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第18回 京遊会 例会報告

真田幸村ゆかりのコース散策
三光神社・真田山心眼寺・大阪城を尋ねる

大阪城・KKRの写真撮影は岩下さん
京遊会 各位
         第18回 京遊会 「大阪城と真田丸探訪」のご案内
                                        幹事    村田 義朗
 朝晩急に冷えてまいりすっかり秋らしくなってきましたが、その後お元気でお過ごしの事と存じます。
 京遊会まで約2週間となり詳細が決定し案内状とパンフなどをお送りいたします。
 
 参加者: 岩下、上田、菊谷、田中、寺田、長谷川、村田さんの皆様  7人です。
                     記 
 1.日時  11月16日(水)  11時30分
        JR大阪環状線  玉造駅改札口 集合
 2.宿泊  ◆KKRホテル大阪の目玉プラン☆スタッフおすすめ!!
       2食付プラン季節御膳◆12Fレストラン 夕食(和食) 朝食(バイキング)
         http://www.kkr-osaka.com/         
        KKRホテル大阪(国家公務員共済組合連合会 大阪共済会館)
        〒540-0007 大阪市中央区馬場町2番24号
         TEL. 06-6941-1122(代表) FAX.06-6941-5508(代表)
 3.概算費用  20,000円 
 4.日程 
      11月16日  玉造駅前 幸村ロードにて昼食
             (風の街・お好み焼き予約 TEL06-6768-9660)→
             三光神社→真田山旧陸軍墓地→どろどろ大師(善福寺)→心眼寺→
            (タクシーにて)→NHK大阪放送局→大阪歴史博物館(難波の宮跡) 
 
      11月17日  大阪城見学 10時30分 ~ 12時
            案内は、NPO大阪観光ボランティアガイド協会 
             行程:玉造口―六字名号碑―大手門ー多聞櫓ー千貫櫓ー
                 太鼓櫓ー桜門ー桜門桝形と巨石ー天守閣ー山里丸ー極楽橋                  
          ※ 昼食 大阪城ホール さくらダイニング予約(06-6946-7722)
           午後2時頃 JR大坂城公園駅 解散予定
 今年は、貴兄の用意周到な準備アレンジの上、両日とも好天で前日の真田丸散策、夜のKKRでの大阪城をバックにした宴席、また今日の名ガイド付き大阪城内の見学ツアーと最高の京遊会を持つことが出来たと思います。本当に有難うございました。  (寺田さん)

 皆さんの心温まるご協力のお陰で予定通り無事終了できましたこと、感謝申し上げます。

来年の京遊会は、11月15日~16日、「伊勢志摩・伊勢神宮参拝」と決まりました。
 菊谷さん、ご苦労様ですがよろしくお願いします。


KKRホテル玄関にて
(後列)長谷川、寺田、上田、菊谷さん  (前列)岩下、田中、村田さん


11時半予定通り5名が玉造駅に集合。早速、幸村ロードの風の街で、ゆっくりとお好み焼きを
腹一杯食べ、先日のNHKブラタモリ「真田丸」よろしく、真田丸や空堀探訪に出かけました。
真田幸村(信繁)は日の本一の武将だったか?

 
真田丸はどこに築かれたのか? 
歴史を紐解きながら現地を歩いてみましょう!
 慶長19年(1614)、およそ20万の徳川軍は、豊臣秀吉が心血を注いでつくり上げた天下の名城・大坂城を囲みました。大坂城は上町台地の北端に築かれ、北・西・東の三方を河川や低地に守られた堅城でした。しかし、南方は台地続きで高低差に乏しく、そこが防御上の弱点になっていました。
 
 豊臣秀頼の呼びかけに応じて入城した真田信繁(幸村)は、大坂城をめぐる攻防の焦点が、城の南方にあることを見抜いていました。そこで徳川軍の布陣前に、大阪城下を守っていた「惣構(そうがまえ)」(城下町一帯も含めた城の外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ都市防衛施設)の外側に、単独で張り出した城、真田丸(さなだまる)を築きました。信繁の予想通り、徳川軍の主力は大坂城の南方に布陣しました。

 大御所・家康は茶臼山(大阪市天王寺区)に、将軍・秀忠は岡山(御勝山、大阪市生野区)にそれぞれ本陣を置きました。そして信繁の真田丸をめぐって、大坂冬の陣最大の激戦が行われたのだった。 
・・・・。
     (真田丸の謎 千田嘉博氏 まえがきより)


三光神社の勇将・真田幸村像と抜け穴
上町台地で激しく戦われた大坂冬の陣・夏の陣


古代の上町台地地図
 大阪冬の陣 布陣図
 慶長19年(1614)10月、真田幸村(信繁)は豊臣秀頼からの招きに応じ、蟄居先の紀州九度山(和歌山県九度山町)を脱出し、勇躍、大坂城に入った。
 10月1日には、徳川家康が諸大名に大坂攻めへの出陣を命じており、豊臣・徳川両家は既に戦闘状態にあった。
 大坂城は、北には淀川の大河が流れ、西には海が迫り、東は幾筋もの川が流れて広大な湿地帯になっていた。

 大坂城に入城を果たした幸村は、この城の弱点が平坦な陸地の続く南面にあることを見抜き、南惣構堀(空堀)の外側に出丸を構築した。世にいう「真田丸」(真田の出丸)がこれである。

 もっとも幸村に限らず、名将の見るところは同じだったようで、幸村と前後して大坂城に入城した後藤又兵衛(基次)も、同様に出丸構築の必要性を考えていたという。材木まで用意し、準備を進めていたのに、それを出し抜くように幸村が出丸を築いたので、又兵衛は猛然と幸村に抗議し、両者の関係は一時、相当険悪なものになったと伝えられる(『落穂集』)。この真田丸を舞台に激しい攻防戦がおこなわれたのは慶長19年12月4日のことで、徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎らの軍勢が攻め寄せたが、幸村はこれらの大軍をものの見事に手玉にとり、散々な目に遭わせて完勝した。

 では、大坂冬の陣を代表する激戦の舞台となったこの真田丸はいったいどこにあったのであろうか。

 大阪市天王寺区玉造本町の三光神社境内には、幸村が大坂城内との行き来に使ったという「真田の抜け穴」が残り、その脇には鹿角の兜を被って采配を振るう幸村の銅像が立つ。丘陵の西端には幸村と大助親子の菩提を弔うために建立されたと伝えられる心眼寺があり、三光神社の隣には、西南戦争以来の陸軍戦没者の霊を祀る真田山陸軍墓地もあるので、一般には三光神社の鎮座するこの丘陵が「真田山」で、真田丸の故地だと思われている。

  一方で、三光神社の付近一帯が「宰相山公園」となっているように、この丘陵は「宰相山」とも呼ばれる。
 「宰相山」という名称については、寛政10年(1798)刊の『摂津名所図会』に「加賀宰相侯の陣屋この辺(ほとり)にありしよりかくいふなり」とあり、安政2年(1855)刊の『浪華の賑ひ』は「京極宰相侯の陣営、この辺に有りしより、かく号(なづ)くるなるべし」と記す。「加賀宰相」は前田利常、「京極宰相」は京極忠高であるから、いずれにせよ、冬の陣に参戦した徳川方大名の陣所跡に由来するらしい。

 大坂の陣から80年ほど経過した元禄年間(1688~1704)に作製された大坂三郷町絵図は、江戸時代には大坂の基本図として、北・南・天満各組の惣会所などに保管されたが、それらの内の一本である大阪城天守閣所蔵本には心眼寺と坂道(心眼寺坂)を隔てた西側の丘陵に「真田出丸跡」と記され、慶應義塾図書館所蔵本では、同じ丘陵に「真田山」、心眼寺や三光神社がある丘陵には「宰相山」と、両者を明確に書き分けている。したがって、今は丘陵が削られて跡形もないが、幸村が築いた真田丸は、現在の明星学園敷地にあったことは疑いない。

   (大阪城天守閣研究主幹 北川央)
さぁー いよいよ真田丸へと歩きましょう!
三光神社→真田山旧陸軍墓地→どろどろ大師(善福寺)→真田山心眼寺
真田丸(さなだまる)は、慶長19年(1614年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城(曲輪、防御構造物)である。

 豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

1 614年、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。

 信繁は1600年(慶長5年)に、父の真田昌幸が指揮した上田城の戦い(第二次)において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。

 12月4日早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破ることに成功した。
冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。

 構造は東西180メートルほど、半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置。三方に堀、塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとしてかかれる。
最近の研究では、下記の江戸時代の絵図を基に

真田丸は、下記のように推定されています。
幸村の「真田丸」に新見解 
攻めの出城、徳川誘い込む


奈良大学 千田
嘉博学長
  (日経新聞 2014.10.5 参照)
 今年400年を迎えた「大坂の陣」。勇将真田幸村が大坂城の出城として築き、徳川方と激闘を繰り広げた真田丸に脚光が当たっている。2016年のNHK大河ドラマが「真田丸」に決定。復元模型の計画も進む。遺構が残っておらず謎が多いが、新しい研究や考察を踏まえ実像を探った。

 「幸村が軍師として知略を巡らし、周到に準備した最高の出城」。そう指摘するのは奈良大学(奈良市)の千田嘉博学長だ。

 城郭考古学の専門家である千田学長はこのほど広島藩主だった浅野家に伝わる「浅野文庫諸国古城之図」をもとに新たな考察をまとめた。江戸初期、廃城だった各地の城を現地調査した図面集で、真田丸も位置などを具体的に記す。

 千田学長が提示するのが、本丸と小さな曲輪(くるわ)の二重構造だった、との新説だ。真田丸は大坂城の南に築かれたが、間に深い惣構(そうがまえ、堀)があった。真田丸の本丸の北に設けられた曲輪は背後をとって惣構から進入しようとする徳川方を防ぐ狙いがあった、とみる。

 1614年11月、戦いの火蓋が切られた大坂冬の陣。豊臣方10万に対し、徳川方の軍勢は20万に及ぶ。豊臣方は南以外の三方を川や堀に囲まれ、攻めにくい大坂城への籠城作戦で臨み、南側を固めた。その先兵が真田丸。東西は180メートルとも伝わるが、もっと大きかったとの説もある。

 位置は現在の真田山公園近辺とされるが、「中心はやや西の大阪明星学園の周辺だった」(大阪城天守閣の跡部信主任学芸員)。鉄砲隊を率いた幸村が指揮し、12月4日には前田利常らの軍勢をおびき寄せ、大損害を与えた。

 「大坂城の弱点の防衛拠点」(同)と考えられているが、千田学長は「むしろ攻撃のための出城だった」と新たな見方を打ち出す。「真田丸の北には深い惣構があるため大坂城内からの援軍が難しい。背水の陣といえる場所」。逆に言えば、「徳川からみれば攻めたくなる。大坂城に籠もるだけでは勝てないと考えた幸村が練った誘導、接近戦のための陣地だった」。

 千田学長は戦いの様子を伝える「大坂冬の陣図屏風」に描かれた真田丸に着目。「塀が2段構造で上からも下からも鉄砲が撃てるなど、実によく考えられている」と分析する。幸村は開戦前、東から進軍してくる徳川家康らを近江で迎え撃つ「積極策」を唱えており、攻めの姿勢を貫いたとも考えられる。

 幸村の父、真田昌幸は自ら築いた上田城(長野県上田市)で2度徳川軍を撃退した。「幸村は少数で徳川の大軍を破った上田合戦を参考にしたはず」(千田学長)。徳川方を翻弄した真田丸は冬の陣後、和睦の条件として取り壊された。


NHK 歴史ヒストリア  真田丸より
大坂城 惣構
 惣構(そうがまえ)とは城全体を取り囲む防御施設のことである。秀吉時代の大坂城域は北側は自然の堀をなしていた旧淀川(大川)に、そして西・南・東側はそれぞれ西惣構堀、南惣構堀、東惣構堀に囲まれた約2Km四方、約400万平方メートルにも達する広大な区域を占めていた。西惣構堀は現在の東横堀川で、古代難波京の運河を掘り返したものと思われる。また、東惣構堀は戦前まで環状線の東側を流れ上がっていた猫間川を改修して堀としたものである。そして、南惣構堀は天王寺と城の中間である現在の空堀通りに沿った形で掘られた巨大な空堀だった。

 しかし、秀吉は何も最初からこのような広大な範囲にわたる築城を考えていたわけではない。彼の死前後まで続いた大坂築城整備は大きく四つの段階に分けられるが、第三の段階、文禄三(1594)年に命じたのが、この南惣構堀(空堀)の掘削である。同じ時期に秀吉は聚楽第を中心とした「城下町・京都」を取り囲む「御土居」の造成と、また伏見城の周辺にも土塁と堀からなる惣構の工事を行っている。この年は秀頼誕生の翌年にあたり、いずれは秀頼に譲ることになる三つの城の防御力強化を目指したものだろう。

 特に住吉方面から平坦な台地が続き、地形上、唯一の大坂城の弱点とされた南方に築かれたこの南惣構堀は入念に作られた巨大な空堀であったという。構造的には上町台地を横切る形で深く掘り込まれた素掘りの空堀に柵をめぐらせただけの一見、簡素なものだったようだが、さすがは城攻めの天才だった秀吉の設計によるものであり、その防御力には絶大なものがあった。大坂冬の陣で大坂城を取り囲んだ約20万の徳川方の大軍でさえ一兵たりともこの空堀を突破することが出来なかったことがそれを証明しているといっていいだろう。

 この南惣構堀は大坂冬の陣後の和睦条件のメイン項目として真っ先に破却、埋め立てが行われ徳川時代には掘り戻されることはなかった。しかし、このあたりを一度歩いてみれば伝承の地域に沿って堀跡らしき地形が現在もしっかりと残っている。秀吉時代の大坂城の広大さを思い起こす意味からも、一度このあたりを訪ねてみてはいかがだろう?
空堀通

公園の右は空堀通り(大阪城の惣構)、左は三光神社への高台へと続きます
三光神社
 三光神社の場所は、かって姫山と称せられた場所で真田丸の一部とされる。
豊臣大坂城には、南惣構掘の東端南側の笹山に真田幸村によって築かれた真田丸と言う南北を濠で囲まれた半円形の曲輪が有った。真田信繁(幸村)が、1614(慶長19)年の大坂冬の陣の時、ここに出城を設けて大坂城の南の守りを堅固なものにしていた。
 
大坂城は、自然と掘に守られた堅固な城で有ったが南側は空堀で守っており、守備の弱点となっていた。その空掘の南側の小山が真田丸でその弱点をカバーするためのもので有った。

 このあたりの南側の西へ延びる一帯が真田丸で有ったと考えられる。(さらに真田山の南側の地名も現在広く真田山町と称されている)

 三光神社は、昔姫山神社と称せられていた。その後、真田山の三光との名が全国に広がり、三光神社となったとされる。全国でも珍しい中風除の神として知られている。
 三光神社は、古くは月日山神社、後に社地を姫山と呼んだことから姫山神社、明治以後宰相山神社また姫山神社に戻り明治41年境内の全国唯一の中風除けの神、三光宮を合祀してより三光神社と呼ばれるようになった。  毎年6月1日から7日まで中風祈願大祭が行われ、全国各地から多くの参拝者が訪れる。

 また、古くから三光神社の地に真田の抜け穴の話が伝えられている。慶長元和の大阪の合戦の頃、真田幸村がこの地に偃月城と名付ける塁を築き、大阪城まで通じる暗道を造ったと言い伝えられており、今も「真田の抜け穴」として保存されている。
昭和20年6月1日の大阪大空襲で大きな被害を受けた鳥居 
  本殿祭神 天照大神0月読尊・素菱鳴尊
 末社祭神 仁徳天皇0武内宿爾・野見宿扁・主守稲荷
創建は反正天皇時代(406~410)と云われています。350年ほど前、鎌人幡の隣に移りましたが、45年経て宝永3年(1706)再び今の地に、戻りました。神社の名も、姫山神社・宰相山神社と変わり、明治41年三光宮を合祀して、三光神社となりました。


また、古くから三光神社の地に真田の抜け穴の話が伝えられている。
慶長元和の大阪の合戦の頃、真田幸村がこの地に偃月城と名付ける塁を築き、
大阪城まで通じる暗道を造ったと言い伝えられており、今も「真田の抜け穴」として保存されている。



史跡、 真田の抜け穴
 大阪七福神のはじまりは「摂津奇観」巻之四十三享和3年(1803年)の條に「今年七福神巡拝発起」とあり、その4番に寿老神眞田山いなり社(現三光神社)とある。しかし、いつの間にか途絶え大正三年に「浪速七福会」を復興し、その後「大阪七福神社寺会」により現在に至る。
 拝殿に向き合うようにして立っている「寿老神(じゅろうじん)」の像。社家・武川氏の祖神「武内宿彌」は大和朝廷に244年間仕え日本一の長寿であったとされることから、長寿・幸福・健康を授ける神として信仰されている「寿老神」と同一視され境内の末社に祀られています。毎月7日は「大阪七福神巡り」が盛んだそうです。

真田山陸軍墓地

詳しくは、真田山墓地保存会のホームページを参照ください
 西南・日清・日露戦争等の戦没者 約5100余の個人墓碑が整然と並び、納骨堂には、太平洋戦争などの戦死者の遺骨が納められている旧陸軍墓地です。戦前80ケ所以上作られた日本各地の陸軍墓地の中でも最古の歴史を持ちます。墓碑は規則によって大きさや形が定められ、階級ごとに区画された区域に整然と立ち並んでいます。少数とはいえ、敵として戦い、捕虜となってこの地で亡くなった日清戦争の清国兵4名、第一次世界大戦のドイツ兵2名の墓がAプロックにあります。一番古いのは明治3年に建てられた「下田織之助」Cプロックの墓標です。
 現在 墓地は国有地で、大阪市が管理をしています。最近の調査で、納骨堂の遺骨が約8200人だったことがわかり、その中には落語家桂文枝の父親の遺骨が含まれているとテレビで放映されました。
少数とはいえ、敵として戦い、捕虜となってこの地で亡くなった
日清戦争の清国兵4名、第一次世界大戦のドイツ兵2名の墓がAプロックにあります。
どんどろ大師(善福寺)
 善福寺(どんどろ大師)
江戸時代、大坂町奉行土井殿がなまり、「どんどろ大師」で親しまれる。 聖マリア大聖堂から南、府立清水谷高校前の交差点を西に約100m、小道を左へ進むと善福寺。
 大坂夏の陣の戦死者を弔うため、高野山岩本院法道が開祖。寺の地には、もと真言宗  鏡如庵大師堂がありました。本尊 弘法大師が、俗に「どんどろ大師」と呼ばれ、寺伝によると、どんどろは、土井殿の訛で、昔大坂城の城代 古河藩主土井利位の邸宅が鏡如庵に近接してありました。明治6年以来、廃寺になっていたましたが、明治42年、東能勢村の善福寺が移転してきました。
 また寺の前の道路は、近松の名作「傾城阿波鳴門」の中の「阿波の十郎兵衛が、我が子のおつるを殺した所」との俗伝があります。境内には「勝軍地蔵尊」も祀られています。

真田丸の出丸城跡へと続く「心眼寺坂」
心眼寺坂を上って行くと、右手は明星学園グランド、左手に心眼寺などの寺が続く
心眼寺
 心眼寺(しんがんじ) (まん直(なお)し地蔵) 
 元和8年(1622)僧、白牟が創建した寺で、真田幸村父子の冥福を願って建立されたお寺である。門扉に真田家の家紋の六文銭が張りつけてあるのはそのためである。心眼寺には「まん直し地蔵」があり、まんの悪い時に祈願すると効験があると言われている。

 本堂の再建は昭和42年
元和8年(1622)白牟上人が大坂城出丸の跡地に、真田幸村父子の冥福を願つて建立された寺です。 門扉に真田の家紋六文銭が張り付けてあります。真田家の家紋は、死者が三途の川を渡る時の用意にと、お棺に納める六道銭から転化したもので、戦いにのぞむ武士の必死の覚悟を表しています。幸村400回忌に際し、平成26年10月に「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が建立されました。
 寺には「まん直し地蔵尊」が祀られています。まんの悪いときに祈順すると効能があると云われています。
また元冶元年(1864)幕府の命により旗本から武芸者を選んだ幕臣のエリート集団[京都見廻組]で、坂本竜馬・中岡慎太郎を襲撃した桂早之助・渡辺吉太郎の墓が現存しています。
真田丸顕彰碑
2016年2月1日11時から除幕式が行われた
「真田丸」は大阪明星学園の辺りにあったとされていることから、同学園テニスコート外側に2016年2月「真田丸顕彰碑」が設置された。

 2月1日11時から除幕式が行われた。主催者を代表して天王寺区長に続いて、大阪明星学園理事長坪光さんの挨拶があり、同学園中学高校音楽部によるファンファーレを合図に白幕の下から顕彰碑が姿を見せた。予想以上に大きく立派。

 真田丸跡地を訪ねて全国からやって来る方々の観光の目玉になるであろう。
 顕彰碑の場所は大阪市天王寺区餌差町5-44。心眼寺坂の興徳寺前。

大阪の歴史散歩道
真田丸への入り口、玉造駅付近を歩く
 二軒茶屋・石橋跡
        二軒茶屋・石橋跡と絵図(玉造駅東)(にけんぢゃや・いしばしあととえず)

 江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり、この街道の起点であった玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。茶屋が二軒あったところから“二軒茶屋”といわれ世に広く知れわたりました。(現・大阪市顕彰史跡)。

 この二軒のそばを流れていた猫間川(ねこまがわ)に宝永8年(1711)に幕府の命によって橋が架けられたのが“石橋”です。正式には黒門橋というが、この附近にあった大阪城の玉造門が黒い門であったところから黒門橋と名づけられ、この橋が大阪では当時珍しく石で造られたものだったので通称石橋と呼ばれています。

 場所 : 東成区東小橋1丁目2


この街道の起点であった玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられ、
旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。
 玉造の地名は古墳時代に勾玉などを製作する玉作部(玉造部)がこの地に置かれていたことが地名の由来とされている。

 昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。 前述の玉作部と、高安(現在の八尾市神立地区)の玉造部との間に、玉祖道を通じて交流があったといわれている。

 石山合戦では主戦場の一つとなり、豊臣秀吉による大阪築城の際に大坂城三の丸に組み込まれ、細川・宇喜多・蜂須賀・前田・龍造寺・浅野・片桐などの屋敷が玉造に置かれた。しかし、大坂の陣によって全て灰燼に帰した。

 松平忠明による復興により、玉造は武家地・町人地・年貢地が混在する地域となった。北半に玉造口定番の武家屋敷地、中央に町人町(玉造26町)、空堀跡以南に東成郡玉造村が置かれた。玉造村は高燥地であることから畑作の村で、玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり、「玉造黒門白瓜」とも表記)が栽培されていた。玉造黒門越瓜の「黒門」の名は、現在の中央区玉造1丁目付近にあった大坂城の玉造門が黒く塗られていたことに由来する。

 明治に入ると武家屋敷が破却され、それに付随して町人町も衰退してしまい、江戸時代の武家地・町人地は1873年(明治6年)に東成郡西玉造村となって大阪市街から切り離されてしまった。1889年(明治22年)に西玉造村と玉造村が合併して東成郡玉造町となる。1895年(明治28年)に城東線(現在の大阪環状線)玉造駅が開業すると急速に宅地化し、1897年(明治30年)に大阪市へ編入された。

 なお、黒門と玉造駅の所在地は厳密には東成郡中道村の旧村域となり、中道黒門町・中道唐居町という旧町名だった。  
難波玉造資料館
資料館は社伝による創祀2000年祭、奉祝記念として全国各地から
多くの方々のご協力を得て、昭和61年(1986年)秋に開館されました。




伊勢迄歩講起点碑
昔、お伊勢さん参りには玉造稲荷神社に参り、道中安全の祈願をして旅立った。

玉造稲荷神社付近は、大坂城の三の丸に位置し、冬の陣・夏の陣で激しい戦場となりました。
 境内には、秀頼公の胞衣塚(えなづか)(胎盤・卵膜など)があるほか、秀頼公奉納の石鳥居、これは「大坂夏の陣」で焼かれ、後に大東亜戦争でも焼かれ、阪神淡路大震災で一部損傷を受けたため、今は上下分割した形で境内に置いています。


玉造資料館と豊臣秀頼公銅像

「大坂城不思議の城」

<産経新聞連載>

 

 幸村の最期 

慶長19年5月7日夏の陣最期の決戦ではここかしこに「真田左衛門(幸村)を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み後一歩迄追込むも精根尽き果て、畦に腰を下ろした所を、越前藩松平直忠隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首を取られました(=慶長見聞書)。この最期の地を「大坂御陣覚書」では安居天神下と伝えます。  

 本物の首はどれ? 

陣後の首実験で幸村の兜首が3つも出て来ましたが久作の取ったものだけが兜に「真田左衛門佐」の名が無いものの六文銭の家紋があったので幸村の首とされたと言います(=銕醤塵芥抄)。

然し、この首も影武者望月宇右衛門の首だったとの事、久作の主人松平忠直は将軍秀忠の兄秀康の嫡男でその忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮が有り否定が出来なかったと「真武内伝追加」(シンブナイデンツイカ)に記されています。 

 幸村は九州へ落ち延びた? 

「採要録」には幸村は豊臣秀頼、木村重成と共に薩摩へ落ちたと記し、幸村は山伏姿に身をやつし、穎娃郡(エノグン)の浄門ケ岳の麓に住んだと言います。幸村の兄信幸の子孫の信濃松代藩主、真田幸貫が調査を志、結果を見た平戸藩の前藩主松浦静山が「幸村大坂に戦死せしには非ず」と薩摩落ちを肯定する感想を述べています(=甲子夜話続編)。

   鹿児島県南九州市頴娃町に幸村墓と伝える古い石塔が有り、地名の雪村は幸村に由来すると言われます。

 幸村の愛馬は豊後国に眠る 

松平忠直は恩賞の件で不満が募り江戸への参勤交代を2度も途中で引き返す等、幕府へ反抗的態度を取った為、元和9年(1623)豊後国(大分市)へ配流となりました。忠直は幸村の首と共に得た幸村の愛馬を気に入り夏の陣後も乗り回し豊後にも伴いました。忠直は慶安3年(1650)56歳で逝去し大分市津守の碇島と言う丘の中腹に葬られます。そしてその麓に愛馬の墓があり、墓石に「真田栗毛埋所」と彫られています。

   然し、「難波戦記」や「先公実録」には「河原毛」と記されており栗毛と河原毛では全く違うのでやはり久作の取った首は影武者の首だったのでしょうか? 

       【大阪城天守閣 北川央館長のから引用】


次いで、NHK大阪放送局・大阪市歴史博物館へと向かいます。

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