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よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
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平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  
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瓦版 2008年 11月号 バックナンバー
263 11/29 =岐神・道神、そして道祖神=
262 11/28 =神武天皇より先に大和を支配していた王は?=
261 11/27 =北九州の一大政治勢力(邪馬台国?)が大和に移ったの?=
260 11/26 =神武天皇は実在の人物だったか?=
259 11/25 =神武天皇が東征した経路は?=
258 11/21 =ブッダ(仏陀)の教義と思想:「悟り」=
257 11/17 =浄土教と頼通=
256 11/13 =邪馬台国の所在地論争の決着は?=
255 11/12 =平安後期 木彫り神像、神社遺構から出土=
254 11/11 =日本の歴史を語る金石文(きんせきぶん)=
253 11/10 =今日の一言から=
252 11/8 =観音さん=
251 11/7 =薬師如来さん=
250 11/6 =日頃なにげなく使っている言葉(仏教用語その2)
249 11/5 =日頃なにげなく使っている言葉(仏教用語)=
248 11/1 =石標No8 此付近天平時代開元寺跡(神宮寺)=


2008.11.29 発行(263)

 =岐神・道神、そして道祖神=
 イザナギが投げ捨てた御杖が成った神の名は、『古事記』では衝立船戸上、に
『日本書紀』では岐神とあり、船戸神・岐神はともに「フナトノカミ」と呼ばれた。国づくり神話のイザナギ・イザナミにかかわる物語のなかで、この杖はもともと根のついた樹木で、その生命力は豊饒の霊力を示すものであると一般的には理解されてきた。
それが陽物の機能と混同されて、集落の入口や岐路に立てられ、邪悪なものの侵入を防ぐ役をしたようである。
『倭名類聚抄(わみようるいじゆしゅう)』鬼神部の神霊類では、道祖は「佐倍乃加美(サヘノカミ)」、岐神は「布奈止乃加美(フナトノカミ)」、道神は「太無介乃加美(タムケノカミ)」と読まれている。しかし、その解釈部分は複雑である。
道祖の項によれば、中国の古代神話に登場する神、共工氏の子である脩(ゆう)は遠遊を好み、路上で死去したため、後世、祖神とされ、道路の神として祀られたという。この説明は明らかに「道神」のことであり、旅立ちにのぞんで道路の神を祭ること、つまりタムケノカミ(手向けの神)のことである。
道祖の和名サエノカミ、つまり邪悪なものの侵入を防ぐことの説明にはなっていない。このことから考えると、当時はフナトノカミ、タムケノカミなど道にかかわる神を総称して「道祖」とし、あえて「道祖神」のような神名を特定していなかったのではないか。『倭名類聚抄』では「道祖・岐神・道神」の三神が横一線に並べて記載されているが、これは三神の並列を意図したものではなく
 道祖 
 岐神
 道神
という記載の仕方と理解すれば、上記の内容と合致するといえよう。

時代が下がり、10世紀前半の『小野宮年中行事』には「六月行事・道饗祭(みちあえ)事」として、木を刻んで男女二体の神像をつくり、平安東西両京の大小道のちまたに相対して安置している旨が記述されている。
これらは岐神(フナトノカミ)と称され、悪霊の侵入を防ぐ道饗祭の行事が実施されていたことがわかる。この神像は下半部に陰陽部を刻む形に変化したものと理解できる。こうした祭りは、「時人奇之(ときのひとこれをきとす)」と見なされていた。さらに、12世紀になると、これらの神像は「道祖神」と呼称されるようになっていった。
それを確実に示しているのが、『今昔物語集』巻第13第34話である。
四天王寺の僧が、熊野参詣の帰りに紀伊国美奈部(南部)郡の海辺で道祖神と出会うこの説話には、注目すべき点が二つある。
ひとつは、このころには道祖神信仰が、都・地方官衙(かんが)のみならず、すでに各地に広がっていることである。
もうひとつは、おそらく下半身に陰陽部を表現した男女一対の道祖神像が道端に立ち、それが当時の人には「下劣ノ神形」とみられていたということである。
一方、「道祖」に包括されたもうひとつの性格としての「道神(タムケノカミ)」も、12世紀以降、絵画の世界で具体像が明確に描かれている。
12世紀なかばごろに描かれたとされる『信貴山縁起絵巻』「尼公の巻」のうち、絵図は、主人公である尼公が、南部近くで古老に弟の命蓮の消息を尋ねている場面である。

 
    
尼公とその従者の背後の道端に、旅行く人の安全を祈願する小さな祠が道端に祀られている。その祠の前の幣(ぬさ)串で囲まれた老木の切株の上に、球状のものが描かれている。
このように、数多くの絵巻のなかで、道端あるいは辻の小祠の中に丸石が供えられている。小祠は旅人の安全を祈願する神を祀ったもの、いわゆる道神を祀ったものであろう。
「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀頃まで、フナト(クナト)ノカミ・サエノカミという「邪悪なものの侵入を防ぐ神」と、タムケノカミという「旅人の安全を守る道の神」という二要素を包括する概念だったのであろう。

前者は日本の都城や地方官衙においても、百済王京と同様に四隅や入口付近に陽物を掲げる祭祀が実施されている。
それが10世紀以降、政治と儀礼の場の多様化とともに、道の祭祀は都城や地方官衙の方形区画の四隅ではなく、京の街や各地の辻などで実施されるようになったと考えられる。その祭祀形態も、フナト(クナト)ノカミ・サエノカミとして京などのちまたに男女の陽物・陰部を表現した特異な人形が登場するようになる。一方、後者の旅人の安全を守る道の神の御神体も「丸石」という具体的な姿で絵巻物に描かれている。
「邪悪なものの侵入を防ぐ神」「旅人の安全を守る道の神」という「道祖」の二要素は、中世的世界のなかで男女の人形と丸石として具現化されるが、おそらく両者とも「道祖神」と呼称されていたのであろう。
       「日本の原像」(二)より
=編集後記=
 交野市森、岩船小学校の東側の道を北へ行くと府道久御山線と交差するところを船戸という。



2008.11.28 発行(262)

 =神武天皇より先に大和を支配していた王は?=
先に大和地方にいた王族とは誰のことか?、弥生時代、大和地方の農業共同体のあいだから北九州と同じような小国家が形成されていたことはわかっているが、それがどんな国であったのかまでは考古学は語ってくれない。
そこで、神話の教えてくれる伝承に頼るしかないが、「記紀」には神武天皇より先に大和を支配していた王の名前を記している。
それが饒速日命(にぎはやひのみこと)である。「記紀」はこう語っている。
神武天皇は九州から東征するにあたって、まず塩土老翁(しおつちのおじ)に東の様子を問い合わせた。すると、翁は「東に美しい国があり、青山に囲まれたすばらしい国である。だが、そこには先に天磐舟に乗って飛び降りた者がいる」と答えた。そこで神武天皇は「思うにそれは饒速日命だろう。そこへいって国を建てよう」と、日向の地から東征した。
つまり、ここには明らかに神武天皇以前に畿内に、饒速日命という神の国があったと書かれているのである。
しかも「記紀」は、神武天皇が大和に来て、この饒速日命の軍と戦う様子まで記している。それが神武軍と饒速日命の部下である長髄彦との戦いであった。
そして熊野から北上したあと、饒速日命が降伏したことによって大和地方は饒速日命という王が存在していたと伝えているのである。

(写真)交野市私市 磐船神社より下ること0.5キロ、饒速日命が天下ったとされる「哮峰」である。

=編集後記=
先に天磐舟に乗って飛び降りた者(饒速日命)がいる。
饒速日の命は、どこに天下ったのか。「先代旧事本紀」は、つぎのように記す。
「饒速日の命は、天神のご命令で、天の磐船に乗り、河内の国の河上の哮峰(たけるがみね)に天下った。さらに、大倭の国の鳥見の白庭山にうつった」
また、「日本書紀」は、神武天皇紀で、つぎのように記す。
「饒速日の命は、天の磐船に乗り、太虚(おおぞら)を翔けり行き、このくにを見て天下った。」この哮峰とは一つの説として、交野市私市にある磐船神社の「磐船」の地である。磐船の下を天野川の上流が流れる。
天野川は、淀川を下流にもつ生駒山脈の北部である。
=了=


2008.11.27 発行(261)

 =北九州の一大政治勢力(邪馬台国?)が大和に移ったの?=
 北九州の弥生式文化と大和の古墳文化の連続性を考えるとき、東遷したのが邪馬台国かどうかは別にして、弥生後期に北九州の政治勢力が大和に移ったのではないかという説はまちがいないだろう。
九州勢力の大和への東遷を裏付ける根拠は、古代史でも最大の謎の一つとされる「銅鐸の謎」である。
和辻哲郎氏の「銅鐸文化圏と銅剣・銅鉾文化圏」の二大文化圏説は、それ以後、北九州や出雲などからも銅鐸が出土し、くずれかけているが、それでも銅鐸がもっている謎は厳然と残っている。
その第一は、なぜ銅鐸が、正史といわれる「古事記」や「日本書紀」に一字も記されていないのか。
第二は、祭器のシンボルとされたものが弥生時代の終わりごろになって、なぜ突然一斉に消えてしまったのか。
第三は、その出土状況から見て、なぜ人目につかないような山の斜面や奥まった谷間に埋められたのか。
それも中には意図的に破壊されたような形で埋められている。
これまでの考古学では「もっとも銅鐸はいつもこのように埋められた状態で保管されていたのだが、国家が形成されるころになると、村落共同体中心の祭りであった銅鐸の祭りはすたれ、そのまま地中に忘れ去られた」という説が主流を占めていた。
ところが、近年「破壊された銅鐸」が出土するにしたがって、「銅鐸の消滅の背後にはなんらかの大きな政治的事件があった」という見方が有力になってきている。もっと端的にいうと、銅鐸を祭器としていた政治勢力が新しい政治勢力が新しい政治勢力に取って代わられたということである。
古代日本の謎より 
=編集後記=
とくに、正史である「記紀」に一字も銅鐸の記述がないということは、古代の大和地方には皇室の祖先である大和朝廷とは別の王族がいて、それが北九州から東征してきた新王族によって滅ぼされたのではないか、と推察されるのである。






2008.11.26 発行(260)

=神武天皇は実在の人物だったか?=
神武東征の話が史実であるかどうかだが、現在の学説の多くは、主人公である神武天皇は実在しなかったとみている。
つまり神武天皇による東征はなかったというのだ。この説を最初に学問的に検証したのは津田左右吉氏だった。その要点は次のようなものだ。
@神武東征において日向が出発点となるのはおかしい。なぜなら、長いあいだ、大和朝廷の領域に入っていなかった日向や大隅・薩摩半島のような未開地が、どうして皇室の発祥地でありうるのか。
A東征の経過もおかしい。なぜなら、中間の地方は、ただ行幸途中の駐在地としてのみ記され、あらたにその地方を征略したような話がない。
これでは単に都を九州から大和に移しただけである。
Bところが大和における活躍は、東遷の話と違って具体的である。しかし、これらも大和のそれぞれの地にあった伝承を神武伝承に肉付けしたと考えられる。
したがって、整理して考えると、この神武東征物語はほとんど内容のない輪郭だけのものとなる。
Cではなぜ、このような東征物語が必要だったのか。それは、大和朝廷の先祖が九州の日向に天降ってしまったため、日向と大和を結びつける必要があったからである。
以上のことから津田氏は、神武東征の物語は史実にもとづくものではなく、天孫降臨に続く<日本神話の一部>だった、というのである。
「日本書紀」の別書によれば、カムヤマトイワレノ命の別の名は「神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれひこほほでみのみこと)」であったとするものが三書もあり、神武天皇そのものの存在もあまりはっきりとしないのである。
                      古代日本の謎より (前号も)
=編集後記=
神武東征は日向の天孫降臨神話とのつじつま合わせにすぎないのか?
                           =次号に続く=
   


2008.11.25 発行(259)

 =神武天皇が東征した経路は?= 天皇家の起源はいつから始まったのか?
 『古事記』『日本書紀』によれば、皇室の祖先は高天原という天上の国から
日向の高千穂の峰に降臨し、南国の日向の地でしばらく過ごした。
やがて、神武天皇の代になって九州を出発し、瀬戸内海を経てヤマトの地に入り、都を造った。とある。これをいわゆる神武東征といっている。
戦前までの歴史教育では、この話を「皇国史観」として丸飲みこんで教えられたが、はたしてこの話が史実にもとづくものであったかどうか、まずは『古事記』の粗筋を追ってみよう。
<イワレヒコノ命>(後の神武天皇)は、兄の五瀬命(いつせひこのみこと)と高千穂で協議して、「いかなる地にいけば、平けく天の下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむ」といい、日向を出発した。一行は、豊の国の宇沙(宇佐)で、土地の神の饗宴を受け、竺紫(筑紫)の岡田宮に一年、阿岐(安芸)の多祁理宮(たけり)で七年、さらに吉備の高島宮で八年を過ごした。それから速吸門(はやすいもん):豊後水道、浪速の渡り(大坂)を通って、いよいよ白肩の津(東大阪市日下あたり)に上陸し、そこからヤマトへ入ろうとした。
ところが、登美(大和の地)の豪族の長髄彦が神武軍を迎え撃ち、五瀬命は負傷した。そこで神武は「日の神の御子が日に向かって戦うことよからず、背に日を負いて撃たむ」といい、南方に軍を進めることにした。
神武は海から紀伊半島の南端に下って、熊野から北上する経路を選んだが、途中、大きな熊があらわれ、一行はその毒気のために失神してしまった。が、このとき熊野の高倉下(たかくらじ)が、夢枕に天神があらわれて授けられたという霊剣を献上し、そのおかげで一行は元気を回復した。また、天神は道案内として八咫烏を遣わしたので、その導きによって一行はヤマトの吉野川のほとりにたどりついた。ヤマトには多くの国津神がいて、神武軍のヤマト入りを阻んだ。
宇陀では兄ウカシが落とし穴を仕掛けていることを弟ウカシの密告で救われ、大伴連(おおともむらじ)らの祖の道臣命(みちのおみのみこと)らが兄を成敗した。
また忍坂(おさか)では土蜘蛛(土着民)の八十建(やそたける)を倒し、いよいよ強敵の長髄彦との対決を迎えた。だがこのとき、長髄彦の君主である饒速日命(にぎはやひのみこと)が長髄彦を殺して共順し、さらに神武は荒ぶる神どもを平らげて、畝傍(橿原市畝傍町)に入り、そこの橿原宮で天下をおさめた。ヤマトイワレ地方を占領した男という意味で神倭伊波礼彦(かむやまといわれひこ)との名前がついた。



@ 45歳の10月に日向を出発 A珍彦を水先案内とする B莵狭津彦、莵狭津彦媛のもてなしをうける C筑紫国の岡水戸に留まる D阿芸国の埃宮に到着 E高島宮を造り、3年間留まる F難波碕に到着 G孔舎衛坂で長髄彦に敗れる H竃山で五瀬命が死去 I熊野の神邑にいたり、天磐盾に登る J兄猾、弟猾を服属させる K饒速日命が長髄彦を殺して帰順する L橿原宮で即位する

=編集後記=
日向→筑紫→瀬戸内海→大坂→紀伊→大和のルートをたどった。
以上が、簡単な神武東征と大和平定の物語である。     =次号に続く=


2008.11.21 発行(258)

 =ブッダ(仏陀)の教義と思想:「悟り」=
 ブッダの教えは「すべては苦しみ」と言う認識から始まる。そして苦しみの原因と結果を知り、その循環を断ち切ることが悟りだと説いた。

  

【悟り】=目覚めること
 「真実を知り、すべてを見通すこと」だが、知識が増えることではない。
悟りは覚醒、すなわち目覚めであり、たとえ苦しみでも大きく肯定される光明を得る。それによって、物事をまっすぐに受け止められるようになる。
この心の目覚めを正覚(しょうかく)といい、目覚めた者を覚者(かくしゃ)という。
【真実は苦から】
 釈迦がまず知った真実は「人生は苦しみである」ということだった。「苦しみ」の本質を見極めることから悟りの道は始まった。
【苦しみ】の正体
 人生は苦しみに満ちている。人は生まれ生きて苦しみ、病と死に苦しむ。
釈迦が知った苦しみの本質は我執だった。我執とは「自分」に執着し、さまざまな「欲」にとらわれることをいう。それが苦しみを次々と生み出す。我執がある限り避けられない苦しみが「四苦八苦」。
=編集後記=
 様々な欲は心の中に「うれしい・悲しい・憎い」などの感情をわき出させる。
感情は言葉や行動を引き起こす。自己を中心にした欲は、どんな言葉や行動を持ってしても決して満たされたかに見えても欲はまた欲を生む。
その連鎖に陥っているのが無明=光がない状態。「四苦八苦」を知り無明から脱することが悟りである。
             参考資料:やさしい仏教 ブッタの教えから歴史まで


2008.11.17 発行(257)

 =浄土教と頼通=
 藤原道長の息子が頼通(よりみち)が京都宇治の別荘を平等院としたのは
末法元年、永承7年で、翌年には阿弥陀仏をまつった鳳凰堂が完成。

この建物は寝殿造と呼ばれる当時の貴族の屋敷などに使われた建築様式で建てられている。
寝殿造というのは簡単に云うと、昔の学校のような建築様式で、いくつか建物があって、その建物同士を渡り廊下で結ぶ。そして真中には池がある。

この時期、末法思想という考え方が流行し、仏教を始めたお釈迦様だけど、その釈迦が死んで(入滅)あと、1500年から2000年を経過すると、正しい釈迦の教えが伝わらない世の中になるという考え方。
日本ではちょうどこの頃末法になると信じられていたんだけど、貴族たちはこれを恐れた。釈迦の正しい教えが伝わらない、というのがどんどん大きく解釈されるようにり、この世の終わりが来るとか、暗黒の時代になるとか。
そんなわけないと、今だから言えるけど、我々も彼らのことは笑えない。

最近1999年に同じような考え方が大流行した「ノストラダムスの大予言」というのがそれだ。
「1999年世界が滅亡する」(本当は違うだけど)と書いてある、と大騒ぎになった。少し前でさえそんなのだから、平安時代の貴族たちが騒然としても文句は言えない。そんなわけで平安時代の貴族たちにとって、末法の世になるというのは深刻な問題だった。そこで末法になってもどうにか救われる方法を一生懸命に探した。そして見つけたんだ。それが浄土教という教え。
浄土教の「浄土」というのは「極楽浄土」のこと。

よく天国とごっちゃにしているけれど、本当はまるで違う。天国というのはキリスト教の新約聖書の中に出るものだから。
阿弥陀仏という偉い人がいたと思ってほしい(正確には阿弥陀仏は人ではないのだから)。で、その阿弥陀仏は遠い昔にこういう約束をしてくれた。

「私がもし悟りを開いて仏になれたとしたら、そのときは私を信じる者はみんな極楽浄土へ行けるようにしてあげましょう」と。
阿弥陀様におすがりすれば死んでから極楽浄土へ行けるのだから、阿弥陀様は自分を信じる者は、としか言ってないのだから、とにかく信じさえすればいいのだけれど、でも、やっぱり人はそれだけでは不安になる。
特に貴族なんかはお金はあるのだから、「私はこんなに信じていますよ」と阿弥陀様のための建物なんかをドーンと作ってしまうわけ。
それが頼通の建てた「平等院鳳凰堂」。
だからこの建物には阿弥陀仏が納められている。
末法思想と浄土教と頼通と平等院の関連、いつの時代も人間は救われたいと願っている。




=編集後記=
 正法・像法・末法の三時説の考え方にふれておきます。
正法=釈尊在世の時と同じように、教えも、その教えどおり実践も健在で、従ってその結果としての悟りも正しくそなわっている、釈尊の教えが完全に行われている時代。
像法=教えとその実践は存在しているけれども、肝心の悟りが得られない時代、この像というのは本来似ているという意で、教えのとおりの実践というのも似ているだけで真実本物ではないので結果としての悟りが無いということ。
末法=これは教えだけが虚しく存在し、それを実践する者もなくなり仏法は消滅して救いがたい濁った世となる時代。
釈尊が入滅してから千年の間は正法が続く(五百年説もある)
その後千年は像法となり、合わせて二千年後には末法が到来して暗黒の世となるというこの年数は、平安時代の日本では西歴の紀元前949年入滅と考えられていました。だから末法元年は西暦の1052年、永承7年がその年とされました。しかも末法万年といわれ、これは永く永く続くと考えられ、恐れられたのです。
                    =了=



2008.11.13 発行(256)

 =邪馬台国の所在地論争の決着は?=
 古代史最大の謎といわれる邪馬台国。
その所在地をめぐる論争に大きな影響を与えそうな考古学上の新しい研究成果が、近年相次いで発表された。これまで畿内説の多くが、三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏の皇帝から下賜(かし)されたといわれる「卑弥呼の鏡」としてきたが、九州説は三角縁神獣鏡のなかに実在しない中国の年号銘があることや中国から一面も出土しないことなどを理由に、この鏡は国産鏡であると反論してきた。
ところが、2004年(平成16)、泉屋博古館(京都市)の調査により三角縁神獣鏡の材料成分の特性が、中国製の鏡とかなり類似していることがわかった。
厳密に言えば「材料の産地=鋳造した場所」とは限らないが、この研究成果は
畿内説にとっては有利な調査結果であることはまちがいないだろう。
さらに今年(2008年)、国立歴史民俗博物館の研究グループは、畿内説が「卑弥呼の墓」と見る大和の箸墓古墳を三世紀中ごろのものと発表。

 

この研究は箸墓古墳から出土した「布留0式」と呼ばれる土器に付着した炭化物などを測定したものだが、その結果、同古墳は従来考えられていたよりも数十年も古いことがわかったのである。卑弥呼は248年ごろ死んだといわれており、3世紀中ごろという箸墓古墳の築造年代は、ピタリ一致する。邪馬台国の所在地は畿内、大和にあった可能性が高くなっている。         参考資料:日本史の迷宮
=編集後記=
【魏志倭人伝】より
 「三国志」巻第三十「魏書」「烏丸鮮卑東夷伝」第三十「倭人条」より
卑弥呼が死んだので大きな塚を作った。
直径が百余歩(約144b余。一歩=144.7a)。
葬儀に従う者は奴婢百余人・・・。
卑弥呼の墓の有力候補「箸墓古墳(全長約280b)」(奈良県桜井市箸中)
当市、森古墳群の中、第一号墳:雷塚古墳(全長106b)は箸墓と同タイプの前方後円墳(バチ型)が160bの高地にあることを注目したい。 =了=   



2008.11.12 発行(255)

 =平安後期 木彫り神像、神社遺構から出土=
 滋賀県西浅井町の塩津港遺跡(平安時代後期)で、神社遺構から11〜12世紀とみられる木製神像5体(高さ10.5〜15.2a)が出土し、県教委が10日発表した。人目に触れず、神殿奥の内陣に安置される神像が発掘されるのは2例目で、同じ遺構から複数見つかるのは初めて。
県教委は「複数の小型の神像を一緒にまつった、当時の神社信仰の姿がうかがえる貴重な史料」としている。
神像は、遺構(約50b四方)の社殿北側で4体、東側で1体がそれぞれ堀跡(深さ約60a)から見つかった。男神2体、女神3体で、このうち各1体は状態が良く、男神は冠を着けた礼装姿、女神は髪を垂らして胸の前で腕を組んでいた。作風などから同時に対で作られたらしい。
現存最古級の神像は、東寺(京都市)や薬師寺(奈良市)の鎮守社にまつられている。僧形八幡三神像(9世紀)。
発掘例では、青木遺跡(島根県出雲市)で2003年に出土した10世紀とみられる1体がある。
琵琶湖最北端にある塩津港は、古代から平安時代後期まで北陸と畿内を舟運で結んだ物流拠点で、紫式部も越前(福井県)に赴任する父・藤原為時に従って訪れたとされる。
2007年には、水運業者らが「荷を盗まない」などと神仏への誓約を書いた最古の起請文木簡(1137年)が発見された。
遺構からは、平安時代後期と推定される木製華鬘(けまん)の一部も見つかった。仏堂を飾る装厳具で、木製品としては最古。
2008.11.11:よみうり新聞(朝):掲載より
=編集後記=
 昭和31年、交野考古学会が岩倉開元寺跡から青銅製で、形状は円形の薄い銅板に半肉彫の仏像を鋲止めした懸仏を発見した。懸仏は木製の板に取り付け、お堂の軒先に吊るして用いられたと考えられます。製作年代は14末〜15世紀初頭かと思われる。歴史民俗資料展示室に展示してあります。
平成19年11月1日市指定。               =了=



2008.11.11 発行(254)

=日本の歴史を語る金石文(きんせきぶん)=

金石文とは金属や石などに刻まれた文字・文章。銘文ともいう。

日本に文字が伝わったのは「記紀」の伝説でも4世紀末ないし5世紀前半にあたる応神・仁徳朝といわれるくらいだから、日本列島に住む人の手になる金石文の出土を多く期待することはできない。

6世紀およびそれ以前についてみると、以前から知られていた熊本県(肥後)菊水町の江田船山古墳出土鉄刀銘、和歌山県(紀伊)橋本市の隅田八幡宮所蔵人物画像鏡銘と、1978年に発見された埼玉県(武蔵)行田市の稲荷山古墳出土鉄剣銘、1984年に知られた島根県(出雲)松江市の岡田山1号墳出土鉄刀銘と兵庫県(但馬)八鹿町の箕谷(みいだに)2号墳出土鉄刀銘の5例が知られている。それぞれに貴重な内容を持つ銘文であるが、もっとも長文の稲荷山古墳出土鉄刀銘で115字、それに次ぐのが江田船山古墳出土鉄刀銘の75字、もっとも短いのは箕谷2号墳出土鉄刀銘の5字(ただし現状で解読できる文字数)で、5つの銘文を合計しても252字(不確かなものを含む)である。銘文から知りうるところは、必ずしも大きいとはいえない。
しかもそれらの銘文で、5世紀中葉以前に書かれたものはない(隅田八幡宮鏡の「癸未年・きびどし」を443年と解すれば、5つの銘文中最古となるが、それでも5世紀中葉である。)

日本古代史、なかでも6世紀以前の王権の歴史を考えるのに役立つ文字史料はこのように多くはない。

←稲荷山古墳出土鉄剣銘  



=編集後記=
 7世紀以前の史実を捉えるためには、中国の史料とともに、その時代のなまの史料である金石文が大きな役割を果たす。          =了=


2008.11.10 発行(253)

 =今日の一言から=
いいんじゃないの。
楽しいことも、辛いことも、みな平等に時に流されていくんだから。
1週間の初めに、自分の心を眺めてみる。
先週の重荷を引きずっていると、なんか重いなぁと感じる。
時間は流れていても、心の中が流れていない。
1週間をふり返れば、イヤなことも、面倒なことも、きっとあるはずなのだけれど、その終わった時点での気持ちを引きずりやすいのが人間。
1週間の終わりに、そういうイヤなことを帳消しにするちょっといいことがあるだけで、心が軽くなってくる。
子どもの頃には、寝れば忘れられる能力があったのに、大人になってしまったら、そういう能力の方を忘れてしまった。
子どもを見れば、大切なことまで忘れてるような姿にも感じるけれど、それはそれでいい。ちゃんと流れに逆らわず、流した証拠だろうから。
大人の目から見て、大切だと思うことがいつも正しいとは限らない。
子どもが覚えていたことが、結果的に正しかったなんてこともあるはずだから。
     
   

=編集後記=
 今週は大変忙しくなりそうです。1日1日を大切に過ごしていきたいものです。
肩肘張らずに、背伸びせず、焦らず・慌てず・ゆっくりと不動心で  =了=



2008.11.8 発行(252)

 =観音さん=
 観音さんって男性ですか?女性ですか?
ほかの仏さまだと、性別についてはあまり気にかからないようです。
たとえば「阿弥陀さま」や「お地蔵さま」は男女いずれですかと、尋ねられたことはありません。日本の人に「知っている仏教の仏さまの名を」と聞くとたいがい『お釈迦さま』『阿弥陀さま』そして『観音さま』の名がはじめに出てくるようです。そして釈尊(お釈迦さま)は男性であるとだれも知っています。しかし阿弥陀さまはともかく、なぜ観音さまの性別が気になるのでしょうか。観音さまは不思議な仏さまです。
人間を人間たらしめる智慧と慈悲との象徴が観音さまです。つまり「観音さまとは、あなたの中に、秘められているもう一人のあなた」といえます。
観音さまを信仰するとは、私たちが鏡を見て観音さまにたちかえり、そのお名を呼んで、自分の心の乱れを調えることなのです。



坂村真民さんの詩に
両手を合わせる 両手で握る
両手で支える  両手で受ける
両手の愛    両手の情
両手合したら  喧嘩もできまい
両手に持ったら こわれもしない  一切衆生を両手に抱け

=編集後記=
観音さまが女性として登場する場面が多くあり、観音さまをはじめ、多くの仏さまの彫像や図絵にガンダーラ様式が用いられていますが、この場合も観音さまのご容貌は女性的です。        =了=



2008.11.7 発行(251)

 =薬師如来さん=
薬師如来は、読んで字のとおり、「くすりの師の仏さま」です。
生きている人間の病気、苦しみ、災難を、この世で救う、いわゆる「現世利益」の仏さまなのです。
そのため、古くから、宗派を超えて、広く人びとに信仰されてきました。
 
  

十二の大願
第1願:悟され者の智徳を得させたい。
第2願:身体清浄、心情潔白にさせたい。
第3願:貧しさ故、欲しい欲しいと貪(どん)せぬ環境にさせたい。
第4願:偏見により、常に誤解する(邪道)ことのないようにさせたい。
第5願:遵法(じゅんぽう)の心(法律のみならず、天地の理)を持たせたい。
第6願:物心身体貧困のため、人格不正常のないよう、正したい。
第7願: 病気になり、看護も、医療も、ベットも、薬も欠けぬよう、治してやりたい。
第8願:煩悩(ぼんのう)に邪魔されず、まっすぐに修行が出来、男女の区別な
    く悟らせたい。
第9願:不正の仲間から立ち直らせたい。
第10願:受刑中の悪人も立ち直らせたい。
第11願:身辺の逆境に遇って、むさぼりの悪に走ることのないようにさせたい。
第12願:衣住に不足し、寒熱やむさぼりの悪に悩まされぬようにさせたい。

 この薬師如来の有り難い修行によって生まれた「大願の功徳」は一劫(いちごう:時間の単位・・・天女が百年ごとに一度舞降りて、羽衣で岩を一度なでる。その岩が磨り減って、小さな砂粒となるまでの時間)より長い間説明しても充分ではない。そしてこの浄瑠璃世界は、阿弥陀如来の極楽世界と同じように綺麗で、皆差別なく平等(大願が実現すること)である。

=編集後記=
また、この世界には、日光・月光の二菩薩が、大勢の菩薩の上にあって、薬師如来の功徳の具現に力添えをしている。
この十二願のうち、どれを見ても、人間が生きているうちのことばかりでありますから、薬師如来は「現世利益」の仏さまといわれる所以です。
                                =了=



2008.11.6 発行(250)

 =日頃なにげなく使っている言葉(仏教用語その2)

有頂天
すべてが思い通りに進み得意の絶頂にいる人を指して「有頂天になっている」などという。多少非難の意味を込めて使われることが多いが、仏教本来の意味では、天界の最高所のこと。
仏教では命あるものが住む世界は下から「欲界」「色界」「無色界」があるとし、これを「三界」と呼ぶ。「無色界」をさらに四つに分けた頂点を「有頂天」という。そこから、最高点に上り詰めたような気持ちを表す言葉となった。

お釈迦にする
地蔵の像を作ろうとして、間違って釈迦像を作ろうとして、間違って釈迦像を鋳てしまったことから、といわれる。作りそこなうこと、不良品。


我慢
「あの人は我慢強い」などというように、忍耐力、抑制力の意味で、よいこととして使われているが、仏教の語源では悪いこと。
仏教では、貪(貪り)、瞋(怒り)、癡(愚か)、慢(驕り)の四つの根本的な煩悩があると教える。「慢」には七種類あり、そのひとつが「我慢」。
我慢とは「自己にこだわり、すべての他人より自分が勝っていると信じていること」を表す言葉で、煩悩そのものなのである。


金輪際
仏教では世界は、虚空の中に気体の層である「風輪」があり、その上に水の層である「水輪」、そのまた上に個体の層である「金輪」、そのさらに上に大地があり成り立っているとされる。
「金輪際」とは「金輪」の底のこと。仮に底を越してしまったら、水や気体や虚空の世界に落ちてしまう。
「金輪際」は、取り返しがつかなくなるギリギリの場所を指す。そこから転じて「金輪際、浮気をしません」というように強い否定の意味を表すようになった。

三人寄れば文殊の知恵
ひとりではよい知恵が浮かばないときなどに、こういって仲間と語らったりする。「文殊」とは文殊菩薩のこと。文殊菩薩は知恵を司る菩薩。ひとりで考えあぐねたときでも、三人で力を合わせれば、文殊菩薩にも匹敵する知恵が生まれるということを表す。

=編集後記=
 三人寄れば文殊の知恵、何事もみんな力を合わせれば出来ないことはない。
何事も!一人では出来ないことでも。          =了=


2008.11.5 発行(249)

 =日頃なにげなく使っている言葉(仏教用語)=
愛嬌
「男は度胸、女は愛嬌」というように、にこやかでかわいらしい様を指すが、仏教用語では「愛敬」と書き「あいぎょう」と読む。菩薩のような慈悲にあふれ、誰もが敬い愛したくなるような表情が本来の意味だ。





阿弥陀くじ
もともとは、くじを引くとき、人数分の線を放射状に書いて、その先に当たりとか、何々とか書いておき、上から紙などをかぶせて隠しておいたもの。
放射状の線を引いた形が阿弥陀仏の光背に似ていたから。
帽子を「阿弥陀にかぶる」というのも、笠などを後ろに傾けてかぶると、光背のように見えたから。










嘘をつくと舌を抜かれる
子どもの頃、一度はこういわれたことがあるのでは。この慣用句は地獄・極楽を日本で初めて著した恵心僧都(源信)の『往生要集』(九八五年)に拠っている。それによれば地獄は八つあり、そのひとつに「大叫喚地獄」がある。
ここは嘘偽りをいった罪人が落ちる地獄で、鬼が熱した鉄のやっとこで舌を抜く。抜くとまた舌がはえ、それをまた抜くという苦しみが永遠に続くのである。もっとも今どきの子どもには「うそだ〜」などといわれ、あまり効き目はないかも。

嘘も方便
最高の結果が得られる可能性が高ければ、場合によっては嘘が許されることもあるという意味。
「方便」とは、ある目的を実現するための一時的な手段のこと。仏教用語では、菩薩が真実を衆生に正しく伝えるために用いる仮の方法を指す。『法華経』では、それぞれの時と場合に応じて「方便」を使って法を説くことが重視されている。「人をみて法を説け」という諺も同じ趣旨。

=編集後記=
 「男は度胸、女は愛嬌」という男性、女性も「阿弥陀くじ」くじを引く人も「嘘をつくと舌を抜かれる」という話も親が子どもに戒めのためにする会話も無くなってきましたなぁ〜。
                              =了=



2008.11.1 発行(248)

=石標No8 此付近天平時代開元寺跡(神宮寺)=
 
 

  
                       
=編集後記=
今のところ交野地方で天平以前の寺院でわかっているのは郡津の長宝寺、倉治の開元寺、寺の徳泉寺です。(興福寺官務牒疎に記されている)この寺々は江戸時代の末には名もない小寺となって残っていましたが、明治からすべて廃寺となってしまいました。
開元寺については昭和29年神宮寺で天平時代の礎石が発見され、古代当地方に栄えた大寺の果てだとわかりました。
礎石は現在、交野市立教育文化会館の歴史民俗資料展示室入口右側で保存しています。
                                     =了=


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