関ヶ原を一望できる笹尾山に本陣をおいた石田三成。 抜群の陣地の配置と言われ、当初は西軍優勢とみられていた。 5分ほどで登れる展望台からは、三成が見たであろう景色を望むことができる。 すぐ傍に蒲生郷舎と嶋 左近の陣跡がある。 |
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関ヶ原の戦いの音声ガイダンス | |
石田三成の旗印 | |
『大一大万大吉』は家紋ではなく旗印です。 旗印の『大一大万大吉』の意味は 「一人が万民のために、万民は一人のために尽くすことで、天下は太平になる」という説と、 単に縁起のいい文字(一、万、吉)に大の字をつけただけという説があります。 家紋=その家をあらわす印。 旗印=だれが軍勢を率いているのかがひと目でわかる印。 馬印=その軍勢の大将の居場所をあらわす印。 旗指物=軍旗や幟の総称で、旗印も含まれる。 |
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新明神社の裏側に得意の鉄砲で次々と敵を狙撃した島津義弘隊の陣跡がある。 小早川の寝返りで戦況が一変して敗色濃厚となると、 島津隊は東軍の中央を敵中強行突破し、見事伊勢街道への脱出に成功する。 俗に島津の「捨てがまり」、といわれ後々まで語りつがれております。 |
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決戦の朝、霧が薄くなった8時頃松平・井伊隊が動く。 先峰の福島隊の脇を通り抜けて発砲。 怒った福島正則が、宇喜多隊に対して一斉射撃をしかけたのがこの場所だと言われている。 |
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関ヶ原合戦400年記念平和の杜 モニュメント |
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小西行長は、ここ北天満山に6の千余の兵を率いて参戦しました。 午前8時頃、戦闘開始の狼火を挙げ、味方に合図をすると共に 西軍主力の一つとして勇戦しています。 しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、 それに乗じた本多隊の襲撃で、兵士たちが敗走しはじたのは午後一時過ぎのことでした。 |
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くねくねと曲がる道、北国街道筋 |
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宇喜多秀家は副総師として約1万7千という西軍の主力部隊を率いて参戦。 開戦直後から攻め込まれたから、激しい戦いが繰り広げられた場所だと考えられる。 現在は杉の木が茂る南天満山の麓、天満神社の境内に陣跡が残っている。 |
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672年に起きた{壬申の乱}と古代の関所について学ぶことができる資料館である。 関所跡から出土した貴重な土器類や、当時の兵士像の展示、 不破関を復元したジオラマなどを常設してあります。 |
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中山道 | |
不破関守跡 672年の壬申の乱後、不破関の重要性から不破関が設置され、天下の変乱に備えた。 不破関は越前の愛発、伊勢の鈴鹿と共に日本の三関という。 |
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松尾芭蕉句碑 不破関守跡庭園内 秋風や 藪も畠も 不破の関 |
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皆様、大変お疲れ様でした!無事終了いたしました! |