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磐船神社のご神体・大岩と哮ケ峰(たけるがみね)  (私市)

哮ケ峰
 (たける)()(みね)天野川鮎返しの滝のすぐ下流にあり、東西方向にずんぐりした花崗岩で出来た台地。南側は昔、石切場となってその跡が断崖絶壁となって残っている。神話の山である。太古の時代に、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟(いわくす)(ふね)に乗ってこの峰に天降ったという。
 現在、付近にはロッククライミングの壁が作られ、交野のつり橋「星のブランコ」への入り口になっている。 


 秀吉の 力もおよばぬ 舟形巨岩
         (交野郷土史かるた)


磐船神社のご神体・大岩天の川の上流の磐船峡は、数多くの岩が露出している。中でも磐船神社の御神体といわれる船形の巨岩は、かってこの地に勢力を張っていた肩野物部氏(かたのもののべし)が「饒速日命(にぎはやひのみこと)が渡来したときに用いた磐樟船」として崇拝したといわれています。
 こうした降臨伝説を物語るように、平安時代から交野の村々では、海の守護神である住吉三神を祭神とする氏神信仰が盛んであった。
巨岩は横18m、高さ12mもあり、神殿に覆い被さるように大船の舳先(へさき)を南に向けて座しています。

 時代は下り、豊臣秀吉が大阪城を築くにあたって、諸侯を督励して巨岩を運ばせたことはよく知られている。
 その際、
加藤清正(加藤肥後守)が石屋に命じて岩を割ろうとしたのですが、石から血が流れ出した為、思いとどまったといわれている。神の宿る巨岩にまつわる説話としても、よくできたストーリーではないでしょうか。

 
舟形大岩の上面に「加藤肥後守」の五字とその紋所を彫り付けている。
       (交野市史 民俗編)


 現在では、下記に掲載しました追記のように↓  考えられています。

 
  伝説の追記  郷土史めくり 番外編その一

   私市の磐船神社には、高さ、幅とも12メートル以上もある巨岩があり、神社のご神体として祀られています。
 この巨岩は、加藤清正が大阪城の石垣に利用しようとしたが、あまりの大きさに断念したという伝説があります。
 しかし、近年この巨岩のてっぺんに、左の拓本のように、加藤肥後守と石工の名が刻まれていることが分かりました。
 ここで登場する加藤肥後守は、秀吉の忠臣加藤清正ではなく、その息子のことと考えられます。
 そのため、ご神体を運ぼうとしたのは、秀吉の時代より、少し後の時代だと思われます。

 現在の大阪城の石垣も秀吉時代のものではなく、徳川家康が大坂夏の陣より後に諸国の大名から石を取り寄せ、築造したものということが分かっています。
 加藤肥後守にしても、大阪城まで運び出すことができなかったことから、石に名前を刻むことしかできなかったのでしょう。
 ちなみに大阪城の石垣に加工されながら使われなかった石を残念石と呼びます。


加藤肥後守拓本

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