 天保十四年倉治村絵図 |
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天保十四年倉治村絵図 この絵図は江戸時代の倉治村の絵図として現在分かっている唯一のものです。この絵図では、機物神社の南にも鳥居があり、大きな道が続いていました。その先には、江戸時代初期まで続いた有家集落があったことが発掘調査で分かっています。 ほかにも、「神宮寺」「鶴ヶ峰」「南頭」といった倉治村の出郷が記されています。「濱の池」と「宮代之池」という池もありますが、現在は境がなくなり「源氏池」になっています。また、源氏の滝から機物神社までの道の両端に松の木が植えられています。地域のお年寄りの話では、雨のときも傘をささなくてもよかったそうですが、現在はその面影もありません。 倉治村を洪水から守った免除川もすでに村の南に流れています。交野山を中心とした山の尾根には木々が描かれていますが、まばらな様子がうかがえます。
江戸時代の暮らし 当時、交野市内には8つの村がありました。倉治・郡門(郡津)・私部・寺・森・傍示・私市・星田の村です。 江戸幕府は太閤検地を引き継ぐかたちで検見(稲の出来具合を見て、生産高を予測する)を行い、村々の石高と年貢を決め、それぞれの村を幕府が直接支配したり、徳川家の家臣(旗本)や譜代大名に支配させ、村には代官、庄屋、年寄、百姓代などを置いて厳しく取り立てましたので、農民の暮らしは決して裕福なものではありませんでした。 また、村の治安維持のために5人組の自治組合を組織させ、キリシタン、悪事をする者、逃亡者などを取り締まりました。
江戸時代後半の村の推定人口・石高・領主 |
倉治 |
約450人 |
約1,087石 |
旗本・久貝氏 |
郡津 |
約500人 |
約870石 |
旗本・片桐氏、小田原藩・大久保氏 |
私部 |
約950人 |
約1,590石 |
旗本・畠山氏、小田原藩・大久保氏 |
寺 |
約300人 |
約341石 |
石清水八幡宮・幕府領 |
森 |
約300人 |
約334石 |
小田原藩・大久保氏 |
傍示 |
約40人 |
約39石 |
幕府領 |
私市 |
約300人 |
約578石 |
旗本・越智氏、幕府領 |
星田 |
約1,600人 |
約1,529石 |
仁正寺藩(のちの西大路藩)・市橋氏、 小田原藩・大久保氏、石清水八幡宮 |
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