[ホームページ] へ戻る

あちこち沖縄めぐり
 15日(日)
 結婚披露宴後、ホテルから30分の万座毛、 さらに国道58号線を北上して名護市のパイナップル公園、
名護城跡公園などに足を伸ばした。

万座毛(まんざもう)


サンゴ礁の岩肌があらわに
むき出た岸壁で、
象のように見える崖下は、
コバルト色の海。
崖の上は芝生の広場で、
約250年前
尚敬王が国頭巡視の際、
「万人を座らすに足る毛(原)」
と讃えたことから、
万座毛の由来があるそうだ

16日(月)は、ホテルのある恩納(おんな)村を午前6時半に発ち、一路国道58号線を那覇に向けて南下した。途中、嘉手納空港で迂回、曇り空の中に見える基地を半周した。再び、椰子の木が道路沿いに整然と植えられた、58号線に戻り宜野湾市を過ぎる頃から、通勤ラッシュに巻き込まれた。道路は3車線あるものの道路際はバスレーンで区切られ、2車線を車が一杯。浦添市、那覇市内へと近づくにつれ渋滞は激しく、那覇市内観光バスの予約時間が気に懸かったが、やっと8時半に無事到着。
 那覇定期観光バスで那覇市内の首里城、沖縄南部の戦跡めぐり、玉泉洞などを見学してきました。
首里城公園は、素晴らしい。日米決戦で城のすべてが焼き尽くされてしまったが、良くもここまで再建されたと驚くばかりでした。当時は王様しか通れなかったという、2千円札の守礼門の中央を堂々と歩いてきました。首里城は那覇市街が一望できる素晴らしいところに建っていました。
 続いてバスは、那覇市の南郊、豊見城(とよみぐすく)城址公園近くの小高い丘にある、旧海軍司令部壕に到着。深さ30mの地下には迷路のように壕が掘られ、司令室、作戦室、幕僚室などが残っている。旧海軍司令部壕の司令官であった太田實少将はじめ幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年6月13日夜半、拳銃自殺を遂げた。電灯の薄明かりに照らされた壕内は、ひんやりとして往時の戦闘のもの凄さを物語っていた。
 琉球の館では、紅型織物やミンサー織物の実演展示を見学。糸満市のひめゆりの塔を前にして、中学生時代に観た映画「ひめゆりの塔」を思い出しながら参拝後、昼食。平和祈念堂、摩文仁の丘(まぶにのおか)と日米最大の激戦地を巡り、玉城(たまぐすく)村の「玉泉洞王国村」を1時間掛けて鍾乳洞、琉球王国城下町、土産店などを回った。最後にバスの中で食べた紅いもアイスクリームの味が忘れられない。


首里城(首里城跡)

 那覇市の東、小高い丘に建つ首里城。南国の青空に映える深紅の正殿は、まさに誇り高い王国の証。
国王が政務をつかさどる1階、2階は国王以外立ち入れなかった聖域でした。中国様式の龍の装飾物、日本建築も随所に見られ、琉球独特の建造物です。
 その首里城(首里城跡)は、他の8つの遺産群(今帰仁城跡、座喜味城跡、中城城跡、勝連城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)とともに『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として、2000年12月に日本で11番目の世界遺産に登録されました。『琉球王国のグスク及び関連遺産群』は、海外交易で栄えた国際色豊かな独自の琉球文化や、自然崇拝的な独特の信仰形態を表す文化遺産として、高く評価されたものです。それにより、首里城は「沖縄の歴史と文化の象徴」の地位を一層ゆるぎないものにしました。


 首里城周辺はかつて深い森に囲まれ、寺や御殿が点在する静かな場所でした。しかし、沖縄戦では旧日本軍の司令部が置かれ、熾烈な戦いの主戦場となったため、多くの人命とともに首里城をはじめとするかつての琉球王朝時代の貴重な遺産は、すべて焼き尽くされてしまいました。
しかし、現在では玉陵や守礼門、園比屋武御嶽石門、龍潭、円鑑池など、多くの建造物が復元・整備され、往時の雰囲気を取り戻しつつあります。

守礼門
中国や日本の建築様式を取り入れた
首里城外に立つ楼門。1529年ごろの創建で、
1958年復元、1992年に修復された。
「守禮之邦」の扁額を掲げた門。
王朝時代、中国人は沖縄を守禮之邦と呼んだ。
二千円札になった守礼門
2000年と沖縄サミットを記念して二千円札が誕生した。
 二千円札には沖縄の守礼門と源氏物語絵巻、
その物語の作者である紫式部が描かれています。
3年前、発行された当初は珍しく良く手にしたが、
最近ではとんと目にすることがない。 
歓会門(かんかいもん)
首里城の正門で、俗に「あまへ御門」といいます。「あまへ」は古い言葉で「よろこび」を意味しており、「歓会」はその漢訳になります。第二尚氏尚真王代(1477〜1526)に創建されたといわれるこの門は、中央部に木造の櫓があります。
創建当時の石垣が一部残されている
首里城跡は、那覇市内で最も高い弁ヶ岳(167.5m)に連なる標高約120m〜約130mの琉球石灰岩からなる丘陵地に築かれています。
ガイドの説明を受けながら
瑞泉門へと石段を登る
首里城第2の門で、別名を「ひかわ御門うじょう」ともいいます。1470年頃の創建といわれています。門の名称は、門前右下にある「龍樋(りゅうひ)」に由来します。構造としては、途切れた石垣に桁を架した木造櫓門です。
漏刻門(ろうこくもん)
門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれています。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓をたたき、それを聞いた別の役人が大鐘を打ちならし、城内および城外に時刻を知らせたのです
頂上から市街を望む

 城は東西約400m、南北約200mで、城壁の石垣は厚さが約4m、高さが6〜11mに積み上げられ、場内には、歓会門、瑞泉門などの大小12の門、さらに城外には二つの坊門がありました。
園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきせきもん)
ここは、琉球王府の行事や祭祀と密着した重要な御嶽だったといわれ、国王が城外に出かける時、旅の安全を祈願したりしたと考えられています。
 創建は1519年頃といわれますが、現在のものは戦後復元されたものです。

 平和希求のために歴史を刻み込む
 市内から一番近い戦跡公園
       旧海軍司令部壕

旧海軍司令部壕は、熾烈を極めた沖縄戦において、日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部のあった所で司令官大田実少将ほか約4000名の将兵が、この壕で壮烈な最後を遂げた。
昭和20年6月13日午前1時頃のことである。
迷路のような壕内には、司令官室、作戦室、発電室などが当時のまま残され、将兵が鍬やツルハシで壕を掘った跡が、生々しく保存されている。
また司令官室の白壁には、『大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり』という大田少将の愛唱歌が当時のまま残されており、壕全体が、太平洋戦争末期の悲惨な歴史を伝える平和希求のモニュメントと言える。昭和19年8月10日着工、12月に完成した。約450mの壕に、司令官室、作戦室、幕僚室、通信室、暗号室、発電室などが配置された地下要塞であった。
現在は、このうち275mが公開されている。


(参考)
 沖縄戦の戦没者、200,656名、内日本側、188,136名。米軍側、12,520名。
 日本側戦没者の内訳
  沖縄県出身(軍人軍属) 28,228名
  他府県出身(軍人軍属) 65,908名
  沖縄県出身(戦闘参加者) 56,861名
  一般沖縄県民 37,139名
 米軍が使用した砲弾 2,716,691発(1945年4/1〜6/30)
 当時の沖縄県民57万4368人で割ると一人に対し、4.72発の砲弾を使用したことになる。

海軍司令部壕の内部
かまぼこ型に掘り抜いた横穴をコンクリートや坑木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地として造られた。
当時のままの司令官室内部
壁面には「大君の御はたもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」という大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されている。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔 
 「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所、旧陸軍第3外科壕跡。第1外科壕は、県道を挟んだ反対側にある。  
 ここに部隊が移動した6月には医薬品や食糧も底をついていた。6月18日、突如軍より解散命令が下された。この後、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はわずかであった。「ひめゆりの塔」は、この壕の上に建てられている。 生き残った者も、さらに荒崎海岸に追い込まれ自決したりした。「ひめゆり部隊」の犠牲者194名のうち、「解散」後の死者が128名であることが示す通り、軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだといえる。 塔の横には「ひめゆり平和祈念資料館」があり、生き残った女性が貴重な証言を聞かせてくれる。(糸満市)
沖縄平和祈念像と山田真山画伯
戦没者への慰霊と
平和希求の願いを込めて

沖縄平和祈念堂に安置されている沖縄平和祈念像は,沖縄出身の偉大な芸術家山田真山画伯(1885〜1977)が,全戦没者の追悼と世界平和を希う沖縄県民の心を一身に担い,晩年の全生涯を捧げて制作されました。
高さが約12メートル,幅が約8メートルの人間の祈りの姿を象徴した座像です。

宗教や思想,政治や人種,あるいは国を超えてすべての人が戦没者の慰霊と平和の一点に力を合わせていこうということを10本の指を合わせた合掌の形に表現されております。

沖縄 「慰霊の日」 6500人が参加
 2003.6.23 asahi.com

健児の塔下にあるガマ(自然壕)で、戦死した肉親の冥福を祈る遺族たち=23日午前9時40分、沖縄県糸満市で
   知事「地位協定改定を」

 沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦での犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎えた。激戦地となった本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では、県などが主催する沖縄全戦没者追悼式があり、遺族ら約6500人が参列した。稲嶺恵一知事は「平和宣言」で、「世界の国々が民族や宗教の違いを乗り越えて協力することが重要だ」と訴え、沖縄に集中する米軍基地の縮小や、米軍の特権などを定めた日米地位協定の改定を改めて求めた。

 沖縄の地上戦では、兵士だけでなく多くの住民が犠牲になった。45年6月下旬は、沖縄での日本軍の組織的戦闘が終わった時期とされ、沖縄県は23日を「慰霊の日」として県民の休日に定めている。正午には、県内各地で多くの人々が1分間の黙祷(もくとう)をささげた。

 平和宣言で、稲嶺知事は「沖縄の歴史と体験を、戦争を知らない世代に正しく継承することは私たちの責務」と述べた。そのうえで、「平和な島を求める県民は過重な基地負担を強いられている」とし、日米政府による基地問題への取り組みを求めた。

 式典は、遺族の高齢化などに配慮し、昨年より約20分間短縮され、50分になった。倉田寛之・参院議長、細田沖縄担当相らが出席。2年続けて出席していた小泉首相は、イラクへ自衛隊を派遣する「イラク復興支援特別措置法案」の国会審議を優先し、出席を取りやめた。

 細田沖縄担当相が小泉首相のあいさつを代読し、5月下旬に沖縄県金武(きん)町で起きた米海兵隊員による強姦(ごうかん)致傷容疑事件に触れ、「誠に遺憾。米側に対し、綱紀粛正、再発防止の徹底を求めていく」と述べた。

 沖縄戦で亡くなった人々の名を、国籍や出身地を問わず刻んでいる平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」には、遺族らの要望を受け、今年から戦艦大和の乗員ら南西諸島周辺での攻防戦で犠牲になった人々の名前も刻まれるようになった。そうした追加も含め、新たに164人が刻銘され、総数は23万8429人になった。
(
2003.6.23 asahi.com

玉泉洞(ぎょくせんどう)
30万年の年月が創りあげた大自然の美しい彫刻博物館長さ800mの洞内には、数知れない鍾乳石が見られる
沖縄の美しい珊瑚礁からできたもの
琉球王国城下町
旧民家を復元展示。機織、紙すき、三線工房など。

沖縄あれこれ
 バスガイドさんに教えてもらった、街路樹として沢山植えられていたデイゴの木と、ホウオウボク
インターネットで紹介されていましたので、勝手ながら転載させて頂きました事、御礼申し上げます。

         沖縄県の県花・デイゴ
           デイゴの花は毎年咲くわけではないんです。
           デイゴの花の咲く年には台風が多く来る!と言われています。       



お花のアップ!

ホウオウボク
葉っぱは鳳凰が羽を広げたような感じ
7月、8月
、真夏の青空に緋色の花が
鮮やかに映えます。

ホウオウボク(冬の顔)
豆科なので、1月〜2月にはこのように
腕ぐらいの長さの莢が木から
沢山ぶら下がっています。

赤瓦屋根のシーサーの役目は

中国から伝わってきたもので,魔よけとして家の屋根や,門柱などにおかれます。
今では,いろいろな顔や形のシーサーが作られるようになってきています。

DSC00822.JPG
DSC00823.JPG
DSC00824.JPG
DSC00825.JPG

私の活動報告に戻る     前頁に戻る