第18回 京遊会 報告 No3完
 大阪城に恋するホテル KKRホテル
http://www.kkr-osaka.com/
KKRホテルから見た大阪城
ライトアップされた大阪城
ライトアップされた大阪城をバックに
今回の京遊会の最大の話題は、仲間の田中旭さんが瑞宝双光章の叙勲を授与されたことだ。
誠にお目出度く名誉ある叙勲である。大いに話が盛り上がり延々とお目出度い話が続いた。

<県内から127人 /兵庫 毎日新聞2016年11月3日 地方版 兵庫県>
  秋の叙勲が3日付で発令される。県内では、さまざまな分野で顕著な功績があった人に贈られる旭日章に39人、教育、福祉など公共的な業務に長年従事し功績を挙げた人に贈られる瑞宝章に88人、計127人が選ばれた。
    ▽瑞宝双光章 田中旭 75 元たつの市消防団長 たつの
KKRホテル玄関
さあー  これから大阪城探訪へ
 織田信長に抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた豊臣秀吉は、全国統一の本拠地をこの地大阪と定め、天正11年(1583)、雄大極まりない大阪城の建築に着手した。
 完成に約15年を要したその規模は現在の4〜 5倍という広大なものであり、本丸中央には金色に輝く天守がそびえていた。
しかし、元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣家滅亡とともに大阪城はすべて焼失してしまつた。

 江戸時代に入つて元和6年(1620)、徳川幕府は大阪城の再建にのり出した。
 10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大阪城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなつた。

 しかし、この天守閣も寛文5年(1665)の落雷で焼失したまま再建されず、その他の建物も、大手門や多聞櫓などの一部を残して明治維新(1886)の動乱で焼失してしまった。

 昭和6年(1931)、当時の市長関―(せきはじめ)の提案と市民の募金により天守閣の再建が行われた。
太平洋戦争の空襲によりいくつかの建物が焼失し、天守閣も各所で破損したが、戦後の全域の公園化と、昭和33年から41年にかけて行われた櫓・蔵などの修復、そして昭和6年当時の天守閣の姿をよみがえらせるために平成9年に行われた「平成の大改修」により今日みられるような姿となったのである。

大阪城とビジネスパーク

豊臣秀吉が創建した大阪城、徳川幕府が再建した大阪城のあとをうけ、
大阪市民の手で築き、市民が誇りとしてきた現在の大阪城天守閣が、
平成9年4月、21世紀を前に本来の美しさをとりもどしました。




大阪歴史博物館からの眺望
◆大阪城の歴史

 織田信長に抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた豊臣秀吉は、全国統一の本拠地をこの地大阪と定め、天正11年(1583)、雄大極まりない大阪城の建築に着手した。完成に約15年を要したその規模は現在の4〜5倍という広大なものであり、本丸中央には金色に輝く天守がそびえていた。

 しかし、元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣家滅亡とともに大阪城はすべて焼失してしまった。江戸時代に入って元和6年(1620)、徳川幕府は大阪城の再建にのり出した。10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大阪城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなった。


●豊臣時代の地下遺構発見

 
昭和34年(1959)の「大坂城総合学術調査」による地下7mの“謎の石垣”発見とその後の研究・調査によって、現在の本丸の地下深くに豊臣時代の石垣が埋もれていることがわかった。今でも多くの人が現存の見事な石垣を太閤秀吉の築造と誤解しているが、石垣も堀も、地上に残る大阪城遺構のすべてが徳川再築以降のものである。

写真は、地下に眠る豊臣時代大坂城の石垣の一部本丸地下に眠る豊臣時代大坂城の石垣の一部、野面積みという古い手法を使った石垣で、その表面には火災の痕跡が認められる。
大坂の陣より400年を超えて
豊臣秀吉が築城した初代大坂城
石垣公開プロジェクト

歴史ミニガイド大坂城址

暦年譜 
【石山本願寺城】◎蓮如上人が明応51496)、石山別院設置。
       ◎天文
11532)、山科本願寺焼失、証如上人石山に退却。
            よって本山に昇格、加賀の工人により方八町(109m)の塀、堀を
        持ち
51の出城を有する城砦化。
          ◎元亀11570)〜10年間、信長に抵抗。

【秀吉時代】◎天正111583)石山本願寺の遺構を利用して本丸構築。
      ◎天正
121584)天守<58重>完工。
      ◎天正
141586)二の丸建造に着手。16年頃工事と並行>
      ◎
慶長261697〜)「町中屋敷替」で17000戸の住民が立ち退きを
           命ぜられる。三の丸完成。  ・・・秀吉時代の遺構は現存しない・・・

【徳川時代】
      ◎慶長
31598)秀吉没。
      ◎
慶長191614)大阪冬の陣勃発。1219日和議。総構取払い。
            三の丸・二の丸の塀・柵を撤去。三の丸の堀を埋める。
      ◎慶長2057日。夏の陣で天守以下焼失。翌日秀頼自刃。
      ◎元和
21616417日、家康没。
      ◎家康の外孫、松平忠明
10万石で封ず。
      
元和51619)大坂、直轄領に。秀忠・家光時代が秀吉時代の敷地に10m
        の盛土をして埋め、この後
10年間に亘り63家の外様大名により3回の
        大規模修築施工。

      ◎寛文
51665)天守、落雷で焼失。
      
◎慶応41868)「鳥羽伏見の戦い」で主要建造物焼失。
      ◎
昭和6193111月現天守再築完工。工費135万円。
      
平成93月「平成の大改修」。

見所 (1)巨石群・・・蛸石<桜門枡形>36畳敷。肥後石<京橋口枡形>33畳敷。
       両石の積み方は「算木積み」

     (2)刻印・・・150種類、15000個。施工分担の大名紋、分担地域の境界表示、
       石の
番を示すもの等。石の産地・符号・文字もあり種類、数の完全な把握
       は出来ていない。
       芦屋市六麓荘町で徳川期(
400年前)の採石場跡から割りとられた跡が
       残る石材や
石工使用の鍛冶炉、作業小屋柱跡を発見。唐津藩の寺沢家が
       採石していた場所である。

   (3)櫓
・・・千貫櫓・乾櫓<共に西の丸>、一番櫓・六番櫓<共に二の丸>は
      元和・寛永期(
161544)のもの。いずれも内部非公開。
   (4)大手口枡形
・・・弘化4〜寛永118478)の幕末期の修復姿のまま残り、
      高麗門、
枡形石垣上の多聞櫓・続多聞櫓、塀の狭間等、現存の大手口枡形
      としては最大。

   (5)硝煙蔵
・・・建築年不詳。完全石造の火薬庫で全国唯一の遺構。内部非公開。

国指定重要文化財
  @大手門 A桜門 B多聞櫓 C千貫櫓 D六番櫓 E一番櫓 F乾櫓 
  G金蔵 H焔硝蔵 I金明水井戸屋形

話題  **秀吉時代の大坂城**

   “殊に重なる塔は金色及び青色の飾を施し遠方より見え一層荘厳の観を呈している”
     →宣教師フロイス「日本耶蘇会年報第二輯」
大坂城の広大・精巧・美観に瞠目、
     天守に付き上記のように報告。

天守階数に決定的史料無し。7〜10階の諸説有り。
「大友宗麟見聞録」→“橋数以上九つ”・・・橋数を階段数と見ると10
◇「石見吉川家文書」・「兼見郷記」・・・8階
◇「天正記」・・・7階 ◇「土佐物語」・・・9階。
 天守室内装飾の記録は現存せず。秀吉夫妻の寝室の他は武器庫、財宝庫、衣類庫。→大友宗麟“三国無双とも可申候哉”と莫大な財宝につき記録。
●秀吉寝室につきフロイス“欧州において用うる非常に高価な寝台二つに立派な織物に金の縫取りをした布団を掛けたもの”と報告。

秀吉時代の本丸石垣を発見!昭和341959)、大坂城総合学術調査で 地下75mから野面積の謎の石垣を発見。35年発見の「大坂城本丸図」と照合検討の結果、この石垣は豊臣時代本丸の奥御殿を囲む3段の石垣の2段目の「中の段帯曲輪の石垣」と確定。
秀吉の大阪城はどこに?
 大阪城といえば、誰でも太閤秀吉を連想し、現在の堀や石垣も秀吉が築いたものと信じている人が少なくありません。
 昭和34年(1959)の「大坂城総合学術調査」による地下7mの“謎の石垣”発見とその後の研究・調査によって、現在の本丸の地下深くに豊臣時代の石垣が埋もれていることがわかった。今でも多くの人が現存の見事な石垣を太閤秀吉の築造と誤解しているが、石垣も堀も、地上に残る大阪城遺構のすべてが徳川再築以降のものである。
    
KKRホテルを9時40分頃出発、玉造口にて
大阪観光ボランティアガイドの明石さんと出会い、2時間ばかり大阪城を見学しました。


「南無阿弥陀仏」碑は雁木坂の上に建てられており、
この坂は「大阪国際女子マラソン」のコースで有名です。

内濠(空)と内濠
左に見える内濠(空)は、地盤が固く掘れなかったから秀吉時代より空であったそうです
大手口土橋と大手門
千 貫 櫓
大手口桝形と多聞櫓
太 鼓 櫓 跡

切り出された花崗岩
本丸へ入る正面玄関で、天守閣の真南に位置し、秀吉時代に
門の近くに見事な桜並木があったためこの名がついた。
明治維新時に焼失したが、明治20年に江戸時代と同じ高麗門形式で再建され
国の重要文化財にしてされている。
桜門へと向かう土橋の左右は「空堀」となっています。
桜門周辺が上町台地の中で本来一番高く地盤が堅かったため、
地下水の水脈のある深さまで掘ることが難しく、空堀になったようです。
豊臣時代の大阪城もこの部分はやはり空堀でした。

桜門の両脇に「竜虎石」があります。
   右側 ーーー 「竜石(たついし)」
   左側 ーーー 「虎石(とらいし)」

雨が降ると石の表面に、右側には竜の姿が、左側には虎の姿が
浮き出ると言われています。赤枠で囲んだ部分がそうです。

竜虎石は、中国にある四神思想から、
北は亀の形をした玄武(げんぶ)、南は朱雀(すざく)という鳥、
東は青竜(せいりゅう)、西は白虎(びゃっこ)、
この4っつの動物が4っつの方角を守るという考えです。
それに基づいた命名らしいです。
石垣に刻印が見えるそうだが、デジカメでは無理でした!


桜門前からの内濠(空)
桜門周辺が上町台地の中で本来一番高く地盤が堅かったため、
地下水の水脈のある深さまで掘ることが難しく、空堀になったようです。

豪 壮 な 造 り の 桜 門

備前岡山藩 池田忠雄が築いたもの 重量108トン

昔のヨーロッパのお城の形をした旧市立博物館です。

 昭和の初めの大不況(今とよく似ています)を吹っ飛ばそうと、天守閣を再建することにしました。
そして当時としては大金の150万円を大阪市民から寄付で集めました。
 しかし、天守閣の場所が陸軍第4師団の土地でしたので、このヨーロッパのお城のような建物を、
ごついお金をかけてつくり、第4師団司令部として寄付しました。(昭和6年完成)。
工費80万円は天守閣より金がかかりました。
そして場内に分散していた師団各庁舎をここに一括しました。西洋風建築で、
ドイツの古城に似せて調和をはかった工夫の設計です。

 1940年からは中部軍管区司令部。第4師団司令部は現在の豊国神社付近に移ります。
戦後はアメリカ軍、大阪市警、大阪府警と使用主が変わります。
しばらく無人でしたが、1960年、大阪市立博物館として1階だけ開館。
資金不足と展示品が少なく苦労しました。1962年11月、ようやく全館完成。
 2001年11月新しい歴史博物館が旧体育館跡地に完成し、現在閉鎖中。

この博物館前に秘密の地下壕がある。本土空襲が本格化した44年末か45年初め頃、
100人近い市民が作業員として集められ、6時間交代で、昼夜の突貫工事が行なわれた。
南北にやや大きい幹線の壕を軸に東側と西側にヨ型に支抗があるらしい。
幹線、支抗あわせて約300mあるという。8月14目の大空襲で工事がストップ。
1950(昭和25)年、博物館前の道路が陥没し修復工事をした。
いまでも、この付近の石垣が波うっているし、石垣に修復のあとがある。
この博物館の地下窓のそばに、塗り込められているが、地下壕への入口がわかる。

大阪府と大阪市が戦後50周年を記念して建てた
大阪城公園内に残る戦争の傷あと」の銘板

旧第4師団司令部の建物の南西角付近にあります
大阪城公園内に残る戦争の傷あと 
 先の戦争において我が国は、アジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません。大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
 ここ、大阪城公園も幾多の空襲により、1トン爆弾による大阪城天守閣の石垣のずれ(天守閣東北隅)や機銃掃射による石垣の弾痕のあと(天守閣の北・山里曲輪付近の石垣)をはじめ、空襲によると思われる石垣のずれなど数多くの戦争の傷あとを残しています。
 当時、公園内には軍事施設が多数あり、その中でも、第四師団司令部として使われた庁舎(現大阪市立博物館)は、軍事施設として大阪市内で現存している最も規模の大きな建物です。
 また、公園東側一帯に広がっていた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、面積1.18平方キロのわが国最大規模の兵器工場であり、戦争末期には大阪本廠を含めた全工場で一般工員のほかに動員学徒・女子挺身隊・一般徴用工員など64,000人が働いていました。その中には、当時の植民地支配の下で強制連行などにより集められた1,300人以上と言われる朝鮮青年も含まれていました。
 大阪陸軍造兵廠は、1945年(昭和20年)8月14日の激烈な爆撃により壊滅し、今では科学分析場として利用された施設(元自衛隊大阪地方連絡部)など一部を残すのみとなっており、本館があった場所には多目的利用ができるホールとして「大阪城ホール」が建ち、診療所があった場所には、大阪府・大阪市が共同で世界の平和と繁栄に積極的に貢献する施設として設立した「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」があります。
 戦後50周年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。
                                1996年(平成8年)3月  大阪府/大阪市 
昭和6年(1931)、当時の市長関―(せきはじめ)の提案と市民の募金により天守閣の再建が行われた。
太平洋戦争の空襲によりいくつかの建物が焼失し、天守閣も各所で破損したが、戦後の全域の公園化と、
昭和33年から41年にかけて行われた櫓・蔵などの修復、そして昭和6年当時の天守閣の姿をよみがえらせるために
平成9年に行われた「平成の大改修」により今日みられるような姿となったのである。
元和6年(1620年)から始まる大阪城修復の時に、天領小豆島(香川県)で割られたまま、
用材石としての念願かなわず、今もなお多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。
江戸時代に幕府の金貨や銀貨を保管した蔵…93uの内部は大小二つの部屋に分かれ、
手前は通常の、奥には非常の金銀を保管。腰壁は、美しい生子壁(なまこかべ)。
床はすべて石敷きで、扉は2重の土戸と鉄格子の3重構造と防犯にも防災にもバッチリです。

1626年三代将軍家光の時に築造され、その後、天保8年(1837年)に改修されて今日に至っている。
天守閣から山里口へと歩く


加藤家 伊予(大洲藩)の刻印

本丸帯曲輪の石垣刻印
伊予大洲藩加藤五郎八(恭興)“くつわ紋=丸に十字形”と
丹波園部藩小出信濃守(吉親)“丸に二八”との丁場境界付近。
寛永元年(1624年)の工事。


加藤家 伊予(大洲藩)の刻印(上) と
小出家(丹波園部藩・但馬出石藩)の刻印(下)



内濠の石垣に、「一に○」の書かれた毛利輝元の刻印石

内濠 隠し曲輪にある毛利の刻印


阪城公園の山里丸地区では、極楽橋(ごくらくばし)、刻印石広場(こくいんせきひろば)、
山里丸(やまざとまる)、秀頼・淀殿ら自刃の地の碑を見ることが出来ます。


豊臣秀吉は城内に里山の静寂な風情を持った曲輪を設け、千利休などと
と共に茶会を楽しんだと言われている。


山里曲輪(やまざとくるわ)の石垣に残る弾痕

 刻印広場から天守閣に行こうとする坂を上る右手の石垣の下の方に点々と石垣の石が
えぐれたところがあり、これが「機銃掃射」のあとです。

 戦争も終わり頃になりますと、アメリカのP51(ムスタング 硫黄島から飛来)や
F6F(グラマン 空母の艦載機)が地上の人影を見ると撃ちまくったのです。
その弾のあとです。想像すると恐ろしくなります。


山里丸の広場、真ん中の階段が当時のもので、
現在は、車いすでも上がれるように坂道が設けられている
石垣刻印と刻印広場
 石垣には、多種多様の文様や記号が刻み込まれていてこれを“刻印”と呼んでいる。
 この刻印には、大名の家紋を刻んだものがあり、江戸初期の大坂城再築の折に、
石垣を築いた大名の持場を表している。その他、刻印には、石の産地を表したものや、
奉行の姓名を記したものなど、様々な刻印があり、今後の研究が待たれる。
 また、大阪城では、本丸北側の山里曲輪に市内から出土したさまざまな刻印石を集めた刻印広場を設けている。  
秀頼・淀殿ら自刃の地
山里丸から極楽橋へと
極楽橋の名前は大坂本願寺を極楽浄土に見立てて、そこに至るための橋という意味で、
この地を大坂本願寺の本山として以来、その名は引き継がれています。


村田、菊谷、田中、寺田、上田、長谷川さん

最後までご覧頂き有難う御座いました!

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