天の川→京阪・枚方市駅(解散) (行程約6km) |
交野市の市民講座で、「渡来人と日本文化」に触れる歴史ウォークに参加してきました。 7/18(木)午前9時50分、宮之阪駅改札口周辺に集合。当初予定されていた7/10は台風6号の影響で延期となり、続いて来襲した7号も心配されたが、一転18日は快晴となった。70名の元気な顔がそろい、百済寺跡に向かって駅を出発。車の往来の多い道路を数分東へ坂道を上がり左折して50m行くと、右手に国の特別史跡公園・百済寺跡がある。 6世紀のはじめ百済国(345年〜660年)から数多く渡来したうちの百済王一族が建立したと伝えられる百済寺跡。 百済国は、仏像だけでなく僧侶・工人などの多岐にわたって人材を派遣して日本文化に多大な影響を及ぼし、飛鳥・白鳳文化を育んだことが知られている。 一辺約160mの方形寺地の中心線上に伽藍を配し、南門を入るとさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両塔を包容し金堂両脇にいたる形式は、新羅の感恩寺、奈良の薬師寺式である。 木陰で辻先生よりいろいろと詳しく説明を受けた。その中で、今も、韓国の修学旅行生達がここ百済寺跡を訪れ先祖を敬い、その足で滋賀県高月町の東アジア交流センター(雨森芳洲庵)に行き国際交流を続けていることを知った。昨年11月に、歴史街道のバス旅行(晩秋の琵琶湖一週・湖北の歴史を尋ねる)で、高月町を訪れ渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音立像を拝観した時、バスガイドさんから雨森芳洲のことを聞いたことがあり、思い出した。百済寺では、日韓文化交流の一端に触れることが出来た。 一息入れて、次は1939年に大爆発事故があった枚方禁野火薬庫跡を尋ねた。百済寺跡から北西にまっすぐに伸びた「殿山百済寺道]を炎暑の中てくてくと歩き、公団中宮第三団地内に戦争の戦跡として保存された禁野火薬庫の土塁を見学。ここでも、先生より小松製作所のこと、火薬庫爆発の大惨事の様子などを詳しくお聞きする。現在の小松製作所は一部を残して大半が売却され、今は立派な関西外国語大学のキャンパスなどに変わっている。 また、当時の軍用線であった津田駅までの引込み線の一部を、「平和ロード」として残し、平和への願いを後世まで伝えようとしている枚方市民の活動に感銘を受けた。忌まわしい戦争は二度と起こしてはなるまいと思った。 午後は炎天下、猛暑の中を淀川沿いを歩き、七夕伝説の天の川の下流域を歩いた。太陽がじりじりと照りつける中、むっとする草いきれのする淀川堤を歩きながら、子供の頃遅くまで川遊びをしていたことなどを思い出した。真に暑い暑い歴史ウォークでした。 当日の学習状況は、交野市の社会教育課のHP・学習会の記録に掲載されている。 どうぞ、ご覧ください!
※史跡など・概略説明 渡来系氏族 百済王氏(くだらこにきし) 百済王敬福(698年〜766年) 百済寺創建者 枚方市禁野火薬庫跡 明治29年(1896)陸軍は禁野火薬庫を設置し、昭和13年(1938)に枚方兵器製造所、翌14年香里火薬製造所を開設、枚方は一大兵器生産地となりました。そして、昭和14年(1939)3月1日禁野火薬庫大爆発の惨事が起こりました。 禁野火薬庫の爆発被害 1回目(1909年)日時8月20日午前2時過ぎ、原因ダイナマイトの自然発火被害大破家屋約25戸小破家屋約1470戸軽傷10人 2回目(1939年)日時3月1日午後2時45分〜午後7時ごろ爆発大小29回、原因作業中の過失。 被害全焼・全壊299戸(アパートなど除く)半焼・半壊11戸(アパートなど除く) ※死者95人負傷者352人(以上「枚方市史」第4巻より) 枚方製造所跡/「枚方工廠爆発殉難者慰霊塔」(小松製作所大阪工場) 砲弾・爆弾を製造していた「陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所」(1938/昭和13年)は、日中戦争の拡大とともに、増産体制を強めた。その後、「大阪陸軍造兵廠枚方製造所」(1940/昭和15年)と改称し、工場規模は拡充されていった。 戦争中、軍事工場をかかえていた枚方だったが、空襲による被害は比較的少なかった。 戦後、旧陸軍造兵廠枚方製造所などは、連合国の賠償指定物件とされ、大蔵省所管のもと工場は遊休のまま放置されていた。枚方市は、この工場を平和産業に転用させることを考え、工場の誘致をすすめていたところ、小松製作所から払い下げ申請が出され、1952(昭和27)年払い下げが正式に決定した。朝鮮戦争(1950〜1951年)を契機とした再軍備強化をねらう特需ブームによって、旧枚方製造所から小松製作所大阪工場と名は変わったが、砲弾製造が復活した。小松製作所での兵器製造の噂を知った枚方市民の中には、禁野火薬庫爆発の体験から、兵器製造反対の声が高まった。一部の急進派の中には、小松製作所払い下げ反対を叫び、工場内の機械に爆弾を仕掛けるなど、いわゆる「枚方事件」を起こすものもあった(1952/昭和27年)。 10年くらい前までは、小松製作所の周囲には、かつての陸軍造兵廠枚方製造所跡地だったことを示した「陸軍省用地」の石柱がいくつも残っていたが、今は取り除かれてない。そのうちの一つが「平和ロード」に移管されているが、26本の石柱は、「枚方市水道局春日受水場」(枚方市春日野1丁目)に保存されている。 近年の企業海外進出=産業の空洞化政策によって、小松製作所大阪工場は、その規模も縮小し、研修施設などの一部だけを残し、工場敷地の大半を関西外国語大学に売却した。 ここ数年で、旧枚方製造所の名残りは、小松製作所内にある「枚方工廠爆発殉難者慰霊塔」と「供養塔」のみとなり、その跡地には大学が建つことになる。 平和ロード(中宮本町・中宮西之町/市道中宮区第49号線……道路名) 陸軍の軍事施設である、枚方製造所(砲弾・爆弾の製造)と香里製造所(火薬製造)が枚方に建設されたのは、人家が散在した広い敷地があり、原材料や製品の輸送が可能な旧国鉄片町線(現在のJR学研都市線)が走っていたためであるといわれている。 枚方製造所へは津田駅から、香里製造所へは星田駅からそれぞれ引き込み線が敷かれ、砲弾・爆弾や火薬の輸送が行われた。現在、それらの引き込み線は、道路として利用されている(旧307号線、市道山之上高田線)。戦後もしばらくは、引き込み線跡にはレールが残っていて、子どもたちの遊び場所のひとつだったと何人もが証言している。 枚方市は、禁野火薬庫や枚方製造所への引き込み線だった道路(市道)の一部を「平和ロード」にし、機関車のモニュメントと、引き込み線の周辺にあった軍用電柱を残し、平和への願いを託した道路として整備している。 「平和ロード」の周辺の中宮東之町、中宮山戸町などを歩くと、道路がほぼ真っすぐなことに気づく。それは、禁野火薬庫の爆発で家屋が焼失・破壊した地域の住民が、区画整理の街づくりをめざした結果である。 (枚方市戦跡を尋ねるHPを参照しました) 七夕 《伊勢物語》 御ともなる人、さけをもたせて野より出きたり。此の酒をのみてんとて、よき所をもとめ行くにあまの川といふ所にいたりぬ。みこ。むまのかみ、おほみきまいる。みこのた給ひける。かた野をかりてあまの川のほとりにいたるを題にて、歌よみて盃はさせと、のたまふければ、かのむまのかみ、よみたてまつりける。 [古今] かりくらし たなはたつめに 宿からん あまのかはらに 我はきにけり 業平朝臣 みこ、歌をかえすかえすいたまふて、かえしえしたまはす。紀ノありつね、御ともにつかうまつれり、それか返し [古今] ひととせに ひとたひきます 君まては 宿かす人もあらしととそ思ふ 紀 有常 |
※史跡など・概略説明 百済寺と百済王氏 桓武天皇の長岡・平安遷都を支援 天神崇敬の実践地 |
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