初めての沖縄旅行 沖縄見聞録 紅いもアイスクリームの甘い思い出と沖縄戦の御霊に合掌 |
2003年6月14日(土曜日)、朝9時過ぎ大阪を発ち、沖縄で2泊3日、6月16日(月)9時半ごろ帰宅しました。 大阪空港を発つときは沖縄地方は雨の予報で、途中鹿児島沖では梅雨前線の雲の中を飛び心配しましたが、那覇空港に降りたったら、一転からりと晴れあがり、その後、晴天続きで16日の那覇市内南部戦跡めぐり観光で1時間ほど雨に遭った程度で3日間、束の間の梅雨の晴れ間に恵まれ、沖縄のエメラルドグリーンの海と空を満喫してきました。 お陰さまで15日の甥の結婚式は、早朝からからりと晴れ上がり、リザンシーパークホテル谷茶ベイの宣伝文句通りの、エメラルドグリーンの地平線が望め、800mの白い砂浜をバックに青空が広がりサンサンと照りつける太陽を浴びながら、素晴らしい二人の門出を飾ることができました。 また、披露宴は沖縄流で始まり、私のつたない祝辞に続き乾杯の音頭が始まる前に各テーブルの食事と飲み会が始まり、続いて、花嫁の兄弟による「かぎやで風(ふう)」の沖縄古典琉舞が演じられ、友達や親戚の方の余興(沖縄古典音楽など)があり、最後は沖縄民謡「カチャーシー」を沢山の参加者が舞台の上にあがり、花嫁・花婿を祝って賑やかな中にお開きとなりました。 本当に楽しく驚きの連続でした。 我々夫婦にとっても、初めての沖縄旅行を存分に楽しむことができ、甥たちにこんな良い機会を与えてくれたと感謝しているところです。 14日には、レンタカーを借り、国際通りで沖縄そばやゴーヤと豚肉を頂き、沖縄高速道路を北進、沖縄南で降り一路、与那城町へ、海中道路を渡り宮城島、伊計島の沖縄のビーチ風景を、15日には式後、万座毛ビーチの素晴らしい景観を楽しみ、16日には那覇市内の首里城、沖縄南部の戦跡めぐり、玉泉洞などを見学してきました。 旅行の一端をどうぞ、ご覧下さい。 なお、結婚式の写真は掲載できませんが、賢明な皆様のご想像にお任せいたします。 |
沖縄(okinawa)日本最南・最西端。大小160の島で構成され、唯一の亜熱帯海洋性気候の沖縄。
1429年尚巴志の統一により琉球王国となり、それから16世紀まで中国・東南アジア諸国との大交易時代は隆盛を極めた。1602年から薩摩藩に属し、明治に沖縄県となったが日本の敗戦から米軍の統治下におかれ、1972年日本に復帰した。今年で復帰31年目を迎えた。 県の面積:2,271Ku 県の人口 1,334,122人(平成13年3月) 県の鳥:ノグチゲラ 県の木:リュウキュウマツ 県の花:デイゴ めんそーれ沖縄県庁のホームページへどうぞ 変わる呼称 翻弄の歴史 琉球諸島が世界自然遺産の登録候補地に選ばれました。 今回は一部に鹿児島県も含みますが、一般に琉球といえば沖縄県の別称とされています。二つの呼び名はどう違うのでしょうか。 「リュウキュウ」は7世紀、「隋書」に「流求」として登場するが、ただ、これが今の沖縄を指すのか台湾なのかは議論が分かれています。「琉球」となったのは、14世紀末。中国人の命名とされ、当時の中山王(ちゅうざんおう)・察度(さっと)は明への手紙に「琉球国中山王」と記しています。 500年続いた琉球王国は1879年の琉球処分で沖縄県となります。オキナワという言葉の初出とされているのは8世紀の「唐大和上東征伝」の「阿児奈波」。17世紀頃「「沖縄」となり、新井白石の著書にも登場します。明治政府は日本の領土に編入する際、中国色の強い「琉球」を廃し、日本で使われていた「沖縄」を採用したのです。 日米決戦の地上戦の後、「琉球」は米軍統治下の琉球政府として復活します。しかし、誇りを持って名乗るには程遠い実情でした。さらに1972年、本土復帰で沖縄県に。6月23日は沖縄の「慰霊の日」です。翻弄され続けた沖縄の歴史に改めて思いを馳せたいものです。 (朝日新聞・2003年6月22日朝刊・言葉の交差点より抜粋) 南西諸島(沖縄、鹿児島)(2003.5.26) 世界自然遺産候補地に選ばれる! 小笠原諸島、知床(北海道)も 世界遺産条約に基ずく世界自然遺産の候補地が5月26日、環境省と林野庁が共同で設置した「世界自然遺産候補地に関する検討会」(学識経験者7名で構成)の中で小笠原諸島及び南西諸島(沖縄、鹿児島)、知床(北海道)の3ヶ所が、世界自然遺産候補地に選ばれた。 、レンタカーを借り、国際通りで沖縄そばやソーミンチャンプルー(ソーメン)、ゴーヤと豚肉炒め、沖縄てんぷらを頂き、沖縄高速道路を北進、沖縄南で降り一路、与那城町へ。海中道路を渡り宮城島、伊計島の沖縄のビーチ風景を満喫した。グラスボートから見える伊計島や真っ青な海の色に感動した。 ホテルへの帰路、世界遺産の勝連城跡にも立ち寄り、琉球王朝時代の遺跡を見学した。 国際通り国際通りが誕生したのは第二次世界大戦の直後です。 かつては畑の中に細々と一本路がのびるだけの湿地帯でしたが、人々はこの路沿いにテントを張り店をつくり、奇跡的な発展を遂げてきました。 国際通りは沖縄復興のシンボル的な存在で別名“奇跡の1マイル”と呼ばれています。
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