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渡来人と日本文化
秦氏の土木技術集団 茨田堤・太間を歩く
 2002.9.20 大阪府門真市、寝屋川市、守口市

茨田堤、佐太天神宮、太間天満宮、大阪府淡水魚試験場など

   茨田(まんだ)の由来
 茨田は、「まむた」と読むらしい。倭名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)という古代の百科事典には、萬牟多と読みがふってある。播磨風土記には、河内の国茨田郡に枚方の里があったこと、そこに漢人が居住していたことがでてくる。また日本書記には、有名な茨田の堤と茨田の屯倉(みやけ)についての記事があるほか、茨田池に関しても述べるなど、茨田の名が古くからあったことを物語っている。 
 茨田池は人工の池ではなく、自然の滞水によるものであるらしいが、それは現在の寝屋川市南部以南に広がっていたもとの河内湖であった可能性がつよい。そして「まむた」とは、湿地帯をさす言葉であるともいわれているが、こうした観点に立つと、茨田と総称された地域は、のちの茨田郡の範囲を超えて、かなり広大なものであったことが考えられる。

   (地域文化誌「まんだ」より引用)

  渡来人・秦氏  寝屋川市にある、秦河勝の墓
 渡来系有力氏族
5世紀以降、西日本一帯に、広範に居住する秦氏の伴造(とものみやつこ)、本拠地は、山背国葛野郡天武朝の八色(やくさ)の姓で忌寸(いみき)姓となる。
 一般には、古くから西日本一帯に渡来し、機織や農耕に従事していた新羅系の人々が、欽明朝に王権に接近した山背国の泰氏勢力を伴造(とものみやつこ)として、氏族的にまとめたものとされている。以後、各地の秦氏が、多くの貢納によって王権を支えたので、有力な氏族となり、一族は朝廷の「倉」の管理部門と関係の深い役割を担ってきた。
 本拠地の山背国(京都)には、伏見稲荷大社や松尾大社を創建し、一族の氏神として崇敬してきた。推古朝には、聖徳太子から下賜された弥勒菩薩を本尊として、太秦に蜂岡寺(広降寺)を建立した秦河勝がいる。寝屋川市にも秦氏と縁の深い地名が残されている。秦、太秦である。茨田堤の難工事を担当した秦氏の一族が開発した村だったのだろうか。そこには、秦氏一族から英雄視されている秦河勝の墓と伝える五輪塔が建っている。

寝屋川市指定史跡     伝・秦河勝(でん・はたのかわかつ)の墓

 四世紀から五世紀にかけて大陸から多くのひとびとがわが国に渡来してきました。秦氏の祖とされる弓月君8ゆづきのきみ)もそのひとりで、養蚕・機織の技術を伝えたといわれています。   
 秦河勝は秦氏の長で、聖徳太子を補佐して六〜七世紀に活躍し、太子から仏像を授かり京都の太秦に蜂岡寺(広隆寺)を建立したことでも有名な人物です。
 この地には「秦河勝の墓」として、高さ約二、四メートルの五輪塔が残されています。五輪塔の地輪の四面には、秦河勝の事跡や五輪塔建立の経過などが四百余字で刻まれています。碑文によると、以前には豪壮な五輪の石塔がありましたが、豊臣秀吉の命により淀川左岸に文禄堤を築いた際に持ち去ったため、現存する五輪塔は慶安二年(1649)に再建されたものであることがわかりました。
市内にある秦・太秦の地名も秦氏に由来すると考えられ、平安時代に編集された『和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう』に八郷の1つとして記されています。
 五輪塔の前面には一対の石灯籠が建てられているほか、五輪塔の北東には「正六位上兼近衛府生秦武文(しょうろくいじょうけんこのえふじょうはたのたけふみ」と刻まれた柱状の石塔も建っています。

伝・秦河勝の墓所在地MAP

コース: 京阪電車大和田→茨田堤根神社→茨田堤遺跡→古川沿い→佐太天神宮→
淀川沿いを歩く→太間天満宮→大阪府淡水魚試験場→京阪・香里園駅(解散)(行程約8km)

秦氏の土木技術集団 茨田堤・太間を歩くMAP

 2002.9.20(金)、AM9:40過ぎ、京阪電車・大和田駅下車。
2ヶ月ぶりの市民講座、いつもの元気な顔が揃った。改札口手前の構内に集合して、資料を頂き辻先生からウォークの行程など説明を受けたあと、茨田堤根神社に向けて出発した。駅から北へ数分歩いたところに古めかしい神社があり、奥まったところに、史跡 茨田堤と書かれた石碑が立っていた。
 ここで、茨田の由来、古代の河内湖のこと。古代の淀川は川幅が広く本流と古川に分かれて河内湖に流れ込んでいた。一旦長雨が降ると河川は溢れ、大洪水がしばしば発生して人々が苦しんだこと。現在の淀川からは想像も出来ないことですが・・・。
 日本書紀によると、仁徳天皇の頃洪水を防ぐために淀川の支流古川沿いに堤が築かれたそうだ。その名残として現在、堤根神社境内に楠が植えられ茨田堤遺跡として大事に保存されている。
 この治水工事に携わったのが、渡来人・秦氏である。本日のウォークは、現在の古川沿いを少し歩き、守口、寝屋川の市内を歩いて、太間の袗子伝説が伝わる太間天満宮を訪ねる。ここ茨田堤遺跡は、当時の淀川がどのように流れていたのか、また治水工事が如何に難しいことだったのか尋ねる、その出発地点である。
 澱んだ水が流れる古川沿いの小道を5〜6分ばかり歩き、西へ橋を渡ると守口市内である。ここから市内の大久保町、金田町の住宅街を通り抜け、佐太中町の佐太天満宮に到着。宮司さんから道真公のこと、天満宮の由来など詳しく説明を受けたあと、境内で昼食。太間天満宮境内の茨田連袗子伝説の石碑
 天神宮の長い参道を抜け、国道1号線を渡り淀川の堤防にあがると、日差しはきついが時たま心地よい風が通り抜けた。淀川の河川公園を左下に見ながら、仁和寺、点野を越えて太間の天満宮に着いた。延々と、3.5kmは歩いたか。天満宮で一息付く。乾いた喉に冷たいお茶が旨い。
 ここで、辻先生より太間の連袗子説をお聞きした。武蔵の強頸(こわくび)は泣く泣く人柱になったが、河内の茨田連袗子(ころもこ)は、身代わりに瓢(ひさご)を水中に投げ入れ神意をはかり死を免れ、難工事を成功させたと言うことだ。袗子の素晴らしい合理的な判断が出来たからこそ、難工事も完成させることが叶ったのだろう。
 最後は、大阪府淡水魚試験場で淀川に生息する天然記念物のイタセンパラや珍しい魚を見学後、京阪・香里園駅で解散した。
 今も、当時の名残をとどめる古川に残る、茨田堤と絶間(太間)の説話を結ぶルートを歩き、古代の人々の素晴らしい知恵と努力を窺うことが出来た一日でした。


茨田堤遺跡
大きなくすのきの木陰で
茨田堤遺跡
石碑と堤の名残を残す場所
佐太天神宮
宮司さんから詳しくお聞きする
佐太天神宮
本殿と拝殿が廊下で
繋がった珍しい建物
佐太天神宮
もうあと、50年すれば
重要文化財になるらしい
太間天満宮
淀川沿いを3〜4km歩いた
皆さん境内で一休み

 ※史跡・概略説明

茨田堤(大阪府指定)門真市堤根神社北 

 日本書紀仁徳11年条に「北河(現淀川)の水害を防ぐため築かせた」とある堤。日本書記によれば、仁徳天皇の時代、上町台地にあった宮殿の高殿から大雨のあとの河内の国を眺めると河川からあふれでた水のために田畑も家も水浸しだった。茨田堤遺跡
 そこで、河内平野の低地に溢れるこの水を西ノ海(大阪湾)へ流すために、宮殿の北方にあたる台地の先端付近を掘ったのが、「堀江」である。また、しばしば氾濫を起こしていた北の河(淀川)洪水を防ぐため「茨田堤」を築いたという。
 古代の淀川の流路は、本流と古川に分かれ,河幅も広く河内湖に注いでいた。上流の諸河川、特に木津川は土砂を大量に流し下流域に砂州を発達させた。日本書記には、河の水が横に広がって流れ、長雨になるとすぐに氾濫するようすが記されている。
 茨田堤は、古川に沿って築かれ、遺跡は寝屋川、門真に残っている。

治水工事の中心は秦氏と新羅人
 淀川のような大きな暴れ河の治水工事は、従来の土木技術では不可能なことも多かっただろう。
古墳時代中期の巨大前方後円墳の築造より難しかっただろうとも推定されている。
秦氏や新羅人などの渡来人がこうした難工事に尽力したらしいことは記紀の伝承からも窺えるが、かなり困難な工事だっただろうと考えられる。

難工事 茨田堤の築堤と茨田連袗子の説話

 茨田堤の築堤工事が進んだ。しかし、激しい流れのため、築いてもすぐに壊れる難所が二ケ所あった。どうしても築堤を成功させたい。
仁徳天皇の夢に神が託宜していうのに「武蔵の強頸(こわくび)と河内の茨田連袗子(ころもこ)の二人を人身御供として河の神を祭るならば、かならず洪水を堰き止めることができるであろう。河内名所図会・茨田連袗子説話
 強頸と袗子はすぐに見つかり、河の神を祭ることになって、強頸は嘆き悲しみながら水中に入れられて命を断った。そして、難所の一つは成功した。
 ところが、袗子は身代わりに瓢(ひさご)を水中に投げ入れ、神意をはかるためウケヒを行なって次のように言った。
 「河の神はたたりをおこしたので、わたしを御供にすることになった。どうしても神がわたしを求めるなら、神はこの瓢を沈めたまえ。瓢が沈んだら真の神であると判断し、わたしは入水しよう。もし、沈めることができなかったら、偽りの神と判断し人身御供となることはない。」と。
つむじ風が急に起こり、瓢を沈めようとするが、瓢は波に舞いつつ沈まない。そして、遠くへ流れ去り袗子は死なず、強頸の絶間(たえま)、袗子の絶間と呼んだ。
  (渡来系土木技術集団の新しい精神が伺える説話である。・・・)
 
佐太天神宮(守口市佐太中町)
 祭神は菅原道真公。佐太天神、佐太宮と称してきた。河内名所図会・佐太天神宮
社伝よると、佐太を領地とした菅原道真を祭神とし、天暦年間(947〜957)に創建された古社で、ご神体は、道真が太宰府に左遷される途中、この佐太で自ら刻んだという木像である。
 道真は、太宰府に配流の際に、冤罪を主張して当地に留まったといわれ、その後、その由緒の地に祠を建てて道真を祀ったのが当社であるとする。正保3年(1646)「河内国佐太菅廟記」のなかで、儒家林法印道春(林羅山)は、佐太天神を、北野天神、太宰府と合わせて三天神としています。

社殿
 現在の社殿は、江戸幕府の老中を務めた淀城主永井信濃守尚政が再興。寛永17年(1640)に本殿が再興され、続いて(1648慶安元年)に拝段、神門、鳥居等が造営された。なかでも、本殿は江戸初期の建築様式を伝えるものとして貴重な建造物である。

社宝 
天神縁起絵巻 奈良絵師芝法眼観筆
(文安3年=1446)
天神尊像束帯図 狩野探幽筆
中尊観音像 狩野探幽筆
太刀 大和守安定(責文12年)

蕪村の句碑  俳聖与謝蕪村が佐太を詠んだ句碑

  「窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな」

大阪府立淡水魚試験場
施設の概要

 ◆所在地      〒572-0088  寝屋川市木屋元町10−4
 ◆電話           072−833−2770
  ◆ファックス        072−831−0229        
 ◆交通案内          京阪線「香里園」駅下車 徒歩で約20分。
                      国道1号線木屋西交差点を西に入る。淀川の堤防に面す。
 ◆事業内容       淀川に生息する天然記念物のイタセンパラなど約50種類の淡水生物の生態観察が
                     できます。魚、エビ、カニ、貝など淡水生物の分布やその生息環境、飼育方法など
                     の情報を提供。 
大阪府淡水魚試験場

見学の条件
  ◆見学可能日        月〜金曜日
  ◆見学可能人数      最小1人〜最大50人
 ◆費用             無料
  ◆駐車場            有

申込み方法           電話で問い合わせの後、
文書を提出。 見学希望日の7日前までに申し込む。
連絡事項は、見学目的、団体名、
引率者氏名と連絡先、人数

当日頂いた資料並びに関係HPを参照して作成しました。

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