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2001.7.11

東高野街道Bを歩く 枚方市

釈尊寺、中山観音寺跡、
旧陸軍造兵廠・香里製造所跡
など


          詳しくは、枚方市のホームページにアクセスください
 枚方市は、西に淀川が流れ、東には緑豊かな生駒山系の山々があります。ここは古くから人々が暮らし、平安時代には貴族の遊猟地として知られ、江戸時代には京街道の宿場町として栄えました。近代になると近郊農村から住宅のまちへ徐々に変ぼうを遂げ、戦後は大規模な住宅団地の開発により人口は急増しました。また近年、市内には6つの大学が所在し、21世紀の新たなまちのイメージとして、「学園都市」をめざしています。

  地名の由来---ひらかたいつのころからこう呼ばれたのか、これといった確実な説はありません。しかし、『日本書紀』には、「ひらかたゆ笛吹き上る近江のや毛野の稚子い笛吹き上る」という歌が記録されています。
『播磨国風土記』には「河内国茨田郡枚方里」と記されています。
香里団地のけや木通り
 東洋一と言われた香里団地は、昭和32年に建設されました。街路樹は太く健やかに育ち、枝葉を空に張るようになりました。
 大通りの両側に伸びる270本のケヤキは春の若葉、秋の紅葉と季節ごとに表情を変えます。このほかに桜・トウカエデ・イチョウなどの並木もあり、四季を通じて道行く人に安らぎを与えます。


コース: 京阪郡津駅→松塚公園→釈尊寺→中山観音寺跡(昼食)→
旧香里工廠祈念碑煙突→香里団地内バス停「新香里」(解散) (行程約.3km)

東高野街道を歩くBMAP
松塚公園→釈尊寺→中山観音寺跡→旧香里工廠祈念碑煙突

 7/11(水)、京阪電車郡津駅で下車、歩いて2分の松塚公園に集合。9時30分、釈尊寺に向け出発した。新天野川橋を渡り、枚方市に入ると、もう釈尊寺町である。住宅街を抜け、狭い路地を上がると釈尊寺に着く。境内に入ると左手には、殆ど同じ様式の墓石が整然と並んでいた。本殿は、先代の住職さんが托鉢をしながら蓄財し、昭和28年、念願の丸柱で作られたとお聞きする。 
 本尊は、木造の釈迦如来立像である。京都の清涼寺式で高さ172cmの素晴らしい釈迦像で、両脇には、十大弟子を従えておられ、毎年4/19には、御身ぐるい式が盛大に執り行われるそうである。釈尊寺は古来、行基寺とも呼ばれてきた。茄子作北町の地蔵さん
辻先生から、行基菩薩の事を詳しくお聞きする。

 釈尊寺を後にして茄子作(なすづくり)への街道に出ると、道路の南側に10体ぐらいの地蔵さんが祀られている。どの地蔵さんにも綺麗なお花が生けられ、今も町の人々に大事にされ、道行く人々の安全を見守られている。

 ※茄子作(なすづくり)の地名の由来
 
平安時代、交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言うハプニングがあった。そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けた故事に由来する

 藤田川の交差点を左折、道の両側のけやきが大きく成長した「けや木通り」を歩き、香里が丘3を左手に中山観音公園に向かう。
 公園入り口の坂道を上ると、広場があり中山観音寺址の碑がある。東隅には、牽牛石と言われる巨石がある。七夕の日に倉治機物神社の織姫と天野川を渡って逢うと言い伝えられてきた
 
 ここ香里団地は、戦前は100万uを超える広大な敷地に、旧陸軍造兵廠・枚方製造所があった場所である。戦後、昭和32年に日本住宅公団の第1号地として、大規模住宅団地ができた。
 造成後、30数年を経た現在、団地内の建物があちらこちら新たに改築されつつある。
 昼食後、真夏の炎天下の中、香里団地内を小1時間ほど歩き、香里ケ丘8の旧陸軍造兵廠・香里製造所跡(枚方市水道局)に到着。 
 戦前、日本有数の火薬製造所(昭和17年から20年の僅か4年の間)で使われていた、煙突が平和の記念碑として残されていた。当時は、煙突からは黒い煙がもくもくと吐き出され、一面空気が汚れていたことだろう。平和な今、香里団地の家々の向こうに交野の緑の山々が、手にとるようにすっきりと見える。
 参加されていた方の中に、戦時中、学徒動員でこの地で働いたことがあり、当時の苦労を淡々と話されていた。わずか50数年前、いまわしい戦争があったことを、風化することなくこれからも伝えていく努力が必要である。
 今回は、枚方市の史跡、お寺を巡り、随分と勉強になった。こんな近くに戦前、陸軍の造兵廠があり、火薬が作られ砲弾が戦地に運ばれていたという。
 帰りは、来た道を引き返し、京阪電車郡津駅まで歩いた。 炎天下、17000歩の平和を願う行軍だった。

 次回(9/21)は京街道、東寺、羅生門などを訪ねる予定である。

釈尊寺・本殿 本殿前で説明を聞く 中山観音山公園で
旧陸軍造兵廠跡・煙突 不戦と平和の祈念碑の煙突 香里団地の向こうに交野の山々

 ※史跡・概略説明

 釋尊寺 (山号 霊鷲山) 枚方市釈尊寺1-10 TEL072-854-3521 
 本尊 木造釈迦如来立像
 創建 釋尊寺の創建について、同寺所蔵永亨7年(1435)の「一味衆徒注文」には、霊鷲山釋尊寺開山行基菩薩」とあり、行基の開基とし、もと「行基寺」とも呼んでいた。釈尊寺の釈迦如来立像
 行基との関係があったことがうかがえるが、「行基年譜」には釋尊寺の名は記されていないため詳らかでない。


本尊 木造釈迦如来立像 
  製作年代  鎌倉時代  造  材  赤栴檀色をした塗布した檜材
  手  法  寄木造  総  高  約242cm  像  高  約167cm  台座 高  約75cm
  光背高さ  約232cm  光背 巾  約180cm  光背頭光径 約48cm

 京都嵯峨清涼寺の本尊釈迦像と似ており清涼寺式と呼ばれる。
東大寺の僧¢R(ちょうねん)が宋より帰国した祭当寺に立ち寄り清涼寺建立ののち、その釈迦像に模した像を当寺に安置したという伝承が残る。
 鎌倉時代初期の作と推定され、清涼寺式釈迦像の秀作として昭和45年府の有形文化財に指定された。



 
行基菩薩とは?参考資料
 奈良時代に民衆を中心に仏教の布教に勤め灌漑・土木事業などを行った異色の高僧。
 688年(持統天皇2)大阪堺に生まれ薬師寺で唯識を学ぶ。行基菩薩
その後、民衆に布教する一方で各地で人々を動員し道路や橋、ため池を造成した
このことが、みだりに人々を惑わしているおいう理由で、717年(養老元年)僧尼令(そうにりよう)に反しているとして布教が禁じられた。
 しかし、民衆の信望は厚く政府も行基の動員力に注目し禁圧をゆるめついに、天平15年(743)東大寺大仏造立の勧進職に登用され天平17年僧侶として最高位の大僧正に任ぜられ、天平21年には聖武天皇などに菩薩戒を受けた。天平勝宝元年(749)入滅。
 当時より、行基菩薩と称され幅広く活躍した。その足跡は現在も各地に残されている。
各地に49院創建(行基年譜)、布施屋)(調庸運脚夫や役民(えきみん)を宿泊させ食料を与える)を4国(山城、河内、摂津、和泉)に9ヶ所開設した。
 四十九院は社会事業施設と結合しており,たとえば狭山池院(大阪府南河内郡狭山町)には狭山池,昆陽(こや)施院(昆陽寺。兵庫県伊丹市)には昆陽池,昆陽布施屋および孤(親のない子)独(子のない親)収容所が対応する。寺では伝道のほか社会事業施設の管理も行われ,伝道と社会事業を結合した活動は隋の三階教(信行が創始者)の影響という。
 

中山観音寺跡
 中山観音寺は創建が奈良時代まで遡るとされる古刹である。
現観音寺山公園一帯に所在したと考えられる。
 公園南側隣接地の発掘調査により版築により築かれた基壇や塔心礎などを検出し、須恵器、土師器他各種土器類軒瓦、鴟尾などの瓦類、観音像を打ち出した青銅製の懸仏などが出土した。
また、付近には三法院、奥の坊、阿闍梨坊などの地名があるため密教的色彩も認められ、平安時代に最盛期を迎え室町時代頃まで存続していたと考えられる。
 公園東隅にある巨石は牛石(牽牛)と呼ばれ、七夕の日に倉治機物神社の織姫と天野川を渡って逢うと言い伝えられてきた。


 旧陸軍造兵廠・香里製造所跡
   〜現公団香里団地内〜旧香里製造所の煙突(香里ケ丘 妙見山)
 枚方には明治中期から陸軍の禁野火薬庫が置かれ、昭和12年(1937)7月に日中戦争が始まると、陸軍造兵廠の枚方製造所が昭和12年から開設のための工事がはじまり、更に昭和14年から香里製造所の工事が始まった。
 枚方製造所は、100万uを超える広大な敷地に9つの工場が建ち、1万人の工員が砲弾の製造をしていた。香里製造所は日本有数の火薬製造所で枚方製造所で造った砲弾に火薬がつめられ戦争地へ向かった。その輸送には、片町線の星田駅からの引込み線が使用された。
 敗戦後、工場は閉鎖されたが、昭和27年朝鮮戦争の特需ブームにのって、火薬製造会社が旧香里製造所の払い下げを申請した。
 驚いた地元住民はいち早く火薬製造反対の運動を展開した。粘り強い地区の反対運動が実り、昭和28年3月、政府は遂に再開を断念した。そして昭和31年、土地の平和利用の一環として日本住宅公団香里団地の造成が始まった。 
 旧製造所の建物、施設は一掃されて近代的ニュータウンに一変したしたが、ここ香里ヶ丘8、妙見山の一角は団地造成から外れたため、昭和37年枚方市水道局用地となり、旧製造所時代の煙突だけは残った。枚方市は、この煙突を不戦と平和の記念碑とした。

 大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所(香里製造所)を昭和20年の終戦前に交野市の私市に洞窟を掘り移転する計画があった。
 面積は、652u、長さ138m、洞窟5ヵ所、坑木による簡単なもの。立木は終戦時に撤去して現在は3ヵ所の洞窟が残っている。
 つい先日、私は交野古文化同好会のサタディーウォークに参加して3号隋道(奥行き45.3m、総延長73.5m、床面積約147u)を確認した。
その時の様子は、こちらです。


 「つづり方兄妹」ものがたり
 敗戦の翌年に開設した香里小学校は、陸軍の施設、病院と事務所を転用した不便なもので、タイル張りや広さがまちまちの部屋を教室に使った。
 運動場は山が迫って狭く、10学級の小さな学校だった。
 昭和27年、火薬製造反対運動の頃、この香里小学校に、野上丹治、洋子、房雄の三兄妹が通っていた。野上一家は、戦後台湾から引揚げてきて旧香里製造所跡の雨漏りの激しい小屋で一家5人が暮らしていた。
 貧しい生活だったが、兄妹仲良く、協力し合って向学心に燃え、社会のこと暮らしの事にも、子どもらしい正義感でみつめ作文(つづり方)を綴った。
 3人の作品は、国内外のつづり方コンクールで一等をしばしば受賞した。そして、1958年3人の作品をまとめて、理論社から「つづり方兄妹」が出版された。
 すぐれた作品集だったので、話題を呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。
 交野でも、交野小学校の近くで映画ロケがあり、大勢の人々が見学したそうである。

※参考 
 理論社名作の愛蔵版
 つづり方兄妹  野上丹治・洋子・房雄作品集
 理論社 1981/05出版 236p
 [A5 判] NDC分類:K915 販売価:\940(税別)
 絶版のため入手不能ですが、図書館には蔵書があるようです。 


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