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交野が原にまつわる諸説

8月の終りに生駒山で、木内鶴彦さんを囲み、子供達も大勢参加して星の観察会が開かれました。翌日は星田妙見宮、機物神社、交野天神社を巡るミステリーツアーを楽しみました。後日、その時の取材を特集記事にまとめるため、今度は一人で同じコースを歩いたのですが、その時、機物神社の中邑宮司が興味深い話を聞かせて下さいました。
中邑  以前、枚方のある病院長が中国の西安を訪れ、要人と名刺交換をした際、枚方と書かれていたのを見て『枚方とは交野が原のことか?』と問いかけられたそうです。『交野が原なら機物神社というのがあるはずだ』とも言われたとか。大昔に自分たちの祖先が、農耕文化と織物の技術を交野が原に伝えたと言う伝説は中国でも語り継がれていたんですねえ。驚きました。まさにシルクロードですねえ。
惟喬親王、交野ヶ原遊猟(河内名所図会) 機物神社では古式ゆかしい七夕祭のほかに、冬至の太陽をお祀りするため、毎年大晦日に大火焚きの神事を行ないます。 交野が原は星がきれいなところでしたから、天上を地上に映したのが機物神社でした。紀元前3世紀の頃、中国で発生した陰陽道(おんみょうどう)が仏教伝来と前後して日本にも伝えられましたが、星を神とし、天文を観測して万物を占う陰陽道では、都の南というのは要点とされ、交野が原は長岡京の南に当たることから大事にされたんです

山岳宗教が盛んになる前、交野が原は陰陽師の修行場であったとも言われています……。


◎桓武天皇が交野が原で北極星を祀る

桓武天皇は平城京から長岡京に遷都した翌年の延暦4年11月、都の南効にあたる交野郡柏原(枚方市片鉾の西南)に郊祀壇(こうしだん※都の郊外で行う祭天のための土壇)を築いて北極星を祀り、長岡京遷都の大事業をなしえた神恩を謝して祈られた。これは、中国の皇帝が毎年冬至に天壇を設けて北天を祀る例にならったもので、日本ではこれが最初のことであった。

中国では古くから北極星の存在を知り、日月星辰の運行を測って暦が作られていたから、皇帝は毎年これによって季節を知り、農民を導いた。なるたけ多くの年貢米を取り立てるためにも、天体の測定は国の元首の重い任務であるとされた。そのため宮廷の近くに大規模な天壇を造って、皇帝自ら北辰を礼拝し、司天台(天文台)の役人は天体観測と翌年の暦を立てた。わが国でも奈良時代に、大宝令で陰陽寮(おんようりょう)という役所を朝廷内に設けてそれと同じ仕事をしたが、日本の天皇で星を祀られたのは桓武天皇が最初であった。(「交野市史」「枚方市史」「郷土枚方の歴史」参照)

◎北斗七星と織女星 中国古代の皇帝の袞衣(こんい※竜の模様の縫い取りをした天子の礼服)には、左袖に北斗七星、右袖に織女星が置かれている。……(中略)……織女は天帝の娘といわれ、その身分はこの上なく高い。その主掌するところは瓜果、糸綿、および婦人の手技としての機織である。それに対する北斗も天上の回転する (たま)であり、天の中央に在って四郷を治め、諸事万般はもちろん、とりわけ、農耕の規準となる尊い星である。両者ともに身分は非常に高く、身分の高さは古代にあっては最高の司祭者を意味する。この二星が主管する「耕」と「織」も、二つながら古代中国においては皇帝と皇后による祖廟祭祀の中心をなしている。

以上の理由から袞衣の両袖上の北斗と織女星はワンセットと見なされ、この組み合わせはとりもなおさず古代中国宗廟祭祀の表出として受け止められている。(吉野裕子著「陰陽五行と日本の天皇」人文書院より引用)

 ―彗星捜索家・木内鶴彦さんの興味深い推理は、有史以前の遥か遠い昔から100年以上も後の未来にまで、時空を超えて広がります。エジプトのピラミッドを作ったのは誰か?交野が原に描かれた星空とエジプトのピラミッドは関係があるのか?ペルセウス座流星群の母彗星スイフト・タットルがこの次地球に接近する時の予測は?環境破壊が深刻な地球を救う方法はあるのか?……
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