宇宙(そら)の記憶
彗星捜索家「木内 鶴彦」氏が推理する「交野が原」の壮大な歴史ミステリー
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秋の夜長の“満天の星空”をこころに思い描きながら、一人の彗星捜索家が語った、
遥か遠い昔の“歴史の謎”を紹介します。
尚、本稿の内容につきましては、今春、「宇宙の会」のメンバーの廣瀬様のご紹介で、木内鶴彦さんと訪ねる《きたかわち》「星座の里」第1回「天の川星物語・七夕伝説フォーラム」ツアーに参加させて頂き、木内さんからいろいろお話を伺い大変感動を覚えました。このたび、廣瀬様より、木内氏及び「あるっく」の井上氏の承諾を得て頂き、広く地元の皆様にも是非知って頂きたく作成致しました。 |
明るい都会の夜空では、肉眼で見ることのできる星はほんのわずか。
でも、古代の人々にとって、生活の指標となったのは太陽を含めた星座の運行でした。
交野(かたの)、枚方を流れる天野川あたりには古くから『天の川伝説』が語り継がれています。 私は、94年10月に交野市で行われた京阪奈学研都市のオープニングセレモニーで基調講演をしたんですが、 講演のテーマを下調べする際、交野市に伝わる『天の川伝説』に導かれるように、何気なく交野の古地図と星座の地図を照らし合わせてみました。すると偶然にも、そこに驚くべき歴史のミステリーが隠されていることに気が付きました。 奈良県明日香村で発見された「キトラ古墳」の石棺の裏側には、円形星図(北極点を中心に円形に描かれた星空の地図)が描かれていました。それが描かれた年代と同じ頃、交野・枚方には、ナスカの地上絵をはるかに超えて、一辺が8キロにも及ぶ壮大な「星空」が、交野が原に描かれていたのです。現在では土地の造成などによって失われたものもたくさんありますが、天の星座を地上に映した場所には神社などが建てられて、何か特別な意味を持たせた可能性があります。 |