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2001.6.12

東高野街道Aを歩く 京都府八幡市

史跡松花堂、正法寺、善法律寺、神応寺など

          詳しくは、八幡市のホームページにアクセスください神応寺境内より八幡市から京都方面の眺望が素晴らしい

八幡市は、大阪と京都の中間に位置する、生活都市です。
 市内には、石清水八幡宮や松花堂庭園、流れ橋等の名所、旧跡を有しています。
また、近畿を代表する木津川・宇治川・桂川が一ヵ所で合流し淀川となる、
全国でもまれな三川合流部があり、その雄大な地域は、近郊都市にオアシスを提供しています

コース: 京阪樟葉バス停→バス→大芝バス停→史跡松花堂→正法寺→
善法律寺→神応寺→男山八幡宮前(解散) (行程約.3km)

東高野街道を歩くAMAP
跡松花堂→正法寺→善法律寺→神応寺→男山八幡宮前

 6/12(火)、京阪樟葉駅より「大芝」バス停で下車。まず史跡松花堂を訪ねる
松花堂駐車場広場で参加者全員の集合を待つ間に、傍らに建っている「「吉井勇歌碑」を見学。
 歌碑は、昭和60年に八幡市の文学碑建立第1号として除幕された。”放浪の詩人吉井勇”は、昭和20年(60歳)から23年8月まで、孝子夫人と八幡市月夜田の宝青庵で暮らした。当時勇は松花堂でよく遊び、谷崎潤一郎、志賀直哉、梅原龍三郎などと親交を温めていたそうである。松花堂庭園
 
 3班に別れて、松花堂内をボランティアの方々に案内頂く。庭園に入ると珍しい竹があちらこちらに目にとまる。外園内には三つの茶室、松隠、竹隠、梅隠があり、水琴窟の静かな音色を楽しんだ。
 ※水琴窟 つくばいや縁先手水鉢の鉢前に仕掛けられた日本式庭園技法の一つ。日本の庭園には自然美が凝縮されていて、その庭造りに”水”の果たす役割は大きい。江戸中期、庭師がそれまで配水装置として地下に作っていた「洞水門」に瓶などを埋めて音色により工夫を凝らして水琴窟が生まれたと言われている。

うっそうと樹木が繁る庭園内には、松花堂昭乗がその生涯の晩年を過ごしたときに建てたといわれる草庵「松花堂」や書院、苔庭、枯れ山水の築山などがあり、その素晴らしい庭園風景に圧倒される。

 松花堂資料館で、松花堂弁当の基になったといわれる松花堂昭乗が愛用した木製の四つ切の箱を紹介された。もとは近在の農家で農作物の種入れなどに使われていた農具で、昭乗がこれを見て同形の器を造り、漆を塗り、それぞれの枡に自ら四季の図を画き、絵の道具として使ったいたそうである。

 11時過ぎ、早めの昼食を資料館の2階でとる。
 午後は、東高野街道を北に向きを変え、15分ばかり歩いたところに、正法寺があった。家康の側室お亀の方の菩提寺で、尾張徳川家より篤い庇護を受け大いに栄えたそうである。本堂、唐門など素晴らしいものである。
八幡市の安居橋
 更に、真っ直ぐに北へ行くと、善法律寺。こちらは足利3代将軍義満の母良子の菩提寺
境内には紅葉が沢山植えられており、一名紅葉寺といわれているそうである。一度秋に訪れてみたいものである。男山を背にして雄大な趣がある風景がいい。

 八幡市の八景・安居橋(あんごばし)を過ぎ、八幡宮に到着。八幡宮の放生会のお話を聞く。
 石清水八幡宮では、9/15(かっては8/15)放生会の大祭が行われる。この放生会に、交野市の森からは火長神人(かちょうじにん)・火灯神人を、また私市からは御前払神人(みさきばらいじjにん)・押えの神人を奉仕してきた。 火長神人は、行列の先頭に立ち道を警戒し、これに続いて火灯神人が松明を持って、道筋を照らした。(この火灯神人の勤仕は江戸時代の中頃には絶えたようである)
 さらに、御前払神人が行列の先払いをして道を浄めた。行列の最後尾には押えの神人が並んだそうである。


ほうじょうえ「放生会」・・仏教の不殺生の思想に基づいて、捕らえられた生類を山野や池沼に放ちやる儀式。神社、仏寺で陰暦八月十五日に行われる。 石清水八幡宮の放生会は著名。その起こりは、貞観5年(863)とか延久2年(1070)とかいわれており、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の放生会にならったもの。八幡宮の放生会の祭り

 八幡宮を左手に歩くと、神応寺の山門。急な上りの階段を息を切らして登ると、神応寺の本殿前にでた。本殿では、住職夫人より由緒あるお寺の再興に向けて並々ならぬ努力をされていること、綺麗に掃除をして仏様をお祀りすると、遠くから関係するお人がひょっこり訪ねてこられることなど不思議なお話をお聞きする。ありがたいお話である。

 最後に、境内の上に上がり、淀屋辰五郎の墓を紹介される。今に淀屋橋など名前を残す豪商の墓とは言えないみすぼらしいものだった。所払いを受け無念のうちに亡くなった、奢侈(しゃし)を極めた一人の人物とその一族の末期と当時の時代を思い描いた。
 この高台に立つと晴れ渡った青空の下、八幡市から京都の町が一望できる。墓所は見晴らしのイイ場所にあり、それが唯一の慰めなのか。

 今回は、八幡市の史跡お寺を巡り、随分と勉強になった。こんな近くに足利時代、江戸時代の将軍家に関係する由緒あるお寺が二つもあり、また豪商淀屋の墓にお参りすることが出来、大変楽しい歴史ハイクとなりました。

また、次回は七夕の牽牛石で知られている枚方市の観音寺山公園など寺・神社廻りが楽しみである。


史跡松花堂・庭園茶室

 京都と大阪のほぼ中間、緑ゆたかな町・八幡市にある。寛永(江戸初期)時代に文人僧として名を馳せた「松花堂昭乗」ゆかりの地である。
そして全国各地の食事どころで出されている松花堂弁当、それは昭乗が愛用していた絵の具箱が基になったと伝えられ、いわば松花堂弁当の発祥の地としても知られている。
 
松花堂・外園
史跡指定の庭園と草庵風の茶室や露路庭があり、周囲には約40種の竹が植えられている。また小早川秀秋の寄進と伝える泉坊書院や東車塚古墳、女郎花塚、資料館などがある。
金明孟宗竹、唐竹、亀甲竹などの珍しい品種を含め、全国から集められた40種の竹・笹類と冬の茶花の代表ともいえる椿が100種近く植えられている。
正法寺
建久2年(1191)の開創で、天文15年(1546)後奈良天皇の勅願寺となり、徳迎山と正法寺の勅額を賜う。現在の伽藍は、寛永7年(1630)尾張藩祖徳川義直の母(徳川家康公の側室志水亀女)の菩提寺として再建された七堂兼備の大坊である。本堂・唐門・大方丈など重文多数。大方丈の金箔絵は、江戸時代初期の絢爛豪華な趣を伝えている。
善法律寺
 石清水八幡宮社務であった善法寺宮清が正嘉元年(1257)私宅を寺に改めたことに始まる。善法寺通清の娘良子が足利義詮に嫁し、三代将軍義満を生んだことから室町将軍家との関係が深かった。良子は紅葉を寺に寄進したことから「紅葉寺」ともいわれ秋の境内は特に美しい。
神応寺
八幡神男山に勧請した行教律師が、貞観2年(860)に創建した。重文の行教律師座像豊臣秀吉の衣冠束帯の像が安置されている。書院は伏見桃山城の遺講で襖や杉戸には狩野山雪筆による「竹に虎、御所車」などが描かれている。また、江戸時代の豪商淀屋辰五郎や二宮忠八等の墓がある。
淀屋辰五郎の墓
境内にある墓地には、大坂の豪商淀屋辰五郎とその一族の墓がある。
淀屋は、1705年(宝永2)5月、5代目辰五郎の時、突如幕府によって全財産を没収され、当主辰五郎は闕所(けっしょ)、所払いを命じられた。
墓所のある高台からは、八幡市から京都方面が一望に見渡させる。

 ※史跡・概略説明

 松花堂庭園(国史跡) 京都府八幡市八幡女郎花79 TEL 075-981-0010
   松花堂へのMAPはこちらへ


 石清水八幡宮の社僧松花堂昭乗は、真言密教を学んだ阿闍梨法印であった。
書、画、和歌、茶道など諸芸に長じ、特に書は松花堂流を確立し、本阿弥光悦、近衛信尹(このえのぶただ)とならび、寛永の三筆と称せられた。
 松花堂は、この昭乗が晩年幽栖するため建立した堂である。1891年(明治24)に、男山滝本坊にあったものを現在地に移した。
  松花堂現地見取り図をご参照ください松花堂の外園

 松花堂昭乗 (1584年〜1639.918)
 江戸初期の真言宗の学僧。能書家で寛永の三筆の一人。
摂津国生まれ、石清水八幡宮に入り出家。滝本坊実乗に師事して密教を学ぶ。実乗の死後、滝本坊の住職となる。
 1637年滝本坊の南に方丈をたて、松花堂と称した。
書は青蓮院流・大師流を学び、松花堂流の開祖。画は土佐派と狩野派の折衷画風を築いた。
 
 東車塚古墳
 全長90mの前方後円墳で、現在松花堂庭園となっており、後円部が築山として利用されている。
内行花文鏡、三角縁神獣鏡などを出土している。
 古墳時代前期のものと推定されている。

 正法寺(徳迎山)
 浄土宗、相応院菩提寺。本尊、阿弥陀三尊。源頼朝の幣札使として当地にいた高田蔵人忠国が1191年(建久2)に創建したと伝える。
 高田氏は清水(静岡県)の出身で、当初清水氏と称していたが、のち石清水の「清」の字を避けて志水と改め、石清水八幡宮の社家として存続し、正法寺はその菩提寺であった。
 近世になると、志水宗清の娘が徳川家康の側室お亀の方(相応院)となり尾張反初代藩主義直を生んだため志水氏は尾張藩の国家老となっている。
 寺もお亀の方(相応院)の没後、その菩提寺となり朱印地500石を与えられ、尾張藩の庇護を受けて栄えた。
 寺の建物:正法寺は尾張徳川家が石清水八幡宮に参拝するたびに休憩所や宿泊所として利用された。
 そのため建物は藩主クラスを迎え入れる施設として当時の最高技術が結集した。本堂、大方丈、唐門は近世前期の建築様式をそのまま現在に伝えており、国の重要文化財に指定されている。
善法律寺の本堂・鎌倉時代の様式を残している
 善法律寺 律宗、別格本山  本尊 八幡大菩薩(八幡宮の旧本尊) また、秋の紅葉は素晴らしく「もみじ寺」とも言われている。
 石清水八幡宮の法務寺院として八幡宮第27検校善法寺宮清(4代)が正嘉年間(1257〜59)自分の邸宅を僧坊として喜捨し、東大寺より実相上人を招き開山として創建した。爾来、八幡大菩薩(僧形八幡)の安居霊場として今日に至る。
 本堂 4代宮清の死後間もなく弘安年間に八幡宮の旧社殿を移し建立したもの。鎌倉様式が現存している。
 足利3代将軍義満の母良子の菩提
 
善法寺家は足利氏と密接な関係があり特に4代宮清の孫通清の娘良子は2代将軍足利義詮(よしあきら)の正室となり3代将軍義満を生んでいるので将軍家との往来は繁く、義満、義教、義政等が度々訪れている。
 
 神応寺 曹洞宗 本尊は薬師三尊
 神応寺は石清水八幡宮を創祀した奈良大安寺の僧行教が860年(貞観2)に開いたと伝える古刹。
開山堂には木造行教律師像(国重文・平安)を祀る。書院は伏見城の遺構。

 谷不動
 僧行教は神応寺を創祀したとき境内に不動堂を創建。祀った不動尊は、空海が一刀三礼しながら彫り上げたと伝える”大聖不動明王”(秘仏)。

 豪商淀屋一族の墓所
 境内ある墓地には、大坂の豪商淀屋辰五郎とその一族の墓がある。
淀屋は、1705年(宝永2)5月5代目辰五郎の時、突如幕府によって全財産を没収され、当主辰五郎は闕所(けっしょ)、所払いを命じられた。
 無一文になった辰五郎はここ八幡に移り住み、享保2年30才で没した。

 闕所【けっしょ】
(1)持主のいない土地。とくに罪科等により没収された土地。罪科等により土地を没収し,土地の持主をいなくする行為をもいう。闕所が行われた場合,その土地のかつての持主や闕所された者の一族が闕所地の給与を求めることがしばしばあった。

淀屋辰五郎(たつごろう)の話
 大阪に淀屋橋(よどやばし)に名をとどめる淀屋辰五郎(たつごろう)がいました。淀屋は幕初以来、材木商をいとなむかたわら諸大名の蔵元(くらもと)をつとめ、店頭に米市がたつまでになりました。辰五郎はその淀屋の五代目の人物らしい。100間四方の屋敷の庭には泉水・立石・植木がみち、大小の書院には黄金をはりつけ、四面四間の夏座敷にはビードロの障子(しょうじ)をたて、天井もビードロではりつめて、中に金魚を放ったというぜいたくさでありました。結局は分を超えた奢侈(しゃし)をどがめられ、家産没収、三都からの追放処分を受けました。そのときの財産目録をみると、家屋敷43所、田地142町歩、有金8万5000貫目、大名貸金1億両、ほかに金銀財宝数知れずという状況でありました。しかし、このはなやかな豪商とは対照的に、鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)・三井八郎右衛門(はちろうえもん)など、堅実に富をたくわえることにつとめた豪商も存在していたのです。


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