、 結婚披露宴後、ホテルから30分の万座毛、 さらに国道58号線を北上して名護市のパイナップル公園、 名護城跡公園などに足を伸ばした。
、ホテルのある恩納(おんな)村を午前6時半に発ち、一路国道58号線を那覇に向けて南下した。途中、嘉手納空港で迂回、曇り空の中に見える基地を半周した。再び、椰子の木が道路沿いに整然と植えられた、58号線に戻り宜野湾市を過ぎる頃から、通勤ラッシュに巻き込まれた。道路は3車線あるものの道路際はバスレーンで区切られ、2車線を車が一杯。浦添市、那覇市内へと近づくにつれ渋滞は激しく、那覇市内観光バスの予約時間が気に懸かったが、やっと8時半に無事到着。 那覇定期観光バスで那覇市内の首里城、沖縄南部の戦跡めぐり、玉泉洞などを見学してきました。 首里城公園は、素晴らしい。日米決戦で城のすべてが焼き尽くされてしまったが、良くもここまで再建されたと驚くばかりでした。当時は王様しか通れなかったという、2千円札の守礼門の中央を堂々と歩いてきました。首里城は那覇市街が一望できる素晴らしいところに建っていました。 続いてバスは、那覇市の南郊、豊見城(とよみぐすく)城址公園近くの小高い丘にある、旧海軍司令部壕に到着。深さ30mの地下には迷路のように壕が掘られ、司令室、作戦室、幕僚室などが残っている。旧海軍司令部壕の司令官であった太田實少将はじめ幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年6月13日夜半、拳銃自殺を遂げた。電灯の薄明かりに照らされた壕内は、ひんやりとして往時の戦闘のもの凄さを物語っていた。 琉球の館では、紅型織物やミンサー織物の実演展示を見学。糸満市のひめゆりの塔を前にして、中学生時代に観た映画「ひめゆりの塔」を思い出しながら参拝後、昼食。平和祈念堂、摩文仁の丘(まぶにのおか)と日米最大の激戦地を巡り、玉城(たまぐすく)村の「玉泉洞王国村」を1時間掛けて鍾乳洞、琉球王国城下町、土産店などを回った。最後にバスの中で食べた紅いもアイスクリームの味が忘れられない。
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守礼門 中国や日本の建築様式を取り入れた 首里城外に立つ楼門。1529年ごろの創建で、 1958年復元、1992年に修復された。 「守禮之邦」の扁額を掲げた門。 王朝時代、中国人は沖縄を守禮之邦と呼んだ。 |
二千円札になった守礼門 2000年と沖縄サミットを記念して二千円札が誕生した。 二千円札には沖縄の守礼門と源氏物語絵巻、 その物語の作者である紫式部が描かれています。 3年前、発行された当初は珍しく良く手にしたが、 最近ではとんと目にすることがない。 |
歓会門(かんかいもん) 首里城の正門で、俗に「あまへ御門」といいます。「あまへ」は古い言葉で「よろこび」を意味しており、「歓会」はその漢訳になります。第二尚氏尚真王代(1477〜1526)に創建されたといわれるこの門は、中央部に木造の櫓があります。 |
創建当時の石垣が一部残されている 首里城跡は、那覇市内で最も高い弁ヶ岳(167.5m)に連なる標高約120m〜約130mの琉球石灰岩からなる丘陵地に築かれています。 |
ガイドの説明を受けながら 瑞泉門へと石段を登る 首里城第2の門で、別名を「ひかわ御門うじょう」ともいいます。1470年頃の創建といわれています。門の名称は、門前右下にある「龍樋(りゅうひ)」に由来します。構造としては、途切れた石垣に桁を架した木造櫓門です。 |
漏刻門(ろうこくもん) 門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれています。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓をたたき、それを聞いた別の役人が大鐘を打ちならし、城内および城外に時刻を知らせたのです |
頂上から市街を望む 城は東西約400m、南北約200mで、城壁の石垣は厚さが約4m、高さが6〜11mに積み上げられ、場内には、歓会門、瑞泉門などの大小12の門、さらに城外には二つの坊門がありました。 |
園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきせきもん) ここは、琉球王府の行事や祭祀と密着した重要な御嶽だったといわれ、国王が城外に出かける時、旅の安全を祈願したりしたと考えられています。 創建は1519年頃といわれますが、現在のものは戦後復元されたものです。 |
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