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 交野歴史健康ウォーク

2002.9.28 寺地区の地名を歩く 第37回 

9/28、寺(今井)地名を歩く
交野ドーム→北川→交野松下福祉工場→上河原旧私部村
→寺墓地→旧今池地区→向井田(今井)→交野ドーム


寺地区の地名を歩くMAP

(てら)地名の由来


 
寺は倉治と同じく村の位置を変えている。最初の寺の集落は交野高校の北側、今池の南の田んぼの中であった。小字名は「いまい」と言っている。それは弥生時代、稲作を中心とした集落で、村の名を「てるは」と呼んでいた。向井田(旧今井村)から交野山を望む(交野ドームから東へ100m)
 しかし、古墳時代になると大陸から新しい文化が入り、また、渡来人もやってきた。
 彼らは進んだ文化、技術を持っており、大和、山背、河内のあちら、こちらに居を構えた。交野の地にもやってきた。津田山(津田)、交野山(倉治)、竜王山(寺)の三カ所に別れて住んだが、彼らは製紙や機織の技術に優れたものを持っていた。寺の背後にそびえる竜王山のふもと、現在の寺の集落の地に住んで機織を専業とした。この村の名を「はたやま村」と呼んだ。進んだ機織の技術を持って生産した製糸は、当時の日本においては高級品であった。それゆえ、この村の支配者(豪族)は相当の力を持ったであろう。寺の周囲に点在する多数の横穴式古墳が存在することでも、そのことがうかがえる。
 この繁栄も長くは続かなかったらしい。竜王山一帯は風化した花こう岩地帯である。一度、大雨、集中豪雨でもあれば、多くの土砂を下に流す。それによって崖崩れ、川のはん濫、土石流等によって、ふもと「はたやま村」も寂れ、また、下の「いまい」にいた「てるは」村の人々も土砂に埋まり、生活ができなくなった。
 「てるは」の人々は山ろくの尾根筋を中心とした場所に移り住み、農耕は北川、南川に挟まれた低地へ出向いていった。元の「はたやま村」ではなく、農耕を主にした「てるは村」になった。その「てるは」が時代がさがるにつれ、いつのまにか「てら」となってしまったということである。


歴史ウォーク地名を歩くシリーズ  (交野古文化同好会 平田さん)
 
 歴史健康ウォークも回を重ねること37回を数えました。
 ふるさと交野の町を毎月2回「いきいきらんど」を出発点として約2時間程度、健康を兼ねた歴史ウォークを行っております。
 同じコースでも春夏秋冬歩くことによって違う見方、感じ方も出来ますし、思わぬところに発見もあります。古い町並みをあるいたり、石仏を訪ねたり、池シリーズで灌漑用の小さな池を訪ねたり、森地区などでは歩いた後で池はいくつあった???29ヶ所に参加者も驚く。
 そして今は「地名シリーズ」ということで森・寺地区を歩いております。「あなたの足下に地名がある」地名は、人間とのかかわりが出来たから出来たのです。

この「出来たから出来た」を調べていけば人間の感情も知恵もよくわかる


寺の旧村(今井)を展望
手前が冷田、岡田、古宮ノ上と続く
高台を学研都市線が走る
交野養護学校北側
この付近旧地名は丑墓
創価学園側は高塚と言った
寺の共同墓地
石柱の立派な「お見送り場」
寺の共同墓地
最近、寺の西側が整理され
出てこられた石仏たち


 2002.9.28(土)天候曇り。明け方まで降り続いていた雨もやっと上がった。参加者7名。9時過ぎ交野ドームを出発した。北川沿いを東へ寺村に向けて進み、JR学研都市線高架下をくぐり交野養護学校と交野松下福祉工場の間を抜けると、左手に緑一面のブドウ畑に出る。初夏にはブドウ狩りで、甘酸っぱいブドウの味が楽しめる場所である。大畑から交野山を望む
 交野養護学校から東の地域を丑墓といい、創価学園側を高塚といったそうだ。丑墓は家畜の墓で、高塚は、平安時代惟喬(これたか)親王が鷹狩をしたこと、鷹の首が埋められたからと伝えられている。高塚からその南の飛尾(とびの)にかけて、横穴式の古墳が散在している。これらの古墳はだいたい6世紀ごろと推定されており、交野でも著しく古墳の多い所である。
現在は、創価学園の素晴らしい学舎が建ち並ぶ一大学園地となっている。
 大和へ抜ける郡南街道を少し行くと左に倉治墓地、右に寺共同墓地がある。この辺りを尾上という。墓地に入る手前の金網に隠れて見つけにくいが、道の北側に「上河原旧私部村落遺跡」と彫られた石碑が立っている。
 ここは元禄4年(1691年)傍示谷にほらが吹いて、旧私部の部落が流されたところで、上河原という地名が出来た。
 また、この辺りの扇状地域には、沢山の松の木が茂っていたが、明治34、35年の頃切られて四條畷中学(府立四條畷高校)の校舎の材木に使われた。松を切ったあとに桃が植えられ、春には辺り一面ピンク色に染まり見事なものだったそうだ。関西鉄道唱歌に「星田を跡に津田に来て 見渡す限り桃林 さぞや花時一帯の 紅雲天に焦がすらん」と歌われている
 その後、昭和35年から36年にかけてブドウ畑に変わった。
 寺墓地に入ると迎え地蔵の西隣の無縁墓の前に、沢山の地蔵さんがおかれていた。最近、共同墓地の西側が整備されて土に埋もれたり、あちこちに散在されていたお地蔵さんが出てこられたのだ。何時の頃の物かは判別できないが、昔の人々が、病から逃れ健康を念じて一心に彫られた素朴な地蔵様たち。先祖を敬い作り続けられたお地蔵様たち。
 葬列(そうれん)は本来野辺送りを中心としたもので、決まった道筋(そうれん道)を通って遺体を葬地へ送った。葬列が村墓へ着くと、導師は迎え仏の手前で席に着く。そして、迎え仏と席の間を往き来する。輿が墓地に着いたら、「蓮華石」の周囲を左に3回廻っておろした。「町たて」といって・割竹に紙を螺旋状に巻きつけ、上部に椿の葉をつきさし、その上に蝋燭を立てる。この「町たて」を町角・墓地の迎え仏の前に立てたという。
 こんな風習が偲ばれる、共同墓地だった。綺麗な「蓮華石」に、立派な「お見送り場」が大事に保存されている。
古宮ノ上から今井へ歩く、奥に見えるのは交野高校
 創価学園の真東の山地の北山から流れる北川を越し、しばらく南に行くと寺今池という大きな池が近年埋め立てられてゴミの廃棄場となった場所がある。ここで道路を左に下りて、くるりと西に向くと小さなトンネルがあり、薄暗い中を抜けると廃棄場の前に出た。初めて歩く道だった。すこし東に歩いて振り向くと、綺麗に稔った稲穂の向こうに悠然と交野山が座っておられた。綺麗な風景だった。
 何者かに誘われるように、学研都市線をまたぎ、古宮ノ上に出た。
綺麗な風景が目の前に広がり、今井川に沿って下ると黄色に稔った田圃の上を爽やかな風が通り抜けた。これぞ、極楽風のあまりものというのだろうか。
 薄曇の中、気持ちがすーっと洗われた、そんな得したウォークでした。 普段歩いたことのない場所を、また何気ない場所にふと立ち止まって周りを見渡してください。気持ちが洗われるものです。野辺をゆっくりと散策しましょう。きっとご満足されることでしょう。

 平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!



【ミニガイド】 地名の由来

今井(いまい) 
 寺より流れる南川を挟んで、府立交野高校の北側の水田地帯を「今井」と呼んでいる。
 「今井」は新しい水路、あるいは堰(せき)のことで、開墾地に水を導く場合の用水路のことである。そこから発展して新しく生まれた村落を指す言葉でもある。寺の今井は、今池というかんがい用のため池が造られ、この水を引いて水田にした。今池からの用水路を「いまい川」と言い、今井まで来て北に折れ、玉泉池(ぎょくせんいけ)へ流れている。今井川が北へ折れる辻合から交野山を望む
 今井が古い集落であるというのは、今井の隣の小字名が「古宮ノ上」という。また、今井の中に「古宮」がある。古宮というのは「てるは村」の神社であった。

古宮ノ上ふるみやのうえ)
 交野高等学校の真東、寺今池の西に位置し、今井より一段高くなった土地である。今井に集落があった時代、この一段高い地に氏神を祭ったものと思われる。村が今井から現在の山すそにある住吉神社に移ったが、地名として残ったものである。古宮ノ上、今井の地の西を流れる南川は天井川であるため、大雨が降ればはん濫を起こしたであろう。古宮ノ上、今井は当然、水害を被り、土砂のたい積を見たはずである。幾度となく田の作り直しをやってきたであろう。
今池から西に流れる今井川が南川から下りてきた農道と合う所で北へ流れる。この折れる所を「辻あい」と呼んでいる。府道交野久御山線を横切り、玉泉池へ流れ込む。一部は玉泉池の手前を西へ流れ向井田の方へ流れる。

丑墓(うしばか)  
 北川の右岸、創価学園の西側の畑地の所である。「丑(うし)」は方角を指している。地図では寺から真北になる。丑にすると少し東に振るのであるが、古くからの概念や土地柄で磁石の北とは少々ずれることはよくある。
 村の人々の言い伝えとして、牛を葬った所だと言っている。昔は農耕用はすべて牛に頼っていた。その大切な牛が死ねば大切に葬ったのである。その墓が丑墓の地であった。
 方角の丑と家畜の牛とが混同されているが、主として家畜の墓場であったことは間違いないだろう。人の墓は創価学園の北、「尾上」の地にある。

高塚(たかつか)  
 寺の北、現在は創価学園の校地にほとんど包含されている。言い伝えによると、平安時代、惟喬(これたか)親王と呼ばれる高貴な方がおいでになった所であるとか、あるいは鷹(たか)の首が埋めてあったところから「たかつか」と呼ばれたという
 しかし、実際には高塚からその南の飛尾(とびの)にかけて、横穴式の古墳が散在している。これらの古墳はだいたい6世紀ごろと推定されている。寺には交野でも著しく古墳の多い所である。やはり機織を中心とする渡来人がやってきて、勢力優勢であったことがうかがえる。南野の交野高等学校のそばにある車塚も同様の古墳である。高塚の場合は小型の横穴式で数も多く群集墳である。

的場(まとば)
 住吉神社の南の段々状の水田になる。寺では毎年正月八日に「お弓」という収穫を占う行事がある。その的をこの田に立て、住吉神社の所から矢を射るのである。的に矢が何本突き刺さるかで、その年の収穫の豊凶を占うのであろう。的場は「お弓」の行事に使用される的を立てた場所を呼んでいる。

北山・中山・南山
 創価学園の真東の山地が北山、寺の集落の真東、すなわち竜王山頂上部一帯が中山、落子谷から南が南山となっている
 寺の場合、山の部分の地名はこの三つに大きく分けられており、倉治は交野山一つである。ほかの森、私市、星田は山の中も細かく、いろいろな小字名が付けられている。寺は村から東を見て山地が切れ(尾根や谷)のよい所で大きく三分している。非常に分かりやすい区分である。そして、山ろく部分は耕地(畑、水田)との境が境界になっており、これも山地、耕地と小字名ではっきり分けられているという特徴を持っている。
 南山の中ほど、路示から森で出る道の途中に南山遺跡がある。そこは砂取り場になっているが、南山から北で突き出した尾根筋にあたる。道路で切られた残りの突端部に立つと、交野の町並みや寺の景観が一望される。
物見の場所としては、これ以上の所がないほどである。物見の背後の斜面に弥生時代の高地性集落が立地していたことは、ここと竜王山の両地点を押さえれば、傍示から寺へ抜ける落子谷は防御できる。また、寺の北部、創価学園の手前の低い丘陵地を飛尾(とびの)と呼ぶが、「飛火野」ではないかという説がある。それは、この物見から一直線に見える所であること。寺周囲より小高い丘になっていることも好条件である。それゆえ、のろしを上げた場所であるので「飛火野」と呼ばれたのが、その意味がなくなることによって。「飛野」が「飛尾」になったと思われる。

大畑(おばたけ)
南川橋から北、今池を含んだ地域をいう。南川橋の交差点の北一帯は一段高い岡状になっている。古宮ノ上よりは相当高い。(古宮ノ上 37m、大畑 44〜46m)南川はこの当りは開析谷となっているので谷をつくっている。よって水田にはなりえない土地である。畑作として利用するのが精々であったため付けられた地名であろう。
 また、今池は現在埋め立てられ、寺で一番大きな池が消えてしまった。江戸時代に寺と私部とがいっしょになって造った池であった。水の使用に関しては寺が天領であったために権利が強かったと言われている。

尾上(おがみ)
 府道枚方大和郡山線(通称、郡南街道)の南側で、創価学園までの地域である。寺の墓地が広がっている。他は神宮寺から続いているぶどう畑である。
 この道筋に墓地が集中している。郡南街道を挟んで北側に倉治の墓地があり、国鉄片町線を西に越した所に私部の墓地がある。これは何を意味するのであろうか。倉治、私部、寺、いずれの場所からも適当に離れた土地であり、山陰であり、水田、畑作地としては不向きな地形であることから墓地としての適地と考えられたのではないだろうか。

上河原(かみがわら)
 奈良県の高山、傍示を通ってきた道
(郡南街道〉が交野山の南の背を降りてくる。この道の降りた所からJR片町線を越えて、私部の墓地、大池辺りまでが「上河原」と呼ばれている。この谷から前面、ちょうど上河原の辺りが扇状地性の地形になっている。JR片町線まではほとんどがぶどう畑で占めらている。土地は山から運ばれてたい積した花こう岩の土砂である。水はけは非常に良い。
 この上河原に江戸時代の前期まで私部の集落があった。津田、倉治、寺、森と同じように山のふもとに沿った所であった。しかし、この谷は大雨があると谷川が崩壊した土砂を多量に下流に流し出してしまう。特に元禄4年(1694)の大雨による土砂流出によって上河原にあった集落を押しつぶしてしまったので、それ以後、現在の地に移転したと言われている。地形の形状からは、まるで河原そっくりだということで、私部の上にあるので「上河原」と付けられた。

郡南街道上り口に石仏あり
倉治共同墓地東側
上河原私部部落跡地
寺の共同墓地付近の
尾上に立つ石碑

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