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渡来人と日本文化

百済寺と七夕伝説の天の川を尋ねる
 2002.7.18 枚方市
百済寺跡、禁野火薬庫跡、淀川堤、天の川など

コース: 京阪・宮の阪駅→百済寺跡→禁野火薬庫跡→淀川堤→
天の川→京阪・枚方市駅(解散) (行程約6km)

 野市の市民講座で、「渡来人と日本文化」に触れる歴史ウォークに参加してきました百済寺跡周辺地図

 7/18(木)午前9時50分、宮之阪駅改札口周辺に集合。当初予定されていた7/10は台風6号の影響で延期となり、続いて来襲した7号も心配されたが、一転18日は快晴となった。70名の元気な顔がそろい、百済寺跡に向かって駅を出発。車の往来の多い道路を数分東へ坂道を上がり左折して50m行くと、右手に国の特別史跡公園・百済寺跡がある。
 
6世紀のはじめ百済国(345年〜660年)から数多く渡来したうちの百済王一族が建立したと伝えられる百済寺跡。
 百済国は、仏像だけでなく僧侶・工人などの多岐にわたって人材を派遣して日本文化に多大な影響を及ぼし、飛鳥・白鳳文化を育んだことが知られている。
 一辺約160mの方形寺地の中心線上に伽藍を配し、南門を入るとさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両塔を包容し金堂両脇にいたる形式は、新羅の感恩寺奈良の薬師寺式である。
 木陰で辻先生よりいろいろと詳しく説明を受けた。その中で、今も、韓国の修学旅行生達がここ百済寺跡を訪れ先祖を敬い、その足で滋賀県高月町の東アジア交流センター(雨森芳洲庵)に行き国際交流を続けていることを知った。昨年11月に、歴史街道のバス旅行(晩秋の琵琶湖一週・湖北の歴史を尋ねる)で、高月町を訪れ渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音立像を拝観した時、バスガイドさんから雨森芳洲のことを聞いたことがあり、思い出した。百済寺では、日韓文化交流の一端に触れることが出来た。
 
 一息入れて、次は1939年に大爆発事故があった枚方禁野火薬庫跡を尋ねた。百済寺跡から北西にまっすぐに伸びた「殿山百済寺道]を炎暑の中てくてくと歩き、公団中宮第三団地内に戦争の戦跡として保存された禁野火薬庫の土塁を見学。ここでも、先生より小松製作所のこと、火薬庫爆発の大惨事の様子などを詳しくお聞きする。現在の小松製作所は一部を残して大半が売却され、今は立派な関西外国語大学のキャンパスなどに変わっている。
 また、当時の軍用線であった津田駅までの引込み線の一部を、「平和ロード」として残し、平和への願いを後世まで伝えようとしている枚方市民の活動に感銘を受けた。忌まわしい戦争は二度と起こしてはなるまいと思った。

 午後は炎天下、猛暑の中を淀川沿いを歩き、七夕伝説の天の川の下流域を歩いた。太陽がじりじりと照りつける中、むっとする草いきれのする淀川堤を歩きながら、子供の頃遅くまで川遊びをしていたことなどを思い出した。真に暑い暑い歴史ウォークでした。

 当日の学習状況は、交野市の社会教育課のHP・学習会の記録に掲載されている。
どうぞ、ご覧ください!


雨森芳洲

▲雨森芳洲
  (1668〜1755)
 雨森芳洲庵(東アジア交流センター)

きれいな水が流れて、花がいっぱい咲いている町。
滋賀県伊香郡高月町の「雨森地区」です。

雨森地区 雨森芳洲は江戸時代の儒学者で外交官で、ここ高月町の出身。いま、雨森地区では右の写真のように、住民運動で花がいっぱいの町が実現している。
 この雨森地区に雨森芳洲庵(東アジア交流センター)がある。芳洲は朝鮮外交に大きな功績をのこした。 朝鮮語、中国語がしゃべれる、当時きっての国際人であった

●お問い合わせ先
 雨森芳洲庵 滋賀県伊香郡高月町雨森1166
 電 話 0749-85-5095
 雨森地区・水と花の町
 電 話 0749-85-3111(役場産業課内)


  高月町紹介HPを参照しました

 


百済寺跡 百済寺跡(東塔の礎石)
枚方市中宮団地内を歩く 淀川堤の磯島取水場
天の川堤防を歩く 天野川に架かるかささぎ橋

史跡など・概略説明

渡来系氏族 百済王氏(くだらこにきし)
 
百済最後の国王義慈王の皇子善光王を祖とする氏族。旧姓余。

 舒明朝(629年〜641年)に兄豊璋(ほうしよう)とともに百済王氏の氏神・百済王神社日本に渡った善光は、百済の減亡、白村江の戦ののちも残留し、百済王と称され諸藩賓客として寓されたが、持統朝(690年〜697年)に百済王姓を賜与される。
 8〜9世紀前半には朝堂において重要な地位を占め、聖武天皇の寵臣であった敬福のほか、衛府や出羽、陸奥国司など軍事関係の要職に就いた者も多い。
 平安時代、桓武・嵯峨両朝には後宮にも勢力をもった。
 そのほか百済系氏族の宗家的役割も果たしていたと考えられる。

百済王敬福(698年〜766年) 百済寺創建者

 749年(天平21)敬福は、陸奥の国司であったが、陸奥の国で黄金が発見されたので、桓武天皇に900両の黄金を献上した。
 束大寺の大仏は、鍍金のための黄金が不足して行き詰まっていたときだけに天皇は大いに喜び敬福は従五位から七階級進んで、渡来系氏族では,最高の従三位に叙せられた。
 また、宮内卿兼河内の国司に任命された。
 敬福は、河内の国司に任ぜられたので、それ以後一族は河内国交野郡中宮郷に住んで、のち氏寺として百済寺を建立した



枚方市禁野火薬庫跡
 明治29年(1896)陸軍は禁野火薬庫を設置し、昭和13年(1938)に枚方兵器製造所、翌14年香里火薬製造所を開設、枚方は一大兵器生産地となりました。そして、昭和14年(1939)3月1日禁野火薬庫大爆発の惨事が起こりました。
 
禁野火薬庫の爆発被害

1回目(1909年)日時8月20日午前2時過ぎ、原因ダイナマイトの自然発火被害大破家屋約25戸小破家屋約1470戸軽傷10人
2回目(1939年)日時3月1日午後2時45分〜午後7時ごろ爆発大小29回、原因作業中の過失。
被害全焼・全壊299戸(アパートなど除く)半焼・半壊11戸(アパートなど除く)
枚方禁野火薬庫跡・土塁跡
※死者95人負傷者352人(以上「枚方市史」第4巻より)

 枚方製造所跡/「枚方工廠爆発殉難者慰霊塔」(小松製作所大阪工場)
  
 砲弾・爆弾を製造していた「陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所」(1938/昭和13年)は、日中戦争の拡大とともに、増産体制を強めた。その後、「大阪陸軍造兵廠枚方製造所」(1940/昭和15年)と改称し、工場規模は拡充されていった。
 戦争中、軍事工場をかかえていた枚方だったが、空襲による被害は比較的少なかった。
 戦後、旧陸軍造兵廠枚方製造所などは、連合国の賠償指定物件とされ、大蔵省所管のもと工場は遊休のまま放置されていた。枚方市は、この工場を平和産業に転用させることを考え、工場の誘致をすすめていたところ、小松製作所から払い下げ申請が出され、1952(昭和27)年払い下げが正式に決定した。朝鮮戦争(1950〜1951年)を契機とした再軍備強化をねらう特需ブームによって、旧枚方製造所から小松製作所大阪工場と名は変わったが、砲弾製造が復活した。小松製作所での兵器製造の噂を知った枚方市民の中には、禁野火薬庫爆発の体験から、兵器製造反対の声が高まった。一部の急進派の中には、小松製作所払い下げ反対を叫び、工場内の機械に爆弾を仕掛けるなど、いわゆる「枚方事件」を起こすものもあった(1952/昭和27年)。

 10年くらい前までは、小松製作所の周囲には、かつての陸軍造兵廠枚方製造所跡地だったことを示した「陸軍省用地」の石柱がいくつも残っていたが、今は取り除かれてない。そのうちの一つが「平和ロード」に移管されているが、26本の石柱は、「枚方市水道局春日受水場」(枚方市春日野1丁目)に保存されている。

 近年の企業海外進出=産業の空洞化政策によって、小松製作所大阪工場は、その規模も縮小し、研修施設などの一部だけを残し、工場敷地の大半を関西外国語大学に売却した

 ここ数年で、旧枚方製造所の名残りは、小松製作所内にある「枚方工廠爆発殉難者慰霊塔」と「供養塔」のみとなり、その跡地には大学が建つことになる。

 平和ロード(中宮本町・中宮西之町/市道中宮区第49号線……道路名)

 陸軍の軍事施設である、枚方製造所(砲弾・爆弾の製造)と香里製造所(火薬製造)が枚方に建設されたのは、人家が散在した広い敷地があり、原材料や製品の輸送が可能な旧国鉄片町線(現在のJR学研都市線)が走っていたためであるといわれている。
 枚方製造所へは津田駅から、香里製造所へは星田駅からそれぞれ引き込み線が敷かれ、砲弾・爆弾や火薬の輸送が行われた。現在、それらの引き込み線は、道路として利用されている(旧307号線、市道山之上高田線)。戦後もしばらくは、引き込み線跡にはレールが残っていて、子どもたちの遊び場所のひとつだったと何人もが証言している。
 
 枚方市は、禁野火薬庫や枚方製造所への引き込み線だった道路(市道)の一部を「平和ロード」にし、機関車のモニュメントと、引き込み線の周辺にあった軍用電柱を残し、平和への願いを託した道路として整備している。
 「平和ロード」の周辺の中宮東之町、中宮山戸町などを歩くと、道路がほぼ真っすぐなことに気づく。それは、禁野火薬庫の爆発で家屋が焼失・破壊した地域の住民が、区画整理の街づくりをめざした結果である。
               (枚方市戦跡を尋ねるHPを参照しました)


七夕

《伊勢物語》
 御ともなる人、さけをもたせて野より出きたり。此の酒をのみてんとて、よき所をもとめ行くにあまの川といふ所にいたりぬ。みこ。むまのかみ、おほみきまいる。みこのた給ひける。かた野をかりてあまの川のほとりにいたるを題にて、歌よみて盃はさせと、のたまふければ、かのむまのかみ、よみたてまつりける。
 
[古今]
  かりくらし たなはたつめに 宿からん
             あまのかはらに 我はきにけり
   業平朝臣

 みこ、歌をかえすかえすいたまふて、かえしえしたまはす。紀ノありつね、御ともにつかうまつれり、それか返し
 
[古今]
   ひととせに ひとたひきます 君まては
              宿かす人もあらしととそ思ふ
     紀 有常


 ※史跡など・概略説明百済寺の伽藍配置図

百済寺と百済王氏
 
 枚方市中宮にある史跡公園百済寺跡は、8世紀後半、渡来系豪族百済王敬福のころ一族が中官に移り、氏寺として建立した百済寺の跡である
 奈良時代末期から建てはじめ、七堂伽藍が完成したのは平安時代の初期と考えられている。
 百済寺は、標高30mの台地のうえに160m四方くらいの面積をもつ小規模な寺院であるが、七堂伽藍の甍を並べていた
 伽藍配置は、奈良の薬師寺や新羅の感恩寺との類似が指摘される。
 東西の塔は、何層であったか不明であるが、この地方の農民はもちろん、淀川を上下する旅人の目にも中央政界で活躍するはなやかな百済王氏の象徴として映ったことであろう。

 百済寺は、11〜12世紀に焼失したものと考えられるが、礎石だけはそのまま残っていたので、1941年、国の史跡に指定され、1952年に特別史跡に昇格した


桓武天皇の長岡・平安遷都を支援

 奈良時代末、桓武天皇は即位すると、新しい親政を目指し、しがらみの多い平城京からの遷都を進めた。
 遷都先に決定されたのは山背国だった。
 山背国には、経済的にも、社会的にも大きな影響力をもつ渡来系氏族秦氏や淀川沿線には実母高野新笠の外戚百済王氏が居住していて幼少時より文化的影響を受けてきたことが、新京地決定の大きな要素となったことだろう。
 それに応え、秦氏も百済王氏も新京造営に大きな力を発揮した。
 遷都後、桓武天皇はしばしば交野が原を訪ね、百済王氏宅を行宮とした。
 桓武天皇は「百済王らは朕の外戚なり」として、政権の中枢に多くの百済王一族を登用した百済寺跡(金堂跡)
 また、桓武天皇の右腕として活躍した大納言藤原継縄の夫人は、後宮の責任者(尚侍)の百済王明信だったので、天皇はたびたび継縄の楠葉にある別荘を行宮にして遊猟を楽しんだ。

天神崇敬の実践地

 785年・(延暦4)、桓武天皇は「交野柏原」で国家的な事業である祭天の行事をおこなった。これが、日本で行なわれた、初の祭天だった。
 祭天というのは、中国・朝鮮の政治思想に基づくもので、天子は世界に君臨する王者として天帝の意に従って内外を統治することを明らかにするものであった。
 日本が唐の世界的な文化を取り入れて、しかもこれと対等の天帝観をいだき、天意に基いて国を治める決意をこの祭天によって示そうとしたものであった。
 この天神崇敬の思想は、幼少時から母方で育ち、百済文化を通じて中国の政治文化を学んだ結果だろうと考えられる。
 祭天は「交野柏原」の少し高いところに郊祀壇を設け、天皇(または使者)が南から北に向いて、天神を祭り、祭文を誌み上げた。
 交野柏原については、定かではないが、伝承として、片鉾地区の杉ケ本神社南側、一本松の古木があった所という言い伝えがある。
 また、いまの交野天神社の位置でなかったかとも推定されている。
 祭天は、その後も787年(廷暦6年)、856竿(斉衡3)にも交野柏原行なわれた

交野が原にまつわる諸説

 8月の終りに生駒山で、木内鶴彦さんを囲み、子供達も大勢参加して星の観察会が開かれました。翌日は星田妙見宮、機物神社、交野天神社を巡るミステリーツアーを楽しみました。後日、その時の取材を特集記事にまとめるため、今度は一人で同じコースを歩いたのですが、その時、機物神社の中邑宮司が興味深い話を聞かせて下さいました。
 以前、枚方のある病院長が中国の西安を訪れ、要人と名刺交換をした際、枚方と書かれていたのを見て『枚方とは交野が原のことか?』と問いかけられたそうです。
 『交野が原なら機物神社というのがあるはずだ』とも言われたとか。大昔に自分たちの祖先が、農耕文化と織物の技術を交野が原に伝えたと言う伝説は中国でも語り継がれていたんですねえ。驚きました。まさにシルクロードですねえ。
 
惟喬親王、交野ヶ原遊猟(河内名所図会) 機物神社では古式ゆかしい 七夕祭のほかに、冬至の太陽をお祀りするため、毎年大晦日に大火焚きの神事を行ないます。
 交野が原は星がきれいなところでしたから、天上を地上に映したのが機物神社でした。紀元前3世紀の頃、中国で発生した陰陽道(おんみょうどう)が仏教伝来と前後して日本にも伝えられましたが、星を神とし、天文を観測して万物を占う陰陽道では、都の南というのは要点とされ、交野が原は長岡京の南に当たることから大事にされたんです

山岳宗教が盛んになる前、交野が原は陰陽師の修行場であったとも言われています……。


◎桓武天皇が交野が原で北極星を祀る

 桓武天皇は平城京から長岡京に遷都した翌年の延暦4年11月、都の南効にあたる交野郡柏原(枚方市片鉾の西南)に郊祀壇(こうしだん※都の郊外で行う祭天のための土壇)を築いて北極星を祀り、長岡京遷都の大事業をなしえた神恩を謝して祈られた。これは、中国の皇帝が毎年冬至に天壇を設けて北天を祀る例にならったもので、日本ではこれが最初のことであった。

中国では古くから北極星の存在を知り、日月星辰の運行を測って暦が作られていたから、皇帝は毎年これによって季節を知り、農民を導いた。なるたけ多くの年貢米を取り立てるためにも、天体の測定は国の元首の重い任務であるとされた。そのため宮廷の近くに大規模な天壇を造って、皇帝自ら北辰を礼拝し、司天台(天文台)の役人は天体観測と翌年の暦を立てた。わが国でも奈良時代に、大宝令で陰陽寮(おんようりょう)という役所を朝廷内に設けてそれと同じ仕事をしたが、日本の天皇で星を祀られたのは桓武天皇が最初であった。(「交野市史」「枚方市史」「郷土枚方の歴史」参照)

◎北斗七星と織女星 中国古代の皇帝の袞衣(こんい※竜の模様の縫い取りをした天子の礼服)には、左袖に北斗七星、右袖に織女星が置かれている。……(中略)……織女は天帝の娘といわれ、その身分はこの上なく高い。その主掌するところは瓜果、糸綿、および婦人の手技としての機織である。それに対する北斗も天上の回転する (たま)であり、天の中央に在って四郷を治め、諸事万般はもちろん、とりわけ、農耕の規準となる尊い星である。両者ともに身分は非常に高く、身分の高さは古代にあっては最高の司祭者を意味する。この二星が主管する「耕」と「織」も、二つながら古代中国においては皇帝と皇后による祖廟祭祀の中心をなしている。

以上の理由から袞衣の両袖上の北斗と織女星はワンセットと見なされ、この組み合わせはとりもなおさず古代中国宗廟祭祀の表出として受け止められている。(吉野裕子著「陰陽五行と日本の天皇」人文書院より引用)


当日頂いたパンフレット資料並びに関係HPを参照して作成しました。

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