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交野歴史健康ウォーク  2008.10.11 第91回
=交野古道を歩く=

山の根の道を歩くその1

  行程; JR津田駅→影見池→地蔵池→論場→清水谷古墳→
蟹川の湧水→倉治古墳群→清正寺跡→源氏の滝  徒歩 約 3Km

当日の歴史ウォーク行程MAP
   

源氏の滝の太鼓橋にてにて記念撮影


今は懐かしいJR片町線を走る、蒸気機関車。
左は津田駅を出発。   右は私部共同墓地付近。
 200810.11(土)午前9時、JR津田駅前に集合。天候、小雨のち晴れ。
いつもの元気なメンバー総勢17名の参加。今回のウォークは、当初5月10日に予定されていたが当日生憎の降雨により中止された山の根の道(その1)を散策しました。津田駅から地蔵池〜第二京阪工事現場(津田南町)〜清水谷・論場〜源氏の滝まで、山の根の道周辺の史跡を巡りながら元気に歩いてきました。
 このところ、週末になると雨模様で、今回も歴史ウォークを決行するかどうか午前7時まで、天気予報とにらめっこ、9時には雨も上がるとのことで決行した。
 集合時間の9時には、雨も上がり薄日もさし、まずまずのウォーク日和となった。JR津田駅を東へ出たところで、 案内役の平田さんから当日ウォークの日程などについて説明を受け、元気に出発。

 先ず、惟喬親王がしばしば交野ノ原へ遊猟をされた時、見失った愛鷹が池に写った姿を見て発見されたという伝説の「影見池」を見学。地蔵池では珍しい早来迎石仏に参拝。ぐるりと池を回って、新しく出来た道を南へ、津田城主の墓を通り、津田大池手前で第二京阪国道工事現場に設けられた歩行者専用道路を気をつけながら東へ進み、がらと川を越し、国道工事の橋脚工事が進む手前を南に迂回して、論場へと出る。ここで枚方市とお別れして交野へ。
 古墳時代後期古墳として珍しい竪穴系横穴式古墳の清水谷古墳を見学。倉治古墳群、古墳塚を通り、本日最後の源氏の滝に到着。中角さんが昨年確認されたばかりの河内名所図絵に描かれている「清正寺跡」を探索後、全員で太鼓橋にて記念写真を撮り、午前11時50分頃解散。

 今回のウォークで、山の根の道(その1〜4)をすべて終了。 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の平田政信さん、中角甫さん有難う御座いました。
 
次回は、11月15日(土)、「洛東の紅葉を訪ねて」
 一乗寺界隈から詩仙堂、曼殊院を散策いたします。案内は、吉岡一秋さんです。
 集合は、午前9時、京阪枚方市駅京都駅方面ホーム。

 どうぞ、お気軽にご参加下さい。

案内役の平田さんから当日ウォークの日程などについて
説明を受け、元気に出発。
影見池
津田駅の左のトンネルを東に抜け左手を東に直進し
突き当たりを左折すると左に送電線の鉄塔があり、その下にある。
先ずは、惟喬親王がしばしば交野ノ原へ遊猟をされた時、見失った愛鷹が池に写った姿を見て発見されたという伝説の「影見池」を見学。
 「伊勢物語」によると、都から船で淀川をくだってきたらしい惟喬親王の一行は、いったん水無瀬の離宮におちついたあと、淀川を渡って枚方の渚院にはいっている。おりからこのあたりは桜が満開だったので、一行はもう狩りはそっちのけで、花を見ては酒をくみかわし、歌を詠むことに熱中するのだった。
「世の中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし」と桜の花を讃えた。
    《影見池と惟喬親王》 惟喬親王遊猟の図


 惟喬親王(844〜897)は文徳天皇の第一皇子であったが、藤原良房の孫で第四皇子の惟仁親王が皇太子に立てられた。のちの清和天皇である。失意の惟喬(これたか)親王はたびたび交野の別荘渚院を訪れ、在原業平らと歌を詠み遊猟して心を慰めた。

   ここ影見池は、いつも清水を湛えていたので、惟喬親王遊猟のとき、見失った愛鷹が池面に写る姿から発見されたという伝説を残している。田を養ってきたこの池も宅地化の波にのまれその役割を終えたが、枯れることなく湧く水が惟喬親王の秘話を今に伝えている。


影見池の伝説影見池(住宅宅地の中にひっそりと残されている)
 
昔、文徳天皇の皇子惟喬親王がこの地方で遊猟されていた。大切な鷹を放ったがいつまで待っても帰ってこなかったので、鷹匠たちは心配してあちこちとその鷹を捜してまわった。畠田郷(昔の津田)から流れてくる川の水がよどんでいる小さな池(影見の池)まで来た時、そのほとりにある高い木の枝が水に映っており、その影の中に見失った鷹の姿が見えた。
 枝の上の鷹を見ると、その足に結びついた紐が枝に巻きついて、どんなにばたばたしてもその枝から離れることが出来なかった。そのことを親王に申し上げると、私部に住む弓の名人に足の紐を切るよう命じられた。名人がさっそく幅に広い大きい鏃のついた矢を放ったところ、一矢でその紐を切り、鷹は喜んで鷹匠のもとに帰った。親王はその名人を誉めて「大矢」という姓を与えたという。 
     (津田の尊延寺に残っている「当郷旧跡名勝誌」による)
地蔵池の石仏
 影見池からそのまま北へ進むと地蔵池に出る。池の下の大きな楠の下に沢山の地蔵さんが、三つの祠の中に大切にお祀りされている。明治18年ここに池が掘られたとき出てこられた地蔵さんだそうだ。
 第一のグループで片腕を差し出した地蔵さんが珍しい。『早来迎』である。地蔵さんから衆生に手を差し伸べられた姿だろう。地蔵池の下の「早来迎」星田の薬師寺の石仏は向かって右向き、ここは左向きである。
池から道を隔てた畑の中に建っている小さな祠の 治郎兵衛宮は健在でした。

 地蔵池の遊歩道に沿って進み東の端に改修前まで、地蔵池に流入していた川に架っていた石橋のたもとにあった石碑の石のモニュメントの傍に『念佛橋・南無阿弥陀仏・正徳三年巳七月十八日』 裏面は『○休』(○は判読出来ず)。 
 土地の岡沢さんの話では、昔土葬の頃はこの念仏橋が村のはずれで、喪主が莚(むしろ)のうえに裃(かみしも)を着て座り、野辺送りの人々に御礼する、しきたりの場所だと教えていただいた。
 

地蔵池

片腕を差し出した地蔵さんが珍しい『早来迎』、中央奥

畑の中に建っている小さな祠の 治郎兵衛宮は今も健在

『念佛橋・南無阿弥陀仏・正徳三年巳七月十八日』(1713年)
 

昔、土葬の頃はこの念仏橋が村のはずれで、喪主が莚(むしろ)のうえ
に裃(かみしも)を着て座り、野辺送りの人々に御礼する
しきたりの場所だと教えていただいた。
津田城主の墓
  くにみ坂から新しく出来た道を南へ行くと、左手に津田城主の墓が整然と祀られている。
 『津田城主 津田周防守正信之墓』と刻まれた自然石状のこじんまりとした墓標がありその横に三体の立派な石仏が並んでいる。以下の碑文と共に祀られている。

  《津田周防守正信について》津田周防守正信の墓
 
 津田周防守正信は津田氏の初代城主で戦国時代に、ここより東に位置する国見山に居城を構え、活躍した人物である。しかし文亀三年(1503年)八七歳でこの地に没し津田城の搦手なる、いばら谷を下った谷間の芝生(しばお)に墓をつくり葬られた。
 以後墓は馬場谷に移され更にここ古城(ふるじよう)の地に移しまつられ幾星霜を経て今日に至る。以来津田氏は備後守正忠(二代目)・周防守正明(三代目)・主水頭守正時(四代目)と続き津田の地を統治したが。天正三年(1575)織田信長の軍勢により平定され津田氏は勢力を失うこととなった。
  《津田城(国見山城)について》
   1490年ころ津田周防守正信は周囲の地形を利用して国見城を築き、4代約100年間にわたり、戦国の世にこの地で勢力をふるった。二代目備後守正忠は天文年間(1532〜55)連如の子、連淳が招堤に敬応寺を創建したとき娘を側室におくり本願寺勢力と通じた。国見山からの絶景三代周防守正明に至り津田氏の勢力は最も強大となり、飯盛山城に拠って畿内に号令した三好長慶と結び交野・茨田・両郡で1万石を領した。

  天正3年(1575)4月、織田信長の河内平定のため、藤坂・津田・などは洞ヶ峠から攻められ国見山城も焼き払われた。このとき城主は4代津田主水頭正時であった。正時は天正10年山崎の合戦に明智光秀方に味方するため招堤寺内衆とともに出陣したが、秀吉方に敗れ津田・尊延寺などの領地は没収された。

  国見山城は、緊急時に使用する砦として役割をはたしていた。傾斜面を切り拓いて建物を建てた跡が数ヵ所あり、南方の狭い尾根からの攻撃に備えるため東面に土塁も築かれている。
   昭和31年に数回発掘調査が行われ、山頂東側において、地表下30センチから焼土層が確認され、天正3年の織田信長による焼打ちによる火災の跡、当時の陶磁器の破片も出土している。
                                                            (枚方市教育委員会)
大池
津田大池手前で、第二京阪国道工事現場に設けられた歩行者専用道路を
気をつけながら東へ進み、がらと川を越し、
国道工事の橋脚工事が進む手前を南に迂回して、論場へと出る。

大池が一部埋め立てられて、第二京阪国道への
アクセス道路が東へと造られている
山裾の大原池は埋め立てられ国道工事が行われている
がらと川の源流が、アクセス道路の下に流れている

緑立つ道・第二京阪国道


風情のあった場所が一変、巨大な道路が通る
昔、この辺りの山裾に円通寺があり、エンズ(円通)といい
山からの流れが美しかった。

橋脚の下を通ると、その大きさに驚く

足場がぎっしり組み立てられ、まるで工場みたいだ

津田南町、遺跡発掘中の現場
論場(清水谷)
明治の初めごろ、津田と倉治との間で水争いがおきた。
清水谷の水をどちらに流すか、このとき、それぞれのむらの代表として
孫田、彦田の二人が出て言い争った。
この論争からつけられた地名だという。
清水谷古墳
交野市東倉治5丁目にある竪穴系横穴式石室を具えた古墳である。
東倉治の大阪府警察学校の南、北両脇の道が山裾で交差する、その交差点の東に位置している。標高70m、西への眺望が開け東に交野山系がある。
 この清水谷古墳は、昭和42年3月末、当時この土地の所有者であった中野氏が蜜柑の苗木を植えようとして地面を50cmほど掘り下げた際、横穴式石室の天井石が偶然見つかり、存在が確認された古墳である。
 墳丘は9m、墳径は12m前後。主体部は、南北にやや長い楕円形の墳丘の中央に、南に開口する横穴式石室が設けられている。現在、横穴式石室の上は、覆屋が造られ石室を保護している。この横穴式石室は、「無袖式の横穴式石室」である。

 この山麓地方は、古代の機織業を主とした渡来人の居住地が南から北へと続いて、はたやま(交野市寺)、はたもの(交野市倉治現在の倉治より山寄り)、はただ(枚方市津田、当時の集落は清水谷の口)の3機織業集落が、それぞれ山麓扇状地の上に繁栄していた。そして、夫々その集落の附近に横穴式古墳群を築造している。
 それは、はたやま集落では竜王山古墳群、はたもの集落では関西電力枚方変電所敷地内の横穴式古墳群である。はただ集落では清水谷古墳が発見されたのみであるが、附近にも古墳らしきものがあるようで、はただ古墳群中の一部と思われる。
 また山麓3集落とも、7世紀の築造と推察されている
清水谷古墳の石室実測図
古墳の塚 
玄室の石で心と書かれている
関西出力枚方変電所付近から
出土した6世紀後半の古墳の骨を
集めて昭和33年に作られた
清水谷古墳
標高70mの地点
覆屋が掛けられ大事に保存されている
7世紀の築造と推察されている
清水谷古墳
覆屋が掛けられ
大事に保存されている
清水谷古墳内部(玄室)
横穴式石室を備えている
基底部から天井石
上部まで1.97m
清水谷古墳
左側基底部に箱式棺と
見られる石組みがあり
蟹川の湧水
三つの(湧水)
倉治地区 交野山の山麓、扇状地による湧水。

1.蟹川湧水(東倉治4丁目) 以前は地酒の水源として利用されていた。
2.梨ケ谷の湧水(倉治7丁目) 倉治の村へ引かれ、飲み水・庭水などに利用されている。
3.新助坂の湧水 (東倉治1丁目) 平成元年に枯渇した

倉治古墳群
 関西電力鰍ェ交野市東倉治3丁目(字東浦)の丘陵に枚方変電所の建設を計画、昭和26年初め、片山長三氏から用地内の「丸山」が古墳ではないかという、連絡があり、調査確認された。「丸山」からは遺構、遺物の発見はなかったが、その後「丸山」の南側、中山路を越した付近で横穴式石室(第8号墳)を発見され、次々と全部で8基の古墳が発見された。
 倉治古墳群の8基の古墳は、2グループに分かれる古墳群であることが判明した。下記の一覧表の通りです。また、この8基の横穴式石室の構造には、羨道が見られない特色がある。「竪穴系横穴式石室」と呼ばれたり「「玄室・羨道間に段をもつ石室-横口式石室」と呼ばれる概念に属する古墳である。
 この種の石室は「秦氏」など朝鮮半島南部からの渡来系氏族に見られる構造の石室であり、「清水谷古墳」と同様に、6世紀後葉、郡津・倉治の地に置かれていた交野地域を統括し天野川の水運や大和への陸路をも管掌する行政機構にあってその中の中核となった官人群−秦氏の墓域がこの2ヶ所の墓地であったと考えられている。

古墳塚 古代の人の魂を慰める
 倉治古墳群からは、多数の人骨が出土しました。そのため、昭和33年に、関西電力は取り壊された古墳の跡や、倉治一帯を見渡せる高台に古墳塚を作り、古墳に葬られた人たちの骨を埋葬しました。 それからは、毎年秋に、枚方変電所で「古墳祭り」を催し、先祖の霊を慰め、変電所の無事故と市民の幸せを祈る祭りが続いています。
 この塚の北側にある「心」という字に並べた石は、古墳の石が使われています。
源氏の滝
 中角さんが昨年確認されたばかりの河内名所図絵に描かれている「清正寺跡」を探索後、全員で太鼓橋にて記念写真を撮り、午前11時50分頃解散。

清正寺跡 これから詳しい調査が待たれます
夜泣き石(源氏の滝)(倉治)
源氏の滝
 交野の里に源氏姫という美しい姫と、梅千代という可愛い少年が住んでいた。源氏姫と梅千代は姉弟ではなかったが、二人とも幼いころ、母と生き別れた身の上で親身の姉弟のように一緒に暮らしていた。その頃、大和と河内の国境に「おろち山」という山が有り、そこに一団の賊が住んでいた。その賊は、時折山を降りては近郷近在の家々を襲い掠奪(りゃくだつ)をほしいままにしていた。

ある年の暮れ、この山賊の一団は遂に、交野の里にも現れ源氏姫の邸を襲い、姫と梅千代を縛り上げ引揚げた。山賊の女の頭(かしら)に手下の一人が美しい姫と少年をさらってきたと報告すると、40になるかならぬの美しい女の頭は、早速その二人を連れてくるように命じた。少年は襲われた際の驚きで、最早(もはや)息絶えていた。

女の頭は、じっとその少年の死骸(しがい)に眼を注いでいたが、急に顔色を変え、手下どもを別室に下げ、かれらが別室に去ると、急いで姫の縄を解き、少年の死体を抱き上げてはらはらと涙を流した。この不思議な様子に姫は訝しく思ったが、可愛い梅千代の死体を見るともうたまらなくなり、「弟の敵、思い知れ」と叫びざま躍り掛かり、短刀で女の頭の胸を刺した。
 けれども、女の頭はこれに抵抗するでもなく、姫の手を掴みながら「源氏姫、梅千代、許しておくれ」と、苦痛に歪む頬に涙を滂沱(ぼうだ)と流しながら叫んだ。
姫は仇の口から意外な言葉を聴いて愕然(がくぜん)とした。

女の頭の苦痛を耐えつつ途切れ途切れに物語るには、女は正しく二人の実母で、まだ女の頭が若い頃、ある家に嫁いで一人の姫をもうけたが、ある事情で姫を残して別れ、それから再び他家へ嫁ぎ、一人の男児を産むとまた離別した。 夜泣き石

それから18年の月日を送ったが、二人の子供のことが気にかかり、山賊といえども一度は逢いたいと念じていた。今日偶然にも二人の子供と意外な対面が母子相互いに殺し殺されつして悲しい最期(さいご)を遂げるのだ、とのことであった。 姉弟のように暮らしてきた梅千代は弟であり、山賊の頭は姉弟の産みの母であろうとは。


 しかもその母を自分の手にかけてしまったとは何とした悲しいことか。姫の目先は真暗になり、母と弟にすがり付いてはた泣きに泣いたのであった。そして、姫はそこを飛び出すと付近の滝壷に身を投げて母や弟の後を追ったという。(伝説の河内より)

源氏の滝の入口、石仏が沢山並べられている付近に夜泣き石がある。源氏姫が悲しみのあまり、滝壷に身を投げてから、この石が泣くという

夜泣き石付近の石仏群
 今回のウォークで、山の根の道(その1〜4)をすべて終了。 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の平田政信さん、中角甫さん有難う御座いました。
 
次回は、11月15日(土)、「洛東の紅葉を訪ねて」
 一乗寺界隈から詩仙堂、曼殊院を散策いたします。案内は、吉岡一秋さんです。
 集合は、午前9時、京阪枚方市駅京都駅方面ホーム。

 どうぞ、お気軽にご参加下さい。


最後までご覧いただき有難うございました!

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