龍野高校10回生だより

 原田明夫さんが夢枕に!
“龍窓”の追悼文と追加修正文
山田 忠男さんより投稿いただきました
 この歳になると健康となんらかの生きがいが大事ですね。
100歳時代とは言え80歳を目前にすると、あちこちから黄泉の国へ渡った話がよく伝わってきます。
昨日の夢の中に原田君が出てきました。また、新聞局の亡くなった仲間も出てきたりしています。
”おい、そちらに行くのはまだ早いよ”と大声で叫んだ自分の声で目が覚めたりしています。

 昨年”龍窓”に原田君の追悼文を書いて掲載していただいたのですが、貴兄のHPにもと思いながらつい、諸事に紛れてそのままになっていました。
 今さながらHPへの掲載はなんとかの抜けたビールみたいなものですから、みなさんへの公表はどうかと思いますが、とりあえず貴兄に追加修正した追悼文を送っておきます。京遊会での話題程度なら差し支えないかとは思いますが。彼のことは、まだまだ逸話があります。

 今年4月、自治会を管理組合に吸収合併し、新組織の管理組合を誕生させることができました。実に3年がかりのプロジェクトでした。私がプロジェクトの長をつとめ、纏めました。
 元々、両組織は設立目的が違うので反対意見や抵抗勢力があって、説得と新組織体制、財政問題に時間がかかりましたが、なんとか300戸の総意を得て、また、市役所の了解のもと補助金を得ることにもなりました。
 この吸収合併は多分、全国でも初めてのケースではないかと思います。

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    2018.10.21     山 田 忠 男 さん
 故原田明夫君を悼む
10回生 山田忠男
 龍高同窓会関東支部長の原田明夫君(元検事総長)が77歳の生涯を閉じて、早や6か月が過ぎました。彼とは幼稚園時代から同期なので、原田君と呼ばせていただきます。世間では、検事は怖いというイメージのようですが、原田君はいつもにこやかで人懐っこく、面倒見の良い親分肌の人でした。その点を買われてか、関東支部長に推され約10年支部発展のために尽力していました。
 そんな彼も小学校時代(相生市立那波小)は、いたずら好きのガキ大将でした。小学3年の学芸会の時、虫になった原田君は、仲の良い友が王子になると舞台裏の黒幕から長い棒でつついたりしていました。中学時代、学年委員会である問題を討議した時、クラス代表で出た彼は反対意見の中から解決策を考えだし、相手を説得するバランスの良い判断をしていた記憶があります。
 龍野高校時代(1955~58年)相生から自転車で片道約50分の通学でした。当時の道路は現在のような立派な舗装ではなく土の凸凹道でしたが、片手に英単語カードや、時には古文の単語を見ながら通学したものです。風雨に負けず通ったおかげで健康を保てたとは彼の後日譚です。サークルは電機クラブ、ESSや音楽部など幅広く取り組んでいましたし、一方、努力家で学力優秀でしたが、ガリ勉タイプでなく10マイルマラソンでは上位に入るなど文武を両立させていたことを覚えています。

 東京大学卒後、検事に任官されて早くから将来の検事総長と嘱望されていたようです。
検事生活の中で最大の出来事は、1976年日本の政界を震撼させたロッキード事件でしょう。同年早々、アメリカSECでロッキード社が自社の飛行機を各国へ売り込むため、各国政府要人に対し賄賂を贈っていた事件が発覚(コーチャン・ロッキード社副社長が証言)しました。日本政府要人もその中に含まれており、日本の政界は大騒ぎとなりました。当時、原田君は在米日本大使館一等書記官であり、コーチャンら関係者の嘱託尋問を実現すべくアメリカ司法省要人と困難な交渉を担っていました。当時、日米間には司法共助協定はなく、アメリカ側の抵抗が強く苦心惨憺の交渉であったようです。(その様子は「壁を破って進め」(堀田力著)に詳しい)。
 厳しい交渉の結果、日米司法共助協定(原案は原田君が作成?)がむすばれ嘱託尋問が実現し、田中角栄元首相の逮捕につながっていきます。外国での嘱託尋問は、日本司法史上初の出来事で、事後の国際司法共助の端緒と言われています。数年後に帰国した彼は、ダグラス・グラマン事件に遭遇し、東京地検特捜部検事としてロッキード事件で培った米司法省の人脈を活かしていました。その後、法務省国際犯罪対策室の初代室長に就任しています。
 法務省内ではロッキード事件で活躍した堀田力検事(当時)と協力し、H-Hラインによる省内改革(司法試験等)を推進したと聞いております。

 検事総長時代は、鈴木宗男代議士(当時)の事件を指揮しています。
原田君は数か国語ができ法務省きっての国際通と称され、各国法律家との国際会議に出席するなど司法関係のネットワークを築いていたようでした。単に各国語に通じているばかりでなく、国際的な観点からの捉え方や森羅万象に対する深い洞察力が人を引きつけるのではないかと思います。
 彼は盛岡地検検事正のとき、同地出身の新渡戸稲造博士の文献や国際紛争の解決につくした行動に心酔し、キリスト教精神(大学2年の時受洗)と相まって彼のバックボーンとなっていた感があります。相手に対する思いやり、人間的な暖かさで接する寛容と和解の態度が彼の真骨頂と思いました。彼のそんな魅力的な態度が司法関係だけでなく政・官・財界や文化人、はては芸能界まで幅広いネットワークを作り上げたのかも知れません。ノーベル経済学賞候補と言われたような学者(宇沢弘文オックスフォード大学教授、青木昌彦同教授)とも親しかったと聞き、驚いたことがあります。

 毎日の激務の中、夕食は家族と共に過ごすことは数少なかったようですが、我々同期生と懇談した後、是非、我が家によって子供達の寝顔を見てくれ、という家族思いの親馬鹿ぶりを発揮する一面を持っていました。
 そんな彼でしたから、検事総長退官の後スタンフォード大学で講義しておりましたが、帰国後、政府関係や企業から招聘され、宮内庁参与をはじめ数多くの役職を引き受けていたようです。「世のために、必要なら少しでもお役にたちたい」との気持ちが強かったのでしょう。
 逝去の直前まで原子力損害賠償支援機構の運営委員長を務めており、福島の原子力発電事故被害者救済のことが心残りであったと聞きました。
 告別式には美智子皇后陛下のご列席があり、天皇、皇后両陛下並びに皇太子殿下ご夫妻、秋篠宮殿下ご夫妻の供花のもと司法関係者を中心に政府、財界、民間の2,000人に及ぶ参列者があり厳かな式でした。
 原田君が天に召されるには、まだ早いと思っていましたが、穏やかな顔を拝見して安らかにお眠りくださいとお別れを告げるばかりでした。
 アーメン。 (2017年10月4日記)
 追悼文の追加修正文
 小学校時代:小3の学芸会の折、動物であった彼は、舞台の黒幕裏から主役の王子様役S君を長い棒でつついていた。6年生の集合写真では、帽子を雨だに被りいかにもやんちゃらしい姿で写っている。
 中学校時代:クラス委員長を務め、学級の意見をまとめるなどバランスの良い判断をしていたように記憶している。
 高校時代:自転車通学では、当時の道路は舗装されていない砂利の凸凹道でよくパンクした。自転車に乗って、英単語カードや古文単語帳を読みつつ、通学していました。この自転車通学のおかげで健康を保てたとは彼の弁。
 腕相撲は誰にも負けず、また、柔道部員を投げ飛ばすほどの力がある反面、コーラス部や電機部に属するなど、いろんな分野で行動していた。
 1等書記官時代:米司法省との難しい交渉過程、日米間の司法共助協定づくり、ロッキード社など関係者の嘱託尋問などのことは、堀田力著「壁を破って進め」に詳しい。原田君が実名で出てくる。司法省の最高責任者、最高顧問など人脈を作り上げたよう。司法共助協定の案文も彼が作成したのでは、とは山田の推定。
 なお、堀田力検事(当時)は原田君より5年上で在米日本大使館の前任者。また、法務省内でもH―Hラインと言って、司法試験改革など法務省内の改革を推進したと伝えられている。堀田検事は京都出身、京大卒で法務省官房長の時、退官し、さわやか福祉財団を創立、福祉問題に取り組んでいる。原田君の葬式に参列していた。

 ・退官後は、倒産した日本航空の役員や小泉改革の本丸、日本郵便の監査役なども務めていた。彼に退官後はのんびり過ごすんだと言っていたのに、どうして?と聞くと「天の声があったから仕方がない」と返事が返ってきたが、「天の声」とは亀井静香郵政改革担当大臣?
 ・6,7年前か、新渡戸稲造シンポジウムを開くので来るかとの連絡があった。国連大学ウタント国際会議場ホール(青山)でアメリカから数人、東京女子大学長、畔柳東京三菱UFJ銀頭取(当時)など錚々たるメンバーを集め、原田君が司会役であった。600名で満員。抽選で入れない人もいたと聞いている。
 ・「ラストサムライ」出演のトムクルーズが来日した折、原田検事総長を訪問したらしい。武士道との関連らしい。
 ・ノーベル経済学賞候補者とは宇沢弘文教授と青木昌彦教授。いずれもスタンフォード大学の教授で故人。宇沢教授は環境問題に詳しく、「自動車の社会的費用」で有名。原田君の長女の結婚式にも出席している。
 青木昌彦教授は東大経済学部時代、60年安保のとき全学連教宣部長として活躍、同年2月岸首相(当時)が新安保条約に調印するため渡米する際、羽田空港にバリゲートを築き、阻止運動して逮捕された。西部邁が副委員長だった。全学連崩壊後、アメリカにわたり制度経済学という新しい分野を切り開き、帰国後、京都大学教授になった。当時、桐島洋子と京大キャンバス内を闊歩、浮名を流した。
 その後、スタンフォード大学へ移り、長年同大学教授として活躍。原田君が退官後、スタンフォード大学で授業を持っていた時、娘が青木を紹介したらしい。原田君が検事総長を務めていたと知って、はじめは嫌な顔をされたらしいが、話しているうちに肝胆相照らし、その後夫婦で付き合うようになったという。青木は2年前、中国でのシンポジウムに出席の後、アメリカへ帰る途中、原田君宅により両夫妻で食事を楽しみ、夏にはサンフランシスコでの再会を約束していたところ、数か月後に青木が亡くなったといういきさつがある。
 ・原田君の自動車運転はなかなかの腕であった。7年前、小畑さんが声をかけて6人ほどで盛岡へ行ったことがある。原田君が8人乗せて盛岡、安比高原など2日間案内してくれた。
謹んでお悔やみ申し上げますとともに
ご冥福をお祈りいたします。
 
元検事総長 原田明夫さん死去 司法制度改革に取り組む 
 NHKニュース  4月6日 19時01分
裁判員裁判の導入など、司法制度改革に取り組んだ元検事総長の原田明夫さんが6日、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。77歳でした。

原田明夫さんは東京都出身で、昭和40年に検事に任官し、法務省の事務次官や、東京高等検察庁の検事長などを経て、平成13年から検察トップの検事総長を3年間務めました。

アメリカの日本大使館に在任中、田中角栄元総理大臣が逮捕されたロッキード事件の捜査に携わったほか、裁判員裁判の導入など司法制度改革に取り組みました。

平成16年に退官したあとは弁護士となり、日本郵政の社外取締役などを務めました。原田さんは6日未明、肺炎のため、東京都内の病院で亡くなりました。

元検事総長 原田明夫さん死去   朝日新聞デジタル
法務事務次官や検事総長として司法制度改革に関わった弁護士の原田明夫(はらだ・あきお)さんが6日、肺炎で死去した。77歳だった。前夜式は14日午後5時30分、葬儀は15日午前11時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻朋子さん。

 法務省刑事局長などを歴任し、01年7月~04年6月に検事総長を務めた。ロッキード事件では、在米日本大使館1等書記官として米国側と資料の引き渡し交渉にあたった。検事退官後は宮内庁参与や、政府の原子力損害賠償・廃炉等支援機構運営委員長を務めた。
元検事総長の原田明夫氏死去  産経新聞
田明夫氏(はらだ・あきお=元検事総長、弁護士)6日、肺炎のため死去、77歳。前夜式は14日午後5時半、葬儀・告別式は15日午前11時、東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は妻、朋子(ともこ)さん。

 東大法学部卒業後の昭和40年任官。法務事務次官、東京高検検事長などを経て平成13年に戦後23代目の検事総長に就任。在米日本大使館1等書記官時代には、ロッキード事件で日本の法務・検察と米司法当局との橋渡し役を務め、前例のない嘱託証人尋問の実現に奔走した。

 検事総長在任中、鈴木宗男元衆院議員があっせん収賄罪などで起訴された事件の捜査を指揮。14年には大阪高検公安部長(当時)の収賄・詐欺事件の監督責任を問われ、戦後初めて検事総長として戒告処分を受けた。
原田明夫氏が死去、元検事総長 鈴木宗男氏の事件指揮 
 東京新聞   2017年4月6日 19時21分
鈴木宗男元衆院議員のあっせん収賄事件などの捜査を指揮した元検事総長の原田明夫(はらだ・あきお)氏が6日午前2時52分、肺炎のため死去した。77歳。兵庫県出身。喪主は妻朋子(ともこ)さん。

 1965年任官。盛岡地検検事正、法務省刑事局長、法務事務次官、東京高検検事長などを経て、2001年に戦後23代目の検事総長に就任した。

 在米日本大使館1等書記官時代には、ロッキード事件で日本の法務・検察と米司法当局との橋渡し役を務め、前例のない嘱託証人尋問の実現に奔走した。

 検事総長在任中、鈴木氏の事件などに携わった。    (共同)



原田 明夫さんが「相生市名誉市民に」

平成24年 11/15 中田勝康さんから投稿頂きました


相生市ホームページ

 相生市は今年で「市制施行70周年」になるのを記念して、各方面で功労のあった方々を11月12日に表彰しましたが 、その式典の冒頭に原田明夫さんが、栄えある「相生市名誉市民」として表彰されました。誠におめでとうございます。

 これまで「相生市名誉市民」には、例えば土光敏夫さん(元経団連会長)や河本敏夫さん(元郵政大臣)など8名の方々が受賞されておりますが、いずれも明治か大正にお生まれの方々ばかりで、昭和生まれの受賞者は原田明夫さんが初めてですし、 更には8名の方々は全員が既に天寿を全うされておられますので、原田明夫さんには現役の「相生市名誉市民」として、くれぐれもご自愛いただくと共に、今後一層のご活躍をお祈りする次第です。

 なお、受賞直後の原田明夫さんの「謝辞」は、幼少時代から小学校~中学校~高校時代まで相生市で暮らした頃の「懐かしい思い出話」や、故郷・相生市に対する「感謝の言葉」に終始して、東京でのご活躍の事は一切お話しなさらなかったのは、お人柄とはいえ流石に立派で、深く感銘を受けると共に、省みて些細な事象を自画自賛したくなる我が身を恥じ入りました(笑)。
 
 あらためて、原田明夫さんの今後一層のご活躍を祈念申し上げますと共に、原田明夫さんを「相生市名誉市民」として表彰してくださった相生市に対して、龍野高校・同期生の一人として、心からお礼を申し上げます。感謝。


谷口相生市長から表彰状を授与される原田明夫さん


記念品を授与された原田さん


謝辞を述べる原田さん


原田明夫さん


市の幹部と談笑する原田さん







原田明夫さん

「ラジオ深夜便:こころの時代」に出演

2009.1.18

 原田明夫さんが、 「ラジオ深夜便:こころの時代」に出演されます。
  1月26日(月) 午前4時5分から 50分間
  1月27日(火)     々

 
私は日頃NHKのラジオ第一放送を愛聴しているのですが、特に早く目が覚めた時など、午前4時5分から約50分間の「ラジオ深夜便:こころの時代」では、様々な登場人物からのメッセージを楽しんでいます。

 この度、ひょんなことから、今月26日(月)と27日(火)の二回に私が登場することになりました。与えられた題目は私の前職を意識して「裁くこと、赦すこと」とややこしいことにされたのですが、実際は、担当の方と相談した上、新渡戸稲造博士のことなど日頃考えていることを話すことになりました。

もし、村田さんのコラムの愛読者で、早く起きた方がおられたらお聴きくださるようご紹介くだされば幸いです。
 
          原田明夫さん
ラジオ深夜便番組表
1月25日(日曜)〜26日(月曜)

ドラマ・アーカイブス

0
ニューススポーツ
ラジオ深夜便アンカー明石勇

20〔ないとガイド〕
自然に親しむ
哲学者 内山節
(今日の動き・歌は休止です)
世界の天気

1

ニュース〔地球の中の日本人〕
ミュージカルで人を育てる
NPO法人コモンビート
代表理事 中島康滋

2

ニュース〔ロマンチックコンサート〕
エンジョイ・ジャズ:ピアノ・トリオ名演集
ウィスパー・ノット、スピーク・ロウ、スター・アイズ
ほか
天気概況

3

ニュース〔にっぽんの歌こころの歌〕
歌謡スター・思い出のヒット:前川清集
東京砂漠、長崎は今日も雨だった、花の時・愛の時
ほか
歌・全国天気・気温

4
ニュース〔こころの時代〕
裁くこと・赦すこと(1)
元・検事総長 原田明夫
 
誕生花・一句・番組予告

1月26日(月曜)〜27日(火曜)

23
ニュース天気交通
ラジオ深夜便アンカー葛西聖司

20〔日本列島くらしのたより〕岩手県一戸町 上田初子
〔ないとエッセー〕
温泉は日本の宝物(1)
温泉エッセイスト 山崎まゆみ
全国天気 明日の日の出

0

ニュースWN パリ 浅野素女
朗読 「用心棒 日月抄」
作:藤沢周平 語り:松平定知
今日の動き・歌・世界の天気

1

ニュース〔インタビュー〕
カタイ頭をやわらかく
独協大学講師 齊藤善久

2

ニュース〔ロマンチックコンサート〕
ヴィンテージ・ポップス: クィンシー・ジョーンズ集
愛のコリーダ、アイ・キャント・ヘルプ・イット、
ムーディーズ・ムード ほか
全国交通情報

3

ニュース〔にっぽんの歌こころの歌〕
作家で綴る流行歌:丘灯至夫(作詞)作品集(2)
高原列車は行く、涙のチャング、襟裳岬
ほか
歌・全国天気・気温

4

ニュース〔こころの時代〕
裁くこと・赦すこと(2)
元・検事総長 原田明夫
     
誕生花・一句・番組予告

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