茨田(まんだ)の由来 茨田は、「まむた」と読むらしい。倭名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)という古代の百科事典には、萬牟多と読みがふってある。播磨風土記には、河内の国茨田郡に枚方の里があったこと、そこに漢人が居住していたことがでてくる。また日本書記には、有名な茨田の堤と茨田の屯倉(みやけ)についての記事があるほか、茨田池に関しても述べるなど、茨田の名が古くからあったことを物語っている。 茨田池は人工の池ではなく、自然の滞水によるものであるらしいが、それは現在の寝屋川市南部以南に広がっていたもとの河内湖であった可能性がつよい。そして「まむた」とは、湿地帯をさす言葉であるともいわれているが、こうした観点に立つと、茨田と総称された地域は、のちの茨田郡の範囲を超えて、かなり広大なものであったことが考えられる。 (地域文化誌「まんだ」より引用) 渡来人・秦氏 |
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寝屋川市指定史跡 伝・秦河勝(でん・はたのかわかつ)の墓↑ 四世紀から五世紀にかけて大陸から多くのひとびとがわが国に渡来してきました。秦氏の祖とされる弓月君8ゆづきのきみ)もそのひとりで、養蚕・機織の技術を伝えたといわれています。 秦河勝は秦氏の長で、聖徳太子を補佐して六〜七世紀に活躍し、太子から仏像を授かり京都の太秦に蜂岡寺(広隆寺)を建立したことでも有名な人物です。 この地には「秦河勝の墓」として、高さ約二、四メートルの五輪塔が残されています。五輪塔の地輪の四面には、秦河勝の事跡や五輪塔建立の経過などが四百余字で刻まれています。碑文によると、以前には豪壮な五輪の石塔がありましたが、豊臣秀吉の命により淀川左岸に文禄堤を築いた際に持ち去ったため、現存する五輪塔は慶安二年(1649)に再建されたものであることがわかりました。 市内にある秦・太秦の地名も秦氏に由来すると考えられ、平安時代に編集された『和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう』に八郷の1つとして記されています。 五輪塔の前面には一対の石灯籠が建てられているほか、五輪塔の北東には「正六位上兼近衛府生秦武文(しょうろくいじょうけんこのえふじょうはたのたけふみ」と刻まれた柱状の石塔も建っています。 |
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伝・秦河勝の墓所在地MAP |
淀川沿いを歩く→太間天満宮→大阪府淡水魚試験場→京阪・香里園駅(解散)(行程約8km) |
2002.9.20(金)、AM9:40過ぎ、京阪電車・大和田駅下車。 |
茨田堤遺跡 大きなくすのきの木陰で |
茨田堤遺跡 石碑と堤の名残を残す場所 |
佐太天神宮 宮司さんから詳しくお聞きする |
佐太天神宮 本殿と拝殿が廊下で 繋がった珍しい建物 |
佐太天神宮 もうあと、50年すれば 重要文化財になるらしい |
太間天満宮 淀川沿いを3〜4km歩いた 皆さん境内で一休み |
※史跡・概略説明 【茨田堤(大阪府指定)門真市堤根神社北】 日本書紀仁徳11年条に「北河(現淀川)の水害を防ぐため築かせた」とある堤。日本書記によれば、仁徳天皇の時代、上町台地にあった宮殿の高殿から大雨のあとの河内の国を眺めると河川からあふれでた水のために田畑も家も水浸しだった。 治水工事の中心は秦氏と新羅人
【難工事 茨田堤の築堤と茨田連袗子の説話】 茨田堤の築堤工事が進んだ。しかし、激しい流れのため、築いてもすぐに壊れる難所が二ケ所あった。どうしても築堤を成功させたい。 社宝 蕪村の句碑 俳聖与謝蕪村が佐太を詠んだ句碑 「窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな」 |
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