第18回 京遊会 例会報告 | |
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三光神社・真田山心眼寺・大阪城を尋ねる 大阪城・KKRの写真撮影は岩下さん |
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京遊会 各位 第18回 京遊会 「大阪城と真田丸探訪」のご案内 幹事 村田 義朗 朝晩急に冷えてまいりすっかり秋らしくなってきましたが、その後お元気でお過ごしの事と存じます。 京遊会まで約2週間となり詳細が決定し案内状とパンフなどをお送りいたします。 参加者: 岩下、上田、菊谷、田中、寺田、長谷川、村田さんの皆様 7人です。 記 1.日時 11月16日(水) 11時30分 JR大阪環状線 玉造駅改札口 集合 2.宿泊 ◆KKRホテル大阪の目玉プラン☆スタッフおすすめ!! 2食付プラン季節御膳◆12Fレストラン 夕食(和食) 朝食(バイキング) http://www.kkr-osaka.com/ KKRホテル大阪(国家公務員共済組合連合会 大阪共済会館) 〒540-0007 大阪市中央区馬場町2番24号 TEL. 06-6941-1122(代表) FAX.06-6941-5508(代表) 3.概算費用 20,000円 4.日程 11月16日 玉造駅前 幸村ロードにて昼食 (風の街・お好み焼き予約 TEL06-6768-9660)→ 三光神社→真田山旧陸軍墓地→どろどろ大師(善福寺)→心眼寺→ (タクシーにて)→NHK大阪放送局→大阪歴史博物館(難波の宮跡) 11月17日 大阪城見学 10時30分 ~ 12時 案内は、NPO大阪観光ボランティアガイド協会 行程:玉造口―六字名号碑―大手門ー多聞櫓ー千貫櫓ー 太鼓櫓ー桜門ー桜門桝形と巨石ー天守閣ー山里丸ー極楽橋 ※ 昼食 大阪城ホール さくらダイニング予約(06-6946-7722) 午後2時頃 JR大坂城公園駅 解散予定 |
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今年は、貴兄の用意周到な準備アレンジの上、両日とも好天で前日の真田丸散策、夜のKKRでの大阪城をバックにした宴席、また今日の名ガイド付き大阪城内の見学ツアーと最高の京遊会を持つことが出来たと思います。本当に有難うございました。 (寺田さん) 皆さんの心温まるご協力のお陰で予定通り無事終了できましたこと、感謝申し上げます。 来年の京遊会は、11月15日~16日、「伊勢志摩・伊勢神宮参拝」と決まりました。 菊谷さん、ご苦労様ですがよろしくお願いします。 |
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KKRホテル玄関にて (後列)長谷川、寺田、上田、菊谷さん (前列)岩下、田中、村田さん |
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11時半予定通り5名が玉造駅に集合。早速、幸村ロードの風の街で、ゆっくりとお好み焼きを 腹一杯食べ、先日のNHKブラタモリ「真田丸」よろしく、真田丸や空堀探訪に出かけました。 |
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真田幸村(信繁)は日の本一の武将だったか? 真田丸はどこに築かれたのか? 歴史を紐解きながら現地を歩いてみましょう! |
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慶長19年(1614)、およそ20万の徳川軍は、豊臣秀吉が心血を注いでつくり上げた天下の名城・大坂城を囲みました。大坂城は上町台地の北端に築かれ、北・西・東の三方を河川や低地に守られた堅城でした。しかし、南方は台地続きで高低差に乏しく、そこが防御上の弱点になっていました。 豊臣秀頼の呼びかけに応じて入城した真田信繁(幸村)は、大坂城をめぐる攻防の焦点が、城の南方にあることを見抜いていました。そこで徳川軍の布陣前に、大阪城下を守っていた「惣構(そうがまえ)」(城下町一帯も含めた城の外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ都市防衛施設)の外側に、単独で張り出した城、真田丸(さなだまる)を築きました。信繁の予想通り、徳川軍の主力は大坂城の南方に布陣しました。 大御所・家康は茶臼山(大阪市天王寺区)に、将軍・秀忠は岡山(御勝山、大阪市生野区)にそれぞれ本陣を置きました。そして信繁の真田丸をめぐって、大坂冬の陣最大の激戦が行われたのだった。 ・・・・。 (真田丸の謎 千田嘉博氏 まえがきより) |
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三光神社の勇将・真田幸村像と抜け穴 |
上町台地で激しく戦われた大坂冬の陣・夏の陣 古代の上町台地地図 |
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慶長19年(1614)10月、真田幸村(信繁)は豊臣秀頼からの招きに応じ、蟄居先の紀州九度山(和歌山県九度山町)を脱出し、勇躍、大坂城に入った。 10月1日には、徳川家康が諸大名に大坂攻めへの出陣を命じており、豊臣・徳川両家は既に戦闘状態にあった。 大坂城は、北には淀川の大河が流れ、西には海が迫り、東は幾筋もの川が流れて広大な湿地帯になっていた。 大坂城に入城を果たした幸村は、この城の弱点が平坦な陸地の続く南面にあることを見抜き、南惣構堀(空堀)の外側に出丸を構築した。世にいう「真田丸」(真田の出丸)がこれである。 もっとも幸村に限らず、名将の見るところは同じだったようで、幸村と前後して大坂城に入城した後藤又兵衛(基次)も、同様に出丸構築の必要性を考えていたという。材木まで用意し、準備を進めていたのに、それを出し抜くように幸村が出丸を築いたので、又兵衛は猛然と幸村に抗議し、両者の関係は一時、相当険悪なものになったと伝えられる(『落穂集』)。この真田丸を舞台に激しい攻防戦がおこなわれたのは慶長19年12月4日のことで、徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎らの軍勢が攻め寄せたが、幸村はこれらの大軍をものの見事に手玉にとり、散々な目に遭わせて完勝した。 では、大坂冬の陣を代表する激戦の舞台となったこの真田丸はいったいどこにあったのであろうか。 大阪市天王寺区玉造本町の三光神社境内には、幸村が大坂城内との行き来に使ったという「真田の抜け穴」が残り、その脇には鹿角の兜を被って采配を振るう幸村の銅像が立つ。丘陵の西端には幸村と大助親子の菩提を弔うために建立されたと伝えられる心眼寺があり、三光神社の隣には、西南戦争以来の陸軍戦没者の霊を祀る真田山陸軍墓地もあるので、一般には三光神社の鎮座するこの丘陵が「真田山」で、真田丸の故地だと思われている。 一方で、三光神社の付近一帯が「宰相山公園」となっているように、この丘陵は「宰相山」とも呼ばれる。 「宰相山」という名称については、寛政10年(1798)刊の『摂津名所図会』に「加賀宰相侯の陣屋この辺(ほとり)にありしよりかくいふなり」とあり、安政2年(1855)刊の『浪華の賑ひ』は「京極宰相侯の陣営、この辺に有りしより、かく号(なづ)くるなるべし」と記す。「加賀宰相」は前田利常、「京極宰相」は京極忠高であるから、いずれにせよ、冬の陣に参戦した徳川方大名の陣所跡に由来するらしい。 大坂の陣から80年ほど経過した元禄年間(1688~1704)に作製された大坂三郷町絵図は、江戸時代には大坂の基本図として、北・南・天満各組の惣会所などに保管されたが、それらの内の一本である大阪城天守閣所蔵本には心眼寺と坂道(心眼寺坂)を隔てた西側の丘陵に「真田出丸跡」と記され、慶應義塾図書館所蔵本では、同じ丘陵に「真田山」、心眼寺や三光神社がある丘陵には「宰相山」と、両者を明確に書き分けている。したがって、今は丘陵が削られて跡形もないが、幸村が築いた真田丸は、現在の明星学園敷地にあったことは疑いない。 (大阪城天守閣研究主幹 北川央) |
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詳しくは、真田山墓地保存会のホームページを参照ください |
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西南・日清・日露戦争等の戦没者 約5100余の個人墓碑が整然と並び、納骨堂には、太平洋戦争などの戦死者の遺骨が納められている旧陸軍墓地です。戦前80ケ所以上作られた日本各地の陸軍墓地の中でも最古の歴史を持ちます。墓碑は規則によって大きさや形が定められ、階級ごとに区画された区域に整然と立ち並んでいます。少数とはいえ、敵として戦い、捕虜となってこの地で亡くなった日清戦争の清国兵4名、第一次世界大戦のドイツ兵2名の墓がAプロックにあります。一番古いのは明治3年に建てられた「下田織之助」Cプロックの墓標です。 現在 墓地は国有地で、大阪市が管理をしています。最近の調査で、納骨堂の遺骨が約8200人だったことがわかり、その中には落語家桂文枝の父親の遺骨が含まれているとテレビで放映されました。 |
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少数とはいえ、敵として戦い、捕虜となってこの地で亡くなった 日清戦争の清国兵4名、第一次世界大戦のドイツ兵2名の墓がAプロックにあります。 |
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次いで、NHK大阪放送局・大阪市歴史博物館へと向かいます。 |