第12回京遊会

近江商人のふるさと 近江八幡と五個荘町
近江八幡と五個荘
信長の夢・安土城と琵琶湖
2009.11.20
岩下利明さんより写真を投稿頂きました

 11月12日(木)〜13日(金)、第12回京遊会が開催され7名が午後1時JR近江八幡駅に集まり、「近江商人発祥の地、近江八幡・五個荘と安土城跡」の歴史と文化を満喫した。
 JR近江八幡駅北口前から駅レンタカーで出発、小幡観光駐車場にて予めお願いしていた現地のボランティアガイドの堀川さんと落合い、伴傳兵衛宅址裏の広場で、先ず近江八幡のざっとした歴史の説明を受けた後、資料館ほか周辺の見所(旧伴家住宅→郷土資料館・歴史民俗資料館→旧西川家住宅→新町通町並み→八幡堀→日牟禮八幡宮)を次々と説明を受けながら見物。
 その後、朝鮮人街道を北上、安土城跡に登り信長の偉業に夢を馳せた後、目の前に見える近江風土記の丘・信長の館と安土城考古博物館を見学。午後5時、休暇村・近江八幡に着き、1泊、ゆっくりと旧交を温めた。
 翌日、早朝8時過ぎにホテルを出発、先ず西国31番札所である長命寺にお参り出来るかと期待して湖岸道路を西回りにぐるりと南下、長命寺前から車でそのまま参道を登り、駐車場に到着。石の階段を50段ほど登ったところに三重塔・本堂があり、ゆっくりと参拝を済ませた。田中さんの大型車運転の熟練の腕前に、一同皆、感謝感激するのみ。本当にありがとうございました。
 近江八幡駅で、会議に出席するため早めに帰られる田中さんとお別れ、運転を冨田さんに託して五個荘町へと向かった。昨日と同じく、朝鮮人街道を北上、安土城跡を通り過ぎJR東海道本線を跨ぎ、きぬがさ山トンネルをくぐった先の五個荘生き活き館に到着。現地のボランティアの松野さんの案内で、五個荘町金堂地区の近江商人屋敷や町並みを楽しく散策。最後に近江商人博物館を見学、帰りは、国道8号線を通り近江八幡駅に到着、昼食後解散。
 今回の参加者は、岩下、上田、菊谷、田中、寺田、冨田、村田の皆さんでした。


 次回は、来年11月、寺田・村田の担当で、平城京遷都1300年記念の平城京、西の京(唐招提寺・薬師寺)散策を予定しております。また、元気でお会いしましょう。
近江八幡散策
         


いざ出発! 10人乗りの大型乗用車に乗り込む

伴傳兵衛宅址裏の広場で、近江八幡観光ボランティアの堀井さん!

「朝鮮通信使」は江戸時代に始まった朝鮮外交使節団である。
近江八幡にはその往復の路に朝鮮使節団が宿泊した。
これは町挙げての一大行事であったという。

旧伴家住宅
近江八幡市立資料館(旧西川家住宅)

江戸時時代の町並みの面影を残す新町通りの歴史民俗資料館の隣りに、
一軒民家をはさんで旧西川家住宅があります。
典型的な近江商家の面影を残すこの家は、店の部分と居宅部分に
分かれており、突き出した座敷玄関を持っているのが特徴です。
壁を黒く塗り、トガ材を使った京風建築の2階建家屋は、どっしりとした構えで、
江戸時代中期頃の建築と推定されています。見かけより奥行きが広く、
庭に植えられた木々の周りに飛び石が巡らされ、地面には苔が生えています。
近江商人の隆盛ぶりを偲ぶことができ、国の重要文化財に指定されています。

西川家の家訓
先義後利栄 好富施其徳

義理人情を第一とし、利益追求を後回しにすることが商売繁盛となり、
得られた富に見合った人間形成を行えと説いています。


 
新町通の町並み
近江商人達が住んだ地域、格子戸や見越しの松、うだつなどが並び
「重要伝統的建造物群保存地域」として、町並み保存がなされている。

町並みと八幡山
八 幡 堀

八幡山と八幡堀

天正13年(1585)、秀次の築いた「八幡城」はこの八幡山(271.9m)
の頂上にあり、紅葉の名所としても有名。四方の眺望も琵琶湖や比良山系、
眼下に整然と区画整理された旧城下町の町並みが手に取るように見渡せる。

八幡掘は、写真や絵画の愛好家などが多く訪れ、
時代劇のロケ地としても頻繁に使用されている。

堀に浮かぶ小舟

舟板を再利用した風情の在る板壁

紅葉も素晴らしいお堀

水郷めぐりの船が行き交う

日牟禮八幡宮の鳥居と白雲館
明治10年、近江商人が子弟教育の場として費用を出し合い
建てた八幡東学校を改築したのもので、町のシンボルとなっている。
日牟禮八幡宮と八幡山
千年以上の由緒を誇る「日牟禮八幡宮」の境内を散策。


3月の左義長祭り、4月の八幡まつりが有名

若干20歳でベトナムに渡り海外貿易で名を馳せた
西村太郎右衛門が寄進した「安南渡海船額」(国重文)

松前舟で活躍した岡田彌三右衛門邸

特別史跡 安土城跡


現在の安土城跡周辺



安土城郭資料館の安土城復元模型

安土城は、織田信長が天下統一の拠点として琵琶湖岸に築いた大城郭です。
 織田信長は尾張国(現愛知県西部)の戦国大名です。はじめは尾張の一戦国大名にすぎませんでしたが、持ち前の才覚と行動力で周辺の戦国大名たちを従え、天下統一への道を歩んでいきます。

 信長は領地の拡大にあわせて居城を清洲城(愛知県清洲町)、小牧城(愛知県小牧市)、岐阜城(岐阜県岐阜市)と移し、天正4年(1576)から安土城の築城を開始します。

 信長は安土城を築いた後、さらに西国への進出を目指しますが、天正10年(1582)6月2日、京都本能寺において、明智光秀によって殺されます。安土城はその光秀が羽柴秀吉によって滅ぼされた後、焼け落ちました。
 その後も、信長の遺児信雄、信孝や孫の三法師が安土に入城するなど、安土城は天下人である織田氏の居城として機能しつづけていました。
 しかし天正13年(1585)、小牧長久手の合戦を経て織田信雄を屈服させた秀吉が、近江八幡に甥の秀次を入れ、八幡城を築かせたことにより、安土城は城としての機能を失い、廃城されることになります。


 (安土城郭調査研究所HPを参照させていただきました
安土城の歴史






1576 正月中旬、安土城の築城を開始する
1577 安土山下町中に楽市楽座の掟書を発布する
1579 完成した天主に信長が移り住む
1582 ハ見寺に徳川家康を迎え、能が行われる
本能寺の変で信長死去、安土城の天主・本丸等が焼失する
1585 豊臣秀次の八幡城築城に伴い安土城は廃城となる
安土城跡の発掘年表
調



20


1989 発掘調査を開始する
伝羽柴邸跡で五棟の建物跡を検出する
1990 環境整備の基本構想を策定する
伝羽柴邸跡で櫓門跡を検出する
136mにわたり大手道の当初ルートを確認する
1991 伝前田邸跡で建物四棟と木樋暗渠を検出する
黒金門に至る大手道の全ルートを解明する
1992 環境整備工事に着手する
1993 大手門とその東西に続く石塁跡を発見する
東家文書を調査し旧安土城下の絵図を多数発見する
1994 旧ハ見寺境内地を調査し当初の伽羅配置を明らかにする
現ハ見寺の高石垣を解体し当初の大手道を検出する
1995 百々橋口道及び主郭部周辺をめぐる周回路を調査する
1996 搦手道の調査に着手する
米蔵付近より金箔貼りの鯱瓦を発見する
1997 搦手道の全ルートを解明する
台所跡から流し・カマドとともに飾り金具を発見する
1998 天主台下から焼失建物とともに多数の遺物を発見する
一建築金物、十能・鍬、花器、金箔瓦、壁土等
搦手口の湖辺で木簡、完形に近い金箔瓦等を発見する
大手道の整備工事が完成する
1999 本丸跡から清涼殿と同じ平面を持つ建物跡を発見する
2000 天主台の再調査を実施
2001 大手門周辺から石塁と門跡2カ所を検出
2002 大手門西側〜百々橋口と大手門東側の調査を実施し、
大手門東側に虎口を検出
2003 大手道東側の蓮池周辺を調査し、曲輪跡などを検出
2004 大手道東側の蓮池周辺を調査し、曲輪跡などを検出
2005 大手道南側で城内南端の石垣を検出し、大手門前面に
空間のあったことを立証


安土城跡の現状と歴史
 信長が安土城を築いた安土山は標高198mで、西の湖、常楽寺湖、および伊庭内湖によって三方を湖で囲まれ、琵琶湖を堀と見立てた壮大な城であった。周囲の内湖は昭和初期の干拓事業によって埋め立てられ、小さくなった西の湖がその面影を残している。また、南側はひざまでつかる湿地が広がっていたとみられ、敵を寄せ付けない立地条件も考慮していたとうかがえる。
 天主は地上6階、地下1階。1階に狩野永徳の絵が飾られ、5階は法隆寺夢殿に似た八角形。6階は金箔張りで柱に竜、内部に中国皇帝、天上には天人が描かれていたという。炎上は、城下町の火災が飛び火したなど諸説あるが、原因は不明。1585年に廃城となった。1952年(昭和27年)、特別史跡に指定された。
 現在、安土山の大半はハ見寺が所有しており、大手道から天主などへの見学ルート以外には立ち入ることが出来ない。2006年9月から入山見学料として500円が必要となった。

安土城跡発掘調査概要
1. 文化資産としての安土城跡の保存、活用を図るため、滋賀県は1989年から20年計画の
  調査整備事業に着手した。天主・本丸跡は戦前にも発掘されているが、本格的な調査は
  初めてだった。
2. 対象は天主台や大手道、大手門周辺など。面積は安土山(96ヘクタール)のうち、
  5%弱だが、中腹の伝羽柴秀吉邸、伝前田利家邸跡で建物跡を検出した。
3. 1993年度には大手道の全容を解明した。
4. 1996年には、米蔵付近より日本の城で最古の金箔塗りの鯱(しゃちほこ)瓦を発見。
5. 1999年には、本丸跡で天皇を迎えるためとみられる御殿跡の礎石を確認した。
6. 2001年〜2004年にかけて、大手門西側、東側などから西虎口を2個、大手門、
  東虎口を確認。
7. 2005年、大手門前面に空間のあったことを立証した。
8. 県は2009年、発掘調査をほぼ終えた。
 
安土城の復元案 
  内藤昌氏と宮上茂隆氏の案に加えて、新たに佐藤大槻氏の案が出された。
  織田信長の右筆、太田牛一の記した『安土日記』(『信長公記』)
  フロイス『日本史』ほか、イエズス会宣教師らの記録
  昭和15年安土城発掘調査報告
  平成元年から始まった第二次発掘調査報告などを参考に案が出された。

  内藤案の特徴は、天主内部に4階吹き抜けの空間があり、ここに宝塔が収まっていた、
  とするもの。内部に吹き抜け空間をとったことで、下層の規模がきわめて大きくなった。
  また複雑になった外観とあいまって、「壮大」「壮麗」という印象を与えるものである。
  NHKがこの内藤案を支持し、CGを作って繰り返し放送した。
  セビリア万博に出展された復元模型も、この内藤案に従ったものである。
  安土城記念館には、内藤案と並べ、宮上案による復元模型が展示されている。

太田牛一の記した『信長公記』に書かれていた、興味深いこと
1. 信長は、城下町の経営には苦労していたようだ。当時の侍は故郷に本拠を持っており、家臣に「安土へ出てこい」と言っても、なかなか集まらない。
 面白いのは、「弓衆」の長屋が焼けた際の信長の怒り方。今でいう単身赴任で男ばかりだから、料理などをしていて火事が起きたと言う。火事を機会に家族を呼び寄せるよう命じた。
2. 天正10年(1582)正月一日、信長が「御幸の間」を家臣に見学させたことが書かれている。
 「御幸の間」を拝観したあと、最初に参じた白州へ戻ると、信長公から台所口へ参るようにとの上意が伝えられた。それに従い伺候すると信長公は厠の口に立って待っており、そこでわれらの出す十疋ずつの礼銭をかたじけなくも手ずから受け取られた。
 
調査成果・新発見の絵図などから分かったこと
1. 安土城の縄張りは、山上には信長の城と宮殿があり、中腹には信長一族と小姓・右筆・
  馬廻り衆など側近の屋敷、山麓は城の外郭線の防御施設などが造られて、山全体が
  立体的な機能を持った壮大な城であった。
  山頂の宮殿、山腹の家臣屋敷、山ろくの砦(とりで)と、一体的な縄張りがある。
  やはり、天下取りの城というイメージ。
  しっかりとした防御機能を持って都に対峙(たいじ)していた。
2. 城下町や下街道に面した山麓を石垣で区画して、山=城とした。
3. 『信長公記』などに書かれている、山下(さんげ)・山麓は安土山の中腹を指す。
4. 伝本丸御殿(御幸の間)、直線の大手道(6〜7mの幅で180m)、三門形式(大手門・
  東口虎口・西虎口)の大手石塁の造から、天皇の行幸を迎える機能を備えていた。
  信長は、天皇を将軍自らの邸宅に招いた室町幕府を受け継ぎ、安土城に天皇を
  迎えようと考えたのだろう。
  天正10年6月2日、信長は本能寺で無念の自害に果て、その夢は叶えられなかった。
5. 城下に面する西側の防御が手薄。
6. 「江州蒲生郡豊浦村与須田村山諭立会絵図」(元禄8年)に惣構どて
  描かれ、また、「指上申西霊寺建立並寺地之」(江戸中期)に信長公の頃に
  惣郭之土堤を開いたと書かれている。明治初期の地図では惣構地内の道路は、
  鍵形路が分布していることなどから、安土城下町には、内町・外町があり、岐阜の
  城下町と類似している。但し、楽市楽座は内町にあった。

総まとめ
安土城は、近世の先駆けといわれるが、城・城下に中世的要素がある。城下の在り方や社会・経済的にも近世というには未成熟であり、まさに過渡期の城であって、戦国末期でより中世に近く、近世は次の秀吉の時期からと考えられる。

《信長と安土城》
1534年 尾張で信長誕生
1546年 元服し織田三郎信長を名乗る
1551年 父信秀が病死、家督を継ぐ
1555年 清洲城主となる
1560年 桶狭間の戦い。今川義元を討ち取る
1567年 稲葉山城を攻略、岐阜城に改名。「天下布武」の印章を使い始める
1568年 将軍足利義昭を奉じて京に上洛
1571年 比叡山焼き打ち
1573年 足利義昭を京から追放。室町幕府滅亡
1575年 長篠の戦いで武田勝頼を破る
1576年 安土城築城開始。信長も安土に移る
1577年 安土城下町に楽市・楽座令
1579年 安土城天主が完成
1582年 本能寺の変、信長自刃。安土城天主、本丸炎上
1585年 安土城廃城
 安土城跡に着き、入り口で拝観料500円を払い、大手道を真直ぐに登り始める。石の階段を一段一段数えながら、500段近い階段を登り詰めたところが天主が建っていた所だ。ここから見える展望は素晴らしく、大中湖・南遺跡などが一望でき、全員で天主の礎石の上に立って記念撮影。
安土城跡・天主を目指して、杖を片手に大手道の石段を登る2時45分ごろ

ここから見える展望は素晴らしく、大中湖・南遺跡などが一望できる

全員で天主の礎石の上に立って記念撮影。

蘇った幻の名城
安土城天主 信長の館

安土城考古博物館
休暇村・近江八幡

休暇村・近江八幡玄関前
西国三十一番札所 長命寺


長命寺は西国三十一番札所の霊場で、
その歴史は古く十二代景行(けいこう)天皇二十年、
長寿の大臣武内宿彌(たけのうちすくね)は当山に登り、
「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈り
三百歳以上も長寿を保ち、六代の天皇に仕えられたのであります。

その後聖徳太子が諸国歴訪の折り、此の山に来臨され、柳の巨木に
「寿命長遠諸願成就(じゅみょうちょうおんしょがんじょうじゅ)」の文字と
観世音菩薩の御影を拝され感歎されていると、忽ち巌の影より白髪の老翁現われ、
「此の霊木で千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば
武内大臣も大いに喜び、諸国万人等しく崇拝する寺となるであろう」と告げ失せられました。

早速、太子は尊像を刻まれ伽藍を建立、武内宿彌長寿霊験の因縁をもって
「長命寺」と名付け給うたのであります。

808段の石段を登ると、本堂、三重塔、鐘楼、琵琶湖の眺めも素晴らしい。

長命を念じ全員で記念写真

天びんの里・東近江市五個荘(ごかしょう)
近江商人屋敷と博物館

 ボランティアさんの案内で、舟板塀の商家や白壁土蔵の建物が軒を連ね、水路には鯉が泳ぎ、ノスタルジックな雰囲気をかもし出している商人屋敷の町並みを心行くまでゆっくりと味わってきました。

 てんびんの里・五個荘は江戸時代、この湖東の地から、天秤棒を肩に、革新的な商法と不屈の精神、そして何よりもお客様の喜ぶ笑顔を心の糧として、全国津々浦々に行商し、立身出世を夢見た近江商人たちの発祥の地として知られている。
 五個荘は、滋賀県の琵琶湖の東部、近江盆地湖東平野の中央に位置し、北は和田山、西に繖山、南に箕作山、東に愛知川と三方が山、一方が川に囲まれた、「安住の地」として早くから開かれた地である。
 この4キロメートル四方、面積16.28平方キロメートルという小さな町から、江戸時代てんびん棒一本で全国に行商に出向き、大きな財をなし、故郷に錦を飾った近江商人の一派、五個荘商人が発生した。五個荘商人は成功し大商人となっても、田を耕し農業を捨てずに、先祖を大切に自給自足を基本に、質素倹約を旨として故郷の発展に尽くした。また、商売のみでなく文化面でも独自の文化を育み、町内の各地には商家の旧い町並みが多く残されている。
 (五個荘観光ガイドHPを参照)


五個荘金堂の町並み (重要伝統的建造物群保存地区)
平成10年、金堂の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
金堂の町並みは古代条里制地割を基礎に大和郡山藩の陣屋と社寺を中心に形成された
湖東平野を代表する農村集落で、加えて近江商人が築いた意匠の優れた和風建築群の
歴史的景観を保存し、わが国として価値が高い
」とされている。

舟板塀の商家
五個荘金堂は、近江商人発祥の地の1つで、今も商人屋敷の町並みが残る風情ある土地です。
舟板塀の商家や白壁土蔵の建物が軒を連ね、水路には鯉が泳ぎ、ノスタルジックな雰囲気です
 五個荘商人は、江戸時代中期の享保年間(1716〜36)以降から進出をはじめ、近代にはいっても活躍を続けた。五個荘商人は、近江の特産物である野洲晒・高宮布・編笠や、畿内・尾張・遠江などで木綿や海藻類を仕入れ、それを関東・信濃・奥羽で売り捌いた。一方、関東・信濃・奥羽で仕入れた絹布・生糸・麻・紅花類を名古屋・京都・大阪・丹後・近江などに持ち帰り、これらも販売していた。
 近江商人の商いの特徴として、次の四点があげられている。まず、商いの形は行商形態をとり、呉服・太物・麻布・蚊帳・漆器・小間物・合薬など多種多様な商品を扱っていた。次いで活躍の舞台として、近江商人は全国各地に支店を出していることが特徴である。3番目に、近江商人は商業だけでなく、金融業・製造業・油絞業・漁業などに経営を広げている点も注目されている。そして4番目には、経営の合理性があげられ、共同企業形態をとるものや会計帳簿作成などの経営方式を取り入れていた。その経営活動を支えていた精神は、勤勉・倹約・正直・自立の精神であると言われる。

 外村繁家に伝わる「妻女心得条」近江商人の「家訓」の一つ
・牝鶏曉を告げざること   ・お仏供米朝夕欠かさざること
・主人下帯わが湯巻類必ず自分にて洗うこと
・午前中女中小言言わざること  ・酒燗熱からず温からず妻女勤めなり
の五カ条から成っている。
「牝鶏曉を告げざること」とは、朝からブツブツ小言を言うな、ということらしい。
「主人下帯わが湯巻類必ず自分にて洗うこと」は女中にこれをさせるなということで、
使用人に気持ちよく働いてもらうという気持ちの表れである。
さらに「酒燗熱からず温からず」は中庸の道をいけ、との戒めをあらわしている。
近江商人の妻女の気遣いの一端がこの家訓によく現れている。

近江商人のいでたちとして、天秤棒を肩に担いだ上のような姿が有名です


<代表的な近江商人>
西川甚五郎    山形屋   八幡商人、「ふとんの西川」の基
外村與左衛門  外与     五個荘商人、繊維商社「外与」 
中井源左衛門  十一屋   日野商人、世界初の複式簿記考案
飯田新七     高島屋   高島商人、百貨店「高島屋」の基
塚本定右衛門  紅屋     五個荘商人、繊維商社ツカモト株式会社
市田弥一郎    市田     五個荘商人、京呉服市田株式会社
藤井彦四郎    スキー毛糸 五個荘商人、藤井株式会社
伊藤忠兵衛    丸紅     湖東商人、伊藤忠商事、丸紅の基
小杉五郎左衛門 小杉産業  五個荘商人
塚本幸一     ワコール  五個荘商人

<近江商人の企業>
商社・・・・・伊藤忠商事、丸紅、トーメン
百貨店・・・高島屋、大丸、西武
紡績・・・・・日清紡、東洋紡
その他・・・日本生命、ヤンマーディーゼル、西武グループ


近江八幡駅

「たねや」のお土産もどっさり買い込み、
また来年、元気にお会いしましょう!


最後までご覧いただき有難うございました!