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瓦版よもやま便り
2007.12-2008.12
よもやま瓦版
(2004年)
今日の話は
なんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  よもやまセミナー Q&A
      交野市私市4-39-2   平田 政信

☆「瓦版:よもやま便り」、昨年の暮れNo280号(2008.12.31)をもって終え少しの休みを頂ただいておりました。
 新しい年度、新しい月、新しいタイトルで装い新たに「よもやまセミナーQ&A」を始めたいと思います。前回同様、愛読いただけますようよろしくお願いいたします。
                
バックナンバー 4月号 5月号
よもやまセミナー Q&A 2009年6月号 
35 6/26 禅はどのようにして伝わって来たのか?
34 6/24 禅とは何?
33 6/19 渡御(とぎょ)と御旅所について教えて下さい。
32 6/17 家庭菜園をされておられるのですね。
31 6/15 交野市歴史民俗資料展示室では、いま?
30 6/5 交野山は聖なる山といわれる理由?
29 6/3 古事記の編纂作業は?
28 6/1 邪馬台国の所在地論争に決着?


No35(2009.6.26)
Q:禅はどのようにして伝わって来たのか?

A:禅は中国から日本へ
@ 禅への旅立ち
仏教は中国から朝鮮半島を経て、6世紀に日本に伝わりました。
   奈良時代には鑑真が中国から日本に渡り、平安時代には最澄と空海が中国から最新の教え「密教」をもち帰るなど、日本でも仏教は盛んになっていきました。
   そして、仏教伝来から約600年、平安末〜鎌倉時代に、栄西と道元が、新しい教え「禅」を学ぶため中国へ旅立ったのです。
          

A 禅との出会い
栄西は二度中国へ渡りましたが、最初は密教を学びます。
   二度目の目的はインドへ行くことでしたが、危険な旅のため許可されず、とどまった地で臨済宗の僧に出会いました。
   帰国した栄西は中国の臨済宗の禅を日本に伝え、天台・真言・律・禅の四宗を兼修する道場を開きました。そして、禅の教えを広めていったのです。  
   道元は栄西の弟子・明全とともに中国に渡たり、多くの寺を訪ねた末に中国の曹洞 
   宗の高僧・如浄と出会います。道元は如浄のもとで、早朝から深夜まで坐禅をする修行を積み、悟りを得て、只管打坐(ただひたすらに坐ること)の禅を日本に伝えました。

B 日本に広がる禅
臨済宗を伝えた栄西 栄西が帰国した当時、禅は新しい教えで、布教は難しい状況にありました。栄西は禅も、密教も、律(戒律)もあわせて学ぶ態度をとり、やはり新興勢力である鎌倉幕府の後ろだてを得て、京都に建仁寺(けんにんじ)、鎌倉に寿福寺などを開き、禅の教えを広めました。
また、大応国師(南浦紹明・なんぼじょうみょう)が中国より伝えた禅が、江戸時代の白隠禅師によって花開き、全国に臨済宗の教えが広まりました。
曹洞宗の基礎を築いた道元 道元は日本に帰ると京都に寺を開き、誰でも坐禅によって悟りを開けると、書物を著し、説法をして広めました。
しかし、師・如浄の「山に住み、権力者に近づいてはいけない」という言葉にしたがい、京都を出て越前の国(今の福井県)に永平寺を開いたのです。道元は、ここで多くの弟子を育て、日本に曹洞宗の基礎を築きました。
                参考文献:「ほっこり、やさしい禅語入門」

    

=編集後記=
 次号では「禅の名僧」たちを紹介します。
   

No34(2009.6.24)
Q:禅とは何?

A:その一つ、仏教誕生から禅へからお話します。
  @仏教のはじまり
   仏教の開祖・お釈迦さま(釈迦牟尼仏)のもともとの名前は、ゴータマ・シツダールタ
   といいます。シツダールタは2500年ほど前、インド北部の釈迦族の国に王子
   として生まれました。何不自由ない暮らしを送っていましたが、29歳で出家を決
   意、6年の間、厳しい修行を続けます。やがて苦行では理想の境地に至ることが
   できないと知ったシツダールタは、中道(苦と楽といった対立する二つのものから
   離れた自由な立場)という新しい道にたどりつき、悟りを得たのです。
  A広がる仏教
    お釈迦さまの没後、正しく教えを伝えていきたいと、約500人の弟子たちが集まって
    お釈迦さまの教えをまとめました。
    この教えは、初め口伝えで受け継がれていましたが、やがて文字で残されるように
    なりました。そして、インドからタイ、チベット、中国などへ広まっていきました。
          
        
  B禅を伝えた達磨大師
    仏教が広まっていくなか、6世紀ごろインドから中国にやって来たのが達磨大師です。
    おなじみの赤い張子も、坐禅している達磨大師がモデルだといいます。
    禅の教えとは、ありのままの自分のなかに悟りを見つけることです。そして、その教えは
    文字ではなく心から心へと伝えられます。
    達磨大師は、心をもって禅の教えを中国へ伝えました。
  C中国で花開く禅の教え
    達磨大師の教えを受け継いだのが、左ひじを断ち切って大師に教えを請うたと伝えられる
    慧可(えいか)です。慧可が受け継いだ禅の教えは、大師が中国に渡ってから100年ほど
    のちの唐の時代、そして宋の時代になって大きな花を咲かせました。
    多くの名僧が現われ、禅の教えを綿々と伝えていったのです。その盛んなようすは、日本の
    栄西や道元など、まわりの国々の僧たちにとってあこがれの的となりました。
        
    

    参考文献:「ほっこり、やさしい禅語入門」「イラストでわかるやさしい仏教」  

=編集後記=
 次号では、禅は中国から日本へ。


No33(2009.6.19)
Q:渡御(とぎょ)と御旅所について教えて下さい。

A:神輿が練り歩くのは「渡御」と呼ばれているが、その神輿渡御も江戸時代から徐々に盛大になっていった。祭を担った町人たちが富福になったからである。
しかし、祭での神輿も勝手に町を練り歩いているわけではない。
祭ではまず神輿にその神社の分霊を遷し、そののちに神社を出発する。これを「宮出し」(出御)と呼んでいる。こうして町中に出た神輿は途中、御旅所(おたびしょ)に立ち寄る。御旅所とは神々が神輿に乗って町に出かけたとき、仮の神座になるところをいう。この御旅所に立ち寄りながら、神輿は担ぎ手によって氏子の住む区域を練り歩く。これを渡御という。渡御が終わると、神輿はふたたび神社にもどり、神座に還っていくのである。これが「宮入り」であり「出御」に対して「還御(かんぎょ)」と呼ばれている。まだ神殿が出現前のはるか昔、神々たちは神殿に定住することはなかった。神々は祭のたびに祭の場に姿をあらわし、祭が終わると姿を消していった。そう考えれば、祭のとき、神々が神輿に乗って神殿を離れ、ヒトの世界を練り歩き、ふたたび神輿に乗って神殿に還っていくのも不思議ではない。神々がふらりとヒトの世界に舞い降りてくるからこそ、人びとは神々に親しみを感じ、日ごろの蓄積されたエネルギーを爆発させようとする。それが祭なのかもしれない。
Q:先日の歴史ウォーク「磐船街道を往く」で訪れた御旅所ってそういう所だったのですね。
  市内に、他あるのですか。

A:私部にもあります。市役所の西側に、住吉神社を出た神輿が途中、立ち寄られるところがあります。

  

No32(2009.6.17)
Q:家庭菜園をされておられるのですね。

A:昨年から始めました。今年は2年目とあって、限られたスペースの中で

  いろんな種類の野菜を作っております。
  今はキューリの収穫時期で、キューリのQちゃん漬けに挑戦しました。
  みなさん御存じだと思いますがレシピをご紹介しておきます。

  

   
=編集後記=
野菜と古墳、古墳と野菜・花を!をキャッチフレーズにがんばっております。
去年は、ケガの影響もあり十分出来なかったが今年は違う、見違えるほど体調もよく、リハビリも
兼ねた運動と楽しんでおります。

速報!!
赤皮栗かぼちゃの第1号、本日収穫しました。
付近の畑、誰も植えてない4/2に苗を植えました。
みんなは早いと言っていたが・・・。いや、そんなことはなかった。

  

よもやまセミナーQ&Aにはなってないですね。でも、これも一つの話し。
今後ともよろしくお付き合いを。
No30号の(写真:2)左右が間違っておりました。交野市内在住のK氏より連絡頂き
訂正をさせていただきました。ありがとうございました。


No31(2009.6.15)
Q:交野市歴史民俗資料展示室では、いま?

A: ふるさと交野 「野の仏たち」の写真展示を行っております。

      



交野は石仏の宝庫とも言われています。
野に、辻に、里に、山に、交野には沢山の石の仏さんがおられます。
みんな大切にされていて、赤いよだれかけも、帽子も、それも手作り。
石仏を造る人、祀る人、拝む人がいる。
人々は、この石の仏に願いを込め祈り、そして何を得たのだろう。
それは石の仏さと向き合った者にしか分からない。
私の前では「本当のことを言ってや!」
わしの前では気楽に、見栄も、何もいりまへん、ゆっくりしていってやと、
おっしゃておられるように思われます。

=編集後記=
次は七夕関連の展示を考えています。6月末まで「野の仏たち」を展示しております。
皆様のご来館をお待ちしております。        歴史民俗資料室解説ボランティア一同





No30(2009.6.5)
Q:交野山は聖なる山といわれる理由?

A:交野山(▲344b)の頂上にある「観音岩」(写:1)に夕方立って西を望むと、白く光る淀川が見ることができ、下流に大阪市、上流には京都市が望める。(写:2)
  北には岩清水八幡宮の森(男山)の彼方に、かつて長岡京の中心部であった向日市。
  その向日市には長岡京の大極殿跡が発掘されて公園になっている。
  地図を広げるならば、不思議なことにこの山の真北延長線上にその公園があることに気付く。つまり大極殿跡の真南に交野山があることになる。
Q:それはどういうことなのか?
A:長岡京を造営した桓武天皇は、この山、交野山を意識して都を造ったのである。これこそは桓武天皇がなぜ長岡京を造営したのかという理念を推測する手掛かりとなる。
Q:なぜですか?
A:天皇は道教思想に基づいて天帝の住む天宮を地上に再現しようと考えたのである。
  長岡京と交野山の位置関係は、朱雀大路の中心線延長の東に交野山のピークがくる。
  また、桓武天皇が日常暮らした内裏跡も発掘されており、その中軸線の西延長線に
  交野山がある。いずれもわずかにずれる。シンボルとして真南にあればいい。(写:3)
Q:南とは?
A:道教思想でいう「蘇(よみがえ)り」の地であった。また、南に朱宮というものがあり、そこは天界に通じているとされた。例えば六世紀の道教経典には、人は亡くなった後、神仙となって東海青童君(とうかいせいどうくん)のいる神仙境に遊ぶとある。
  そうした思想的な背景を踏まえ、中国では南に聖なる山を持つ生活空間が好まれたらしい。日本の律令国家造りに手本となった、唐の都・長安は、終南山という聖なる山の北側に造られた。
  長岡京の南に交野山があるのは、たまたまそうなったのではない。
Q:機物神社の鳥居の中に交野山がすっぽり入るのも?
A:古いタイプの神社で山そのものを御神体にしていた可能性が高い。でも、この神社の社殿は南に向いているが、西側に大きな鳥居があるのは、もともと南にあった鳥居(社殿に向かって(写:4)を、倉治小学校建設時に移設し、西側にあった鳥居を今の社殿の前に移したのである。鳥居の中軸線上に交野山の巨石を仰ぎ見る(写:5)ことができるのは、もともとは社殿もなく、交野山を御神体とする拝殿だけの神社であったのではなかろうか。
                    参考文献:道教と日本の宮都 高橋 徹著
=編集後記=
 交野山の観音岩と一直線にあるのは、@観音岩と弥勒菩薩(石仏の道)Aお彼岸の中日には観音岩頂上の真西に日が沈む。などなど、一直線上に浮かぶ点と線を見つけ出そう。

  

  
    交野山山頂観音岩からの眺望 (写真:2) 夕方立って西を望むと、白く光る淀川が
        見ることができ、下流に大阪市、上流には京都市が望める

  

  

 

No29(2009.6.3)
Q:古事記の編纂作業は?


A:天武天皇が舎人の稗田阿礼(ひえだあれい)に命じて編纂に着手した、とその序文に記されています。それまで諸家に伝わっていた『帝記』や『旧辞』には作りごとが多く、これを放置しておくと正しい歴史が失われてしまうと考えた天武天皇が、『帝記』や『旧辞』をよく調べるよう稗田阿礼に命じたのです。これが天武10年(681年)から13年頃にかけてのことと推測されています。
ところがこの作業は天武天皇の死(686年)後そのまま放置され、ようやく和銅4年(711年)9月18日に、時の元明天皇が太安万侶に対し、かつて稗田阿礼がまとめた記録を書き記して献上するように命じます。
太安万侶はわずか4か月で編纂作業を終え、上・中・
     ←  真福寺本 
    現存最古の写本(応安四年・1371) 
下の3巻の書物として翌和銅5年正月28日、天皇に奏上したと古事記の序文は伝えています。上巻は神代の時代の神話物語に始まり、推古天皇に関する記述で下巻は終わっています。 

=編集後記=
 昭和38年に交野町史が編纂、これは片山長三先生が長年月にわたり心血を注ぎ調査研究されました成果を、愛情をこめて執筆編集されたものであります。
水野正好氏(大阪府文化財センター理事長)は、古い『交野町史』は片山長三先生が書かれたのですが、この書はすばらしい町史です。多くの夢と希望を与えてくれます。私のこの地の研究は、片山先生の足跡を確かめ踏んでいるかのような感じですと交野市文化財事業団設立15周年記念講演会、「北河内の古墳」のなかのパネルディスカッションで語られています。

交野町史           昭和38年
交野町史 増補改訂(一)   昭和45年
交野町史 増補改訂(二)   昭和46年
交野市史 交野町史 復刻編  昭和56年

   

No28(2009.6.1)
Q:邪馬台国の所在地論争に決着?

A:「卑弥呼の墓」との説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)の築造時期について240〜260年とする調査結果が発表されました。
Q:邪馬台国はどこにあったのか?
A:簡単にわかるようなら、苦労はしないが、有力な説は、おおよそふたつである。
九州説と大和説のふたつ。江戸時代から論争が続いてきている。九州と大和は、日本の弥生時代の代表的な二大文化圏なのだ。九州には銅矛と銅剣、大和には銅鐸文化圏があった。古代日本に邪馬台国という原始国家があった。
中国の「魏志倭人伝」という文献に、邪馬台国が出ているが、もっと正確に書いておいてくれれば、こんな騒ぎにならなかったのにと・・・。しかし、中国人の書いた本のお世話にならなければ、自分の国の歴史がわからないところが、どうにもならない。
Q:今回、築造年代240〜260年築造とする調査方法は?
A:年代は、箸墓古墳から出土した土器に付着した炭化物などを放射線炭素(C14)年代で測定し、導き出された。
Q:「魏志倭人伝」とは?
A:正式には「三国志」を構成する「魏書東夷伝」の条に、三世紀の日本を知る貴重な手がかりがある。
Q:魏志倭人伝はどのような構成になっているのですか?
A:@倭国の地理と内部の行政区域A倭人の経済生活や日常習俗B政治・外交上の大事件を記載(約2000字)している。作者は陳寿という人。
Q:「魏志」ができたのは?
A:西暦270〜280年の頃らしい。
Q:陳寿は、実際に邪馬台国へ行ったのですか?
A:邪馬台国には行ってない。

=編集後記=
陳寿は邪馬台国へ行った使者の聞き書きを、記録していたのだろう。どうしても曖昧な点があるのが今日の論争の種になっている。その論争に一石を投じて交野も邪馬台国の一地域ではなかったか?弥生時代後期の遺跡・遺構の存在が・・・ロマン多きふるさと交野!

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