[ホームページ] へ戻る 交野歴史健康ウォーク 2009.5.9 第95回
=交野古道を歩く=
行程;JR津田駅→籠池→機物神社→教育文化会館→堂の前の道標→ 長福寺→市場橋→光通寺→想善寺→無量光寺→札の辻橋→北田家住宅→ 砂子橋→逢合橋→上ん山の辻→本尊掛松 12時15分頃頃 徒歩 約 5Km |
2009.5.9(土)午前9時、JR津田駅に集合。天候、晴れ。 |
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津田駅から南に下がり、府道久御山線の左手にあり、以前は焼肉店フェストで現在、関西スーパーが建築中であるが、ここに大きな「籠池(かご池)」があった。 近くで良質の粘土が採集できず、はがね(粘土のフィルムで池の側面を覆うこと)が施されず、水位が増すと、かごに入れた水のように水が漏れたためにこの名がついたという。そして直ぐ西の外池に流れ込んでいた。 久御山線沿いにかご池跡石碑があり、「石つき唄」が彫られている。 「わしの若いときゃ 津田までかよた 倉治かご池で夜が明けた おもしろや おもしろひょうたんや おおあげおおあげ」 この唄は昔、倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行くことが楽しみやった。時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂きに朝日が上りかけていたという歌詞で、お嫁入りとか、新築祝いには、必ず出る祝歌であったそうだ。 |
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1973年3月 庚申橋 がらと川に架かる橋は庚申橋といい、この付近にあったという道標のこと、 延命長寿にご利益があるといわれる庚申信仰、 この辺りに庚申塚があったのだろうか今は何も分からない。 |
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庚申橋 |
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この後、交野市歴史民俗資料館を訪ね、庭に保管されている沢山の石仏や道標などの中から、彫られている文字を読み合わせして庚申橋付近にあったと言われる上の道標を確認しました。この道標は、道路改修前は道の西側に傾いて立っていたが、改修後東側に移された。その後再度の改修時に掘り起こされて交野市歴史民俗資料館の庭に保管されたもの。 |
機物神社は、毎年、7/6、7は七夕祭りで10,000人を超す人出で賑わっている。例年、その賑わいは盛んになるようだ。鳥居の前に、八の字の形をした珍しい灯篭があるのを教えてもらった。延享年間と読めたが、250年前に立てられたものらしい。境内には、ほかにも沢山の自然石の珍しい灯篭や石造物があり、興味は尽きない。 昔の人々は、機物神社の鳥居が現在の倉治小学校の場所に建っており、南から本殿に向かって拝んでいたそうだ。本殿の西側にある「多羅葉」の木の葉には、七夕の頃に書かれた願い事であろう「家内平和」「健康に」という文字が鮮やかに残っている。 冬至の日に、機物神社の境内から交野山に重ね合わせて日の出が見られる。 気象条件さえ揃えば、冬至前後の数日間は、交野山の山頂に日輪が光り輝き、交野山が浮かび上がるように素晴らしい日の出が拝めるといわれる。 |
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棚機の 五百機立てて 織る布の 秋さり衣 誰か取り見む たなばたの いほはたたてて おるぬのの あきさりころも たれかとりみむ 萬葉集 巻10 2034 作者不詳 (訳)織女星が沢山の機(はた)を建てて、織る布の秋の着物は誰が 手に取って着るのであろうか (沢潟 久考氏) |
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機物神社の中軸線に交野山の巨石を仰ぎ見ることができるのか? A:以前は見ることが出来た。今は参道の両脇の木が生い茂り見えなくなった。 もともとは社殿もなく、交野山を御神体とする拝殿だけの神社であったのでしょう。 また、鳥居の延長線上、源氏の滝入口の東裾に「糸吉神社」がある。 今は拝殿だけでお稲荷さんがまつられているが、由来はほとんど分からない。 しかし、糸吉というからには「七夕姫」と関係があるのでは。機物神社と関係が・・・? (平田政信さんのよもやまQ&Aより) |
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百々川に架かる市場橋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市場橋付近の様子 私部の三大寺、光通寺、想善寺、無量光寺にお参り |
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東側の石仏は、お薬師様、西側で一段低いところの石仏は、阿弥陀様。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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☆札辻(ふだのつじ) 城の南側に当たる。 想善寺、光通寺、無量光寺と私部のすべてのお寺が集まっている地域である。 東の市場からの道、西の出屋敷からの道が合流して代官屋敷のある北田家の方へ抜ける道もここに来る。 三つの寺に集まる人々や市場の方に買い物に集まる人々と村人が一点に集まるのであるから、高札場としてうってつけである。 ☆市場(いちば) 無量光寺に集まる人々に対する門前町としての性格を持ち、また他村からの買い物客を吸収する商業的色彩も色濃く持っていたようである。札辻や市場においては防御的性格を持ったT字路や遠見遮断の道もあって城下町としての性格も持ち合わせている。 |
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北田家住宅を通って今も所々に風情が感じられる静かな住宅街の山根街道を西に進み、砂子坂、逢合橋を渡り、東高野街道との交点に当たる上ん山の辻に到着。本尊掛松を見学後、12時過ぎ自由解散。 |
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北田家住宅の塀と車除けの石 |
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丁度我々が通りかかったところ、車除けの石に座って山根街道沿いの風景を 写生されている方に出会った。声をかけると、気安くどうぞ見てください。 東京から来ていますとのことで、地元の画家・岸本さんのこともご存じの様でした。 |
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凄い!なんという姿でしょうか!樹木はカイヅカ? こんな姿に出会えるのも、歴史ウォークの楽しみです。 |
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