[ホームページ]へ戻る

東高野街道を歩く



 6/9は、あいにく入梅で前夜からの雨が降り続き中止となり、6/14に延期された。
6/14は幸い、梅雨前線も南に去り、梅雨の中休みの好天に恵まれ楽しい歴史ハイクとなった。
特に、山田池の花菖蒲は入梅後の長雨で生き生きと、ビロードのような綺麗な花が印象的でした。
JR藤阪駅→山田池公園(ハナショウブ)→出屋敷元町→
穂谷川沿いの道→交野一宮(片埜神社)→京阪牧野駅
山田池の花菖蒲写真集

山田池のイラストマップ

信仰の道 東高野街道MAP


 往昔、高野山(真言宗、金剛峰寺)への参詣には、かって高野七道と呼ばれた参詣街道があった。
高野街道、京街道、大和街道、龍神街道、大峰街道、熊野街道、熊野大滝街道の七道である。


 なかでも、都から高野街道が最も近くて、便利なコースだった。その高野街道は、京からスタートする東高野街道。
 京から大阪天神橋まで淀川を船で下り、大阪高麗橋を起点とする西高野街道。

さらに、その中間の街道として守口文禄堤に発する中高野街道があり、それぞれ河内長野で合流して、紀見峠を越えて高野山へ向かった。


 道程は、京〜高野山へ片道、約120km(30里)、一日40km(10里)を歩くと3日間の行程だった。


片埜神社(交野一宮)
片埜神社
 古くから交野地方の鎮守神として崇敬されており、延喜式には交野2座のうちの1座として記録に残っている。天正11年(1583年)豊臣秀吉は大坂城築城に際し城の東北に当たる当社を鬼門鎮護の社と定め修築した。
 その後慶長7年(1602年)豊臣秀頼は片桐且元を総奉行として再興したのが現在の社殿で桃山時代の華麗な様式を伝えるものとして重要文化財に指定されている。
 本殿は三間社流造、桧皮葺で細部に至るまで桃山時代の様式をよく伝えており、特に四面を飾る蟇股の彫刻に当時の特色を見ることができる。境内の南門は本殿再興後引き続き造営されたものである。

御祭神:素盞鳴尊(すさのおのみこと)、菅原道真公。法除(ほうよけ)、厄除、学問の神。

片埜神社の祭神について
 「神名帳考証」は、饒速日命(にぎはやひのみこと)とし、「特選神名帳」「地理志料」「大日本史」は、交野忌寸(いみき)とする。

  • 饒速日命(にぎはやひのみこと):物部氏の祖神と伝えられる
     「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」に
    饒速日尊、天祖御祖(てんそおや)の詔をうけ、十種の神宝を授かり、天磐船に乗って河内の国河上の哮が峰に天降り、即、大倭国鳥見白庭山に遷座し給ふという。
    • 交野忌寸(いみき)
       忌寸とは、古代の姓(かばね)
       天武町13年(684)、壬申の乱にあらわした功によって、八等級の姓が定められた。
       忌寸は、その第4等で、おもに中国および朝鮮の渡来人に与えられた姓。
       交野忌寸は、交野山系西麓に居住し古代の交野が原で、大きな勢力をもっていた豪族と考えられる。

「交野が原」
交野が原(交野市・枚方市)
 奈良・平安時代、河内国交野郡は「交野が原」とも呼ばれていた。

範囲は、右図でわかるように、現在の枚方市、交野市を合わせた範囲である。


 平安時代初期、桓武天皇を中心に都の貴族の多くが行幸や遊猟の地として頻繁に訪れた。


 清少納言は、枕草子(996〜1000年)で曰く。
「野は嵯峨野さらなり。印南野(播磨)、交野なり。」

桓武天皇「天神祭祀」郊祀壇(こうしだん)跡


 中国では古代、皇帝の治政の中心の一つとして、北京郊外に天壇を築き、天帝、天神を祀る行事を行った。
 桓武天皇は、天皇として始めて中国の思想学を学び、交野が原・柏原(伝、枚方片鉾杉本神社)に郊祀壇を築き、天神を祭った。