管した蔵…93uの内部は大小二つの部屋に分かれ、
手前は通常の、奥には非常の金銀を保管。腰壁は、美しい生子壁(なまこかべ)。
床はすべて石敷きで、扉は2重の土戸と鉄格子の3重構造と防犯にも防災にもバッチリです。

1626年三代将軍家光の時に築造され、その後、天保8年(1837年)に改修されて今日に至っている。

1トン爆弾でずれた天守閣の石垣



天守閣の西南隅の方にも1トン爆弾が落ちましたが、
ここはのちに石垣を補修(白い石板を貼って補修した石垣)そうです。


天守閣から山里口へと歩く


加藤家 伊予(大洲藩)の刻印

本丸帯曲輪の石垣刻印
伊予大洲藩加藤五郎八(恭興)“くつわ紋=丸に十字形”と
丹波園部藩小出信濃守(吉親)“丸に二八”との丁場境界付近。
寛永元年(1624年)の工事。


加藤家 伊予(大洲藩)の刻印(上) と
小出家(丹波園部藩・但馬出石藩)の刻印(下)



内濠の石垣に、「一に○」の書かれた毛利輝元の刻印石

内濠 隠し曲輪にある毛利の刻印


阪城公園の山里丸地区では、極楽橋(ごくらくばし)、刻印石広場(こくいんせきひろば)、
山里丸(やまざとまる)、秀頼・淀殿ら自刃の地の碑を見ることが出来ます。


豊臣秀吉は城内に里山の静寂な風情を持った曲輪を設け、千利休などと
と共に茶会を楽しんだと言われている。


山里曲輪(やまざとくるわ)の石垣に残る弾痕

 刻印広場から天守閣に行こうとする坂を上る右手の石垣の下の方に点々と石垣の石が
えぐれたところがあり、これが「機銃掃射」のあとです。

 戦争も終わり頃になりますと、アメリカのP51(ムスタング 硫黄島から飛来)や
F6F(グラマン 空母の艦載機)が地上の人影を見ると撃ちまくったのです。
その弾のあとです。想像すると恐ろしくなります。


山里丸の広場、真ん中の階段が当時のもので、
現在は、車いすでも上がれるように坂道が設けられている
小さな碑であるが、戦時中沢山の優秀な女性が
必死に働いていたことを物語っている大切な碑である。
、「刻印広場」の一角に、小さな目立たない碑がある。
碑には「真心」とだけ書かれている。碑の裏には次のように書かれている。

 旧中部第三十五航空情報隊
     女子防空通信手有志
      昭和四十一年十一月吉日

 ここ山里曲輪のあたりには太平洋戦争の終わり頃、女子防空通信隊(翼隊)の宿舎があった。
1945(昭和20)年6月1日の空襲で焼夷弾により焼失した。

 太平洋戦争も末期になる1943(昭和18)年、軍では兵隊を前線に送り込むため、
女子でもできる仕事は女子にということで軍属として「女子防空通信手」を採用することにした。
高等女学校卒業程度の学力を求め、府下全域から募集し、約10倍の競争率であったという。
1945(昭和20)年には、全体で300名が100人ずつ3組に編成され、常時2組が城内にあり、
48時間のうち防空庁舎勤務と宿舎での内務を交代で勤め、1組は非番だった。

 勤務していた防空庁舎は桜門内側左側の堀端にあった。迷彩をほどこしたコンクリート3階建、
1階は半地下になっていて、空気抜きの小窓があるくらいのトーチカのような建物だった。
(名古屋では250キロ爆弾の直撃に耐えるようにつくられたという)

 採用された女子防空通信手は全国の航空基地、要塞・監視哨の位置、電気、電話、航空機の機種の種別、
航空情報機の操作、軍の略号速記などの教育を受けた後、配属された。関係府県庁への連絡、
警報の伝達、電話交換機係、民防空監視隊本部及び電波警戒小隊よりの情報表示、
海上の船舶、離島からの略号による無線航空情報の翻訳などに従事した。

 作戦室の参謀が接する情報はすべて女子防空通信手の手を通ったものであった。
彼女たちは突然とびこんでくる情報を正確に記録、表示することに神経を集中し、
大阪城や砲兵工廠(当時は「陸軍造兵廠」)への爆撃中もその部署を離れることはなかった。それが戦争であった。

石垣刻印と刻印広場
 石垣には、多種多様の文様や記号が刻み込まれていてこれを“刻印”と呼んでいる。
 この刻印には、大名の家紋を刻んだものがあり、江戸初期の大坂城再築の折に、
石垣を築いた大名の持場を表している。その他、刻印には、石の産地を表したものや、
奉行の姓名を記したものなど、様々な刻印があり、今後の研究が待たれる。
 また、大阪城では、本丸北側の山里曲輪に市内から出土したさまざまな刻印石を集めた刻印広場を設けている。  
秀頼・淀殿ら自刃の地

山里丸から極楽橋へと
極楽橋の名前は大坂本願寺を極楽浄土に見立てて、
そこに至るための橋という意味で、この地を大坂本願寺の本山として以来、
その名は引き継がれています。

極楽橋の擬宝珠は最近新装されたそうです。
向こうには、ビジネスパーク街のビルが林立しています。

極楽橋から見る内濠

極楽橋で一旦解散しましたが、ウォーク本隊は京橋口から大阪砲兵工廠の表門などを訪ねました。

大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)表門と守衛詰め所

大阪砲兵工廠にはいくつかの門があったが、ここが正門である。
入った横に守衛詰め所が当時のまま残っている。正門前に明治天皇が来たという碑が建っている。

門の外側には、「砲兵工廠明治天皇聖躅」碑が建っている

砲兵工廠 化学分析場



1919年(大正8年)に建てられた左右対称のネオルネサンス風赤レンガ2階建て、
のべ面積は1887平方メートル。著名な建築家、置塩(おしお)章氏の設計になる重厚な建物で、
ここで新兵器の開発・研究や化学実験などが行われていた。
 1987年まで自衛隊連絡部庁舎として使われていた。
砲兵工廠の本館がなくなり(大阪城ホールになっている)、
診療所が消え(ピース大阪になっている)、今、砲兵工廠の遺構を伝える建物である。




大坂橋から見える砲兵工廠化学分析場の建物

大阪城と砲兵工廠化学分析場
周囲の緑に溶け込んで素晴らしい風景だ!
 
大坂橋命名の由来
1925年、東横堀川の浚渫中に「大坂橋 天正13年」(1585年)の銘が
刻された擬宝珠(ぎぼし)が発見された事にちなんでいる。
この「大坂橋」が当時どこに架かっていたのかは不明である。


大坂橋からビジネスパーク街を見る

ビル街の向こうに山並みが見え、交野山も遠望されるとか。
次回の歴史健康ウォークは、11月12日(土)、星田〜香里 陸軍用地の石碑巡りです。
午前10時、JR星田駅集合、皆さん奮ってご参加ください!

最後までご覧頂き有難う御座いました!

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