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交野歴史健康ウォーク 183回

交野古文化同好会バス見学会

近つ飛鳥博物館・一須賀古墳群
聖徳太子ゆかりの地・太子町周辺散策
2019.5.18(土)  43名参加

行   程 : 交野8時30分出発=交野南IC=藤井寺IC=
=安閑天皇陵(高屋城跡)=一須賀古墳群・近つ飛鳥博物館
=昼食=叡福寺・聖徳太子廟=推古天皇陵=道の駅・近つ飛鳥太子
=竹内街道=大道旧山本家住宅=孝徳天皇陵=竹内街道資料館
=道の駅=太子IC=交野南IC=交野市午後4時40分頃解散

 交野古文化同好会の特別企画「近つ飛鳥博物館・聖徳太子ゆかりの地散策」バス見学会、役員の皆様、ご参加いただいた会員の皆様のご支援・ご協力のお陰で無事、事故もなく開催出来ましたことを心より感謝申し上げます。

 今回のバス旅行は天候にも恵まれ、また高尾秀司様の丁寧な案内により、近つ飛鳥風土記の丘・一須賀古墳群、大阪府立近つ飛鳥博物館、叡福寺、推古天皇陵、竹内街道・大道旧山本家住宅、孝徳天皇陵、竹内街道博物館などを詳しく解説を受けながらゆっくりと散策することが出来、大変すばらしい歴史ウォークとなり、主催者側としましてホッと胸をなでおろしている所です。
 交野を定刻8時30分に出発。藤井寺ICまでと帰りの車中で約40分、「高島礼子のくら探訪のDVD」を楽しく鑑賞させて頂きました。準備して頂いた藤田さん、金沢夫妻様大変お世話になりました。
 今回のメインテーマの「近つ飛鳥博物館」では、当館の学芸員の方から近つ飛鳥の歴史的な解説と展示品について概略説明を受けました。
 また、28名と限定されましたが、管内の展示について音声で詳しく解説する「音声ガイド」の貸出サービスが嬉しく時間をかけて詳しく鑑賞出来ました。

 安藤忠雄氏の奇抜な博物館の階段状の屋上にて昼食を摂り、午後は、先ず「聖徳太子御廟所 叡福寺へ。住職様より、叡福寺の歴史や聖徳太子自らが廟所として選定された磯長廟のこと、聖徳太子が制定された「17条憲法」、第1条の「和をもって貴しとせよ、さからうことなきを宗とせよ」など、有難い御高話を頂戴しました。宝物館で聖徳太子の数々の貴重な展示品を鑑賞、続いて「聖徳太子御廟所」にお参り感動しました。

 最後は、道の駅・近つ飛鳥の里太子に寄り、日本最古の官道・竹内街道を散策、大道旧山本家住宅、孝徳天皇陵、竹内街道博物館をゆっくりと見学し、太子町の銘品菓子を手土産に太子ICから午後4時40分頃、交野へ帰着いたしました。

 参加された方々から、「久しぶりに訪れた近つ飛鳥・一須賀古墳。なかなか個人的には行けない所、役員の皆様有難うございました。お土産まで戴き有難う。」「近つ飛鳥博物館で音声ガイドを聞きながら見学できて大変良かったです。山本家は大変興味深く見れました。」「始めてきたところばかりでしたが、天候も良く気持ちよく参加でき、大変有意義で楽しいバス見学会でした。お世話くださり有難うございました。」「良い雰囲気で古代遺産を感知できました。」「聖徳太子、大化の改新などこの頃の歴史に特に興味があったのでとても勉強になりました。」「古の歴史に触れ、太子廟を拝むことが出来て感動です。」「随分前から竹内街道を耳にしていた。今日、歩く体験をして充実嬉しかった。」などと大好評でした。
  

 ※本ホームページを記載するにあたり、
 近つ飛鳥博物館、叡福寺、竹内街道資料館などで頂戴しました各種の資料・パンフレット・チラシ、及び関連のHP、WEB記事など参考に作成させていただきました。記して感謝申し上げます。
叡福寺 金堂前にて 記念撮影
 

  交野古文化同好会 特別企画 「近つ飛鳥・聖徳太子ゆかりの地散策」
 
   
 聖徳太子ゆかりの地散策MAP
 
 
 
 
 高島礼子のくら探訪・DVDを楽しく鑑賞
 交野市を出発して、藤井寺ICまでと帰りの車中で約40分、
高島礼子のくら探訪のDVDを楽しく鑑賞させて頂きました。
準備して頂いた藤田さん、金沢夫妻様大変お世話になりました。



車窓より 安閑天皇陵(陵内に高屋城があった)
 27代安閑天皇は26代継体天皇の第1子で母は尾張連草香の娘、目子姫とされる。高屋城は1400年末頃?畠山氏によって築城約80年間続くが一時期安見宗房が守護(代)を務めたことがあるようです。地元に残る文献によると永禄三年(1560年)の記録に高屋城 城代 安見美作守宗房の名前で「定」を発行しているのが残っております。高屋城は平地に造られた連郭式の城と考えられておりますが、天皇陵の為立ち入っての調査が出来ません。
 
 
 近つ飛鳥風土記の丘  一須賀古墳群を巡る
 一須賀古墳群
一須賀古墳群は河南町と太子町にまたがる広大な群集墳でおよそ1, 5km四方の範囲に23群、260基あまりの古墳が確認されております。古墳は横穴式石室を埋葬施設とする直径10〜20mの円墳で大阪府と奈良県とを隔てる金剛葛城山系の山並みに造られております。
 6世紀前葉から7世紀前葉のおよそ100年に渡つて古墳の造営が続けられ、なかでも6世紀後半にもっとも多くつくられました。この古墳群の特徴は副葬品として、冠、履(くつ)、環頭太刀、耳飾り、指輸、など、特に金銅製靴や、垂飾付耳飾りなど朝鮮半島からもたらされたと考えられる品々が含まれるのが特徴です。被葬者の多くが渡来人の可能性が大であります。
 
 
 
 
 
 
移築された寛弘寺古墳群の横穴式石室
 
 
B支郡 7号墳
 須恵器窯跡
 
 
須恵器 窯跡

D 4号墳
大阪府立 近つ飛鳥博物館
 近つ飛鳥博物館
この建物は安藤忠雄氏の設計によるもので、展示物と一体化するダイナミックな展示空間となっております。展示内容としては古代国家の形成過程と国際興隆の様子を実物の土器や映像ソフトなどで紹介。『仁徳天皇陵古墳』」を築造当時の姿に再現した直径10mの復元模型、埴輪や石棺、甲冑などの鉄製品、横穴式石室がならび、その多くはガラス越しではない展示形式をとつている。今年の2月に訪れた時には交野の坊領遺跡の遺物が展示されておりました。
 写真は四条畷・蔀屋北遺跡から見つかった全身の馬の骨格です。(日本初)
 
四条畷・蔀屋北遺跡から見つかった全身の馬の骨格です。(日本初)
 



当館の学芸員の方から近つ飛鳥の歴史的な解説と
展示品について概略説明を受けました。
 交野で出土した遺物2点が展示されていました!
 
交野の東車塚古墳より出土した短甲埴輪
 

交野の月の輪 滝が広から出土した皇朝12銭(富寿神宝)


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 春季特別展 寛弘寺古墳群
 
  「大化の改新」以前には、「県(あがた)」という地方の単位があったとされます。「記紀」や「風土記」の伝承では、天皇の直轄地の首長、国造(くにのみやつこ)の下の地域首長として「県主(あがたぬし)」が表現されています。大阪府内では、摂津の高槻市・茨木市に三島県主(みしまのあがたぬし)、河内の八尾市に三野県主(みののあがたぬし)、柏原市に大県主(おおのあがたぬし)、藤井寺市に志貴県主(しきのあがたぬし)、富田林市に紺口県主(こむくのあがたぬし)、和泉(当時は河内)の国に茅渟県主(ちぬのあがたぬし)の6首長が知られています。その役割については、地方の首長で、神の霊をとどめ、託宣を聞くなど宗教的な性格を帯び、祭祀にかかわったことなども文献からは窺われます。
 今回の企画展では、現在の南河内付近を治めたとされる「紺口県主」の領域と考えられる地域を取り上げます。なかでも、古くからその関わりが指摘されている、河南町西部、千早川西側の丘陵上に位置する寛弘寺古墳群を取り上げ、周辺の古墳などとの比較から、古墳時代の地域首長の姿を考えてみたいと思います。これまで考古学的な資料が蓄積されながら、あまり検討の進んでこなかった寛弘寺古墳群は、4世紀から7世紀後半にかけて地域首長層によって造られたと考えられています。この展示では、古墳から出土した考古資料を通して寛弘寺古墳群を中心として南河内地域の歴史や「県主」について考えたいと思います。
 
 
 
叡福寺・聖徳太子廟
 
 
叡福寺(府指定史跡)
 推古天皇が聖徳太子の墓を守護する香華所として建立され、後聖武天皇の勅願で七堂伽藍が整い大いに栄えが後、織田信長による兵火で焼失、その後豊臣秀頼により聖霊殿が再建され次第に伽藍の整備がすすみました。金堂に安置されている如意輪観音は止利仏師の作と伝えられる。毘沙門天は弘仁期前後の秀作です。
 
 

叡福寺 金堂前にて 記念撮影
 
南大門  
天正2年(1574)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建。
腐朽のため昭和33年再々建築した、左右に金剛力士像を安置。
 
金堂 (府指定文化財)
享保17年(1732)に再建。本尊は高さ90cmの如意輪観音像。
 
宝塔 (重要文化財)
 聖徳太子磯長御廟
 聖徳太子自らが廟所として選定された磯長廟は、大和から二上山を越えて河内に入つた丘陵を利用した円墳{高さ7.2m、直径54.3m}で内部は横穴式石室になっている。
 この廟には太子が亡くなった前日に亡くなった妃・膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と2カ月前に亡くなった母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれる。その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子を救世観音の生まれ変りとする太子信仰の象徴となる。
 
 
 
阿弥陀三尊像
 
廟を取り巻く結界石  上部に聖観音の梵字が彫られている
聖徳太子御廟所  叡福寺縁起
 聖徳太子自らが廟所として選定された磯長廟は、大和から二上山を越えて河内に入つた丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で、内部は横穴式石室になっている。周囲は結界石で二重(観音の梵字)(浄土三部経)に取り囲まれている。
 叡福寺は石川寺、太子寺、御廟寺とも称され、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核となった寺院で、太子薨去後 推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりである。神亀元年(724)には聖武天皇の勅願により七堂伽藍が造営されたと伝わる。

 推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母 穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)と共に埋葬され、三骨一廟(さんこついちびょう)といわれるようになった。その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰の象徴となり、この御廟前には太子を敬う空海や親鷲、叡尊、良忍、一遍、日蓮、證空など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えてきた。
 天正2年(1574)織田信長の兵火により堂塔のすべてを失つたが、慶長8年(1603)豊臣秀頼により聖霊殿が再建されたのをはじめ、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興された。
 現在も太子に会わんが為に善男善女の参詣が絶えることはなく、毎月11日に太子御影供法要が営まれ、毎年4月11日12日には大乗会式が盛大にとりおこなわれる。
 太子廟を中心として周辺には敏達、用明、推古、孝徳天皇陵や小野妹子、大津皇子、源氏三代墓などがある。 
 
近つ飛鳥博物館に展示されているパネル
 聖徳太子のご精神
 聖徳太子は敏達元年(574)飛鳥の地に誕生され、20歳で伯母である日本最初の女帝推古天皇の摂政となり、32歳の頃(推古12年)には日本最古の憲法『17条憲法』を制定された。
 第一条は「和をもって貴しとせよ、さからうことなきを宗とせよ」という有名なことばから始まり、第二条「篤く三宝(仏、法、僧)を敬え」と続き、仏の教え(法)のもとに自己を尊重し、信念を持って他人と人間性を認め合う「和」の精神を示された。また、第十条には「われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず」と、人間はみな平凡な存在なのだから重要なことは対話を通じて真理に近づけて決めようという対立融和を説き、人間社会のすすむべき道を示された。それらの「和のご精神」は1400年たった今でもいきいきとした、人間の憲法である。
  また、仏教精神を礎として理想的な国家や社会組織を築こうとされた太子は3経(勝鬘経、維摩経、法華経)の経典講義である三経義疏を著された。人間の生き方や尊い命、その責任などについて、世界万国に通じる普遍的な人間生活の基本となるものを説かれ、身分にとらわれない「冠位十二階」の実践、さらに遣隋使を派遣するなど、この国の礎をつくられたという偉業から「和国の教主」として崇められ、日本人の心のよりどころとして存在し続けている。
 
 安見宗房の地蔵像
 
 
推古天皇磯長・山田陵
 推古天皇磯長・山田陵
      推古天皇と敏達天皇皇子竹田皇子の墓
 一辺60mの方形墳。日本で最初の女帝であり、聖徳太子を摂政にし飛鳥文化を花咲かせた第33代推古天皇とその子竹田皇子の合葬陵とされています。古い記録には石室内に二つの石棺が安置されているとの記述がある。敏達天皇の皇后(豊御食炊屋比売命)の時、物部守屋が交野の土地を寄贈したとされており、交野には私部{きさきの部民}という地名が残っております。推古天皇は私部の米のお蔭で財力が豊かで天皇になるとき非常に有利に作用したと云われている。

 
 
 
最古の官道 竹内街道
竹内街道
 竹内街道は堺市の大小路から大阪南部を東へ向かい、二上山の南の竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社に至る約26kmの街道です。(竹内街道歴史資料館の解説より)
 この道は「日本書紀」の推古天皇21年(613)に「難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」と記録されたわが国最古の国道ともいえる「大道」と大部分が重なつており、飛鳥時代にはすぐれた大陸文化がこの道を通って飛鳥の都にもたらされ、遣隋使や遣唐使も盛んに利用した、まさにシルクロードの終着点ともいえる道です。
 
 
 
 
 
 
 
大道旧山本家住宅
 大道旧山本家住宅は、我が国最古の国道とも言われる竹内街道の沿線にたたずむ「茅葺の古民家」で大和棟の形態をよく残し、大和と堺を結ぶ街道沿いの歴史的景観を特徴づけるものとして「国登録有形文化財(建造物)」となつています。
 施設の概要としては大和棟の母屋と北西に連なる入母屋造りの離れからなり、東側に蔵を配置しております。その構造手法から江戸末期と推定される母屋は茅葺きの切妻屋根の両側を本瓦葺き(大和棟)となつております。


 
 大和棟の民家
 本邸を特徴づける大和棟の民家は、切妻造り茅革き屋根の両端の妻部分に白壁を作り瓦を載せた特徴的な造りで、高塀(タカヘ)造りとも言われます。
 十八世紀後期に庄屋などの上層農家を中心に流行し、江戸末期には庶民の農家にも普及して、大和や河内の民家の特徴的な形式となりました。
 大坂と大和を結ぶ竹内街逍沿いの山田大道町でも、この大和の特徴的な住まい方をしのぶことができます。

 
大道旧山本家住宅(だいどうきゅうやまもとけじゅうたく) 国登録文化財
 日本書記に記された、わが国最古の国道とも言える「大道」は、難波津から堺、太子町を通リ二上山・竹内峠を越え飛烏の宮古に至り、大部分が竹内街道と重なっています。この街道を通じてすぐれた大陸文化が都にもたらされ、中世には堺と大和を結ぶ経済の道、江戸時代には西国巡礼や伊勢詣など宗教の道として栄えました。
 旧山本家住宅はこの街道に面し、現在は道しるべや伊勢燈籠などがかつてのにぎわいの面影を伝え、付近の街道沿いに残る十数軒の伝統的な民家とともに竹内街道の歴史的景観に寄与しています。
 主屋は敷地のほぼ中央に建ち、桁行が七間半、梁間五間、屋根はいわゆる大和棟の形式で、茅革きの切妻屋根の両側を本瓦葺きがなされています。小屋構造は扠首組、軸部には差鴨居が用いられ、座敷と仏間は長押を廻し、仏間のみ竿縁天井で、他は根太天井となっています。建築年代について決め手となる資料はありませんが、構造手法からみて江戸末期と推定されます。また、主屋北西には大正元年(1912)年の棟札の残る離れがあり、庭をはさんで渡り廊下で主屋とつながれています。離れは入母屋造り、桟瓦葺きで、八畳の座敷と六畳の次の間からなります。主屋の東の蔵は昭和二十七年に建てられたものです。
 平成十四年八月、旧山本家住宅は竹内街道の景観を強く印象付ける民家として、国の登録文化財となりました。そして、その往時の街道の様子をしのびつつ、民家本来の良さを損なうことのないよう平成十五年に修復を行いました。
大道旧山本家住宅の修復
 竹内街道沿いにおける景観保存の中心的役割を担うため、建物の価値を損なわないよう修理方針を立て、現況部分をできるだけ活用しつつ、近年の増築部分などを撤去し、構造補強、茅葺き切妻屋根の差し替えなどを中心に工事を行いました。
 構造補強として、まず基礎の川側への沈下を防ぐため主屋と離れの大部分を鉄筋コンクリートのベタ基礎としました。シロアリの被害の甚大な大黒柱・ヒヤの差鴨居を新しいものと取り替え、大黒柱に取りつく煙出しを元の場所に戻しました。また、繋がっていなかった茅屋根と落棟の構造体を丸太によって固定したことにより建物全体の歪みが矯正されました。
 苔で腐敗の激しかった茅葺き屋根は、表面の腐りや笞を掻き落として短くなった茅を引っ張り出し、空いた部分に新しい茅を差し込み修理をしました。四十年前にこの出本家の葺き替えををした方の手によるものです。このほか、三和土(たたき)を叩き締め直した土間、延焼防上のため天井に土を置いた大和天井 の復旧など、現代の職方の技術と建物本来の良さを引き出す様々な修理が行われました。 
 
 孝徳天皇陵
 大化の改新後(日本の元号の始まり)即位した第36代孝徳天皇の御陵。竹内街道沿いに造られた径30m余の円墳で「うぐいすの陵(みささぎ)」の名で美しい御陵の代表として枕草子にも紹介されております。大和の高松塚古墳から出土したものと同じ海獣葡萄鏡が出土しております。 
 
 
 竹内街道歴史資料館
 <第一展示室> 1400万年前の二上山周辺の火山活動で生み出されたサヌカイト・凝灰岩・金剛砂。これらの石材を求めて多くの人達が二上山を目指しました。石器時代にはサヌカイトの石器、古墳時代には石棺の材料として、奈良時代には研磨剤として利用されました。又最古の官道・大道・太子信仰の道。庶民の道・の解説

 <第二展示室>  太子町の歴史資料、竹内街道の道標の拓本などを展示しております。 
 
 
 
 
ようこそ竹内街道歴史資料館へ
最古の官道・竹内街道 
 竹内街道は堺市の大小路から大阪南部を東へ向かい、二上山の南の竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社に至る約26kmの街道です。
 本資料館の南を東西に通るこの道は、『日本書紀』の推古天皇21年(613)に「難波より京に至る大道を置く」と記録されたわが国最古の国道とも言える「大道」と大部分が重なっており、飛鳥時代にはすぐれた大陸文化がこの道を通って飛鳥の都にもたらされ、遣隋使や遣唐使も盛んに利用した、まさにシルクロードの終着点ともいえる道です。
 『万葉集』の歌人らも訪れ優れた歌を残し、当時の聖徳太子や推古天皇、孝徳天皇の御陵、遣隋使の小野妹子、大臣であつた蘇我馬子などの名を伝える古墳が街道周辺に数多くあることから磯長谷古墳群・王陵の谷とも呼ばれ、飛鳥の都で活躍した人々の葬送の道でもありました。

 平安時代以降は、街道沿いにある聖徳太子墓が聖地として注目されるにつれて、太子信仰の道となり、中世末には自治都市として栄えた堺と大和との間を結ぶ経済の道としても脚光をあびます。やがて江戸時代には道しるべの多くが当麻寺・壺坂寺・長谷寺・上の太子(叡福寺)。伊勢・大峯などを指すように、巡礼など庶民信仰の道としての意味をもつようになりました。この時代、松尾芭蕉や吉田松陰、天誅組も竹内街道を通ったことが知られ、茶店や旅籠が軒を連ねていました。
 明治時代、大阪南部は堺県となり奈良県を併合し、街道の整備と竹内峠越えの大改修が行われ、その記念碑が今も峠に残されています。
 現在、国道166号となり、街道の姿も一新されました。しかし、本資料館周辺には今も歴史的なまち並みや江戸時代の石造物が多く残され、かつての竹内街道のにぎわいを物語っています。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



最後までご覧いただき有難うございます。

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