2013.5.11(土)午前9時、京阪枚方市駅集合。天候雨。前日から雲行きが悪く、明け方になり雨が降ったりやんだりの天候であったが、歴史ウォークは決行。時間通り元気な14名(会員外3名)の顔が揃った。枚方市駅9:08分出発、京阪天満橋駅で下車。 |
当日の散策マップと中之島周辺地図 (大阪 中之島今昔物語、グランキューブ大阪パンフ参照) |
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商都大坂と中之島を築いた豪商・淀屋 (JAバンク大阪発行 会員誌「中之島倶楽部vol.12」を参照) |
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淀屋の史跡を訪ねる シリーズT |
毛利さん、雨の中でしたが、八軒家浜〜京阪中之島駅まで熱心に案内頂きました。 |
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「八軒家浜」。その名前の由来は、古くから京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場(約44.8km)で、 江戸時代に八軒の船宿があったからと言われています。また、京都から船に乗り、 「八軒家浜」を経由して熊野詣でをしたことから、熊野街道への起点としても知られています。 水都大阪のシンボルとして、平成20年(2008)春に水上バスの駅として開港。 川の駅は平成21年(2009)にレストラン、観光船案内所、情報発信スペースとしてオープン。 |
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八軒家船着場の図 | |||||||||||||||||||||||||||||
八軒家に、京都から三十石舟が到着し、乗り合い客や積荷の下船の様子が描かれている。 船着場の石段には、旅籠の客引き女や物売り男なども出迎えている。 |
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枚方の辺りで物売りのくらわんか船が寄って、餅・牛蒡汁・酒など売りつけている。 |
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大川(旧淀川) 淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。 滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km2。 また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。 第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。 |
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南天満公園は天神橋と天満橋の間の大川沿い北側にある都市公園です。 桜の名所で開花 時期には屋台が建ち並び、多くの花見客で賑わう。 |
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将棊島粗朶水制跡(しょうぎしまそだすいせいのあと) 淀川の水が寝屋川や鯰江川に逆流しないようにした隔流堤。約430mあった。(半島状) 大和川はここに流込でいたが、宝暦元年(1704)に堺の方に付替えされた。 |
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「粗朶」は木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、 河岸から河の中央に向かって設置された突起物のことです。 木の枝は主に柳が使われていて、腐食しにくく、屈撓性があり、運搬が容易である。 さらに、多孔質なので、生物が棲みやすい環境が形成され、今のコンクリートなんかより全然優れている工法.。 |
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ねんねころいち 天満の市は 大根(だいこ)そろえて 舟に積む 舟に積んだら どこまで行きゃる 木津(きづ)や難波(なんば)の 橋の下 橋の下には かもめがいるよ かもめとりたや 竹ほしや 竹がほしけりゃ 竹やへござれ 竹はゆらゆら 由良之助 |
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賑わった天満の市の様子を子守歌に詠みこんでいる |
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淀川三十石舩舟唄碑 S59.12.8 三十船というのは、長さが17m、巾2.5mで、米を三十石(米俵にして七十五俵)積み込める。 船頭4人、乗客定員は28人。上りは人力、下りは川の流れにまかせでしたが、流れの速い瀬では船頭が 岸に上がり、綱で引いたといわれている。船賃は、上り172文、下り72文だった。 |
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天満の子守歌の直ぐ北に、天満の青物市場跡の石碑が建っている | |||||||||||||||||||||||||||||
南天満公園の片隅に建つ「天満青物市場跡」の石碑。 石碑の側面には『(天満青物市場は)、昭和に至り変遷があったが 昭和20年戦災で廃絶した』と記されており、大阪中央卸売り市場に包括された後も、 市場そのものはこの地でも存在していたらしい。 |
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南天満公園 天満青物市場跡 堂島の米市場、雑喉場の魚市場と並んで大坂三大市場の一つがこの地である。 青物とは果物・野菜を指す。問屋が40軒、仲買が150軒という大規模なものであったことが 「摂津名所図絵」に記されている。元々青物市場は石山本願寺の辺りにあつて繁栄していたが、 大坂城築城によつて京橋北詰に移動され、寛永12(1635)年に天満に移された。 明治・大正期になっても大阪一の青物市場として栄えた。 大正12(1923)年に中央卸売市場方が制定され、公設市場の親市場としての 中央卸売市場の開設が求められ、昭和6(1931)年、福島区野田に 大阪市中央卸売市場が開設され、天満青物市場は廃止となつた。 |
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天下の台所を支えた三大市場 水上交通に恵まれた大阪の物流の中心は、 堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場で、これらは近世大阪の三大市場といわれます。 堂島には当時の物価の基準となっていた米を商う市場が開設され、全国の年貢米が集積しました。 京橋南詰で開かれていた青物市場は1653年に天満に移転。近郊農村から多くの野菜などが船で運び込まれました。 魚市場も17世紀後半に、船場から荷揚げに便利な雑喉場に移りました。 雑喉場魚市場には近海はもとより四国・九州からも多くの魚が運ばれ活況を呈しました。 |
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天神橋の北詰に保存されている 天神橋を渡る頃、やっと雨も止む。 |
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天神橋を渡り、中央に設置されている「螺旋状の通路」を下り、剣先公園へ! | |||||||||||||||||||||||||||||
剣先公園の噴水前で記念撮影 大川(旧淀川)は土佐堀川(南側)と堂島川(北側)に分かれます 水都2009の公園再整備の一環として設置。 最大長さ約60m、高さ約20mの巨大なアーチを描きます。 |
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剣先公園を望む |
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当日は、噴水時間の10時であったが、噴水は見られず、Webより参照。 |
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中之島は江戸時代初めに豪商淀屋の初代常安が家康の許可をもらい開拓した。 土佐堀川と堂島川に挟まれた中之島。 大阪の政治・経済・教育・文化の中心地の一つ。 公園は明治24年(1891)に大阪市として初めて誕生した都市公園。2009年夏にリニューアルオープン。 |
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ばらぞの橋 |
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中之島バラ園で記念撮影 |
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バラ園のバラが満開、少し撮影してきました! |
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なにわ橋の下を歩き、「なにわ橋駅」前に進む。 | |||||||||||||||||||||||||||||
なにわ橋 - ライオン橋
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「なにわ橋駅」前 |
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明治29年(1896)に、発起人は西村捨三と小林作兵衛。 撰は西村捨三(元彦根藩士・元大阪府知事) 書は日下部東作(明治三筆)。石は、安治川口の残念石を引き上げた。 木村は豊臣側の青年武将(1593-1615)。「茶臼山血判取」で有名。 (九代目市川団十郎の弟子の五代目市川新蔵の名演技だったが、 1895年頃、眼病を患ったのち失明し37歳で死亡) |
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父は豊臣秀次の老臣でその謀反事件に連座して切腹。重成は幼少期から秀頼に仕えていたと言い、 |
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大阪市中央公会堂 | |||||||||||||||||||||||||||||
(江戸時代は仙台藩の蔵屋敷跡・明治初めは大阪通商会社跡)・≪重要文化財≫ 大正7年(1918)に株の仲買商・岩本栄之助の寄付により建てられた名建築。当時のお金で100万円。 |
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大阪通商会社・為替会社 (江戸時代は仙台藩の蔵屋敷跡・現在は大阪市公会堂) 明治2年(1869)に通商会社設立。 明治6年(1873)に為替会社となる。 明治6年(1873)に国立銀行設立に伴い明治7年(1874)に解散。通商振興を図ることを目的とした銀行のはしり。 |
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大阪市中央公会堂 栴檀木橋より 1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が当時の100万円を 寄付して建設計画が始まった。1913年(大正2年)6月に着工、 1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦に よる相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を 見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。 |
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御堂筋 昭和2年(1927)5月に道路幅を6m→43.6mに東側を拡張して完成。全長4km。現在は南行きの 一方通行。ビルの高さが揃った整然とした景観がつくられた。約887本のイチョウ並木でも有名。 |
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淀屋橋 ≪重要文化財≫ 「淀屋(北浜)の米市」に来る人に便利なように、2代目・言当(个庵)が架けた橋 「淀屋の架けた橋」が「淀屋橋」の始めであり、現在より少し西寄りにあったとされる。 昭和10年(1925年)現在の橋は1924年の公募にてされたもの。コンクリートの橋で重要文化財。 橋長:53.5m、幅員:36.5m、アーチ橋を渡る人7万人。車は6万台。淀屋橋駅は20万人 |
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淀屋の碑・淀屋屋敷跡 江戸時代の豪商淀屋の屋敷跡で、心斎橋筋から現・三井住友銀行西側までの旧「大川町」のほぼ全域があり、 敷地内には、いろは48蔵が建ち並んでいたといわれる。中之島も開拓して、淀屋橋は私費で架けた。 淀屋が幕府に願い出て、屋敷前で「淀屋(北浜)の米市」が開かれていた。 (碑文=宮本又次:大阪大学名誉教授) 【淀屋屋敷跡碑文】 近世のはじめ、中之島の開発その他、大阪の発展に寄与するところが 多かった淀屋の屋敷は大川町にあり、淀屋の名は今も淀屋橋に残っている。 |
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大阪市庁舎 | |||||||||||||||||||||||||||||
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京阪電鉄・大江橋駅 2008年10月19日にオープン。地下1階に天保期の蔵屋敷跡の図が掲示され、商店と改札口がある。 ホームは地下3階にある。軌道は地下約25mにある。なにわ橋駅は約30m、中之島駅は約15m |
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京阪電車・大江橋駅構内に掲示されている |
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「蔵屋敷跡」(京阪電鉄・大江橋駅構内) 天保期(1830〜1843)の大坂中之島界隈蔵屋敷跡で、90藩が配置されている。 |
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人道橋の中之島ガーデンブリッジを渡ると 堂島米市場跡記念碑が建っている 中之島ガーデンブリッジ 歩行者専用。ANAクラウンプラザホテル前に架かる。夜間はLED証明している。 |
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所在地:大阪市北区堂島浜1丁目 最寄駅:京阪本線OR地下鉄「淀屋橋」下車、淀屋橋、大江端を渡り 西へ、「ANAクラウンプラザホテル」前、中之島ガーデンブリッジの北詰 |
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江戸時代、諸藩はこの中之島周辺に蔵屋敷を置き、領国から送られてきた蔵米や国産品を換金したが、 この蔵屋敷の販売事務を町人(掛屋)が代わって行うようになり、町人蔵元が出現した。 蔵米の取引を最初に開いたのが、淀屋の2代目个庵といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていた。 1705年(宝永2年)淀屋が闕所になった後、堂島の地に米市場が移転して堂島米市場が成立した。 その後江戸商人による公認の市場開設などあったが、1730年(享保15年)公認の帳合米市場である 「堂島米市場」が発足した。 江戸時代、大坂のほかに江戸、京都、大津、下関にも米市が立っていたが、 堂島米市場で立った相場で取引がなされ、ここで立った相場が全国の米相場の基準とされた。 この取引の手法は、大阪証券取引所を始めとする、世界各地の組織化された 商品・証券・金融先物取引の先駆をなすものであり、先物取引発祥の地とされている。 1876年(明治9年) に「堂島米穀取引所」と改称され、1939年(昭和14年)に廃止された。 |
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堂島の米市場「摂津名所図会」 堂島河岸の米市での取引のさま。 |
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旧・ダイビルが建設中であった |
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人道橋の中之島ガーデンブリッジに展示されている 「なにわ八百八橋」の絵図 |
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高麗橋 |
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新町橋 |
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中之島ガーデンブリッジ |
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東地区は、2010.1.9着工。2012.11.6完成。地上39階建て、地上高 198.96m フェスティバルホールは、2階〜7階で、2700人収容。4/10に開場。 フェスティバルホールの南外壁に「牧童、音楽を楽しむの図」のレリーフがある(信楽焼) |
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中之島フェスティバルタワー12Fのフェスティバルキッチンで昼食を楽しむ! 眺望の優れた、広々としたカフェテリアです。 健康を考えた美味しいメニューがリーズナブルに味わえます。 オフィスワーカーはもちろん、一般の方も気軽に使えます。 Aランチ、Bランチ、焼きそば、カレーなど美味しくて本当に安いです! |
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朝日稲荷大明神元高松藩の屋敷神) 13階のスカイロービの一角に祀られている |
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昼食後、歩き出そうとしたらまた、雨が降ってきた! |
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ダイビル本館、2013年3月完成 大正14年(1925)竣工の渡辺節の設計でネオ・ロマネスク様式のビル。 新ビルは外観復元を取り入れて完成。 |
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このビルの特に凄いと思ったところは、旧ダイビルを復元するために、 煉瓦は旧ビル解体時に約18万個を手作業で取り外し、ビルの外装材として95%以上に再利用したそうです。 建物内部でも、床やタイルを再利用したということでした。 新しいビルなのに歴史を感じさせるのは、そういったところもあるのですね。 |
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田蓑橋より、新ダイビル本社を撮影 |
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田蓑橋を渡り、中津川藩蔵屋敷跡へと進む | |||||||||||||||||||||||||||||
慶長年間(1596-1615)に廣島藩主・福島正則が植えたとされる黒松で 枝ぶりが蛸の泳ぐ姿に似ていた。 川向こうにあったが明治後半に枯死した。顕彰碑は田蓑橋北側に設置。 |
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堂島川に架かる田蓑橋(たみのばし)北詰めに「蛸の松」があります。 江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が並び、屋敷前に各藩自慢の松を植えていました。 中でも、久留米藩と広島藩の境の松は、枝振りが 蛸が泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松」と親しまれました。 「なにわ百景」にも、「中の嶋蛸の松」の錦絵が描かれています。 蛸の松は、明治の末頃に枯死しましたが、雛松会によって再現された。 |
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江戸時代の蛸の松は、対岸の旧位置にありました |
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再現された、蛸の松 |
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天保5年(1835)に誕生、安政2年(1855)適塾に入門、万延元年(1860)に渡米、 欧米諸国を歴訪して「西洋事情」「学問のすゝめ」など著述。慶応4年(1868)に慶応義塾を開学。 明治34年(1901)に死亡。小泉信三氏の筆。中津藩彰碑は北側の設置。 |
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天保5(1835)年12月12日、福沢諭吉は豊前中津藩士福沢百助の末子として、 中津藩大坂蔵屋敷のこの地で誕生。父は諭吉が1歳8ヶ月のとき急死し、 母に連れられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元(1854)年、 長崎遊学を終え江戸へ上る途中に大坂の蔵屋敷へ立ち寄り、 兄のすすめで翌年3月に緒方洪庵の適塾に入門し後には塾頭にまで。 江戸に慶応4(1868)年、慶応義塾を開設した。 |
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玉江橋 (なにわ筋北側・堂島川) 常安橋と同じデザインです。 古代大阪に架けられていた堀江橋の名前で復活したが、玉江橋に変更された。 堀江で美しい玉が見つかった故事に由来する。 平成3年に常安橋と同じデザイン(高欄・照明灯・タイル舗装)で改装された。 |
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玉江橋より四天王寺五重塔を望む 昔は、玉江橋の反り橋からは五重塔が望めたらしい |
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堂島川に架かる玉江橋方面を振り返ると、 福島区に新しく誕生した「ほたるまち」のビル群 ほたるまち 1993年に大阪大学医学部附属病院が吹田市に移転した後、 コンペにて2008年5月2日に街開きした。 .朝日放送(ABC)、平成20年(2008年)5月19日にほたるまちに移転してきた。(5周年記念) |
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「ほたるまち」という印象的な名前は、コピーライターの道面 宣久さんが、 与謝蕪村の俳句「淀船の 棹の雫も ほたるかな」をもとに、 きらびやかな光ではなく、蛍のようなやさしい光で川を照らす街になってほしい、 という思いから名づけられたそうです。 中之島線の中之島駅が最寄りとなります。 |
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解散(13時15分頃) 平成20年(2008年)10月19日にオープン。中之島新線の始発駅 西口1階に蔵屋敷のモニューメントがある。 |
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京阪中之島駅にて解散。皆さん、お疲れさまでした! | |||||||||||||||||||||||||||||
次回の歴史ウォークは、6月8日(土)午前8時30分、 「滋賀県日野町へのバス旅行」毎年恒例のバス旅行です。 弁当を持参下さい!焼き肉「久太郎」駐車場前集合です。 |
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最後までご覧いただき有難うございました! |