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2001.10.17  奈良市
剣豪の里 柳生を訪ねる
 
円成寺、柳生の里(柳生陣屋跡、芳徳寺、柳生一族墓所、
家老屋敷、一刀石、天乃石立神社)
など


 野市の市民講座のバス旅行で、柳生の里を訪ねた。円成寺、素晴らしい浄土式庭園
生憎、朝から雨で期待していた柳生街道を歩く事が出来なかったが、円成寺では住職さんから、寺の由来から本尊・阿弥陀如来坐像、大日如来坐像など沢山の文化財や浄土式の庭園のことなど、ありがたいお話を詳しく伺った。
 柳生の里では、陣屋跡、家老屋敷を廻り、午後は、芳徳寺と柳生家の一族の墓にお参りし、正木坂道場の近くの道を山側に取り、薄暗い山道を30分ばかり歩いて、天乃石立神社、一刀石など柳生宗厳石舟斉が天狗と試合をしたという、伝説の巨石を見てきた。
 雨に煙る山里は静かで、今はなき剣豪達は整然として眠りについていた。
 柳生街道を歩くのは、次回の楽しみに。


柳生の里小説やテレビでおなじみの剣豪・柳生十兵衛の故郷。国宝・大日如来坐像、円成寺多宝塔の本尊
戦国時代末期に柳生新陰流を創始した柳生家は、但馬守宗矩(たじまのかみむねのり)の時代、徳川家の兵法指南役から一気に一万石の大名までのぼりつめた。緑豊かな自然の中、柳生家の墓所がある芳徳禅寺や旧家老屋敷、一刀石など柳生家ゆかりの見どころが点在する。柳生街道にある、円成寺は平安時代の国宝・大日如来坐像や藤原時代の浄土式庭園など街道きっての名刹である。
 
 柳生街道 奈良から春日山中を抜け、柳生の里へと通じる旧街道。
 奈良市街の破石町(わりいしちょう)から徒歩約25分で、滝坂道(たきさかみち)と呼ばれる石畳の山道になる。秋の紅葉の季節には特に風情があり美しい。街道沿いには夕日観音、地獄谷石窟仏、春日山石窟仏など多数の石仏が点在し、変化に富んだハイキングコースとして人気が高い。
 破石町から円成寺までやく9kmで約3時間、円成寺から柳生まで約6kmで約2時間。街道沿いの休憩場所は「峠の茶屋」のみ。

円成寺の国宝

春日堂・白山堂

全国で最も古い春日造社殿。
表は入母屋、裏は切妻、桧皮葺きで鎌倉初期の社殿の特色を現している。
円成寺本堂
天平勝宝8年(756)聖武天皇の勅願により開かれたと伝えられるが、寺伝によれぱ、平安中期の1026年(万寿3)京都鹿ケ谷の円成寺をこの地に移したのがその歴史の始まりと伝える。
旧柳生藩陣屋跡
「柳生藩旧記」によると、その坪数は1374坪(4534u)、表は竹の枝門であったと記される。その後、宗冬の時代に増築整備されたが延享4(1747)の火災により全焼し仮建築のまま明治の廃藩により姿を消した。
家老屋敷の庭園
柳生藩(一万石)の家老、小山田主鈴の旧邸。主鈴は、1826年(文政9)国家老として江戸から大和に移り、柳生藩南都屋敷を預かって藩財政の立直しに成功した。
柳生家一族の墓所
芳徳寺の北方50mの裏山に、柳生家一族の墓所がある。石舟斉や宗矩、時代劇でおなじみの十兵街など柳生一族の墓が80基あまりが整然と並んでいる。
一刀石
戸岩谷にある約7m四方の巨石で中央から真っ二つに割れている。柳生宗厳が修業中天狗と試合をして一刀のもとに切り捨てたと思ったが刀はその場にあった巨石を割っていた。これを後世一刀石と呼ぶようになった。

 ※史跡・概略説明

柳生街道を歩く

 忍辱山円成寺(にんにくせんえんじょうじ)
円成寺は柳生街道沿いきっての名刹。
楼門をくぐれば、そこは俗世を離れた別世界である。重文の本堂(阿弥陀堂)や日本最古の春日造り社殿である国宝の春日堂、白山堂。若き日の運慶作という大日如来座像や浄土式と舟遊式の2様式を兼ねた前庭は多くの人々を引き付けます

 円成寺の歴史 円成寺の浄土式庭園
 天平勝宝8年(756)聖武天皇の勅願により開かれたと伝えられるが、寺伝によれぱ、平安中期の1026年(万寿3)京都鹿ケ谷の円成寺をこの地に移したのがその歴史の始まりと伝える。
平安末には仁和寺の寛遍僧正が入って隆盛をみ、15世世紀の初めに,柳生の里で荒れ狂った土一揆の猛威からも逃れたが1466年(文正元)応仁の兵火によりぽとんどを焼失してしまう。しかし、ほどなく知恩院主の栄弘らによって再興され、江戸時代には、将軍家の特遇の下、大寺としてその名が知られ、寺中23寺、寺領235石を有した。

 豊富な文化財 
 若き日の運慶の銘文が刻まれた大日如来座像(国宝)、日本最古の春日造社殿の鎮守春日堂、白山堂をはじめ多くの文化財が遺されている。
 重要文化財 本堂(阿弥陀堂)、阿弥陀如来、四天王楼門、宇賀神本殿
 県指定丈化財 南無仏太子、僧形文珠
 
市指定文化財 拝殿 
 名勝   円成寺庭園

 大柳生 夜支布山口神社 大柳生の氏神で、延喜式にも記された式内社。境内にある摂社立盤神社の社額は重要文化財。当社地は立岩に神霊が宿る霊地として古代より崇拝されてきた。(巨石信仰)社殿 一間社春日造 桧皮葺

 阪原 南明寺 本堂は、簡素ながら風格のある建物。(鎌倉時代重要文化財)本堂内に祀られている木造の薬師、釈迦、阿弥陀の座像三尊(いずれも重文・平安時代)は珍しい組合せ。本堂の前には、鎌倉時代の十三重石塔宝筺印塔が立つ。
 南明寺の近くには、お藤の井戸と呼ばれる古井戸があり、柳生宗矩とその妻お藤との恋の出会い物語が伝わっている。

 柳生 疱瘡地蔵 かえりばさ峠を越え、柳生へ下っていく途中で立派な「疱瘡地蔵」に出会う。疱瘡が流行ったとき、疱瘡除けに彫られたのだろう。ずいぶん古いものらしく、風化も進みいまは屋根が設けられている。地蔵の右下の四角い枠のなかに、1428年(正長元)の徳政一揆の成功記録が彫られている。
 「正長元年以後は春日社領の神戸四カ郷
(大柳生・小柳生・阪原・邑地)には負債はない」という意味。徳政碑


柳生の里 剣豪のふるさと柳生の里を歩く

柳生陣屋跡 
 徳川泰平の時代に将軍家の兵法指南役して活躍した柳生家の陣屋跡。陣屋は、柳生新陰流を生み出した宗厳(むねよし)石舟斉の子宗矩が亡父宗厳の菩提を弔うため芳徳寺を建て、引き続き3年の歳月を費やし、寛永19年この地に建てたもの。
 「柳生藩旧記」によると、その坪数は1374坪(4534u)、表は竹の枝門であったと記される。
その後、宗冬の時代に増築整備されたが延享4(1747)の火災により全焼し仮建築のまま明治の廃藩により姿を消した。

柳生家菩提寺芳徳寺境内
 神護山 芳徳寺 臨済宗
 
 柳生の里を一望する高台にある芳徳寺は、柳生家の菩提寺。寛永15年(1638)柳生宗矩が父石舟斉宗厳を供養するために創建し、宗厳の法名にちなみ芳徳寺と名付けられた。
 
開山は、宗矩と親交のあった沢庵和尚。本堂には、本尊薬師如来の左右に、宗矩公木像・沢庵和尚木像が安置されている。寺内には、柳生家ゆかりの品々の展示室がある.


 柳生一族墓所 
 本堂裏手には、剣と禅に生きた柳生一族の墓所があり、石舟斉や宗矩、時代劇でおなじみの十兵街など柳生一族の墓が80基あまりが整然と並んでいる。


 家老屋敷 家老屋敷
 柳生藩(一万石)の家老、小山田主鈴の旧邸。主鈴は、1826年(文政9)国家老として江戸から大和に移り、柳生藩南都屋敷を預かって藩財政の立直しに成功、1846年(弘化3)家督を譲って退隠し、先に藩公から賜っていたこの地に新邸を営んで余生を送った。現在は、柳生藩関係の資料等を展示する資料館として公開。
 山岡荘八(1907〜1978)が昭和39年、この家老屋敷を買得、以後しばしばここに滞在した。昭和46年、NHKから放映されて柳生ブームを起こすことになった大河ドラマ「春の坂道」の原作も、この屋敷でその想を練ったものと言われる。

 柳生一族の歴史柳生宗矩公坐像(芳徳寺に所蔵)
 この山間の小さな里から「無刀取り」を完成し、剣聖と讃えられた柳生石舟斉宗厳をはじめ兵法指南役として徳川秀忠、家光に仕え、大目付にまで昇進した但馬守宗矩、小説などの主人公として人気のある十兵衛三厳、宗厳から柳生新陰流の道統を継ぎ、尾張柳生の祖となった兵庫助利厳ら優れた剣客を続々と生んだ柳生一族が出ている。
 
そして、江戸時代、諸国の多くの武芸者たちが、柳生氏の名声を慕って柳生街道を往来した。
 柳生新陰流の極意は「無刀取り」という「抜かざる剣の道」を極めたものであり、禅の哲学を取り入れた「剣禅一如」の思想は、徳川泰平の世に天下の剣として君臨した。

 柳生新陰流 石舟斉宗厳は上泉信綱に新陰流兵法学び、1565年(永禄8)一国一人の印可を得て、柳生新陰流を創始。道統は五男宗矩に伝えられ、宗矩はさらに沢庵禅師について禅の修業を積み、剣禅一如の崇高な境地を開いた。宗矩が会得した剣の道は、次に長男十兵衛三厳に伝授され、十兵衛は十年の諸国遍歴をはたしたあと柳生に戻って新陰流の道場を開設した。


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