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瓦版よもやま便り
2007.12-2008.12
よもやま瓦版
(2004年)
今日の話は
なんでっか?
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平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  よもやまセミナー Q&A
      交野市私市4-39-2   平田 政信

☆交野を縦断する「第二京阪国道」が3月20日、開通いたします。
これまでにも増して、交野を歩いて見て大いに語りましょう。
今年もこれまで同様、ご愛読いただけますようよろしくお願いいたします。
                
バックナンバー 4月号 5月号 6月号
よもやまセミナー Q&A 2009年7・11・12・2010年1月号 
76 2/22 第23回のサラ川(サラリーマン川柳:第一生命)
75 2/20 今年のサラ川は
74 2/17 原の辻(はるのつじ)遺跡(長崎県・壱岐郡)について
73 2/15 「古事記」「日本書紀」にもしばしばとりあげられている古墳とは?その:1
72 2/12 銅鐸は「捨てた?」それとも「埋めたか?」
71 2/10 古代の日本には史書がなかった。当時の様子を知るには?
70 2/8 日曜日の朝、表にでると一面が白くなっていた
69 2/5 「ふるさと交野」を走っています?
68 2/3 2月期の「交野カレンダー」は
67 1/22 先日「○○○講座」で行った畝傍周辺部、本薬師寺を紹介します
66 1/20 明日香の謎の石造物ってたくさんあるのですね
65 1/15 2010年の初詣は?
64 1/13 交野地方の仕事始めとは
63 1/11 桜井茶臼山古墳から銅鏡 最多81面の破片が出土とあるが
62 1/8 お正月、今と昔
61 1/1 2010年新年号
60 12/31 2009年の交野はどんな年でしたか?
59 12/30 2009年の回顧 文化財は
58 12/29 日本神話のひろがり
57 12/28 今年の海外の10大ニュースは
56 12/27 今年の国内の10大ニュースは
55 12/25 「古事記」「日本書紀」にもしばしばとりあげられている古墳とは?その:3
54 12/23 「古事記」「日本書紀」にもしばしばとりあげられている古墳とは?
53 12/22 死ぬことを「成仏(じょうぶつ)」と言うのは?
52 12/21 「浄土」とは
51 12/19 十一面観音菩薩について
50 12/2 私市で石仏の移坐が行われたそうですね
49 11/30 交野市歴史民俗資料館前室ギャラリーの模様替えはされているのか?
48 11/27 第二京阪国道建設の進捗は
47 11/25 纒向遺跡に卑弥呼の館がついに出現?
46 11/23 邪馬台国 畿内VS九州について
45 11/20 纒向遺跡とは
44 11/16 神々に奉納される絵馬とは
43 11/15 神々を護る狛犬とは
42 11/14 映画「つづり兄妹」物語について
41 11/13 青銅器埋納の特色
40 11/11 桜井茶臼山古墳再調査報道発表
39 11/10 銅鐸の絵画は何を語る?
38 11/9 銅鐸の谷・加茂岩倉から
37 7/6 第二京阪道路関連遺跡の出土展示会は?
36 7/3 禅の名僧たちを紹介して欲しい

No76(2010.2.22)
Q:第23回のサラ川(サラリーマン川柳:第一生命)、日本全国29.215句の中から
  選ばれた傑作100選のうち、前号で50選が紹介されたのであと50選は?
A:引き続き残り50選を紹介します。

51.この嫁に 勝るワクチン ないものか  姑息
52.喫茶店 味より大事な 喫煙可  カバごん
53.あなただけ 言った妻が あなたどけ!!  かじ(家事)まめ夫
54.激安の ジーンズ父の 勝負服  バリュー男
55.すぐ家出 諭吉はわが家の 問題児  甘下り
56.こどもでも 店長なのにと 妻なげく  みいみい
57.高速道 千円分も 進まない  清風快心
58.草食系 嫌いな食べ物「ホウ・レン・ソウ」  上司のつぶやき
59.仕事減り ごみ出し買い物 家事おやじ  働き者
60.老夫婦 会話はずむが・・・かみ合わず  読み人知らず
61.ウチだって インフルだけは 新型だ  シロップリン
62.ほめ上手 君なら他社で がんばれる  紙風船
63.くじ運は 悪い方だと 妻を見る  さげまん
64.宝くじ 年が明けたら たかがくじ  いびつやしげる
65.仕分人 口調が妻と そっくりだ!  海の男
66.新型は 女房車で 俺インフル  宇宙人
67.妙薬は 会議室より 喫煙所  詠み人知らず
68.向上心 景気とともに 下降気味  気分
69.孫の名を 遼と名付けて 夢を見る  ノーテンキ
70.わが妻の 額に欲しい 「愛」の文字  無茶キング
71.不景気で 就活あきらめ 婚活へ  新卒女性
72.さあ定年 妻がさし出す 求人誌  丁年
73.先を読め 読めるわけない 先がない  先端社員
74.膏薬(公約)は ツボを外して 効き目なし  春が来た
75.読めません デコメ・横文字 場の空気  板挟み
76.埋蔵金 本当にあった 妻名義  専業主婦
77.更衣室 社内情報 漏えい中  ポンタ
78.初孫が 熟年離婚の 抑止力  絆
79.手抜きした 妻の言いわけ エコ弁当  とらさん
80.僕の髪 仕分けしたいが 足りません  ミックスジュース
81.手抜きして マスクの下は ノーメイク  別人28号
82.母の耳 内容次第で 遠くなり  介護予備軍
83.婚活で 肉食女 草原へ  磯仁
84.やめてくれ ジムで気合の  レオタード  妻はぽっちゃり52歳
85.待機組 児童だけでは ありません  歩人
86.裁判員 宝くじより 先当たり  ラッキーさん
87.朝カレー 聞こえはいいけど 残り物  寂しいお父さん
88.知っている 俺で試すな 賞味期限  鬼嫁大好っ子
89.リストラは どこにいるのと 孫が聞く  甘辛爺い
90.やすらぎが ほしくて結婚 しない僕  役立たず
91.ワークシェア 女房の仕事 俺に来た  仕切の人
92.ストレスが 夫のダジャレで 倍になる  マイホーム・ママ
93.自転車も 付けてください エコ減税  子持ちママ
94.フェロモンが 十年経てば ホルモンに  一豊の妻
95.便利です マスクで隠れる 大あくび  大和撫子
96.「離さない!」10年経つと 話さない  倦怠夫婦
97. 忘れ物 昔はチューで 今はゴミ  アスカ
98.豆まきを したのに家に 鬼が居る  ぷ〜ぬく
99.一言が 足りない俺に 多い妻  みやっさん
100.おかえりと 笑顔で言われ 身構える  窮鼠 





No75(2010.2.20)
Q:今年のサラ川は
A:第23回のサラ川(サラリーマン川柳:第一生命)、日本全国29.215句の中から
選ばれた傑作100選が発表されました。
  1〜50選を紹介します。(次号では50−100を紹介)

1.逆らえず ウチのこずかい 仕分け人   愛妻家
2.喫煙の 場所はなくなり 税ふえる   スモーキングパパ
3.体脂肪 燃やして発電 出来ないか  ちょぴっと
4.仕分け人 妻に比べりゃ まだ甘い  北の揺人
5.草食系? いいえ我が家は 粗食系  頑張れパパ
6.チェンジとは 言ってたことを 変えること!  マニフェスト 無夫
7.1・2・3 我が家のビール 変遷史  しゅう
8.地デジ買い 財布の中も 薄型に  アナログおやじ
9.二人の子 婚活、就活 親カツカツ  浄水器
10.もやしっ子 草食系に 成長し  晴耕雨読
11.水族館 フグもメタボと 孫笑う  フグの神
12.定年後 肩書き外れ 人離れ  天童ラフテンス
13.タバコやめ 使わぬタスポ 身分証  団塊オヤジ
14.「先を読め!」 言った先輩 リストラに  山悦
15.妻カレて 「来とうなかった 嫁などに」  一見
16.閉鎖した 子供は学級 俺は会社  リーマン
17.嵐好き!! 俺は晴れてる 方がいい  松潤大好きおばさん
18.ETC 付けるまでが 大渋滞  ゴン太
19.コンカツは ロースか?フィレ?かと 父は聞き  のりちゃん
20.帰宅して チューはされずに シューされる  バイキンマン
21.何着ても サイズと財布が 邪魔をする  正直者
22.インフルで 会社を休むも 支障無し  名ばかりの管理者
23.友人の 結婚式は 婚活場  デフジャム
24.70歳 オラの村では 青年部  長老A
25.ただいまは 犬に言うなよ オレに言え  さらば地球
26.マスクして 咳して上司 遠ざける  小林一緒 
27.許される 仏は三度 妻一度  湘南おじさん
28.エコカーで ETCで 無駄走り  詠み人知らず
29.賞金王 幼い息子に 夢託す  いつかは遼の父
30.買えなけりゃ エコポイントは 貯められぬ  アナグロ王
31.遠き日の 密約メモを 探す妻  奥の細道
32.つきつめて 理想の父が 犬になり  いじまろ
33.咳すれば 視線を感じる バスの中  インフル遠座
34.愛煙家 税金取られ 場所取られ  川柳駄作
35.かかったぜ 新型インフル ぼく若い  還暦
36.おやじギャグ 何度も言うな 聞こえてる  ひつじこ
37.百切れぬ ゴルフも腹も 超メタボ  目多坊 
38.気をつけろ ブレる上司と キレる部下  中間管理職
39.癒し系 結婚したら 嫌み系  草食系男子 
40.喫煙所 探して歩き 10000歩  キンニクマン
41.会社より ハローワークは 無欠勤  ハウススター
42.エコライフ 行かず動かず 何もせず  後始末
43.節約と 人には言わず エコと言う  環境問題
44.年賀状 生きてる証に 投函し  楽しい同窓会
45.温暖化 なのに就活 氷河期へ  金魚姫
46.ママドラマ パパ現実に 泪ぐむ  蚊注射
47.肉隠す 妻は巧みな 装飾系  装飾系
48. 定年が あったらいいな 主婦業も  やりくりママ
49.座りたい 私の前だけ 何故立たぬ  痛勤快速
50.同窓会 お前幾つと 聞く友よ  若年寄



No74(2010.2.17)
Q:原の辻(はるのつじ)遺跡(長崎県・壱岐郡)について
A:平成12年2月、長崎県壱岐・原の辻遺跡から完全な人骨が一体発見された。
  人骨が出土したのは遺跡中央部から北東に約100m下った住居跡。頭部を東に向け
  て屈葬されていた。身長は169a、20〜30歳代ぐらいの男性で、細面。
平均的弥生時代人に比べて長身であることから、弥生時代中期(紀元前1世紀)か、それ以前の、大陸からの渡来人ではないかと想定される。
島の東南部に位置する原の辻遺跡は、「魏志倭人伝」の景初三年(239)六月の条で、「一支(いき)国」として、次のように記述された古代国家の王都の跡である。
『対馬国より南へ一海を渡ること1000余里で一支国に到着する。国の大官を卑狗(ひこ)、次官を卑奴母離(ひなもり)という。広さ300里平方ばかり、竹木・叢林(そうりん)が多く、3000戸ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料にはたらず、やはり南や北と交易して暮らしている』 原の辻遺跡は、発掘調査が進むにつれて、弥生時代のデパートといわれるほどに研究価値があり、平成12年12月には国の特別史跡に指定された。壱岐の芦辺町と石田町にまたがる、約100fの水田と畑地が遺跡の全域と推定されている。高床建築の床大引材(ゆかおおびきざい)が平成9年からの調査で出土し、大きな建築物の存在が想定されるようになった。祭式場にあたる建築跡が出てくれば、ここが「魏志倭人伝」の一支国の王都であることが完全に証明されます。        原の辻遺跡調査事務所主任文化財保護主事・町田利幸氏 

    


No73(2010.2.15)
Q:「古事記」「日本書紀」にもしばしばとりあげられている古墳とは?その:1
A:まず「崇神紀」には、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の箸墓を
大市(奈良県・三輪町箸中)につくるときに、大坂山から石をはこばねばならないというので、そこから墓までの長いあいだに人民をならばせて、手送りにして石を運ばせたということがみえている。それだけでも大変な工事である印象をあたえたことと思われるが、さらにこの墓は日中は人がつくったが、夜は神がつくったと記されている。
大勢の人々を動員して、大工事がすすめられていくのを、目のあたりにみても、人間わざで出来たものではない、と感じた人々が多かったのであろう。
墓といえば、穢れたもののようにいう考えかたもあるが、ここでは古墳は、むしろ神聖な霊域として、神がその営造に協力されても不都合でないものとして、みとめられているのである。
             古墳の話 小林幸雄著より

        

                    
*古墳対比図は歴史シンポジューム「交野ヶ原の前期古墳」(2009.11.7)
   「生駒山地北部」真鍋成史氏発表資料より



No72(2010.2.12)
Q:銅鐸は「捨てた?」それとも「埋めたか?」
A:銅鐸が埋められた理由については「捨てた」とする説から、宝物として保存するため埋めたという説まで、様々なものがありますが、古代出雲の宗教に何か劇的な変化が起こり、祭祀の道具であった銅鐸は不要になって埋められたとする説が注目されています。銅鐸は古墳時代には既に姿を消していることから、仮に宗教的な「呪具(じゅぐ)」であるとすれば弥生時代には既に宗教的な意味は失われていたと考えられます。
  弥生時代後期、中国では土俗信仰から発展した道教が盛んになっています。この異国の「新宗教」が海を渡って日本にも伝わり、銅鏡の呪具としての生命は終わりを告げたのではないか?というわけです。
  古墳時代に入ると、銅鐸にかわって青銅鏡が重要視されるようになります。中でも道教の神仙思想をあらわした三角縁神獣鏡は有名ですが、その中の1枚が加茂岩倉遺跡から1.5キロ程離れた神原神社古墳から見つかっています。
  日本に広まった道教が出雲の宗教にも影響を与え、大量の銅鏡を放棄するきっかけになったのではないか。
                     90分でわかる古代史の読み方 加来耕三より


   
 

No71(2010.2.10)
Q:古代の日本には史書がなかった。当時の様子を知るには?
A:中国に残されたわずかな文献を調べる以外に手はない。
Q:その残された文献とは
A:漢書・地理誌、魏志倭人伝、後漢書東夷伝である。
Q:各史書の特徴を、まず「漢書・地理誌」からは
A:古代の日本の姿を正確に伝えた書物はありません。それでも当時の日本の姿を知ろう
  とするなら、中国の史書に頼るしかありません。
  最初に「倭」が登場するのは、「漢書・地理誌」の中の次のような短い記述です。
  「夫(それ)」れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国と為る。歳時を以て献見すと云
  ふ」楽浪とは現在の朝鮮半島・平壌周辺に前漢の武帝が置いた郡の名前です。
  この一文から、当時(紀元前1世紀頃)の日本には多くの小国が存在し、これらの国々が
  中国王朝へ定期的に朝献していたことがわかります。
Q:「魏志倭人伝」の特徴からは
A:「魏志倭人伝」は有名な史書で、これは邪馬台国との関連でマスコミにもひんぱんに登場しますが、
  このような名前の書物があるわけではありません。
  中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代を記した正史「三国志」の中の東夷伝・倭人の条を一般に『魏志倭人伝』と呼んでいるのです。この「倭人の条」は全部で約2千字あり、3世紀の日本の社会や風俗、邪馬台国と連合諸国の関係や邪馬台国の政治・社会構造まで、かなり詳細な情報を得ることが可能です。
Q:倭人の風俗についてどのような記述がありますか
A:はい、*男性は身分の上下にかかわらず、顔や体に入墨をしている。入墨の入れ方は身分によって違いがある。
  *水人(海人)は水に潜って魚介類を捕えている。この人たちも体に入墨をしている。
    服装は、男性は幅の広い布を巻いて結ぶもので、縫製された物はほとんどない。
  *女性は長い髪を束ねて後ろに垂らしている。着物は貫頭衣である。
    稲や紵麻(ちょま)織物や平織りの絹織物を作る方法を知っている。
  *武器は矛や楯、木弓を使っている。矢は竹製で鏃には鉄か動物の骨が使われている。
  *気候は温暖で夏も冬も野菜を食べ、みな裸足である。食事には高杯を使い、手づかみで食べる。
  *寿命は長く、百歳から80、90歳である。身分の高い人は4、5人、低い人でも2、3人の妻を
    持っている。
  *争いや泥棒は少なく、罪を犯した場合は、軽ければ妻子を取り上げ奴隷にする。
   重罪の場合は一族を滅ぼす。そしてこれらの風俗は、中国の海南島のものとはほぼ同じである、
   としています。

  
  

Q:後漢東夷伝はどんなことが書かれているのか?
A:『後漢東夷伝』は主に魏志倭人伝をテキストにして書かれているらしく、あまり目新しい記述はありませんが、紀元前に「秦始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福を遣わした」という、いわゆる徐福伝説が記載されていることで知られています。
  邪馬台国では卑弥呼の死後、卑弥呼の一族の13歳の少女・壱与を女王に据えますが、その後中国へ朝献することもなくなったため、中国の史書に登場しなくなります。
  このため4世紀の日本に関する記録は皆無となり、大和朝廷の成立を始め多くの謎を生む結果となったのです。



No70(2010.2.8)
Q:日曜日の朝、表にでると一面が白くなっていた
A:早速、カメラを持ち出かけました。交野の里の雪景色をどうぞ!


  
  
    
     

No69(2010.2.5)
Q:「ふるさと交野」を走っています?
A:走りかけています。あれから(転落事故)5年が過ぎました。
  昨年の暮に奈良大仏マラソン5`に参加し、何とか完走して来ました。
  苦節5年(笑)、今年は基礎からしっかり作りたい。・・・還暦過ぎたオッサンの言うことかお思いでしょうが、年内にはフルマラソン(12月奈良大仏でフルマラソンが新設)を走る予定、いや走ります。・・・次年度はサロマ100キロ・・・10度目の完走を目指します。走りながら交野の風景写真を伝えていきます。

  

 サロマ湖100キロ初挑戦(1990.7.1)
   =1`1歳 人生100歳 100`先に 何がある
そこには感動のゴール待っている=
 
 この時は若かった!あれから20年・・・夢をもう一度、必ずある100`先に
ゴールテープが、あと1回で100`マラソン10回の完走となり完結だ。


No68(2010.2.3)
Q:2月期の「交野カレンダー」は
A:開通間近の第二京阪国道を題材としました。 
  

 
3月20日の開通を目指して急ピッチで工事が進められています。
ここは、青山地区と倉治地区との境で免除川の北側になります。
上部道路は大和郡山線に接続する道路、そして本線と後方の山は交野山、ミラーに映る道は地道です。
交野市域を二分する第二京阪道路とともに暮らしていかねばなりません。
そこから新しい交野が生まれてくることを願わずにはいられない。



No67(2010.1.22)
Q:先日「○○○講座」で行った畝傍周辺部、本薬師寺を紹介します。
A: 医王院という小さな寺の境内に金堂跡の大きな礎石が並び、近くの田んぼには東西の塔の土壇も残っている。天武天皇9年(680)にこの場所に創建された薬師寺は、藤原京の右京八条三坊を占めた大寺だったが、養老2年(718)に西ノ京に移された。

  

畝傍山
 畝火・雲根火・雲飛とも書かれます。また、近世は畝傍山の名が失われていたようで
慈明寺山・もとどり山・御峰(むね)山などと呼ばれていたことがあります。
大和三山(香具山▲152.4b・畝傍山▲199.2b・耳成山▲139.7b)の一つで標高199.2bの死火山です。東部裾野に神武天皇陵、北西部に綏靖塚、南西部に安寧天皇陵、南部に懿徳天皇陵、南東部に橿原神宮があります。
訪れた日は大寒とはうらはらに、朝からポカポカ陽気で、小春日和!本薬師寺から畝傍山に元気一杯登山し、頂上でお弁当を広げました。
ほんとうに空白、いや、晴天の一日でした。9月には本薬師寺周辺にホテイアオイが咲き古代の風景を浮かべ楽しませてくれる地、是非訪れてみたいところです。


No66(2010.1.20)
Q:明日香の謎の石造物ってたくさんあるのですね
A:そりゃ〜なんぼでもありまっせ、まぁぼちぼち案内しまっせ!
  タイミングええがなぁ、昨日「○○○講座」で益田岩船に行って来ましたんや。
 
  
 

 急な坂道を登りきると、巨石に出会う。東西約11b、南北約8b、高さ約4.7b(北側)
の台形状で、東西の側面はほぼ垂直に切り立っている。上部から側面にかけて幅1.6bの溝が東西に掘られている。一体この巨石はもともとこの場所にあったのか?何の使用目的のために?謎多き巨岩である。交野山の観音岩とどっちが重いと質問あり???。
やっぱり交野の人たちや、どこに行っても「ふるさと交野」を思う人たちや。


No65(2010.1.15)
Q:2010年の初詣は?
A:私の場合は、地元の神社を数か所御参りしました。今年一年の家内安全そして健康
  でありますようにとお願いしてまいりました。
  一昨日(13日)は奈良県・樫原神宮にお参りしてきました。それと言うのも19日に
  行われます「ふるさと講座」の下見も兼ねて行ってきました。それは寒い1日でした。

   

   

年初めから世界各国でいろんな出来事が発生しております。「ハイチM7」死者多数の報道も。
阪神大震災から15年「悲しみ癒えず」心の痛みを抱えていることが明らかに。「災害は忘れたころにやってくる?」平和な一年でありますように願わずにはおれません。


No64(2010.1.13)
Q:交野地方の仕事始めとは
A:農村では、正月の神さんが家に居られる20日ごろまでは仕事をしないのがふつうだった。正月は神祭りにはげむことが本来であるが、田や畑、山などに入り作業のまねごとをしてくる日もあったことは、交野に限らず一般的なものであった。

  各地区の新年の仕事始めの一つであり、1日か2日に行われた「地まつり」、昨年1年間のお礼と今年の豊作を祈る気持ちを込めて行われてきたものを紹介します。
【郡津】1日の朝、銚子に清酒を入れて、自分の耕作田に数滴ずつ落として回った。
【寺 】鍬(くわ)始めといって、耕作田の1枚1枚に鍬で耕作の身振りをして回った。
【私市】耕作田に洗米・塩・清酒・榊などを持って行った。
【星田】昨年の「お礼」といって、酒・花を持って耕作田を回った。

  

その他、「持ち初め」2日に初めて田に肥料を運ぶことを、「持ち初め」とか「初持ち」とかいった。
    私も近くで家庭菜園をやっています。2日に「仕事始め」を行い、今年の豊作を祈りました。
    交野市史「民俗編」より


No63(2010.1.11)
Q:桜井茶臼山古墳から銅鏡 最多81面の破片が出土とあるが
A:2010年、最初の考古学ニュースとして報道発表されました。やはり奈良県立橿原
  考古学研究所?報道発表記事(よみうり新聞1/8)から 

  
 
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)の話
 「鏡は100面以上あったと推測でき、被葬者の倭国王にふさわしい突出した権力を示している。
大王級の古墳の副葬品はほとんどわかっておらず、今後の古墳時代研究に大きな影響を与えるだろう」

桜井茶臼山古墳とは
全長200bの前方後円墳。後円部に、朱塗りの巨大な竪穴式石室が築かれている。
北西約3.5キロに邪馬台国畿内説の最有力地・纒向遺跡が広がり、卑弥呼の墓説がある箸墓古墳もある。
(よもやまQ&A No39・No44・45参照)
石室を覆っていた土の中から、少なくとも銅鏡計13種81面分の破片331点が出土した。
一つの古墳の副葬品として最多となる。邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏から鏡100枚を受けっ取った年に当たる、魏の年号「正始元年(240年)」銘入りの三角縁神獣鏡と同じ元型で製作された鏡も含まれ、初期大和王権が邪馬台国と直接結びつく可能性を示唆する極めて重要な成果となる。



No62(2010.1.8)
Q:お正月、今と昔
A:昔の正月はなんと、1か月も祝い続けた。
  年月の流れとともに、お正月におこなわれる行事がしだいに簡略化されてきつつある。
  年賀状をだし、初詣でに出かける。お飾りをつけ、おせち料理を神棚に供える。現在では、せいぜい
  この程度の祝い方ですます家庭が多いのではないだろうか。
  しかし、江戸時代の農村では、正月は12月13日のスス払いから、1月14日のとんど焼きまで1か月
  あまりつづく大がかりな祝い事であった。
  しかも、1月15日には、元旦と同じくらい重んじられた小正月があった。
  当時の農民は、冬にほとんど仕事がなかったので、これだけ長いあいだにわたって神祭りができた
  のである。12月13日のあとスス払いのあと23日前後に松飾りをこしらえ25日ごろ餅つきをする。
  そして大晦日に年越しのごちそうをつくり、年越しそばを食べる。
  元旦に訪れる年神様という神を迎えるために、これだけの期間、身を清めたのである。
      
   

  いまでは大晦日にお飾りをつけ、大掃除をする家庭が多いと思われます。
  元旦には、主人が朝一番に水をくむ若水汲みのあと、お屠蘇を飲み、初詣でをする。
  2日、3日はお年始まわりで、2日の夜の夢がその年の吉凶を占う初夢になる。
 
 

  2日の初荷、書初めから仕事はじめにつながる行事がはじまる。いまでは4日に官庁ご用始めと
 取引所初立ち会がおこなわれる。6日は消防出初式、七日に七草がゆを祝う。
  ついで、11日の鏡開き、14日のとんど焼きと、正月を終える行事がつづくのだ。


No61新年号(2010.1.1)

  

  


No60(2009.12.31)
Q:2009年の交野はどんな年でしたか?
A:第二京阪国道建設予定地での交野エリアは、来年の3月の開通を目指し急ピッチで
工事が進めらています。この建設予定地からの発掘で、いままで確認できなかった
弥生時代から古墳時代にかけての住居跡(竪穴住居・掘立柱建物など)や、生活に伴う多くの土器が出土した(祭祀用・アクセサリー・渡来系土器)。
なかでも「上の山遺跡(交野・枚方区域)」からは新聞でも大きくとりあげられた弥生時代中期の独立棟持柱を持つ大型掘立柱建物が遺跡内でも最も見晴らしのよい場所から見つかった。こういった建物は同時代の竪穴住居と比べ非常に特殊であり「集会所」や「祭殿」または「神殿」ではないかという意見もあります。

   
   
このことから私見を少し語ってみたい
前号(59号掲載)、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、邪馬台国の女王・卑弥呼
が活躍した時代とされる3世紀前半〜中頃の大型建物跡が初めて出土した。
ここが邪馬台国の中心で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性があるとする研究者もおられます。桜井市ではさらに範囲を拡大して調査を進めるとしている。
第二京阪国道建設地から東倉治遺跡・倉治遺跡・有池遺跡・上私部遺跡・私部南遺跡・上の山遺跡の6か所が確認されました。

纒向遺跡とは
 奈良県桜井市の三輪山西側に広がる3〜4世紀の大規模集落遺跡。
東西約2キロ、南北約1.5キロに、最古級の前方後円墳とされる纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(全長280b)があり、「前方後円墳発祥の地」とされる。
東海や北陸、山陰など各地の土器が出土し、物資運搬用の運河の可能性がある溝が縦横に走るなど都市機構を備えていたとみられる。71年から発掘調査が始まり、今回で166回目だが、小規模な発掘が多く、全体像は分かっていない(遺跡全体の総調査面積は5%)。また邪馬台国の候補地とされてされいる。

  

纒向遺跡と交野との類似点
@ 三輪山に対して交野山。どちらも山頂に磐座がある。
A 麓をはしる「山の辺の道」に対して「山の根の道」
B 「箸墓古墳」に対して「森1号古墳(雷塚)」どちらもバチ形の前期古墳。
C 今回の纒向遺跡の大型建物に対して「上の山」の大型掘立柱建物。
D 纒向遺跡建物跡の東西方向の中心軸が同一線上にある。「上の山」の建物跡は?
E 製鉄の形跡ない纒向遺跡に対して交野には森遺跡がある。
以上のことから邪馬台国・交野説の仲間入りと! ここだけの話でっせ。

今年一年を振りかえって
第二京阪国道という大規模工事に伴って、建設用地内の発掘調査が進められたことにより周辺地の遺跡とのかかわりを探る重要な発見が見られました。
大阪府文化財センター、交野市文化財事業団により発掘調査成果に伴う講演・現地見学・交野市歴史民俗資料展示室での出土土器の展示と、市民向けの発表を行われました。
来年はいよいよ国道の開通!「緑立つ道」とともに新しい交野のまちがはじまります。
新しい道と、古の「ふるさと交野」の融和が望まれます。

皆様にとりまして、良い年となりますように。
引き続き、来る年もよろしくお願い申し上げます。
      
      よもやまセミナー主宰
              平田 政信

No59(2009.12.30)
Q:2009年の回顧 文化財は
A:読売新聞12月28日掲載より、西日本を中心に今年も、大きな考古学的な成果が相次いだ。
中でも、国民的な関心事である邪馬台国の所在地論争に、話題を提供する発見や研究が注目を集めた。

 

 奈良県桜井市の纒向遺跡で11月、3世紀前半〜中頃としては最大で、東西南北の方位
をそろえた高床式建物跡などが出土した。
邪馬台国の女王・卑弥呼の時代にあたり、研究者からは「綿密な計画性がうかがえ、卑弥
呼の宮殿の可能性が高い」との指摘もあった。
また、国立歴史民俗博物館(千葉県)の研究グループが、同遺跡に近い箸墓古墳で出土した
土器を放射性炭素年代測定法で測定したところ、築造時期は240〜260年との年代が
出た。「247年頃に死んだとされる卑弥呼の墓に間違いない」と発表、邪馬台国論争とも
からんで大きな波紋を呼んだ。
島根県出雲市の砂原遺跡で国内最古の中期旧石器時代(12万年前)とみられる石器20
点が出土した。
昨年、日本考古学協会などの申請を宮内庁が初めて許可した陵墓立ち入り調査は2月に
奈良市の日葉酢媛陵(佐紀陵山古墳)と京都市の桃山陵墓地で行われた。
 木簡は地下の正倉院文書と言われ、文書が少ない古代史研究にとくに重要だ。正史では
得られない史料をいかに有効に保存し、研究するかが課題である。
 壁画修理のため2年前、石室が解体された奈良県明日香村の高松塚古墳では、文化庁に
よる墳丘の仮整備を終えた。                  (編集委員 柳林修)


No58(2009.12.29)
Q:日本神話のひろがり
A:日本神話という場合、まずあげなければならないのが「古事記」である。
  『古事記』は大和朝廷・天皇家の祖先の神々が、はるかな昔、どのようにしてこの国  
  土を作り、その子孫がどのように統治してきたかを語ろうとした日本最初の書物で、その内容の大半を神々の物語が占めている。
Q:こうした『古事記』とほぼ同時代(八世紀)に、国家の正史として『日本書紀』が作られたのですね
A:そうです。また地方誌として国々の『風土紀』が、そして日本最初の歌集である『万葉集』が編纂された。それぞれには当時の神話伝承が多少とも含まれており、『古事記』とあわせて、日本神話の幅ひろい世界をかたちづくる。なおこれらを区別して、重なりあう性質の多い、『古事記』『日本書紀』をひとまとめにして、「記紀」と呼び、その神話を記紀神話・宮廷神話、『風土紀』『万葉集』のそれを土着神話・地方神話と呼ぶこともできよう。
Q:日本人が「神話」を後世に残しえたのは?
A:『古事記』の時代、八世紀をおいて考えることができない。
現代の人間に対して、神話のもたらすものはなんだろうか。『古事記』に込められた古代からのメッセージに耳を傾けようではありませんか。

  
      地図とあらすじで読む古事記と日本書紀 坂本勝 著

No57(2009.12.28)
Q:今年の海外の10大ニュースは
A:2009年12月20日(読売)読者が選んだ海外10大ニュースから
  
 
  
  
米国の変化感じた(数学者・大道芸人 ピーター・フランクルさん談)
オバマ大統領の就任は、間違いなく世界にとって大きなニュースだった。
ただ、ノーベル平和賞受賞は、世界で一番好戦的な国と言われる米国の大統領だけに最初は驚きだった。新型インフルエンザは、1918年に大流行したスペイン風邪の記憶を世界に呼び起こせたのだろう。騒ぎの方が実際の被害より大きい。ずっとそうであって欲しい。ゼネラル・モーターズ(GM)の経営破綻で、世界経済の中心は米国から・・・。



No56(2009.12.27)
Q:今年の国内の10大ニュースは
A:2009年12月19日(読売)読者が選んだ国内10大ニュースから
 
 

 

2009年の日本は、「謎」の1年だった。1位の歴史的政権交代が圧倒的で、他の出来事はあまり印象が残らなかった感じもする。政権交代という巨大な「祭り」に、みんなが乗りかかった年だった。
新しい政権はできたものの、来年はどうなるかわからない。不安なスタートを切った年とも言えるかもしれない。(漫画家・弘兼憲史 談)

No55(2009.12.25)
Q:「古事記」「日本書紀」にもしばしばとりあげられている古墳とは?その:3
A:古墳がたんなる死者の遺骸をほうむったところというだけではなく、神聖な精霊の宿
  るところと考えられていたことをこの白鳥陵(No54号参照)の物語はしめしている。
  そうして、このばあいの鹿は、古代においては、しばしば土地の精霊の姿として信ぜ
  られたものである。
Q:人を殺した玉田宿禰(長官・葛城)墓域の中に逃げかくれた(「允恭紀」)という話は?
A:古墳の域内は殺生禁断の地であるからだというだけではなく、そこに宿る精霊の保護
  を受けることになると考えられた、もう一つ以前の信仰の形をしめしているように思われる。
Q:仁徳天皇の陵をつくるときにも、土地の精霊としての鹿が出てきますね
A:はい、「仁徳紀」67年の条によると、この年の10月5日に、天皇は河内の石津原に行幸して、御自身で自分の陵をつくる土地を選定されたという。
さて、10月18日から工事に着手したところ、突然に野のなかから一頭の鹿が走りでて、役民たちが工事をしているところまできてたおれて死んでしまった。
どうして鹿が急に死んだのかと調べようとすると、鹿の耳から百舌鳥が飛び出したという。鹿は耳のなかを百舌鳥に喰いさかれて死んだのであった。そこで、その土地を百舌鳥耳原(もずのみみはら)とよぶことになったとしるされている。
鹿が耳を百舌鳥に喰いさかれて死んだというのは、土地の精霊が、そこに陵をつくろうとする天皇に対して、抵抗する力をうしなったというのであろう。

  

 『日本書紀』の紀年によれば、仁徳天皇がなくなって、この陵に葬られたのは、これから20年の後ということになっている。この数字をそのままうけとって、この陵墓の築造に20年を要したという人があるのは、したがうことはできないが、いわゆる寿陵(じゆりょう)として、おおぜいの人民をかりたてて、生前から自分の墓をつくらせたことは、この時代からあったのであろう。
                  古墳の話 小林幸雄著

No54(2009.12.23)

Q:「古事記」「日本書紀」にもしばしばとりあげられている古墳とは?(その:2)
A:「景行紀」には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の三つの白鳥陵のことがしるされている。
@ 日本武尊は東国征伐の帰途、能褒野(三重県亀山市)でなくなり、能褒野陵に葬られたので
  ある。ところが尊は、一羽の白鳥になってその陵からでて、大和の方へ飛びさってしまわれた。
A 群臣たちが驚いて棺をひらいてみたが、着物がむなしくのこっているのみで、遺骸はなくなって
  いた。これは不思議だというので、人をだして白鳥のゆくえをたずねさせると、大和の琴弾原
  (奈良県・御所市)にとどまっていることがわかった。ここが尊の御気に召したのだろうというので、
  あらためて琴弾原に陵をつくった。
B 琴弾原に陵をつくったのだが、白鳥はまた飛んで河内の古市邑(大阪府・羽曳野市)にとまった。
  そこで、またここにも陵をつくったが、白鳥はついに高く飛びたって天にあがってしまった。
  人々は、この三陵を白鳥陵と名付けたという話である。
 白鳥は、日本武尊の神としての姿と考えられたのである。
 それから数十年の後のことである。どうせ白鳥陵のなかは空であるのだから、陵守(はかもり)の
 必要もあるまいという考えから、仁徳天皇が白鳥陵の陵守たちを、ほかの仕事にふりかえて使役
 しようとされたことがあった。ところが、いざ仕事をさせようとすると、陵守の目杵(めき)というものが、
 天皇の目のまえで、たちまち白鹿に姿を変じて走りさるという不思議なことがおこった。この様子を
 みて、天皇も陵守を廃止することを思いとどまらずをえなかったという(仁徳紀)。


    


No53(2009.12.22)

Q:死ぬことを「成仏(じょうぶつ)」と言うのは?
A:なぜ死んだだけで成仏、つまり仏になると言えるのかと、阿弥陀如来のもとで修業をすれば
  成仏できることがすでに決まっている(No52号参照)からです。
Q:「死」と「成仏」は別のものか?
A:まったく別ものです。しかし、念仏を称えて死にさえすれば、阿弥陀如来は必ず救っ  
  てくれるということになっているので、死ぬことを成仏と言うようになったのです。
Q:同じように、死ぬことを「往生(おうじよう)」と言うのは?
A:往生というのは、行(往)って生まれるという意味です。
Q:ではどこに行くのか?
A:極楽浄土です。死んだことによって極楽浄土に行って、そこで新たに生まれるということです。
  これも念仏を称えて死にさえすれば、必ず阿弥陀如来が極楽浄土に連れて行ってくださると
  いうことになっているから、死ぬという意味で使われている「往生」や「成仏」という言葉には、
  本来このような意味があるのです。
        日本史集中講義 井沢元彦著より

No52(2009.12.21)

Q:「浄土」とは
A:大勢いる仏様たちは、それぞれ自分の住む世界を持っています。そしてその世界のことを「浄土」と言います。
Q:「浄土」というのは極楽浄土のことだと思っていますが、間違いですか?
A:極楽イコール浄土ではありません。極楽浄土というのは、たくさんある浄土の中のひとつに過ぎません。極楽浄土というのは、阿弥陀如来のいる浄土のことです。
  阿弥陀如来の浄土は「極楽浄土」、薬師如来の浄土は、「瑠璃光浄土」と言うように、仏様によって浄土はみな違うのです。
Q:ではなぜ極楽浄土がこれほど有名になっているのに、瑠璃光浄土のことは誰も知らないのですか?
A:それは瑠璃光浄土に行きたいと思っても、行く方法がわからないからです。
  それに対し、阿弥陀如来の極楽浄土に行く方法は、明示されています。それは「念仏」という方法です。
Q:なぜ念仏すると極楽浄土へ行けるのか?
A:その根拠はお経の中にあります。お経の中に、阿弥陀如来が悟りを開く前に、「私が悟りを開いたら私のことを念仏しなさい、そうすれば念仏した者は、私の住まいである極楽浄土に生まれ変わらせてあげる(これを阿弥陀の本願といいます)と書かれている部分があるのです。
Q:浄土に生まれ変わるということは?
A:阿弥陀如来のお側に行けるということですから、悟りの開けないような凡人でも悟りを開くことができると考えられました。
Q:つまり二段構えになっているのですか?
A:そうです、本来ならお釈迦さまのように現世で悟りを開いた人が仏になります。しかし、そのようなことは、とてもじゃないが我々凡人にはできない。だから、かつて悟りを開いた大先輩である阿弥陀如来のいる極楽浄土にまず呼んでいただいて、そこで阿弥陀如来のご指導を賜り仏になる、ということです。
Q:極楽浄土に生まれるためには
A:まず、念仏を称えて死ぬことが必要です。次に、極楽浄土で阿弥陀如来の指導を受けます。そして悟りを開いて初めて仏になれるのです。
                 日本史集中講義 井沢元彦著より


No51(2009.12.19)
Q:十一面観音菩薩について
A:十一面観音は十一の顔がある観音像を指し、平安時代に多くつくられている。
  ふつう頭上に十のミニ仏面をつけており、前の三面は慈悲相、左の三面は忿怒相
  右の三面は白い牙を出した相になっていて、すべての方角にいる人々を救うという。
  てっぺんの一面のみを仏(如来)面とし、真後ろの暴悪大笑相は、人の悪を暴露し
  さげすみ冷笑する姿を表している。
  前の三面は素直に仏の教えに従う人に慈悲を垂れ、左の三面は従わないで勝手なこと  
  をしている人に対して怒り、右の三面は善行の人をほめたたえ、後ろの一面にある笑
  面はゆとりを表している。
Q:なぜ頭上に十の仏面をつけているのか
A:@諸病の苦をとる A如来の愛護を得る B財宝を得る C敵の危害から守る
  D上司の庇護を受ける E毒蛇・寒熱の苦を免れる F刀杖(とうじょう)の害を受けない G水におぼれない H火に焼かれることがない I天命を全うすることができる、というこの仏の十の誓願が込めら、この仏さまを拝むと災害から免れると信じて、平安時代には特に盛んに崇拝された。
   この像はかつてインドのバラモン教の十一荒神の影響を受けて、五〜六世紀ごろ仏教にとり入れられたといわれている。
   ふつう手には蓮華の花と水瓶を持っており、それ以外は与願の印を結んでいる。

 


No50(2009.12.2)
Q:私市で石仏の移坐が行われたそうですね
A:そうです、元々は磐船街道筋にあって、昔の土葬、野辺の送りの際には必ずこの仏
  さんの前を通りお墓に入っていきました。後に宅地開発とともに一時、場所(バイパス)を移し
  祀られていましたが今回、諸事情により移転することになりました。
  今は、道筋での役目を終えられ(定年退職)、これからはお墓の入口で、我々の道しるべと
  なってもらえるようにと「新道しるべ仏」と名付けお祀りすることになりました。
  以下、経緯について写真を添付

 
 

 

 

 

 

 


No49(2009.11.30)
Q:交野市歴史民俗資料館前室ギャラリーの模様替えはされているのか?
A:定期的に模様替えを解説ボランティアのメンバーで創意工夫しながら行っております。
  今回は、市民文化祭で古文化同好会が出展された「交野古道展」をお借り展示しております。
 
  

未来につなごう交野の文化をテーマーに「第33回交野市文化祭」が11/1から3日間行われ、古文化同好会は昨年に引き続きシリーズ「交野の古道を歩く」をテーマーに出展。その後、交野市教育文化会館・歴史民俗資料展示室(倉治)に場所を移し展示することになった。毎年のこと、会員皆様の協力のもと、今年も大盛況のうちに文化祭を終えることができました。この作品を引き続き、市民の方々に見ていただくために当資料館にて開催することになりました。
さらに詳しくは村田義朗氏ホームページ「星のまち交野」でお楽しみ下さい。

【作品出展協力者】
  中 光司  交野古道(東高野街道・かいがけの道etc)
 村田 義朗  歴史健康ウォーク(HPより、各コース)
 堀江 哲夫  交野古道(星田妙見道・磐船街道etc)
 大屋 喜代治 星田の石仏
 和久田 薫  星田の昔の写真(妙見トンネル)

次回は、「交野今昔」展を開催予定。


No48(2009.11.27)
Q:第二京阪国道建設の進捗は
A:京都と大阪を結ぶ、延長28.3`の道路で、国道1号線の慢性的な渋滞の解消を目的とする道路で来年3月の開通を目指して工事が進んでいます。
  建設用地内の遺跡発掘調査もほとんど終えたと聞いております。整理遺物の中からまた新しい発見があるかも?


 


          
 平成22年3月の開通を目ざして、第二京阪国道(緑立つ道)の交野エリアは急ピッチで工事が進められています。これからはこの国道とともに暮らしていかねばなりません。「緑立つ道」が「腹立つ道」にならぬよう見守って生きたい。   

No47(2009.11.25)
Q:纒向遺跡に卑弥呼の館がついに出現?
A:奈良県桜井市の纒向遺跡で見つかった大型建物跡は、邪馬台国を探し求める研究者
  たちを色めき立たせた。「まさに、国家的祭祀が行われた政治的空間だ」と畿内説を勢い
  づかせる一方、「卑弥呼とは半世紀以上の隔たりがあり、九州説は揺るぎない」とさっそく
  反論も。
  魏志倭人伝に記された「女王の都とする所」をめぐるロマンは尽きない。
Q:纒向遺跡が邪馬台国の中枢とされる理由は
A:卑弥呼の墓説が根強い箸墓古墳(全長280b)など、域内に邪馬台国時代の最古級の前方後円墳が次々と築かれたためだ。
Q:今回の調査で見つかったものは
A:大型建物跡は神殿を思わせる高床式と想定され、権力の象徴である古墳に加えて、宮殿とみられる建物群跡が発見された。
   


・大型建物は南北19.2b、床面積は約238平方メートルと推定
・柱穴13個(直径32〜38a)を確認
・その間には、一回り小さい柱穴9個(直径23〜25a)もあった
・南北の柱間(約4.8b)を支える束柱だったとしている
・東西の柱間(約3.1b)にはなかった
・大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた
・溝から3世紀中ごろの土器が出土したため、大型建物の時期は3世紀前半と判断
・纒向遺跡中心部の全体像を探るため、9月から約390uで調査、これは遺跡全体の
 総調査面積は約5%
                 朝日新聞 2009.11.11掲載より


No46 (2009.11.23)
Q:邪馬台国 畿内VS九州について
A:邪馬台国論争史は次のとおり
  1716年:儒学者・新井白石が畿内(大和)説を主張、後に九州説に転向
  1778年:国学者・本居宣長が九州説の論文を発表
  1910年:東京帝国大学教授の白鳥庫吉が九州説の論文を発表
     同年:京都帝国大学教授の内藤湖南が畿内説の論文を発表
  1971年:纒向遺跡の発掘調査始まる
  1989年:吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が見つかる
  1995年:纒向遺跡内の箸墓古墳の築造年代を土器年代から280年ごろと
        する見解が出される
  1998年:奈良県天理市の黒塚古墳で、「卑弥呼の鏡」とされる三角縁神獣鏡
        33面が出土
  2009年:箸墓古墳の築造年代を240−260年とする放射性炭素の年代
        測定結果が出る


  

No45(2009.11.20)
Q:纒向遺跡とは
A:南北1.5キロ、東西2キロ。250年ごろに死去したとされる卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳(3世紀中ごろ〜後半、全長280b)などの最古級の前方後円墳6基が点在し、「前方後円墳発祥の地」とされる。
  東海や北陸、山陰などの土器が出土し、物資運搬用の運河の可能性がある溝が縦横に走るなど都市機能を備えていたとみられる。

  

  


No44(2009.11.16)
Q:神々に奉納される絵馬とは
A:古代からさまざまなものが神社に献上されていたが、馬もそのひとつだった。
  平安時代には天皇が白馬を見る白馬節会(あおうまのせつえ)という行事があり、こ
  れには白馬を見ればその年の邪気を祓えるという意味があったという。
  こうして馬は貴重な動物と見られ、やがて神社にも馬が奉納されるようになる。
  その後、本物の馬に代わって土でできた馬や木馬、あるいは紙製の馬が奉納される
  ようになる。その一種が板に描かれた絵馬だったのである。
  ただし、絵馬といっても馬の絵だけが描かれていたわけではない。時代が下がると、馬だけでなく、干支や祭礼の模様、病気の平癒の願いなども書かれ、ときには船や合戦の絵が登場している。時代に応じて人びとの願いが変化していったからだろう。

もともと神社に奉納されていた絵馬は、のち、神社が参詣者に頒布し、これに参詣者が願いを書き込んで奉納するようになった。とくに受験シーズンが近づくと合格祈願の絵馬が数多く奉納されるようになった。
正月に絵馬とセットにされるのが破魔矢だ。
多くの場合、破魔矢にはその年の干支の絵馬がつけられるが、その意味は魔を破り、災いを祓う矢だとされている。

もともとは弓と矢がセットにされていたが、それが簡略化されて矢だけになったのである。

=神さまと神社= 井上宏生著
=大阪府埋蔵文化財研究会(第48回)資料=


 

No43(2009.11.15)
Q:神々を護る狛犬とは
A:神社にお参りしたとき、私たちは日常とは異なった光景を目にする。
  神社で私たちを迎えてくれる狛犬とは、いったい何者なのか?狛犬は参道などに一対でおかれているが、ときには獅子の場合もある。
  狛犬は高麗犬を意味し、その名の通り、朝鮮半島の高麗から渡来している。獅子は百獣の王であり、その強靭なイメージから魔除けに有効だと信じられていたし、高麗犬にも似たような信仰があったとされる。そのため、狛犬も獅子も日本に渡来してからは、神々の世界を邪悪なものから護るという意味が込められていたのだろう。
  ただし、狛犬も獅子も当初は宮中だけにおかれ、宮中の護り神の役割を果たしていた。
  平安末期になると、それが宮中から神社の拝殿の前や参道におかれるようになった。
 =神さまと神社= 井上宏生著より
 
  
   
倉治・機物神社で、「七夕の日」に撮影、茅の輪の中の狛犬。
*私部・住吉神社の狛犬(阿)にチンチンがついています(市内神社ではここだけ)。 


No42(2009.11.14)
Q:映画「つづり兄妹」物語について 
A:戦後台湾から引き揚げて校区東香里に住む野上丹治・洋子・房雄兄妹の作文は、昭和26年から32年頃までの学校や周囲のできごとなど、のびのびと書いた作文で、新聞・雑誌などに当選、なかでも房雄が2年生のとき作った『ぼくらの学校』はモスクワ国際児童つづり方コンクール1等賞を得た。そうしてこれらの文集が理論社から昭和33年4月に刊行。すぐれた作品集だったので、話題が呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。
交野でも、交野小学校の近くで映画ロケがあり、大勢の人々が見学した。

  

【ロケ見学の感想】
 野上家の墓地は私部共同墓地内にある。
ふうちゃんの野辺の送りのシーンでは先生役の津島恵子・香川京子さん、そしてふうちゃんの女友達の二木てるみさんを身近でみることが出来ました。

女優、津島・香川さんの美しさに小5だった私はその時、思った。お嫁さんにするならこのような美しい女優さと、そして私の嫁は、この二人をたして2で割ったような人である。
(笑・笑・大笑い)
ちょいちょい「ふうちゃん」のお墓にお参りさせていただいております。

(製作会社)東宝スコープ  監督:久松静司  脚本:八住利雄
(配役)房雄:頭師孝雄 まち子先生:津島恵子       
    房雄の女友達:二木てるみ



No41(2009.11.13)
Q:青銅器埋納の特色
A:青銅器が埋納された場所の特色を調べてみると
@ 見通しの悪い山の斜面
A 見晴らしのよい山の斜面
B 集落周辺の開けた場所
などに分けることができます。
荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、志谷奥遺跡は@にあてはまりますが、全国的に見るとAやBのような場所にうめられた例も少なくありません。
青銅器のうめ方を見てみると、刃や鰭(ひれ)を意図的に立ててうめている例が多くあります。そしてこのうめ方は、山陰地域に限らず各地で採用されています。
つまり、青銅器は地域を越えた共通の決まりごとに従って埋められた可能性があるのです。


  
   =アサヒグラフ(別冊)銅鐸の谷=より
    鰭を立てて埋納されている


No40(2009.11.11)
Q:桜井茶臼山古墳再調査報道発表 
A:よみうり新聞10/23(朝)記事より

  

   

No39(2009.11.10)
Q:銅鐸の絵画は何を語る?       古代出雲文化展=神々の国 悠久の遺産=より
 

   

   

   

   

   

No38(2009.11.9)
Q:銅鐸の谷・加茂岩倉から   
A:島根県大原郡加茂町の谷の奥で39個もの銅鐸が発見された。1996年10月14日、2000年の時を経て銅鐸群はわたしたちの前に現われた。 


    

銅鐸の高さは最小29.5〜最大49a。ほとんどが入れ子になっていたとみられ、30a前後のものと45a前後のものに大別できる。鈕(ちゅう=吊り手)の部分に、神庭荒神谷遺跡(隣の斐川町)出土の銅剣と同じ×印が刻まれたものがあったり、文様や形式にこれまでにない特徴的なものが見つかった。出雲の独自性がつよく感じられる。



No37(2009.7.6)
Q:第二京阪道路関連遺跡の出土展示会は?
A:広報「かたの」発掘!発見!緑立つ道のコーナーで連載掲載中、それに伴って7/1〜11/1まで第二京阪国道建設予定地の発掘成果展(前期)が交野市歴史民俗資料展示室(倉治)で行っております。
  この展示会では倉治遺跡・東倉治遺跡・有池遺跡・上私部遺跡からの出土遺物が展示されています。なお、後期は12/2〜3/28の期間で私部南遺跡・上の山遺跡からの出土遺物が展示されます。

   
       財団法人 交野市文化財事業団 平成21年特別展冊子より

   

         グリーンベルトが第二京阪国道予定地・レッドエリアが遺跡

東倉治遺跡・倉治遺跡
 東倉治遺跡は、警察学校周辺に土器片が散布していたためその存在が古くより知られていました。今回の発掘調査では、弥生時代後期後半(3世紀)の円形竪穴住居や、この時代の土器がたくさん埋もれていた谷がみつかり、土器以外にもガラス製の小さな玉や、棒状の管玉などのアクセサリーが見つかりました。この後、谷が徐々に埋もれていく間に、お祭り用の土器を納めた穴が掘られたり、中世の谷、水田などがつくられ、次第に現在に見られるような地形が形つくられたことが判りました。
倉治遺跡の調査では、免除川の流れに押し出された大量の土砂の下から、弥生時代後期後半から近世にかけての生活の跡や土器などがみつかりました。その主だったものには、古墳時代中期頃の南北7.4b、東西6.5bの範囲を小溝で区画した長方形の竪穴住居のような掘り込みをはじめ、須惠器と呼ばれる灰色に固く焼き締められた土器などがみつかりました。

    
       財団法人 交野市文化財事業団 平成21年特別展冊子より


     

     

=編集後記=
 第二京阪国道建設が始まり、交野における縦断広範囲の発掘調査が行われました。
この成果を今回、特別展として開催されました。是非、市民の皆様方、資料館に足をお運びいただきましてご覧いただきたい。順次、遺跡を紹介させていただきます。


   
    

No36(2009.7.3)
Q:禅の名僧たちを紹介して欲しい。
A:最初は激しくいちずな一休さんから
   とんち話の「一休さん」として知られる一休は室町時代の人で、天皇の血を引くとも伝えられます。虚飾や権威をきらい反骨精神にあふれた一休は、富や名声を求める当時の堕落した僧たちを批判する一方、肉食をし、妻をもち、悟りを得たと師が認めた書状を投げ捨てました。その破天荒な生き方は風狂といわれますが、身分や職業を問わない教えを説き続けた生涯でした。

将軍と剣豪を負かした沢庵
   江戸時代はじめの禅僧・沢庵も権力や名利を嫌う人でした。
  幕府が大徳寺を弾圧した際は公然と反抗し、上山(山形県)に流罪となります。しかし、罪をとかれて3代将軍家光に拝謁(はいえつ)すると、家光はその人格にうたれ、沢庵に帰依しました。また、将軍に剣を指南した柳生宗矩は、試合を申しこんだところ素手の沢庵に圧倒され、やはりそのもとで修業を積んだのです。
  なお、おなじみの大根の漬物タクアンは、禅師の名前をとったものとも伝えられています。

江戸の世に本場の禅を伝えた隠元(いんげん)
   日本の仏教宗派のなかでもっとも新しく、江戸時代に成立したのが黄檗宗(おうばくしゅう)で、その開祖が隠元です。
  隠元は中国の名僧で、日本に来てほしいという熱望に応え63歳のときにやって来ました。そのころ日本に伝えられたものには、よく隠元の名が冠せられており、「インゲンマメ」もその一つです。隠元は寄進を受けて開いた寺を、中国で修業した寺と同じ黄檗山萬福寺と名づけました。黄檗宗とは、この寺にちなんだ名前です。

人柄と暮らしで禅を伝えた良寛  ⇒
良寛は江戸時代後期の禅僧です。
厳しい修行を積み、諸国をめぐり歩いた末に故郷である越後の国(今の新潟県)に粗末な庵を建て、歌や書を楽しみ、無心に子どもと遊ぶ生活を送りました。
人の家を訪ねても特に説法などしませんでしたが、その家では良寛が去った後も数日笑顔が絶えなかったといいます。難しい言葉ではなく、その人柄、暮らしぶりで禅の教えを伝えたのが、良寛です。

=編集後記=
次号では交野市歴史民俗資料展示室において「第二京阪国道建設予定地の発掘成果展」が行われております。その模様を紹介します。

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