寺は倉治と同じく村の位置を変えている。最初の寺の集落は交野高校の北側、今池の南の田んぼの中であった。小字名は「いまい」と言っている。それは弥生時代、稲作を中心とした集落で、村の名を「てるは」と呼んでいた。
しかし、古墳時代になると大陸から新しい文化が入り、また、渡来人もやってきた。
彼らは進んだ文化、技術を持っており、大和、山背、河内のあちら、こちらに居を構えた。交野の地にもやってきた。津田山(津田)、交野山(倉治)、竜王山(寺)の三カ所に別れて住んだが、彼らは製紙や機織の技術に優れたものを持っていた。寺の背後にそびえる竜王山のふもと、現在の寺の集落の地に住んで機織を専業とした。この村の名を「はたやま村」と呼んだ。進んだ機織の技術を持って生産した製糸は、当時の日本においては高級品であった。それゆえ、この村の支配者(豪族)は相当の力を持ったであろう。寺の周囲に点在する多数の横穴式古墳が存在することでも、そのことがうかがえる。
この繁栄も長くは続かなかったらしい。竜王山一帯は風化した花こう岩地帯である。一度、大雨、集中豪雨でもあれば、多くの土砂を下に流す。それによって崖崩れ、川のはん濫、土石流等によって、ふもと「はたやま村」も寂れ、また、下の「いまい」にいた「てるは」村の人々も土砂に埋まり、生活ができなくなった。
「てるは」の人々は山ろくの尾根筋を中心とした場所に移り住み、農耕は北川、南川に挟まれた低地へ出向いていった。元の「はたやま村」ではなく、農耕を主にした「てるは村」になった。その「てるは」が時代がさがるにつれ、いつのまにか「てら」となってしまったということである。
歴史ウォーク地名を歩くシリーズ (交野古文化同好会 平田さん)
歴史健康ウォークも回を重ねること37回を数えました。
ふるさと交野の町を毎月2回「いきいきらんど」を出発点として約2時間程度、健康を兼ねた歴史ウォークを行っております。
同じコースでも春夏秋冬歩くことによって違う見方、感じ方も出来ますし、思わぬところに発見もあります。古い町並みをあるいたり、石仏を訪ねたり、池シリーズで灌漑用の小さな池を訪ねたり、森地区などでは歩いた後で池はいくつあった???29ヶ所に参加者も驚く。
そして今は「地名シリーズ」ということで森・寺地区を歩いております。「あなたの足下に地名がある」地名は、人間とのかかわりが出来たから出来たのです。
この「出来たから出来た」を調べていけば人間の感情も知恵もよくわかる。
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