交野歴史健康ウォーク
2003.9.27 第53回 土生川の源流を訪ねて
9/27(土)午前9時 京阪電車私市駅集合・出発 |
9/27(土)天候晴れ、参加者20人。秋晴れの絶好のウォーク日となり、いつもの元気なメンバーが勢揃いした。平田さんより源流を訪ねるシリーズの一つで、今日は土生川を歩いて源流を訪ね、獅子窟寺まで行くと説明を受けて私市駅前を9:10分過ぎ出発した。 (どじょうがわ) 私市駅前の広場を抜け大阪市大付属植物園へと通じる道を西に進み、先ず土生川の下流、尺治川との合流地点を確認して、旧磐船街道を右折。私市のそうれん道を土生川の堤防へと歩き、右へ行くと私市駅へと通じる道を左折してだらだら道を下ると、右手に今も綺麗な水が湧き出している、ちんちん水の辻に出る。
登山道を登るに従って、5〜6mもあろうかと思われる岩石が幾重にも重なり合って如何にも地名どおりの谷奥のイメージだ。足を滑らせば20m近い、谷の岩場に落ち大怪我をしかねない。慎重に足場を踏みしめながら谷の奥地へと進む。平安時代以降、獅子窟寺の僧侶たちが修行に励んだ場所とも言われ、修行には格好の岩場や谷があり、幽玄な雰囲気があたりに立ち込めていた。 |
土生川は私市山手の住宅地内を 流れて京阪電車の下をくぐり私市墓地の北側の御幸橋で尺治川と合流、天野川へ注いでいる |
私市山手2丁目の住宅地を抜けて いざ、土生川の源流へと進む |
土生川を遡るに従って、川筋には5〜6m位の 岩石が幾重にも重なり合っていた |
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谷奥の滝、大きな岩を潜り抜けて 小さな滝になって流れていた |
綱を頼りに慎重に谷を降りたり 沢を歩いたりして遡る |
遂に源流を確認、歓声を上げ 府民の森への尾根筋を登る |
府民の森から獅子窟寺へと下り 八畳岩の下にある三十三観音さん |
見上げるような大きな鏡岩 | 龍岩窟の奥にお大師さん |
獅子窟寺の山は全山花崗岩質の山である。梵字の碑の大岩を上にあがると、東から西側に突き出した巨石はまさしく男の石である。つけ根から先まで4.5mである。 この下から西側に降りると、金剛般若窟(こんごうはんにゃくつ)・獅子窟(ししくつ)である。⇒ |
獅子の口に似たとして獅子窟(ししくつ)と言われ現在の寺号が出来たと伝えられている。 この岩にこもって、弘法大師が修行された。 嵯峨天皇(弘仁年間 810〜824年)のころ、弘法大師が交野地方に来られた時に、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、三ヶ所に分れて落ちたと言われている。八丁三所に星が降った。この岩の奥には、弘法大師の小さな石像があり、昔の伝説がよみがえる思いがします。 |
京阪電車・私市駅、河内森駅、またはJR河内磐船駅よりそれぞれ徒歩約40分。
開基は役小角(えんのおづぬ)と伝えられ、本尊薬師如来座像は 弘仁期(平安時代、西暦900年頃)のものとされ国宝である。 奈良時代、聖武天皇(45代)の勅願を受けた僧行基が堂塔を建て、金剛般若窟と
云った。
のちに、平安時代空海もこの山で修法され、境内にある井戸は水の不便を考え、
掘られたもので枯水したことがないと伝えられる。 |
谷奥 (たにおく) |
私市の山地の部分に付けられている地名はたくさんあるが、大きな地名は三つしかない。「谷奥」「尺治」「岩船」である。谷奥、尺治、岩船の地名の後ろに、その場所の固有の地名がくっついて付けられている。 谷奥は獅子窟寺を中心にした山地に付けられている。尺治は京阪電鉄私市駅の南の川(尺治川)の流域に集中しており、岩船は磐船神社から天野川沿いに細長く付けられている。 獅子窟寺の創立は平安時代の弘仁年間から藤原初期のころまでの間であると言われている。山の中に建てられているということは、奈良時代の役小角(えんのおずね)、行基(ぎようき)、平安時代の弘法大師の名前も言われているが、山地建立や薬師如来仏があるなど、山岳仏教が盛んになった平安時代の初期と同一視してよいのではないか。 当然ながら寺院も多くあり、寺域も広く、私市の山地の寺院付近一帯とされるであろう。河内森辺りが獅子窟寺の入口であり、現在の寺院の奥、319.3 mの最高点が分水嶺となることから、ここまでが寺域とされる。この寺域一帯の地名に「谷奥」が頭に付いて、後ろに、その場所を示す地名が付いた複合語である。そして、獅子窟寺の寺院がある所が「谷奥」だけの地名となり、寺院の中心地であることがうかがえる。 |
谷奥狐谷 (たにおくきつねだに) 谷奥狸谷 (たにおくたぬきだに) |
谷奥上覚から獅子窟寺を隔てて南側の尺治川の谷との間に一つ、わりあい大きな谷がある。この谷の上の部分が「谷奥狸谷」、下の部分が「谷奥狐谷」となっている。 狸谷は谷の一番奥に当たるため、谷は深く険しい。それに対し狐谷は下になるので、谷も広く斜面もゆるやかである。 獅子窟寺の繁栄が終わってしまった後は、この谷を上り下りする僧侶や村人もいなくなり、だれも入らぬ谷となってしまった。その結果、山の動物の住み家と化し、いつしか村人は寄り付かぬ谷と恐れたから、狐や狸の出る谷と言うようになったものと思われる。 |