<第121回>  令和4年9月定例勉強会
星田のお大師さんと弘法大師空海
  
講師 : 山本 秀雄氏 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時〜12時
 30名(会員29名)の参加

 2022.9.24(土)午前10時、9月定例勉強会に30名が参加されました。
コロナ禍の中、感染拡大予防措置を取って4月より活動を再開して沢山の方々に参加いただきました。

 村田会長の挨拶で始まりました。「コロナの感染状況も少しは減少傾向が見えるようになって参りましたが、我々の様な高齢集団の活動にとっては、まだまだ予断を許さない状況です、お互いに十分気を付けたいと思います。本日で、上期の行事も最終日となり、来月から下期行事が始まります。10月29日〜30日には、3年ぶりに「第46回交野市文化祭」がいきいきランド交野体育館で開催される予定です、どうぞ皆様お誘い合わせてご参加ください」と呼びかけられました。

 今回の勉強会は、9月10日の歴史ウォーク「星田の里・弘法大師を祀る大師堂めぐり」をテーマで、弘法大師堂を巡って来た内容を振り返りながら、復習と総纏めのお話を、約1時間30分わかりやすくご講演下さいました。
     9月10日の歴史ウォークで「星田の里・弘法大師を祀る大師堂めぐり」

 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」と当日パワーポイントで説明された「星田のお大師さん」を掲載させて頂きました。
 記して感謝申し上げます。

  
 村田会長の挨拶
  
 講師 山本 秀雄氏
 
 
 星田のお大師さんと弘法大師空海
講師 山本 秀雄氏
 
 
 
 星田のお大師さんと弘法大師空海
講師 山本 秀雄氏
当日、パワーポイントで上映しながら説明された資料の内、
主なものを掲載させていただきました。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
開通したロータリーの現況
 
 15ヶ所のお大師さん巡り
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
超人的能力の弘法大師空海
青山 洋二氏 (交野古文化同好会)
50周年記念誌・調査資料編の7〜9pに収録
 
  河内の国の山麓を南北に走る高野街道は、弘法大師空海ゆかりの古道で、道中には空海を刻んだ石像が所々に安置され、花や供物を献じて拝礼する人々。
 中国の人々も驚く「超人的能力」、ある時は雨を降らす、ある時は杖をさしたところから温泉や井戸水が湧き出し、さらに五本の筆を同時に使いこなす。無名の僧だった空海が唐の都でいきなり、密教の後継者に―
 平安初期の僧、空海の経歴は、(宝亀五)774年、讃岐国の豪族(佐伯家)に生まれたと伝えられ、神童で将来は都の役人と嘱望された。
 18歳になって役人養成の大学に入学するも、学業に励む空海の前に一人の僧が現れ、山岳修業者の間で行われていた「虚空蔵求聞持法」を教えてくれた。(修業によって無限大の記憶力を獲得し、全ての教典が暗記できるという秘法)しかしそれには「虚空蔵菩薩の真言」を百万遍唱えるという壮絶な修業が必要だった。
 そのため大学を退め(山林修行者)として、険しい山野を放浪したと、自伝的著作(三教指帰)に記しています。空海が実際に修業したところと伝わる、徳島県阿南市の「舎心ヶ嶽」は、高さ600M超の断崖絶壁に攀じ登り、自らの命を危険に晒し乍ら一心不乱に、(真言)を唱えつづけた。体力は限界に― ところがある日、不思議な体験をします。

 高知県室戸市の(御厨人窟)で、明け方―空の明星が突然明るさ増したかと思うと、(空海の口の中に飛び込んできた)この体験が空海のその後の人生を変えることになったと、(密教学者の正木晃先生)それは全身を震えさせる体験であったようです。
 「なぜなんだろう」と誰に聞いても判らず―「日本で無理なら唐に留学するしかない」当時の唐は世界の先進国で、最新の文化や技術を誇っていた。都の長安では最先端の仏教が隆盛を極めていて、空海の疑問を解く「本物の仏の教えがあるに違いない」
 当時唐へ渡る手段はひとつ、(遣唐使の一員に選ばれる可能性の中国語)は完璧であった。

 (延暦23)804年空海31歳の時、留学生として乗船、(この時別の遣唐使船に、天台宗の開祖となる(最澄=空海より七歳年長)も乗船。
 朝廷の信頼を得て(看病禅師)とし、費用は国の負担と通訳付きで、留学期間も短期が約束の最澄でした。空海は只の留学生で、莫大な費用は自分で調達し、留学期間は20年と決められていました。渡海中の空海の船は、嵐に遭遇し一ヵ月程漂流して予定地(明州)から約700KM南の(福州)に漂着。しかし嵐で国書を失くし上陸を認められません。
 そこで遣唐大使が空海に、「そなたの名文で実情を陳述せよ」との命で―あまりにも達筆「三筆の一人」(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)ぶりと文章の巧さに、役人はただちに上陸を許可した。
 そこから2000KM離れた唐の都「長安」に入って仏教を学ぶ。当時唐では、さまざまな宗教があったが、その中で空海は、当時最先端の仏の教えと言われた(密教)、インド密教の経典を読むため「サンスクリット語」を猛勉強しわずか3ヵ月でマスターする。
 密教と他の仏教との違い―(前述正木先生)他の仏教は悟り開くのに膨大な時間がかかるという前提、密教は、(即身成仏)といって、「生きたままの身体で悟りを開き、仏になることができる」超人的な力を行使することが出来る。(雨を降らせたり、あるいは止めたり)明星が口の中に飛び込んだ体験―明けの明星=虚空蔵菩薩の化身=虚空蔵は「大宇宙」大宇宙が自身の体の中に飛び込む・・・一体化するという想いをもつものでは・・・これを密教では、「梵我一如」と申して、私と宇宙は一体である。

 唐で密教を極めるには、長安の仏教寺院(青龍寺の高僧、恵果)である。皇帝から国師と仰がれ、千人超の弟子を持っていた。空海は無謀にも、青龍寺の恵果に「面会したい」と訪れる。驚いたことに面会を許され「汝がここへ来ることは、すでに知っていた」と歓迎した。
 さらに近いうちに灌頂(頭部に水を注ぎ種々の戒律、資格授けて、正統な後継者とするための儀式)を授けると伝えた。恵果には元々後継者はいたが、早くに亡くなっていて、そこに現れたのが空海で、さらに恵果自身も病で残された時間は、限られていました。
 それに応える能力を空海は持っていて、僧侶達の評判になっていた。あらゆる経典も伝授されて、僅か3ヵ月で密教の僧の最高位「阿闍梨」を授かり、密教の後継者の一人となった。最期の床で恵果は空海に、「汝はすぐに故国に帰り、この密教を天下に広めよ」二人の出会いから半年後の事でした。
 帰国を決意して、凄まじい勢いで経典を集め、持ち帰れない経典は、寝る間も惜しみ写経つづけた。ある日長安の宮殿―皇帝の前で壁に向い五本の筆(口、両手、両足)で、空海は素早く見事な「五行詩」を書きあげ、感嘆した皇帝は「五行和尚」の称号を授けた。(天才的なパフォーマーでした)

 (大同元年)806年帰国した空海、20年が約束の留学期間を、僅か2年で切り上げて重罪となり、九州大宰府に留め置かれ京の都へ上がれません。空海は朝廷に帰国報告として、持ち帰った経典等の(御請来目録)を提出するも、朝廷には目録の価値が理解出来ないのか、弁明を黙殺された。
 待つこと3年、突如京へ上がることを許される―空海の目録に驚いた人、空海と同時期唐に渡り、ひと足先に帰国していた(最澄)でした。確証はないが、「目録の価値が解るのは、最澄しかいない」おそらく天皇に進言したか。(延暦25)806年、ひと足先帰国の「最澄」は、比叡山延暦寺を聖地に天台宗を開宗(仏教界の最重鎮)は、空海の実力を認め、最澄の後立「桓武天皇」が密教による国家鎮護を望みました。
 しかし、望み果たせず崩御(806年)最澄は自分も密教を究めなければ―
(大同4)809年空海入京、数々の経典の他に(高野豆腐)=保存食(大和茶)(金山寺味噌)空海は、日本人の食や暮らしの向上に大きな貢献果たす。同年7月入京すると都の北西にある高雄山寺(現・神護寺)に入寺。以来14年間住持して、密教のさらなる研鑽を積まれた。
 (弘仁元年)810年空海は密教の第一人者として、(52代嵯峨天皇・(在)809〜823)に国家鎮護するため、祈祷したいと願い出る。これをきっかけに天皇から、信頼を得て交流を深め―唐の最新の情報を伝えたりして、日本全国に新しい教えを広める(真言密教)を開くことを許される。

 平安時代初期の日本は、地震等の天変地異が頻繁に起こり、干ばつや飢饉が人々を苦しめた。朝廷内では平城上皇(51代)に寵愛されていた藤原薬子らが上皇の天皇返り咲き狙って嵯峨天皇(52代)失脚を画策し失敗に終た(薬子の変)など権力闘争―それらの原因は怨霊の祟りであるとし、この怨霊を鎮めることを担うのが、当時の密教僧でした。
 今もなお、空海が日本に伝えた(護摩修法)が行われ、護摩の炎で煩悩を焼き払い清らかな願いを成就させるという「密教儀式」は、1200年つづく。空海は仏教だけではなく、(土木)・(鉱山)・(薬学)・(医学)全て会得して、唐から帰ってきた。

 空海の超人的能力は、他にも全国各地の温泉開湯伝説―交野では、私市の獅子窟寺で平安時代の初め、空海が獅子の岩屋に入って秘法を唱えると、星田の三ヵ所に北斗星が降った星降伝説(八丁三所)と、郡津の(茶屋の清水)・(蚊封じの池)の伝説もあります。
 (弘仁7)816年「空海は新たな大事業に挑む」―長安の(恵果)との約束を守るため、嵯峨天皇に(高野山)を真言密教の修業の場にしたいと願い出る。そして(高野山)を賜る―高野山は当時、何もないただの山岳。
 標高900M近い山頂に、東西約5KM南北約2KMにわたる(真言密教の聖地)を築きあげた。―(金剛峯寺)を中心とした幽玄の世界、大宇宙を意味する本尊(大日如来)を中心に置き、密教の世界を出現させ、ここを拠点にさらなる密教の布教に目指しました。
 (弘仁14)823年(高野山賜るから七年後)空海は、嵯峨天皇より「東寺」を賜る。平安遷都後の羅城門の東に開創して、西寺とともに平安京の二大官寺の一つで、下賜された時は、金堂のみ。空海は「歓喜に絶えず」と喜び、真言密教の根本道場を築き、その後空海が講堂及び五重塔造営さら綜芸種智院(学校)を建立した。
 (天長元年)824年都で干ばつが続いた。桓武天皇が遷都の際、造営した「禁苑―神泉苑」で祈祷を行い、雨を降らせたと伝わる伝説の舞台。「祇園祭」の発祥の地としても知られる。疫病が流行するなどした(貞観11)869年、災厄の退散を願って「御霊会」が営まれ、当時の国の数と同じ66本の鉾を庭園に立て、祇園社(現・八坂神社)の神を祀ったとされる。その後、町衆の祭典に継がれた。 
(承和2年)835年総本山を開いて20年後、空海は役割の終りを悟り、弟子達を集めこう述べました。「私は永遠に高野の山に帰る。弟子たちよ、悲しんではならない」 数日後、空海は真言密教の究極的な修業に入るため、奥の院参道の最も奥深くの(奥の院弘法大師御廟に入定しました(3月)入定する前に、こんな言葉を残しています。「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願も尽きん」(空海)この宇宙が尽き果て、人々が尽き果て、悟りの境地が尽き果てることがあるならば、私の願いも尽き果てよう。空海はその時まで瞑想しつづける。今もなお御廟で、世の中の平和と人々の幸福を願っていると、信仰されつづけている。そんな空海のもとには、入定から約1200年の間一日二回の食事が絶えることなく運ばれています。    (了)


最後までご覧いただき有難うございました

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