NHK大河ドラマ「八重の桜」
新島(山本)八重

2013.2.6 山田忠男さんから投稿頂きました

  今年から始まった「八重の桜」(NHK大河ドラマ)。多くの人が楽しみながら見ておられるようです。NHKは、大震災と原発事故に遇った福島の女性達に、困難にめげず、こんな人生を送った会津魂の女性がいるよ、と励ましのドラマを作ったようです。
 ドラマに先駆け、昨年、舞台になる会津若松市と會津藩が転封された斗南藩(青森)、それに夫・新島襄のアメリカ向け船出の地(函館)と兄・山本覚馬、 襄が創立した同志社大を見てきました。
 八重の人生と彼女をめぐる人を纏めてみました。
新島(山本)八重
1845〜1932年。會津若松出身。
「幕末のジャンヌダルク」、そして「日本のナイチンゲール」と呼ばれた女性。
會津藩砲術師範の家に生まれ、兄・覚馬より鉄砲を教わる。大砲も操作できました。
白虎隊に鉄砲術を教えています。
 時は幕末、會津戦争(1868年戊辰戦争)のおり、最初の夫・川崎尚之助(丹波出石藩出身)と共に鶴ヶ城に1カ月立てこもり、銃を持って西軍(板垣退助、大山巌)と戦っています。この戦闘で彼女は薩摩藩・大山巌(西郷隆盛の従兄弟、のち陸軍郷)の膝を打ち抜いたと言われています。
 当時のおなごは長刀で戦い、男といえども鉄砲を扱えるのは少数でした。
しかも、會津藩の大半は旧式の銃口から玉を詰める方式の時に、彼女の銃は最新式の連発銃(スペンサー銃)でした。
 この戦いは壮絶な戦いであり、白虎隊の悲劇、家老西郷頼母の一族自刃、中野親娘の戦いなどがありました。籠城戦も西軍の猛烈な砲弾の嵐にあい、食糧難、けが人の続出と難儀が続きます。八重は鉄砲で交戦する傍ら、不発弾を手に藩主容保に大砲や砲弾の解説をしたといいます。また、容保の義姉照姫や山川捨松(家老の娘、のち大山巌夫人)らと傷病兵たちの看護に奔走します。この戦いのさなか、夫・尚之助と生き別れとなり、彼は後に東京に出て浅草で亡くなります。
 會津藩が敗れ、八重は一時、米沢に行きますが、京都にいる兄・覚馬を頼って上洛します。以降、60余年京都で暮らすことになります。
(八重の一生は京都の方が長いのですが、NHK大河ドラマでは、夏ごろまで会津若松、秋以降京都となるようです)

 兄・覚馬は、以前にペルーの来航を見、佐久間象山に師事し、勝海舟、吉田松陰などとも交際しています。英語が出来、開明派でもありました。藩の軍制改革を提案しますが、頑迷な上級武士の抵抗と藩経済の困窮化で改革が進みません。
 そのうち、藩主松平容保が京都守護職に任じられ(1862年)、覚馬も京都で反幕府勢力制圧のため上洛します。
蛤御門の変(1864年)で長州勢力の一掃に活躍、そのおり薩摩藩士達と親密になりますが、時を経て薩長同盟がなり、戊辰戦争(1868年明治維新)が勃発。その切っ掛けになった鳥羽・伏見の戦いで徳川幕府軍、會津軍が敗れ、山本覚馬は薩摩藩屋敷(現・同志社大学キャンパス)に幽閉されます。
 この幽閉中に「管見(建白書)」を書き、それを読んだ西郷隆盛、大久保利通らがその才能に驚き、京都府知事の顧問に抜擢します。管見には、今後の日本の政治体制、社会、教育など先進的なことが書かれていました。
覚馬は京都の産業振興に腕を振るい、女子教育に力をいれ、日本で初めての公立女学校(旧府立第一高女、現・鴨沂高)を設立します。また、長らく京都府議会議長を務めます。八重は兄の設立した女学校の舎監として女子教育に精を出します。
 このとき現れるのが新島襄です。

 襄は幕末、1864年箱館(当時)から密出国してアメリカに渡り、アメリカで大学を卒業(日本人初の学士号)、キリスト教を修めます。(在米10年)
 明治維新がなった日本から岩倉使節団が渡米し、その通訳を襄が担当。アメリカ、ヨーロッパ諸国を巡ります。そのとき、伊藤博文、木戸孝允(桂小五郎)、森有礼らと親しくなります。
 襄は使節団に同行した際、欧米とくにヨーロッパの教育制度を田中不二麿(文部理事官、のち司法卿、司法大臣)と共に視察・研究し「理事功程」の草案を田中に提出。田中がそれを清書して政府に提出し、日本の学校教育の根幹となりました。この視察を通じて、これからの日本は人材を育てる教育が最大の課題だと認識し、日本での学校設立を決意し、帰国します。(表面はアメリカン・ボード派遣の神父)
 神戸、大阪でキリスト教主義の学校設立を運動するのですが、うまくいかず、木戸孝允の京都府知事(木戸の弟子、槇村正直)宛の親書、勝海舟の山本覚馬宛の推薦状をもって京都へ行きます。
 学校設立の陳情を知事と覚馬にしているおりに、八重と出会います。

 覚馬が襄を気に入り、八重との結婚を勧め京都で初のキリスト教式結婚式を挙げることになります。(襄は八重のことを美しくはないが「ハンサム・ウーマン」と呼んでいます)
 襄の西洋式生活態度と八重の飛んでいる婦人ぶりで、レディファーストが徹底しており、洋装の支度などを見て、男尊女卑の風潮であった周囲からヌエとか悪女とかののしられますが、平然としていたと言います。非難していたのは、当時同志社学生の徳富蘇峰です(のちほど、襄の臨終の席で謝罪します)。
 襄がキリスト教主義の学校を設立しようと運動していると、京都は仏教の総本山、神道(天皇家)の足元ですから、猛烈な反対運動があり頓挫しかかるのを、覚馬は文明開化に乗りまず、学校設立を優先すべきと政治力で設立に成功します。
 それが「同志社英学校」(明治8年創立)(のちの同志社大学、同志社女子大学)です。

 大学に昇格させるために、襄が政財界の有力筋に働きかけます。主な人物を挙げると、伊藤博文、大隈重信、木戸孝允、渋沢栄一、福沢諭吉、松方正義、板垣退助、森有礼、田中不二麿などがいます。この最中、明治政府は官主導の大学設立を目指しており、襄の才を惜しんで、森や田中らが是非、官に入るよう勧誘するのですが、襄は国の束縛を嫌うアメリカンスピリット(自由主義)から断り続けます。
 なかでも、大隈重信とは肝胆相照らし、互いに終身の礼を尽くすことになります。
大隈重信が東京専門学校(早稲田大学の前身)を作る際には、襄の愛弟子、家永豊吉(政治学)、大西祝(哲学・心理学)、岸本能武太(比較宗教学、英語)、浮田和民(政治学、歴史学)、安部磯雄(社会政策、都市問題)など5人を教授として派遣し、早稲田の学問の礎に貢献します。
 大隈重信は出身地、佐賀へ往復するときは、必ず京都で途中下車し、同志社へ寄っています。
 それらの動きを覚馬・八重が支えます。

 これは余談になりますが、家永は高田早苗(後、早大総長)に、大西は坪内逍遥に大きな影響を及ぼすと同時に、島村抱月、朝河貫一などを育てます。
 また、岸本は正宗白鳥を教え、鍛えます。
浮田はオピニオンリーダーとして活躍し、早稲田ジャーナリズムを形成します。
 安部は野球部を創設、早慶戦を開始。野球技術の向上と普及に努め「日本野球の父」と呼ばれ、安部球場にその名をとどめています。社会問題に取り組み、足尾銅山鉱毒救済、日露戦争非戦論などを唱え、日本の社会民主主義の父(無産党党首)とも呼ばれました。
 そのような関係で同志社と早稲田では、例えば同志社の学生が早稲田の授業を聴き単位を取ったときは同志社での単位として認定し、逆に早稲田の学生が同志社で取った単位は早稲田で認定する交換制度があります。
(早大教授の木村健康がある本に「早稲田には様々の血が混じっている。50%は早稲田土着の血だ。25%は同志社の血、東大10%、その他の大学が15%だ」と書いています)

 襄が46歳(1890年)での死後、八重は日清、日露戦争時、日赤従軍看護婦として活躍し、叙勲されます(日本のナイチンゲール)。
 會津戦争の時、傷ついた藩士達の看護法が役に立ちます。
 晩年は裏千家の免許皆伝となり、師範として茶道を教えることになります。

 晩年、彼女が大喜びするのは、松平容保の孫、勢津子(五男の娘)が秩父宮妃殿下として天皇家に嫁入りしたことです。
 朝敵としての會津藩からの嫁入りですから、これで汚名をそそいだということでしょうか。この際、八重はお祝いに東京にかけつけ、勢津子に会うと共に、日本女子大で講演を行っています。
 波瀾万丈の人生を描くことで、震災後の福島の女性に元気を出してもらおうというのがNHKの狙いでもあるようです。

 同時代の福島の女性、山川捨松(家老の娘)も数奇な人生を辿っています。
八重より十年ほど若いのですが、會津戦争籠城の際は八重と共に戦い、傷ついた藩士達の看護をします。敗戦後、新政府の命により青森の斗南藩に移封されます。
 兄・山川大蔵(のち浩)は家老として容保の長男、容大の後見役を担います。青森の下北半島は極寒の不毛地帯、相当に難儀したことでしょう。兄・大蔵の命で岩倉使節団に加わり津田梅子とともに渡米し、アメリカで10年間教育を受けます。そのとき、新島襄の世話にもなります。アメリカで大学を優秀な成績で卒業(日本人初の女子学士号)、帰国。のち、津田梅子の津田塾設立、その後の発展に力を尽くすと同時に、日赤の理事にも就任します。
 あまつさえ、ある場所で会った薩摩・大山巌から求婚されます。兄・浩が會津をほろぼした仇敵・大山であったことから、猛烈に反対するのですが、最終的には捨松の意思に任せます。捨松は会って話をしないことには、結婚相手になるかどうか分からないとアメリカ式にデートを提案し、両人が会いますが、片方は薩摩弁、一方は会津弁で通じない。そこで、フランス語で意思を通じたと言います。
 大山は戊辰戦争後、欧州に留学しフランス語が堪能。捨松も英語、フランス語が出来たと言います。結婚後、欧米のエチケットを心得た捨松は、鹿鳴館の華となります。
 次兄・山川健二郎もまた、大変な人物です。後に東京帝大総長を2度、さらに京都帝大総長、九州帝大総長を務めています。
 長兄浩が後見役となった松平容大は、長じて同志社へ入学、ある問題から学習院へ移りさらに早稲田で卒業します。昭和初期、貴族院議員で一生を終えます。
 父容保は助命され東京で蟄居しておりましたが、最後は日光東照宮宮司で終えます。

 またまた余談。
新島襄は江戸・神田、現在の学士会館のある安中藩上屋敷で生誕しています。学士会館に生誕の碑があり、毎年2月12日には関係者によって生誕祭が催されています。
 明治時代、この地は東大予備門(旧制第一高の前身)であり、正岡子規、夏目漱石が通っていました。ベースボール場があり、子規がベースボールを「野球」と名付けたところでもあります。この経緯については、学士会館内に案内がしてあります。
 長々と書きましたが、大河ドラマでは、全てではないにしても上記の一部はドラマに組み込まれるはずです。                             以上。
   (文:山田忠男)
新島(山本)八重を訪ねて
(山田忠男写真集)

(会津若松市) 松平家・御薬圓

(会津若松市) 松平照姫

(会津若松市) 松平容保の墓

(会津若松市) 西郷頼母家老宅 (ここで一族自刃)

(会津若松市) 秩父宮妃(容保孫・勢津子)像
 
(会津若松市) 鶴ヶ城(再建)

(会津若松市) 洛陽閣
 
(会津若松市) 會津戦争時の鶴ヶ城
 
(会津若松市)覚馬・八重の生誕地碑
 
(青森・大間)  斗南藩資料館
 
(青森・大間) 松平容保
 
(函館市)新島襄脱國の地碑
 
京都市・薩摩藩邸跡(現同志社大キャンパス)

京都市・同志社大チャペル(重文)

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