面積の約半分が山地で占められ、その中に金剛生駒紀泉国定公園、府民の森などがあり、四季折々の美しい風景は市民のみならず、大阪府民、さらには近隣の人々に愛されております。 交野市の地形の特徴 |
太古の大阪 まだ、人の生まれる前、ウルム氷期の最盛期には海水面が現在の海水面よりも150メートルも下がってたといわれている。 その頃の日本は大陸と陸続きになり、大陸からナウマン象やオオツカノジカなどの大型獣が日本に移住した。 大阪の地下鉄工事から象の化石が発見されたり、長原遺跡からも象の化石が発見されている。 この頃の大阪地方の気温は現在よりも8度も低かったと推定される。 ちょうど現在の札幌あたりの気温であった。 その後縄文早期には気温の上昇に伴い、自然環境も大きく変化し海面の上昇が始まる。 西日本では瀬戸内海が誕生し、大阪平野では海水が生駒西麓まで押し寄せて河内潟・河内湾が生まれた。 この現象を「縄文海進」と呼ぶ。 交野も昔は海だった 海成かいせい粘土層ねんどそう(約110万〜200万年前)が交野市妙見坂、平和台霊園などで見られる。昭和60年、交野市郡津の松塚ユニライフマンションの建築現場(地下33m)から海の貝(ナミマガシワ)が出た(5万年〜7万年前の昔、松塚の地下33mは、海であった) |
交野山 | 標高 344m |
交野市のシンボル。頂上に巨岩があり観音岩と呼ばれている。昔から太陽の上る山として信仰をされてきた。機物神社の鳥居から交野山の巨岩を拝んだ。 |
旗振山 | 345m |
交野の最高峰。交野山の南、郡南街道から野外活動センターへ入る道を西へ登る。 江戸時代中頃から、「大坂・堂島の米市場」を白旗、黒旗で3里ごとに中継点を設けて旗振り通信で米の値段を知らせた。 旗振山は、大阪方面が一望できる立地のよさで旗振り通信が行われた。交野の人々もこの山で振られた旗の様子でいちはやく米の相場を知って米の売り買いの決断をしたという。 |
竜王山 | 318m | 寺村から「かいがけの道」を登ると、竜王社への上り口がある。鳥居をくぐり登りついた所がお祭り広場である。その上一段高くなった広場に竜王石があり、その北側のとんがった岩が雨乞い岩。 平安時代、淳和天皇の天長2年(825)に干ばつで稲が枯れた。村人のこの苦しみが天上に達して、弘法大師に雨の降るのを祈らせたのが山頂の竜王石である。また、山頂には雷神が小便をかけた「いばり石」、弁慶岩などがある。修験者がこもった岩窟も残っている。 |
哮ケ峰 (たけるがみね) |
186m | 天野川鮎返しの滝のすぐ下流にあり、東西方向にずんぐりした花崗岩で出来た台地。南側は昔、石切場となってその跡が断崖絶壁となって残っている。 神話の山。 太古の時代に、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船に乗ってこの峰に天降ったという。 現在、付近にはロッククライミングの壁が作られ、交野のつり橋「星のブランコ」への入り口になっている。 |
妙見山 | 144m | 地形図では山頂部が162mとなっているが、現在は宅地化(妙見東1〜4丁目)され残っている部分の一番高いところ、星田妙見山は144m。100段を越す石段を登ると正面に巨岩が二つ、ご神体の影向石(ようごうせき)を織姫石とも呼ぶ。 |
新宮山 | 65m | 星田のほぼ中央にあり、現在は緑地公園として整備されている。 慶長20年(1615)5月5日、大坂夏の陣の時、徳川家康が星田の平井氏宅に泊まり、軍旗を頂上の八幡宮の前の松の大木に掛けたという、旗掛松がある。 弥生時代中期(約2000年前)弥生人が住んでいた。山頂付近より弥生土器が発見されている。 |
天野川 |
交野市を流れる一大中心河川である。 |
免除川 | 「めんじょがわ」と読む。この川の源流は交野山の頂上のすぐ北の谷をせき止めてつくった白旗池である。白旗池は流入する川はなく、谷の湧水を貯えている。池を出た水は、谷をうがって、源氏の滝となって流れ落ちる。この滝をでて、平野部を流れ下って、郡津の松塚団地から天野川に注いでいる。 免除川の名前は、この川は元々は機物神社の北側を流れ下っていた。しばしば倉治地区で洪水を起す。被害をなくす為、川の付け替えを計画し、倉治、私部、郡津領の田畑に新しく川を通した。 その代わり川沿いの田畑については、年貢を免除した。時期は室町時代のことだといわれている。 春は、川沿いの桜並木が素晴らしい。 |
傍示川 | 「ほうじがわ」と読む。星田南星台の南側の谷を東南方向から西北方向に流れ、大谷橋を過ぎ学研都市線をくぐり寝屋谷へと通じ、そこから寝屋川となる。 傍示川という名の由来は、国境を示した川でなく、平安時代に作られた荘園(転暦3年、石清水八幡宮の荘園が交野の山々一帯に設けられた)と国衙領の境を示すもので、この荘園の西南の端が星田の傍示川であった。 |
妙見川 | 星田妙見山の奥の谷をから流れ出て、新しい住宅地の妙見東の西側を流れ妙見宮を過ぎ藤が尾団地を通って天野川に注いでいる。 星田妙見山のご神体は二つの大きな岩で昔から自然崇拝の対象物であった。その自然信仰の中から星信仰も行われていた。北斗七星の信仰で、その現われが妙見菩薩という。平安時代の始め頃(弘仁時代)、弘法大師が獅子窟寺に篭っておられた時に星田妙見山、光林寺、星の森の三ヶ所に七曜星の降りるのを見て、この三ヶ所を星の霊場とされた。これによって妙見信仰が一層ひろまった。 妙見川の両側には、桜が植えられ、交野八景としても有名。 「またや見ん 交野の御野のさくら狩 花の雪散る春のあけぼの」(藤原 俊成)と、はるか昔から歌われた交野が原の一角の妙見河原の桜である。 春には、近隣からの花見の人々で賑わいを見せます。 |
前川 | 私部の南を流れる川で、畑中から私市へ出る道路が渡る落合橋から下流を前川と呼んでいる。 それより上流は南川と北川の二川になっている。 南川は傍示の里を源流にして「かいがけ道」の西の谷をけずって寺村に出る。府立交野高校あたりで扇状地形をつくる。また、ここは古代に集落が営まれた所でもある。寺村の前身であった「はたやまの村」や「てるは村」がこの谷筋にできては土砂の流出や洪水で押し流されて、栄枯盛衰をたどった場所である。東車塚古墳があり、高校のグランド下にも数基の古墳が埋もれている。 一方、北川は関西創価学園の南の竜王山の下あたりを源流とするものと、他方郡南街道の谷とその一つ北の石仏の道の谷とが倉治の墓所あたりで一つになる。私部墓地の西で寺村の北から流れでた川と一つになり、交野小学校の南を、そして私部住吉神社の南を流れて落合橋で南川と合流する。 川の名前は、私部の村から見て南側にあるので前川(表は南、裏は北)となり、二本ある川は位置からみて南川と北川という。 |
尺治川 | 私市のくろんど池へのハイキングコースの道筋の谷を刻んで流れている清流が尺治川である。水源は月の輪の滝を登って砂防ダムを越え府民の森に入る。睡蓮やあやめが咲くすいれんの池の上、標高240mぐらいの所にある。少し東に行けば奈良県に入るが「くろんど池」にでる。 尺治というのは地の神(いわゆる水、岩、沢など清らかな、あるいは幽玄な雰囲気をかもし出す渓谷の地)を祭るところから付けられた名前である。 月の輪の滝のところは天野川の岩船神社の巨岩が並ぶ場所とよく似ている。巨岩が谷を埋め、その巨岩の合間を滝となって落ちている。この滝は金剛の滝と呼ばれている。この付近一帯はもともと獅子窟寺の寺内で、僧侶達の修業の場であった。僧侶が滝に打たれ、修業僧の鍛錬の場であったところから「金剛の滝」と呼ばれている。 月の輪の滝の下の渓流は、夏は子ども達の格好の水の遊び場として賑わっている。 |
が ら と 川 ・ 北川 |
倉治の関西電力の枚方変電所と警察学校との間から流れ出した川が倉治の北を流れる。このあたりの川を「がらと川」と呼んでいる。がらと川とは、小石や土の入り混じった砂礫の多い川、また水の少ない、よく干上がる、枯れる状態の多い川という。 変電所あたりから学研都市線を過ぎ,倉治の北側を流れている状況はまさに天井川である。 一方、倉治の村中を流れ,交野市教育文化会館の南側に出てきて、その後西進して新田橋でがらと川と合流する。この川を倉治中川とよんでおり、この合流点より下流が北川となる。 郡津の出鼻橋で枚方市津田春日から流れ出た北川と合流して一回り大きな川となって村野との境界を流れて天野川に注いでいる。 昭和40年代、郡津の松塚団地が造成され、免除川、北川ともに天野川への合流部分が付け替えられたことによって、郡津の低地、長淵あたりの洪水常襲地帯は洪水の苦悩から免れることとなった。 |
草川 | 私部の天野が原町を流れる川を草川という。「くさがわ」とか「くそがわ」と呼んでいる。上流は森地区の大知池池(おちいけ)である。この池の水と須弥寺の横の堂池の水が一緒になって府道交野久御山線と岩船小学校前の道との交差点(船戸という)を流れ、天野が原の住宅地を抜け、鳥ケ坪、堂ケ辻と流れて「スタコ坂」の所で、前川と合流する。 |
土生川 | 「どうじょうがわ」と読む。 私市駅の北、私市2丁目と3丁目の境の川で、獅子窟寺の南側の深い谷が源流である。私市山手に出るまでに土砂の流出を防ぐため2ヵ所のダムが造られている。下流は私市駅から大阪市立大学付属植物園に通じる道と、私市の村中の道(岩船街道)との交差点に出てきて、その南で尺治川に合流している。 現在、土生川と書いているが、地元の人は「どうじょう川」といい、字は「道場川」であるという。 この名の意味は獅子窟寺がもともと修験者の道場のようなものであったし、周囲にその修行場が沢山あった。寺の南、垂直に落ちる深い谷は格好の修行の場となっていただろう。それに由来してついた名で、後世の人はその意味が、漢字がわからず、発音だけから生まれた土生川でなかったかと思われる。 |
小久保川 | 森の天田宮の北を東に上がっていくと交野市の高区配水池の大きなタンクが目に入る。この側を流れる小さな小川が天田宮付近から小久保川となる。低区配水池付近までは山田川と呼ばれている。 森新池から下は天井川となり、川の両側の水田地帯より相当高い堤防になっている。その両側の低い水田に水を供給している。右岸の権田、左岸の天田、井手内と一等地の水田が広がっている。 小久保川の上流の谷は市の配水池があるように水の豊富な場所である。周囲の谷水が集まってきて湧水となり、また地下水となる。この水を市の上水道に使用している。水が豊富だということでこの川の水を天田神社の上手で、森地区と私市地区に「三つまたの堰」で分水している。 |
中川 | 星田の村中を流れている川である。上流は南星台の尾根の間の谷筋で、全現堂池(ぜんげんどういけ)、妙音池の東側を流れ,星田の村中を南から北へ流れる。村を出てからは北流し、臨港製鉄の東を流れ、最後は逢合橋の少し上手で天野川に合流する。 この中川が星田の地において水田地帯と牧場や畑作地帯とを分けていたようである。星田村の南,山麓部の谷筋はこの水によって水田が営まれ、また北川の平地は中川の水をかんがい用として利用した。中川から西は傍示川まで川がない。しかも西に向かって土地があがるので、地形的に水が得にくい状況をつくっている。よって、学研都市線より北川の地は現在のように用水路や水を得ることができるようになるまでは牧場(かっての星田牧)や畑地であった所である。 東高野街道が通り、「鉢かつぎ姫」の伝説で有名な金門や車司の地、一里塚があった四馬塚など、今は水田であるが、昔は水に恵まれないので荒野の状態であったと想像される。 |
府民の森、
交野市内のベストスリーの池は? 1.星田大池(3.9 f) 2.大谷新池(3 f) 3.白旗池(2.75 f)
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