ホームページ
TOPに戻る
よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  

瓦版・TOP 2007.12月号 1月号 2月号 3月号 4月号 5月号

瓦版 2008年 5月号 バックナンバー
132 5/31 =愛宕さま・秋葉さま=
131 5/30 =サンケイリビング掲載=
130 5/29 =日本に仏さまを広めた祖師たち(その2)=
129 5/28 =日本に仏さまを広めた祖師たち=
128 5/27 =銅剣と神社の数の符合が意味するもの=
127 5/26 =石造物の時代のわけ方=
126 5/24 =東征神話の真の主役は誰か?=
125 5/23 =神武天皇は実在の人物だったか?=
124 5/22 =神武天皇が東征した経路は?=
123 5/21 =極楽浄土のタイムカプセル「経筒」=
122 5/20 =大仏様の身長と座高はどのくらい?=
121 5/19 =赤旗と白旗=
120 5/17 =神功皇后陵 初の立ち入り=
119 5/16 =大川=
118 5/15 =ひと目でわかる観光ガイド「各所図会」大当たり!=
117 5/14 =都市生活者にも大打撃、天保の飢餓で米がない=
116 5/13 =蘭奢待(らんじゃたい)=
115 5/12 =家紋(かもん)=
114 5/10 =名もない仏(石仏)たち=
113 5/9 =星田(ほしだ)の地名=
112 5/8 =馬銜(はみ)=
111 5/7 =交野のいわれ=
110 5/2 =旧暦=
109 5/1 =正論は正しいが、だが正論を武器にする人は正しくない。=

2008.5.31 発行(132)

=愛宕さま・秋葉さま=
 脅威と恩恵を合わせもつ強烈な個性の持ち主・・・防火の守護神として活躍
 愛宕神社や秋葉神社の祭神としてのカグツチ神(火産霊神・ほむすびのかみ)は、防火の神として知られている。
 
 愛宕信仰の本拠地である京都の愛宕神社は、もともと境の神(塞の神)を祀ったもので、都の東に位置する比叡山に対して、西にあって都城鎮護(とじょうちんご)の神として崇められていた。とくに都を火災から守ることを願って同社の若宮にカグツチ神が祀られたことから、鎮火・防火の神として霊威が高まった。

 愛宕神社のある京都の愛宕山は、大天狗の太郎坊が君臨した全国の天狗の本拠地でもある。中世には修験道場の霊山として栄え、ここで修業した山伏たちが諸国を巡って愛宕信仰を広めた。その際、カグツチ神を各地の小高い山や丘に勧請したことから、カグツチ神は火防の神として広く信仰を集めるようになったのである。

 一方、秋葉信仰の総本社は、静岡県の秋葉山本宮秋葉神社である。秋葉神は、古い山岳信仰から発し、のちに仏教と習合して秋葉山大権現(正式には秋葉山三尺坊大権現)として信仰されるようになった。そもそも秋葉山大権現は、一に剣難、二に火難、三に水難の神徳ありとされたことから、中世以来、武士の崇敬を集めた。のちにはもっぱら火難除けの信仰が深まり、とくに江戸時代、火事の頻発した江戸では庶民の間で、火難除けの秋葉信仰は大いに広まった。
 現在は電気街で世界に知られる秋葉原の名前も、当時の信仰の名残を伝えるものである。
 カグツチ神は、火をつかさどる神である鍛冶の神としての信仰もあり、焼物の神としての顔もある。焼物製作の生命ともいえるのが火加減である。陶器を窯で焼き上げるときには、計算と経験を尽くしたあと最後は火の神の手にすべてを委ねるという。そこからカグツチ神は、焼物の神としても信仰されているのである。日本の焼物産地には、だいたい陶磁器業者の守護神を祀る陶器神社があり、カグツチ神が祀られている。カグツチ神を祭神とする愛宕・秋葉信仰の神社は全国八百社を数える。
=編集後記=   市内にもこのような信仰場が多く見られます       =了=



2008.5.30 発行(131)

 サンケイリビング掲載








=編集後記=
 添付写真は国宝・薬師如来坐像と重要文化財の阿弥陀如来立像ですが、このほか市内には多くの文化財や遺跡などがあります。これは私たち市民の財産であり誇りです。
このふるさとの文化財を守り次世代に継承するために文化財パトロール(10名で)を実施することになりました。現地に行って・見て・聞いて・学んで・守ろう文化財!          =了=



2008.5.29 発行(130)

=日本に仏さまを広めた祖師たち(その2)=
最澄・・・大乗仏教を日本に根づかせた「伝教大師」
 空海の真言に先んじて「天台宗」を開いたのが最澄である。学派としての性格が強かった「南都六宗」についで公認された宗派だったので、最澄によって日本の仏教は新たな幕を開いたともいえるだろう。
767年に生まれた最澄は十二歳で近江国分寺に入り、19歳のとき東大寺で戒律を授かった。その後、比叡山に入って12年を過ごすなかで、のちの延暦寺となる日枝山寺を開いた。中国の天台宗は、天台大師智を祖とする大乗仏教の宗派であり、仏教の諸経典を体系的に分類したうえで、『法華経』を軸にして諸宗の数学を総合したものだ。このころ最澄は、南都六宗の教えだけでは満足していなかったため、こうした教えに行きつき、それをさらに深く学ぶ必要性を感じていたのだと考えられる。
804年、空海と同じときに遺唐使に同行して唐に渡っている。

◎その後の日本大乗仏教の礎を築く
 唐での滞在は八カ月あまりだったが、天台山に登った最澄は、天台教学を学んで道邃から大乗菩薩戒(大乗仏教で受ける規則や項目)を受けただけではなく、脩然から「禅」、順暁から「密教」を伝授されている。
2カ月で真言密教の奥義を伝授された空海もすごいが、最澄のバイタリティもすさまじい。帰国後に最澄が開いた日本の天台宗は、天台教学に密教や禅、戒律を融合させた「総合的な教え」であることを最大の特徴にしている。
また、帰国後には自分が学んだ密教が不備だったと感じて、七歳下の空海に教えを請うたとされる。その後、両者は訣別することになったが(その理由は諸説ある)、すべてを吸収しようとしていたのが最澄だったのである。
 最澄は、大乗仏教の戒律を授ける戒壇を、日本ではじめて比叡山に設けることを悲願としていたが、それが朝廷から認められたのは、自身が没した7日後のことだった。この比叡山延歴寺では、その後、法然や日蓮といった多くの始祖たちが、その礎として大乗仏教を学んでいったのである。
=編集後記=
「一隅を照らさば、これ則ち国の宝なり」最澄が遺した言葉である。
ほとけの心をもち、社会の中のひと隅を照らしている人こそ、国の宝であるという意味である。                              =了=

 

中陣から内陣を拝観。3基の「不滅の法灯」の背後に薬師如来前立本尊が祀られている。
精緻な細工が施された厨子には最澄が自ら刻んだと伝えられる薬師如来像(秘仏)が納められている。



2008.5.28 発行(129)

 =日本に仏さまを広めた祖師たち=
空海・・・日本の仏教をめぐる風景を変えた「異能の巨人」
 
「弘法大師」の諡号で知られる日本真言宗の開祖であり、日本の仏教を大きく変えた「巨人」である。
774年、讃岐国(現在の香川県)の豪族の家に生まれた空海(俗名:佐伯真魚)は、幼少のころから人並みはずれた学才を発揮して、18歳で当時の「大学」に入学している。
だが、そうしたエリート路線には踏みとどまらずに大学を中退すると、四国や熊野の山野をめぐり歩いた。このころ、日本にも断片的なかたちで密教は伝わってきていた。
「求聞持法(ぐもんじほう)」という記憶力を良くする修法を知った空海が、これを室戸岬で行うと虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の化身といわれる明星が来影し、口のなかに飛び込んできたという。
空海がどの段階で出家していたかについては諸説あるが、いずれにせよ804年、31歳のとき、遣唐使とともに留学僧として唐に渡った。

 

絵は鎌倉時代に制作された「高野大師行状図画」巻き二より「大師御入唐事」の場面。
田浦を出る遣唐船で、壇上の僧が空海。右は遣唐大使・藤原葛野麻呂。
僧としてそれほど名をあげたわけではないはずの空海が、どうして唐に留学できたかについては、やはり謎になっている。
空海は、唐でもその才能をすぐに発揮した。周囲の者たちから一目おかれる存在になったあと、当時の密教界で最高位にあった恵果のもとを訪ねている。
恵果もまた、空海の異能をすぐに見抜いたようで、わずか二か月ほどのあいだに真言密教の奥義のすべてを伝授したとされている。
密教はそもそも「密教の教え」であるため、その奥義は選ばれた者だけに口伝される。
空海は「真言密教の経疏は隠密にして、図画を仮らずんば相伝することあたらわず」としているが、ここで空海は恵果から、仏舎利、経典、そして多くの図像などを託されている。
教えの継承者であることを意味する「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という潅頂名(かんじょうめい)も与えられ、空海は文字どおり、「真言密教の八祖」(密教がおこり空海までに七祖をへて伝えられたという伝承)となったのである。この後まもなく恵果は亡くなっているので、密教の正系を継ぐ世界で唯一の人間になったともいえるだろう。
帰国前の空海は、土木技術や薬学まで学んでいたという。空海を語る場合は真言密教の伝承者であることのほかに、「弘法筆を選ばず」といわれるほどの能筆家として「三筆」のひとりにも数えられること、そして讃岐国にある満濃池(まんのういけ)を最新の工法で改修して水害を防ぐなど、事業的な面でも民衆の救済に力を尽くしたことが挙げられる。
空海に関する伝説は日本全国に四千ほどもあるとされている。
そんな、四国にある空海ゆかりの霊跡(札所)をたどっていくのが、「八十八か所の霊場巡り」いわゆる「四国遍路」である。

 

高野山を本拠地として密教を布教
 当初は二十年とさそれていた留学期間を二年で切り上げて帰国したのは、本来とがめられてもおかしくないことだったが、しばらく大宰府に滞在したあと、入京を認められた。
嵯峨天皇から高野山を下賜されると、修業の場として「金剛峰寺」を開いている。
また、「東寺」(経王護国寺)を賜ると、ここを道場とした。このことから、真言宗の密教は「東密」、天台宗の密教は「台密」と呼ばれている。
名実ともに密教の第一人者であると認められた空海は、鎮護国家の修法を行うことを朝廷から託されるほどの存在になっている。
そして、空海がもち帰った、それまでも知らなかった経典や図画、そして仏像などによって、日本の仏教をめぐる状況は一変したのである。
835年、空海は高野山で62歳で入定した。入定とは、永遠の禅定に入ったという意味なので、高野山奥ノ院では現在もなお、空海のために食事が給仕されている。
醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られたのは921年のことである。

=編集後記=
 嵯峨天皇の弘仁二年(811)推古天皇百回忌にあたり、弘法大師は推古天皇の勅願により、聖徳太子が創建したと伝える古刹京都長岡京市の乙訓寺の別当に任ぜられて、法要を勤修された。これを機にたびたび近郷の霊場を訪ねられ、私市の獅子窟寺や星田に立ち寄られたのこと。星田にはお大師さんを共同でお祀りしている祠が15ある。
                                 =了=



2008.5.27 発行(128)

 =銅剣と神社の数の符合が意味するもの=
 神庭荒神谷遺跡(島根県簸川郡斐川町大字神庭字西谷)の銅剣は、人為的につくられた埋納施設の中から出土した。それは、上下二段のテラス状の加工段の形をとるもので、銅剣は下段の加工段に埋められていた。加工段は、東西四・六メートルのすりばち状につくられており、その中央の長さ二・六メートル、幅一・五メートルの埋納坑から、銅剣がまとまって出てきた。このつくりは、後で紹介する荒神谷遺跡の銅鐸、銅矛の埋納の形と共通する性格をもつものである。何者かが意図的に祭器を埋めたことはまちがいない。
358本の銅剣は、きっちり四列にまとめて箱に納められていた。発掘担当者は、その4列を西側からA列・B列・C列・D列と名づけた。
A列は34本、B列は111本、C列は120本、D列は93本から成る。この数が同数でないことは、列ごとの銅剣の本数に何らかの意味があることをうかがわせる。

 

銅剣の置き方も、列によって異なっている。
A列は剣先を東に向けたものと、剣先を西に向けたものとを交互に置く形をとる。B列のものは谷側の四本だけがすべて剣先を西に向け、それ以外は剣先を東に向けたものと西に向けたものとを交互にする。C列とD列では、剣先がすべて東に向けられている。このような銅剣のありかたを、出雲の神社の数に結びつける説が出された。『出雲国風土記』にみえる神社の総数399社と、銅剣の358という数が極めて近いのである。

 

古代の出雲は四つの地域に分けられる。出雲氏の本拠地である意宇郡と、意宇郡とつながりが深かった島根半島にある島根、秋鹿、楯縫の三郡。それに、神門氏の本拠地のある出雲郡と、そことかかわり深い奥地の神門、飯石、大原、仁多四郡である。
神門氏の成りたちは出雲郡に拠っていた。そして、四世紀なかば以降、意宇郡から侵入した出雲氏に徐々に辺地に追われて、神門郡に移る。
神門郡の郡名は、神門氏がいたことによってのちになって付けられたものである。神門氏が神門郡から起こったのではない。
『出雲国風土記』にみえる四つの地域の神社の数を示そう。

 

意宇郡は67社、島根、秋鹿、楯縫の三郡は113社、出雲郡は122社、神門、飯石、大原、仁多四郡は97社である。
B列の銅剣の数、111本が島根、秋鹿、楯縫の三郡、C列の120本が出雲郡、D列の93本が神門、飯石、大原、仁多四郡の神社の数に対応する。
『出雲国風土記』は意宇郡に67社あったとするが、国衙がおかれた意宇郡に奈良時代に中央から移住してきた豪族がかなりみられる。彼らがつくった神社も多い。そこで、A列の銅剣の数34本は、古い時代の意宇郡の神社の数に対応していたと考えられる。

=編集後記=
 出雲王国の真実を物語る荒神谷、荒神谷遺跡に関する疑問点、その@なぜそこに大量の青銅器が埋められていたのか、そのA古代の出雲の人々にとって、荒神谷遺跡の位置がどのようなものであったのか、そのB荒神谷を祀ったのはどのような集団であったのか。
これらの謎を解くことにより、大国主命信仰と朝廷の天照大神信仰との違いが浮かび上がってるのでは。
                                    =了=



2008.5.26  発行(127)

=石造物の時代のわけ方=
 石造美術はわれわれの祖先の作りのこした歴史的な遺品である。
歴史に関係する以上、時代というものが付随する。いや人間生活の時代が主体で、その時代に生まれたのが各種の遺品なのである。
以下の話の中に絶えず何時代という説明が出るので、時代のわけ方(区分)についての基本を =石造美術の旅 川勝政太郎著より= ご紹介します。  
飛鳥時代
 欽明天皇十三年(552)仏教公伝から大化改新まで。
わが国の文化の中心が飛鳥地方にあった時代。石造美術としては、この時代にさかのぼるものはまだ知られていない。(推古時代ともいう)
奈良時代前期
 大化元年(645)から平城遷都まで。
文化の中心は飛鳥から持統天皇が作った藤原京へ移動した。石塔寺三重塔、当麻寺石燈籠、石位寺三尊石仏などが、ようやく登場する。(白鳳時代ともいう)

奈良時代後期
 和銅三年(710)の平城遷都から長岡遷都まで。
文化の中心は奈良(平城京)にあった。層塔、石燈籠残欠、石仏がいくらかある。(天平時代ともいう)
平安時代前期
 延暦元年(784)長岡遷都から宇多天皇譲位まで。
京都(平安京)が文化の中心になる。石造美術の遺品はまだ多くはないが、それまでの旧仏教に対して新しく密教(真言・天台)が生まれ、石造美術界もやがてその影響を受ける。(貞観時代、または弘仁時代ともよぶ)

平安時代後期
 醍醐天皇の昌泰元年(898)から平家滅亡まで。
京都の藤原氏中心の文化はなやかな時代。五輪塔、宝塔、笠塔婆、鳥居の形式が石造美術にあらわれた。(藤原時代ともいう)
鎌倉時代
 文治二年(1186)鎌倉幕府開創から北条氏滅亡まで。
文化の中心は引きつづいて京都にあると同時に、相模鎌倉を中心とする東国文化も起こってくる。新しく宝筺印塔、板碑、無縫塔、石幢、石室、水鉢、狛犬があらわれ、これで各種目が揃った。製作された数も多くなり、作品もすぐれ、石造美術の黄金時代を現出した。

南北朝時代
 建武元年(1334)の建武中興から、南朝・北朝合同まで。
文化の中心は京都にあった。遺品に刻まれた年号について見ても南朝年号のものは少ない。石造美術では鎌倉風が固定化して、迫力を欠くものが生じてくる。
しかし鎌倉時代の延長期として、すぐれた作品も少なくない。(南朝を主として、吉野時代というひともある)
室町時代
 明徳四年(1393)南北朝合同から室町幕府滅亡まで。
文化の中心は京都にあるが、全国的に文化が広まり、石造美術においても、全国に遺品が見られるようになる。(足利時代ともいう)
なお、十三仏、庚申(こうしん)などの民間信仰遺物がこの時代から多く見られる。
桃山時代
 天正元年(1573)室町幕府滅亡から豊臣氏滅亡の短い期間。文化の中心はなお京都にあった。石造美術としては退化の時代だが、築城などで石材の使用量は大飛躍した。(織豊時代ともいう)
江戸時代
 元和元年(1615)から明治維新まで。
古い伝統文化の中心は京都につづいたが、江戸(今の東京)が新しい文化を育てる地となった。近世的な手法になる石造美術が数多く作られた。(徳川時代ともいう)

=編集後記=
 交野市内の石造物の中で年号が確認でき、一番古いのが私市共同墓地内にある弘安四年(1281)銘の地蔵菩薩立像である。鎌倉時代に写真添付。
=了=



2008.5.24 発行(126)

=東征神話の真の主役は誰か?=
 神武天皇の実在は多くの学者が否定的だが、では東征神話のすべてがウソかというと、そうともいいきれない。なんらかの伝承があって、「記紀」の中に入れられたと見るべきだろう。
では、東征の主役は誰だったか?
それこそ、古代史の謎だが、その主人公はまずおいといて、大和朝廷の発祥地を九州ではなかったのか、と見る学者が多い。
弥生時代に北九州と大和に異なった二大文化圏があった。「北九州を中心とする銅剣・銅鉾文化圏」と「大和を中心とする銅鐸文化圏」である。

 

最近の発掘で、この分類はいささかくずれているが、大勢としては変わっていない。この二大文化圏を根拠にして、「大和朝廷の発祥地は北九州だった」と説得力のある説を唱えたのが和辻哲郎氏である。
「もし皇室が大和に起こったとするならば、弥生時代の畿内の祭器であった銅鐸は、何かの形で大和朝廷の祭祀や文化の中に残っていてもよさそうである。
だが、銅鐸は山麓などで、まるで打ち捨てられたようにして出土する。
その反対に北九州の王族の副葬品だった鏡・玉・剣は大和朝廷の皇位のシンボルにまでなっている。これは九州の支配者が銅鐸をもつ畿内の先住民を滅ぼしたことを物語っている。」
では、和辻氏の唱える九州の支配者とは何をさすのかということになるが、これを邪馬台国だというのである。
その理由として和辻氏は、「かって盛大であった邪馬台国が征服されたことを思わせる伝説はどこにも存在しない。しかし邪馬台(ヤマト)の名は突如として九州から消えた。そして全国を統一する大和の勢力があらわれる。
ヤマトという名称は、要するに九州が起源で、国内統一の位置にあるものが、筑紫の邪馬台国から発祥したことを示す一つの証拠である」と唱えた。
これが有名な「邪馬台国東遷説」である。だがその後、和辻氏が邪馬台国大和説に転向したため、当人はこの説を捨ててしまったが、邪馬台国東遷説は多くの人に受け継がれた。中には、邪馬台国をその他の国に求め、「二世紀後半の倭国の大乱の際に倭人の一部が大和に東遷した」「倭人伝の投馬国は日向であって、その投馬国が東遷した」など、多くの説が出ている。
だが、北九州の弥生式文化と大和の古墳文化の連続性を考えるとき、東遷したのが邪馬台国かどうかは別にして、弥生後期に北九州の政治勢力が大和に移ったのではないかという説はまちがいないだろう。
=編集後記=
 北九州の一大政治勢力(邪馬台国?)が大和に移った?。   =了=


2008.5.23 発行(125)

=神武天皇は実在の人物だったか?=
 神武東征の話が史実であるかどうかだが、現在の学説の多くは、主人公である神武天皇は実在しなかったとみている。つまり神武天皇による東征はなかったのだいうのだ。
この説を最初に学問的に検証したのは津田左右吉氏だった。その要点は次のようなものだ。
その1:神武東征において日向が出発点となるのはおかしい。なぜなら、長い
    間、大和朝廷の領域に入っていなかった日向や大隅・薩摩半島のよう    
    な未開地が、どうして皇室の発祥地でありうるのか。
その2:東征の経過もおかしい。なぜなら、中間の地方は、ただ行幸途中の駐
    在地としてのみ記され、新たにその地方を征略したような話がない。
    これでは単に都を九州から大和に移しただけである。
その3:ところが大和における活躍は、東遷の話と違って具体的である。
しかし、これらも大和のそれぞれの地にあった伝承を神武伝承に肉付
けしたと考えられる。したがって、整理して考えると、この神武東征
物語はほとんど内容のない輪郭だけのものとなる。
その4:ではなぜ、このような東征物語が必要だったのか。それは、大和朝廷
    の祖先が九州の日向に天降ってしまったため、日向と大和を結びつけ
    る必要があったからである。
 以上のことから津田氏は、神武東征の物語は史実にもとづくものではなく、天孫降臨に続く日本神話の一部だった、というのである。
日本書記の別書によれば、カムヤマトイワレノ命の別の名は「神日本磐余彦火火出見見尊(かむやまといわれひこほほでみのみこと)」であったとするものが三書もあり、神武天皇の条の冒頭にもはっきりと「神日本磐余彦天皇、ただの御名は彦火火出見」と記されてあり、ホホデミつまり山幸彦と同一人物で、神武天皇そのものの存在もあまりはっきりとしないのである。

=編集後記=
 いわば記紀編纂の折に、つじつまを合わせるために創作したのだろう、と推定もされている。 

  
     神武天皇御一代記御絵巻上之巻

  
     神武天皇御一代記御絵巻中之巻

  
     神武天皇御一代記御絵巻下之巻

古事記や日本書紀によると、神武天皇は、日向を発ち、大和にいた長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、橿原の地で即位します。これについては、全くの作り話だという人もいます。
在位は76年間とされ、崩御は西暦紀元前585年(年齢127歳・古事記では137歳)とされていた。


2008.5.22 発行(124)

 =神武天皇が東征した経路は?=
 『古事記』『日本書紀』によれば、皇室の祖先は高天原という天上の国から日向の高千穂の峰に降臨し、南国の日向の地でしばらく過ごした。
やがて、神武天皇の代になって九州を出発し、瀬戸内海を経てヤマトの地に入り、都を造った、とある。これをいわゆる神武東征といっている。
戦前までの歴史教育では、この話を「皇国史観」として丸飲みこみで教えられたが、はたしてこの話が史実にもとずくものであったのかどうか、まずは『古事記』の粗筋を追いながら考えてみよう。

 
              高千穂峰の御鉢のパノラマ

 イワレヒコノ命(後の神武天皇)は、兄の五瀬命(いつせのみこと)と高千穂で協議して、「いかなる地にいけば、平けく天の下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむ」といい、日向を出発した。一行は、豊の国の宇沙(宇佐)で、土地の神の饗宴を受け、竺紫(筑紫)の岡田宮に一年、阿岐(安芸)の多祁理宮(たけり)で七年、さらに吉備の高島宮で八年を過ごした。それから速吸門(はやすもん・豊予水道)、浪速の渡(大坂)を通って、いよいよ白肩の津(東大阪市日下あたり)に上陸し、そこからヤマトへ入ろうとした。
ところが、登美(大和の地)の豪族の長髄彦(ながすねひこ)が神武軍を迎え撃ち、五瀬命は負傷した。そこで神武は「日の神の御子が日に向かって戦うことよからず、背に日を負いて撃たむ」といい、南方に軍を進めることにした。
神武は海から紀伊半島の南端に下って、熊野から北上する経路を選んだが、途中、大きな熊があらわれ、一行はその毒気のために失神してしまった。が、このとき熊野の高倉下(たかくらじ)が、夢枕に天神があらわれて授けられたという霊剣を献上し、そのおかげで一行は元気を回復した。
また、天神は道案内として八咫烏(やたのからす)を遣わしたので、その導きによって一行はヤマトの吉野川のほとりにたどりついた。
ヤマトには多くの国津神(くにつかみ)がいて、神武軍のヤマト入りを阻んだ。
宇陀では兄ウカシが落とし穴を仕掛けていることを弟ウカシの密告で救われ、大伴連(おおとものむらじ)らの祖の道臣命(みちのおみのみこと)らが兄を成敗した。また忍坂(おさか)では土蜘蛛(土着民)の八十建(やそたける)を倒し、いよいよ強敵の長髄彦との対決を迎えた。だがこのとき、長髄彦の君主である
饒速日命(にぎはやひのみこと)が長髄彦を殺して共順し、さらに神武は荒らぶる神どもを平らげて、畝火(橿原市畝傍町)に入り、そこの橿原宮で天下をおさめた。ヤマトのイワレ地方を占領した男という意味で神倭伊波礼彦(かむやまといわれひこ)との名前がついた。

=編集後記=
 
   日向→筑紫→瀬戸内海→大坂→紀伊→大和のルートをたどった。



2008.5.21 発行(123)

=極楽浄土のタイムカプセル「経筒」=
 10世紀末頃から、経典を経筒という容器に納め、寺社の境内などに埋めることがひろまった。
経典に鏡や仏像などが添えられることもあり、その経筒を埋納したところを経塚と呼ぶ。これは日本で始められた仏教的行為で、背景には、仏法が衰えて乱れた世になるという末法思想の流行があり、末法後に出現して人々を救済するという弥勒にすがり、極楽往生を祈願する信仰の高まりがあった。
栄華を極める藤原道長も例外でなく、1007年(寛弘4年)に霊山の金峯山に登って金銅製の円筒の外周に、500余字の銘文を刻み、筒の中には法華経、阿弥陀経、弥勒経等を収め、地中に埋納した。
この仏教的行為は12世紀に最盛期を迎えるが、その後も追善供養に性格を変えつつ続き、経塚跡は各地に残されている。
埋納後56億7千万年後に弥勒菩薩が現われた時に、自然に湧き出させようというのであったが、残念ながら西暦1691年(元緑4年)頃に出土。
700年足らずで発見されてしまった。
世が乱れ、末法の世になるという末法思想が流行し、恐怖に怯える人々の心を捉えたのは、浄土を来世に求める浄土信仰であった。


=編集後記=
 寺に小字、飛尾に「京の山」と呼ばれているところがある。経塚ではないかという。もうひとつ、傍示の共同墓地入口、スマイル地蔵さんの東側にも経塚と呼ばれているところがある。
                         =了=



2008.5.20 発行(122)

=大仏様の身長と座高はどのくらい?=
 「大仏」とは文字どおり「仏様」のことである。
それでは、どれくらい大きいのだろうか。仏の身長は「丈六(じょうろく)」つまり1丈6尺(約4.85b)であるとされ、それ以上でないと大仏とはいわないことになっている。しかし通常、大仏は結跏趺坐(けっかふざ)という座った状態なので、座高が8〜9尺(2.4〜2.7b)以上あれば大仏とするようだ。
日本で最も有名なのは奈良東大寺の大仏だが、座った姿で5丈3尺5寸(約16b)もある特大の大仏である。

  

 土木建築にも才を発揮した豊臣秀吉は、それより3bも大きな大仏を方広寺に建立した。1588年(天正16年)に大仏建立の定礎式を開催、翌年の1月には島津氏に命じて大仏殿の建材用に、領国内の杉や檜を差し出すように命じている。大仏殿は4年後にほぼ完成、大仏も1595年(文禄4年)に完成したが、翌年夏の慶長大地震で建物も大仏も倒壊してしまった。
この大仏、金属で鋳造する予定だったが間に合わなかったらしく木像にしっくいを塗り、金箔を貼ったものだったという。
=編集後記=
方広寺大仏殿が落慶し、巨大な「京の大仏」が眼を開いた。この史上最大級の建造物の完成は秀吉を喜ばせたが、朝鮮半島での戦いは泥沼に陥っていた。

   
            落慶法要=仏殿の新築を祝う儀式



2008.5.19 発行(121)

 =赤旗と白旗=
 平氏の赤旗、源氏の白旗といえばあまりにも名高い。
だが、なぜ平氏は赤で源氏は白なのか、いつから、どのような理由でそうなったのか。これらの点は未解決のままである。
古代の日本人も赤と白をもっとも好んでおり、「万葉集」にもこの二色を詠む歌が多いというが、古来、赤は太陽、火、光、華やかさと結びつき、白は清浄、神秘の色とされてきた。壬申の乱に活躍した天武天皇の皇子高市(たけち)皇子の死を悲しんだ歌で、柿本人麻呂が「わが軍勢の捧げもつ幡のなびきは、まるで春の野を焼く野火のようだ」と歌ったことは有名だが、赤は血の色であり、戦いの象徴とされる例が多いから、古代から赤旗が軍旗とされたことは当然である。
一方、白旗も神聖な色で、『平家物語』では、壇の浦合戦たけなわの際、空中から一本の白旗が源氏方の兵船に向かってたれ下がってきた、これこそ八幡大菩薩の出現だと義経以下大喜びでこの旗を拝んだと見えるから、軍旗として、白旗もまたふさわしいものと考えられていたのである。

*壇の浦の戦い
 文治元年(1185)三月二十四日、関門海峡一帯で、源平両軍の最後の決戦が行われた。壇の浦の戦いである。この戦いによって平氏一族はほとんど滅亡し、五年間に及ぶ内戦は一応の幕を閉じた。日本史上、最大規模の海戦のひとつである。
 ←交野八景の一つ、源氏滝の清涼がある。
交野山の麓にある高さ17.5bの滝で、山腹の白旗池を源流としています。
春には山桜が咲き、夏には滝が涼風を誘い、納涼の場として親しまれています。
大阪府の「みどり百選」にも選ばれています。源流の白旗池の名の由来も源氏滝との対でつけられている。源氏滝(左写真)は元々は開元寺の元寺(げんじ)が源氏になったという説もある。池の方も源氏の白旗にと相通じさせたものとうけとれる。

  
                交野山頂より白旗池を望む
=編集後記=
 白旗池より流れ出た水は、谷間を流れ源氏の滝へ、そして免除川となって麓の田畑を潤し、天野川に流入する。白旗池は海抜240b・深さ10〜20b位、面積は2.75haもあり、星田の大池、大谷新池に次いで市内では三番目の大きさをもつ池である。   
                  =了=



2008.5.17 発行(120)

 =神功皇后陵 初の立ち入り=
       読売新聞 2008.3.3掲載より
「ここまで来るのに、随分とかかった」先頃、日本考古学協会をはじめとする16学会の代表16名が奈良市山陵町にある宮内庁の神功皇后陵に対して墳丘立ち入り観察を行った。陵墓には古墳や城郭などの文化財という側面があるが、宮内庁は陵墓本体への立ち入りを原則禁止にしてきた。大半の陵墓の正面鳥居の前に、「一 みだりに域内に立ち入らぬこと」の制札が立てられるのが1880年前後のこと。
だから、公的に認められた立ち入りは、明治以来130年間、ほとんどなかった。公開を求め要望書を提出して、例年の交渉をはじめてからでも30年以上が経過している。制限付き(範囲・人数・対象者)とはいえ今回、学術的動機にもとづく立ち入り観察がはじめて認められたことの意義は大きい。神功皇后陵は、五社神(ごさし)古墳という名前の巨大な前方後円墳(墳墓270b)である。
ここでは数年前、周濠護岸の整備工事に先立つ発掘調査が宮内庁書陵部によって行われており、学会による立ち入り観察は、この時にわかった成果を自分たちの眼で確かめるねらいがあった。
しかし、許可範囲である第一段の平坦面をただ歩くだけでは大した考古学成果は期待できないものと、当初は思われた。大勢の報道陣と学会関係者、市民が注視するなかを拝所脇の細い渡り土堤を通って墳丘内部へと進む。

◆前方部第一段の平坦面は数人が両手いっぱい拡げたほどの幅だが、下草は丁寧に刈られ、樹木の下枝も払われていてとても見通しが良い。
◆西側くびれ部の「造り出し」では、過去に笊形(ざるかた)土器やミニチュア土器が採集された地点を観察する。ここでの儀礼行為の存在を思わせるに充分な広場となっている。
◆後円部の北側は丘陵が迫り、正円形の平面でどこまで仕上げられたのか問題であった。
◆前方部の東側では現在の墳丘裾から少し外側に、円筒埴輪列の思わぬ確認があった。
◆ここが本来の墳丘裾だとすると前方部は従来の認識より末広がりに開く形状とみた方がよい。
◆この形状から考えると、五神社古墳は従来、古墳時代前期中葉の築造とされてきたが、4世紀末前後の前期末葉から中期初葉の古墳となる可能性が高まった。

      
=編集後記=
 案内の宮内庁陵墓調査官の発する「この、おやまは」とい言葉は『令義解・りょうのぎげ』(養老令の注釈書)に帝王の墳墓は「山の如し、陵(おか)の如し」、ゆえに「山陵」というと注釈される。確かに五社神古墳は「山」・・・緑の空間であったと。宮内庁は、昨年の墳丘立ち入りに関する新方針で「考古学などの歴史学」とともに「動物学、植物学」分野の学術研究をその許可対象に加えている。陵墓に備わったもうひとつの側面だ。ならば「より広く、より多くの人へ開かれる」これが次の課題であると締めくくっている。
多くの眼でみると、今まで知られていなかった事実がわかる。
                      =了=



2008.5.16 発行(119)

 =大川=
 大阪市都島区・大淀区・北区・中央区付近。
地下鉄谷町線・京阪電鉄天満橋駅下車。
大阪市と生駒山地のあいだの平野部は、古墳時代、河内湖とよばれる大きな湖でした。5世紀ごろ、水害を防ぐために、この湖と大阪湾を結ぶ人工の川が造られました。ブルドーザーもパワーシャベルもない大昔のことですから、大変な工事だったことでしょう。現在、大阪城の北を流れる大川は、『日本書紀』に出てくる「難波(なにわ)堀江」だったのではないかと考えられています。
天満橋のほとりのビルの上から眺めると、眼下には、淀川から分かれた大川が大阪湾に向かって流れ、大阪平野をへだてて生駒山地が望めます。

 
   河内湖と、その周辺の総合開発へとつながる大川の工事風景

=編集後記=
河内湖では、大雨のときなど、たびたび水害が起こった。それは、湖の西にある上町台地が水の流れを狭くしていたから台地の一部を切り開いて人工の川をつくり水を大阪湾に流した。            =了=

*参考、挿入絵は小学館「人物日本の歴史(大王の時代)」より

  
  
  

   


2008.5.15  発行(118)

=ひと目でわかる観光ガイド「各所図会」大当たり!=
 田沼時代は、一部の町人に生活の余裕が出てきた時代でもある。従来、苦しいもの、危険なものとされてきた旅も、街道の整備や旅籠、茶店の発達により、今日の観光に近いものになりつつあった。
 なかでも典型的なものが、1780年(安永9年)刊行の「都名所図会」に始まる「名所図会」ブームである。「西国三十三所名所図会」「東海道名所図会」「河内各所図会」など、30種類を超える各地の各所図会が出版された。人気を集めたのは、やはり見る要素が多いからだろう。 このブームの最後を飾るのが、1834年(天保5年)と1836年(天保7年)に刊行された「江戸名所図会」。なんと全7巻20冊という大作だった。

   
=編集後記=
 当時の庶民にとって旅は憧れの娯楽であった。これらの「名所図会」は、そんな人々の欲求をかきたて、旅ブームは一層高まっていった。            =了=









2008.5.14 発行(117)

=都市生活者にも大打撃、天保の飢餓で米がない=
 前年の異常気象に比べ、1834年(天保5年)は、豊年間違いなしという、恵まれた気象条件の年であった。しかしながら疫病流行による労働力不足は、農業生産力回復のチャンスをみすみす逃がす結果を招いてしまう。諸国は「巳年のけかち(天保4年の大凶作)」から生産力を回復できないまま、再び天候不順の年を迎えることとなったのである。加えて翌年から2年続いた冷害は、さらなる穀物不足をもたらし米価は高謄。
打ちこわしを恐れた諸藩は、自領内から他領へ穀物の流出を禁ずる「穀留め」を実施し、他領米の買い入れを奨励した。こうしてついに、1836年(天保7年)、「穀物は日本国中大津留め(穀留め)なり」といわれるほどの、深刻な米穀流通の停滞状況を生み出した。米穀流通の停滞は、食料のほとんどを近在や他領に依存する、江戸や大坂などの都市部を直撃する。都市部へ回送される米がなくなったのだ。都市生活者を苦しめたのは米価の高騰だけではない。諸藩の食用品の生産を優先したため、特産物の生産量が激減。そのため生活必需品の価格までもが高騰した。町奉行所などは触により値下げを命じたが、商人たちは「小ぶりにいたし候か、あるいは目方などを減じ」るなど悪知恵を働かせ、人々の苦しみは改善されなかった。天保の飢餓のうち、とりわけ天保7年の凶作は、こうして農村部だけではなく、都市部の生活にも大打撃を与えていったのである。

◎1836年(天保7年)の諸国の米作事情
出羽・・・半作以下。飢えないだけで余分なし。あっても陸奥へまわす。
陸奥・・・皆無。10月頃より餓死者出る。
関東・・・凶作。飢え人あり。(ひとたび)一揆など騒げば(米は)江戸に入らず。
東海道諸国・・・自国内の飯米不足。江戸へまわす余分なし。
中山道筋・・・凶作。信州は乱のきざしありて米不足。
北国筋・・・凶作。他国へまわさず。
五畿内・・・凶作。他国へまわさず。
山陰筋・・・米不足。他国へまわす余分なし。
山陽諸国・・・平年でも(石高は少なく)米を北国より買う。他国へまわす余分なし。
九州・・・平均三、四分作。他国へまわす余分なし。
四国・・・全体にかなりの産米。
土佐・・・米乏しくあまり出さず。
阿波・・・藍多く米の産出少なし。
讃岐、伊予・・・豊作。しかし米の質悪し。

 
              江戸の飢餓状況

=編集後記=
1834年(天保5年)、米高値につき久貝領下では他領への米の売渡禁止される。
     (加地周一家文書)
1836年(天保7年)、この年交野村々米綿ともに大不作(山添文蔵家所蔵文書)
            村に捨子多し(原田伝兵衛日記) 
農業国、島国、日本・・・ほとんどの食糧品は輸入にたよっている。輸入してまで捨
てる不思議な国、日本。いつか来る、物価高騰、輸入ストップの時が・・・備えあれ 
ば憂いなし。平成の大飢餓が来てからでは遅いぞ!      =了=

2008.5.13 発行(116)

 =蘭奢待(らんじゃたい)=
 蘭奢待は正倉院に収蔵されている極上の香木のうちのひとつである。
聖武天皇の遺物といわれるが、いつごろ正倉院に納められたかははっきりしていない。正倉院の宝物は従来「勅封」であり、天皇以外さわられないはずだ。
そこを信長は天皇にねだり、蘭奢待を規定に従がって一寸八分切り取った。
単にこの香木の香りを楽しみたいといった理由だけではなさそうだ。前例では、八代将軍、足利義政が蘭奢待を切り取っている。信長も、足利将軍の例にならい、天下人の権威を誇示しようと考えたものだろう。この蘭奢待、徳川家康も1602年(慶長七年)に切り取っているし、明治天皇も2度切り取っている。

 

*東大寺に伝わる蘭奢待は、8世紀頃、外国から聖武天皇に献じられた名香。
香木「蘭奢待」の文字の中
*「蘭奢待」の文字の中には「東」「大」「寺」の3文字が隠されているという。 
*茶の古典「南方録」には、利休がこの名香蘭奢待をたき、津田宗及がききわける逸話あり    
香木は片々香わし
禅に伝わる言葉である。どんな些細な一片にも香りは満ちていると。これは人の世界でも語られるのでは・・・事を成すにあたっての、手順、段取り、そして手際・手法・所作・語り口・あるいは折衝、折りあいの付け方など。
優れた人には、その人ならではの型がある。大きな動き、小さな流れの中に目には見えないが、その人から立ち昇る漂う何かがある。
どんなに事がたてこみ重なっても、ひとつ一つに着実悠然と処していく後ろ姿。
そんな独特の香り、できうれば自分だけのそれを有したいと思う。
=編集後記=
10月、神無月、秋風秋雨が、季節の移ろいを運ぶ頃、曝僚と呼ばれる虫干しが行われる。この東大寺正倉院に納められている御物に蘭奢待と称せられる香木がある。                         =了=



2008.5.12 発行(115)

=家紋(かもん)= 
 
家紋はそもそも源平の合戦で、戦場での敵と味方を見分ける重要な目印として旗印や幕に用いられた。
当然、数多くの武将が競い合った戦国期には、一軍の将として敵味方の家紋を即座に識別することが死活問題になる。
また、入り乱れて戦っている足軽たちも、相手が敵か味方ひと目で判断できなければ、命取りになる。
そんな武将の家紋といえば、まずは遠くからでもわかりやすい幾何学模様が多いこと、さらに武勇をあらわすため、しばしば通常の家紋に剣や菱がつけ加えられるのが特徴。
当時は戦略上の重要資料として、自家でカタログを作っていた大名がいたから驚く。

 

=編集後記=
 知らないと命とり?家紋で敵味方を判断。現在、先祖代々使われている「家紋」は?
                                               =了=


2008.5.10 発行(114)

=名もない仏(石仏)たち=
石の仏さまは、黙って立っていることの代名詞にされているが、物言わぬ
石の仏さまが物言うことがある。
それは「物言う」のであって、しゃべりまくるのではない。
石の「ほとけ」さまは、愛語を語っておられます。
今は、黙ってみているが、世のため、人のためにならぬことや、自然や環境を破壊するものがいたならば、ただではすませないぞ!誰かが、何処かでみているよ、何よりも自分自身の心にまず問うこと。

 言葉の怒りをまもりて
    言葉をつつしむべし
      言うべからざる言葉をすてて
         言うべき言葉を言うべし


古代より、人間が自然へどのような行為を起こし、逆にまた自然はどのような影響を人間に与えたのかを探っていくなかで、自然に対する考え方の変遷を知ることは、きわめて重要なことである。
それは、現代人がなぜ自然と共生できなくなってきているのか、という問いに対する答えのひとつとなる。
そうしてはじめて、われわれが自然というものをどのようにとらえていったらいいのかという発想が生まれ、将来の環境問題を考えていくにあたっての根本になる思想が生まれてくるであろう。
これは、なにも自然環境に限ったことではない。
=編集後記=
名もない石仏さんとの対話、自分の心の中の思いを、そっと語りかければ
きっと笑顔で応えて下さるでしょう。今、語りかけることはないですか?。 
                              =了=               

  
          神宮寺「石仏の道」

新緑の石仏の道を歩いて、森林浴を大いに満喫しまた。
小鳥のさえずり、若葉降り注ぐ中、自然の素晴らしは、家の中では味わうことが出来ません。この季節、トレイル(野山を駆け巡る)ランニングもいいですよ。



2008.5.9 発行(113)

 =星田(ほしだ)の地名=
 星田の地名の由来を探ってみると、次の二つの意味があると言われる。

まず一つは、字のとおり星信仰である。
もう、一つは、「干す(ほす)」、いわゆる「干田(ほしだ)」や牧場、荒地といった意味である。
星信仰については、星田に「八丁三所(はっちょうみところ)」と言われている言葉がある。
それは平安時代初期、嵯峨天皇の時代、弘法大師が私市の観音寺に立ち寄られ、ここで虚空蔵菩薩求門持(こくぞうぼさつくもんじ)の法を修められた。
するとその法力によって、その夜、山手に仏眼仏母の光明が輝いた。
そこで夜明けになってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある獅子の岩屋に入って仏眼尊の秘法を唱えられた。
すると不思議にも大空から七曜の星が降り、それが三つに分れて地上に落ちた。
その星の降った所を探してみると、星田の高岡山の南にある星の森、光林寺の境内の森、もう一つは妙見山の頂にある三つの巨石である。
以来、これらの石を「陽向石(ようごうせき)」として祭ることになったと言われている。
(妙見陽向石略縁起による)
星の森、光林寺、妙見山の距離が八丁であるところから「八丁三所」と言っている。
この星の御利益(ごりやく)による信仰が星田の人々に広まり、村の名になっていったとも考えられる。
もう一つは、「干す」の方である
星田の背後の山地は花崗岩から形成されている。
しかも、この花崗岩は風化が激しく、もろい岩石になっている。
傍示川、中川、妙見川の形成した複合扇状地の上に村落が立地している。
村落の北側でも、その扇状地性の地形が発達しているため、昔は水田ではなく畑地や荒地が多かった。
また、これら河川は天井川であるから、一度大雨が降れば氾濫する危険な川である。
そのため、せっかく開墾した畑が土砂で埋まるということがたびたび繰り返されてたのであった。次のような資料からもそのことがうかがえる。
江戸時代中期、天明8年(1788)、交野郡星田村に生まれ大阪に住んだ吉田屋藤七という人がいた。
彼は淀川筋の土砂留奉行に対し、砂防事業に対する意見書を提出している。
それによると、淀川に注ぐ天野川が水田面より2丈も高い天井川となっているため、この天野川に注ぐ他の小河川も同様に水田面よりも高くなっている。
その結果、いくら川筋の堤防を高くしても上流から流れ出る土砂が川床にたい積するので、川床面の上昇と追いかけっこになるだけである。
根本策は土砂を川に流さない方策を講じなければ解決しないのである。
吉田屋藤七は、土砂の供給源である星田の奥山一帯のはげ山をなくすことであり、そのために山全体に植林をして下草刈りを止め、山全体を森林で覆いつくすようにすべきである。
そうすれば大雨が降っても洪水にはならず、したがって土砂の流出も少なくなる。
治山治水はこれしかないと説いている。
星田は昔から洪水の多かったことが、このことからも分かる。中川堤から東、天野川にかけては条里制の遺溝が残るが、西は畑作地帯と原野であった。
この原野を星田牧と呼ばれ、牛馬の放牧地になっていた。
時期は奈良時代あたりから鎌倉時代初めと言われている。
星田牧に関しては平安時代末、高槻市上牧(かんまき)にあった為祢野牧(いねのまき)との争いが保元年間(1156−1158)にでてくる。
鳥羽法皇の勢力下に入ろうとして、その寵姫藤原得子(美福門院)にかかわる興福寺別院円成院に寄進し、星田荘となったとある。
また、後白河院の時代にも今度は樟葉牧との紛争がでてくる。
「星田」は「干田」と言われたという理由は、奥山の土砂の流出の激しさから扇状地性地形が発達し、水田となりにくかったことから発生した地名ではないかと考えられる。



=編集後記=
地名も時代とともに変わってゆく。交野には旧地名がまだまだ残っています。
今のうちに、整理しておきたい。         =了=



2008.5.8 発行(112)

=馬銜(はみ)=
 ふるさと交野を歩く(神の巻)枚方変電所の古墳群(倉治古墳群)の中で、変電所の古墳は、六世紀の後期の初めに造墓が始まって、後期の終わりには造墓が終わっていた。一番古いのは一号墳で、松塚で四つの古墳で1グループを造り、上段に上って再び2つ目のグループを造っていた。(奈良大学水野正好教授)変電所の門を入った右側の石の配置や、古墳塚(変電所周回道路の東側)にある「心」という字を配石した石は、長い間、神を守ってきた玄室の石である。副葬品は紛失もなく最近、鉄鏃の保存処理をしてもらったら、鉄塊の錆びの下から「馬銜」が出た。
「馬銜」とは、馬の口にくわえさせる部分。荒馬を静めるため、口にくわえさせ頭に回して縛る縄。(大辞林)

    挿入絵は人物日本の歴史:大王の時代 小学館より
  

  

 日本で馬を飼いはじめたのは、古墳時代の中ごろだといわれている。馬は、人を乗せてはやく走ったり、ものを運んだりする。利口で人によく慣れるので、特に大事にされてきた。馬の頭だけの骨など出土するのは、神に捧げたものと思われる。
大事な馬を犠牲にしたのは、大切なものでなければ、神様も願いを聞いてくれないと思ったからでしょう。たとえば、日照りがつづいたり、大雨がふりつづいたり・・・病気が流行り、死者が沢山でたときなど、馬の頭などを供えて祈ったのでは。
 
=編集後記=
隣接、四条畷・大東市から古墳時代の馬の骨が出土するが交野からは出土していない?古墳時代の交野には馬はいなかったのか?              =了=  



2008.5.7 発行(111)

 =交野のいわれ=
この地方は、昔から「かたの」と言われていました。
「かたの」の「の」とは、もちろん「野」、すなわち平坦な低地のことであり「かた」は「潟」で、水が差したり引いたりする所という意味です。
「交野」の名称は、和名称に「加多乃」と読み、その名称の起源については、丘陵と平地が交迭(かたがた)に存すると言い、また、淀川流域の低地から見ると丘陵上の平地とも見えるので「肩野」と称されたとも言う。
また古代の交野郡に由来し、「片野(かたの)」の意である。
一方(東)が山地で、一方(西)が原野である所を片野という。片方に開けた土地である。
いずれも明らかではない。

  

=交野の歴史的経過=
 交野に人が住み始めたのは、今からおよそ2万年前と言われ、これらの古い歴史を過去の遺跡に縄文時代の神宮寺遺跡・弥生時代の寺南山、星田坊龍遺跡など数多くある。
その後、交野物部氏の祖先、伊香色雄命(いかしこおのみこと)が、天野川流域に住みつき農耕文化を広めたほか、部民を使役して古墳を築かせ、一方交野忌寸(かたのいみき)の祖、漢人庄員は、その一族を率いて渡来し、倉治の山の麓に住みつき、機織の技術を起こし繁栄した。
奈良朝時代に施行された大化改新令による班田収授法によって、当地方にも条里制がしかれ、今もその姿を残している。
平安時代、天野川の水辺や丘陵地帯は狩猟観光に適し、天皇、皇族、宮廷人がたびたびこの地方を訪れた。
その後、室町時代に入ると応仁の乱が起こり、それ以降、交野も戦乱の渦中に巻き込まれたが、織田信長、豊臣秀吉により一応天下が平定され、1600年関ケ原の戦後、農民は米麦や河内木綿の手工業などでささやかながらも泰平の生活を続けた。
明治維新以後、河内県(明治2年1月20日)、堺県(明治2年8月2日)と

管轄が変転したが、明治14年大阪府管下となった。
明治22年市制町村が公布され交野村(私部・倉治・郡津)、磐船村(私市・森・寺・傍示)、星田村ができた。
昭和14年、交野村と磐船村が合併し交野町となり、その後、昭和30年、町村合併促進法の施行により、交野町と星田村が合併し新しい交野町となった。
そして昭和46年11月3日、大阪府下31番目の市制、交野市が誕生した。
           参考資料:わがまちふるさとかたの地名を訪ねて(平成元年)

  
             「新緑の石仏の道」(08.5.6撮影)

=編集後記=
神宮寺から石仏の道を交野山まで歩いて来ました。一年で一番、活力を得られる時期。
森林浴を体一杯吸収出来ました。                   =了=



2008.5.2 発行(110)

 =旧暦=
 現在、日本で使われている「暦」は、西洋社会で一般的だった。
太陽暦(グレゴリオ暦)である。1年は365日で、12の月があり、1週間は7日で、1日は24時間で、1時間は60分で、1分は60秒。地球が太陽を一周するのを1年としているのが基本。
これが日本で用いられるようになったのは、1873年(明治6年)のこと。
それまでは、「旧暦」と呼ばれている、大陰太陽暦を使っていた。この大陰太陽暦は、もとは中国で発展したもので、6世紀ころに百済を通じて日本にも伝えられた。
大陰太陽暦は、月の満ち欠けを基準として29.5日ごとに、1ヶ月となり、12ヶ月で354日となる。太陽暦とでは1年に11日の差がでる。
つまり、毎年、微妙に季節がずれてしまう。そこで三年に1回は、閏月を入れなければならない。コンビユーターなどない昔は、これを計算するのが大変で、専門知識が必要とされていた。その専門家のことを暦博士といった。
では、何も考えずに「今日は何月何日」だと受け入れているし、どの家庭にもカレンダーがあるが、昔はそうではなかった。朝廷が定めていたのである(今も春分の日と秋分の日をいつにするかは、国立天文台が決めている)
日本で正式な暦、つまり、その日が何月何日なのかを確定するようになったのが、いつからなのかは、諸説ある。
602年、推古天皇の時代に、初めて暦の頒布をしたという記録があるが、「日本書紀」では690年の持統天皇の時代に、初めて「暦」についての記述が出てくるので、正式な採用は692年ではないかとの説もある。
暦を作るのは、律令制のもとでは、陰陽寮の暦博士の仕事で、毎年、11月1日に、その
翌年の暦を作って、朝廷の中務省(なかつかさ)に送り、そこから全国に頒布されていた。
平安中期になると、暦博士を世襲していた賀茂氏が私的に暦を作り、貴族たちに提供していた。鎌倉時代以降は、各地に独自の暦が生まれ、民間に普及していた。
暦を決める場合、重要なのは、「ついたち」をいつにするか。
大陰太陽暦では、新月の日を「ついたち」とする。これの決め方がいくつかあった。
それと、閏月の決め方とで、さまざまな暦が考案されたのである。日本独自の暦は、江戸時代になってから考案された、渋川春海によるものが最初の暦法とされ、これを貞享暦(じょうきょう)という。
そして明治になって、太陽暦が政府によって採用されるようになり、現在に至っている。

  

=編集後記=
 写真は本文とは関係ありません。畑に築造した古墳、墳丘に草が生えて来ました。
放っておけば草むらになって葺石もすべて覆い隠されてしまうでしょう。それとも築造当時のままにしておくなら早い時期から草掃除を欠かさずやっていかなければ。
だんだん整って来ました。壊されたら大変、柵を作ったらとかの声が聞こえはじめてきました。この古墳、これからどんな方向に進んでいくのか?楽しみです。
次号は連休明けの5月7日となります。楽しい連休をお過ごし下さい。   =了=


追伸(2008.5.3)

  西川原古墳とジャーマンアイリスの移り変わり!


  

  

  


2008.5.1  発行(109)

 =正論は正しいが、だが正論を武器にする人は正しくない。=
正論は嫌い、なんて言いつつ、自分もよく言っているだろうなぁ…
それも、きっと言いっぱなし。
正しいことを言いたいだけか、正しいことを本当にしたいのか。
正論を言う人をじっと見ていれば、そういうことが分かってくるらしい。
私も見透かされている。
自分の最も身近な人間から。
けれど、開き直れば、正論を言う人も必要だと思う。
何もやろうとしないけれど、そういうことも言う人がいないと…
熱意とか感情だけで物事を進められる世の中になったら、正論

 
         
だけ聞かされる世の中と同じくらい息苦しいような気がする。
やっぱり、バランス?正論だけを言う人がいて、その反対だけを言う人がいて、その中間を行動する人がいる。行動する人は、どちらからも学んでちゃんと実行しながら成長していける。そういうところに進んでいかないと。
                            今日のいい言葉集より
=編集後記=
 道路特定財源の暫定税率を再可決 ガソリン160円突破へ。
税制改正法案が30日午後、衆院本会議で与党の賛成多数により再可決、成立した。
                                 =了=

1月の瓦版へ 2月瓦版へ 3月瓦版へ 4月瓦版へ


ホームページに戻る